第07話「目を開けて見る世界」
デプリヴンはリリーを押さえつけながら尋ねた。
「ところで、私は王女様を探しているんだ。君は彼女がどこにいるのか知っているかい?」
リリーはその言葉に驚愕した。このデプリヴンはアデリーナのことを知っているのだろうか。そして、なぜ彼女を探しているのか。
リリーは圧倒的な力の差で押さえつけられ、そこから逃れることができなかった。押さえつけられている巨大な手を足で蹴りあげようとするが押し戻せそうにはない。手足に力をかけて、もがきながらブラックス団長の言葉を必死に考えていた。
――自らの力を引き出すためには体内のエレクタを操る
(しかしどうやって……)
再度、デプリヴンの巨大な腕がリリーを地面にたたきつける。その衝撃で手に持っていた剣が吹き飛び、遠くに転がった。意識が遠くなった。それから一瞬の記憶が彼女の中によみがえった。
――街並みは火に包まれていた。角の生えた獣たちが人々を襲い、喰らっていた。一人の女性が私に何かを語り替えていた。良く知っているはずの人であったが顔を思い出すことはできなかった。だがその眼差しだけは鮮明に思い出された。恐怖と悲しみに満ちていたが、同時にどこか温かみを感じる眼差しでもあった。
私は固く抱かれていて少し息苦しかった。でも、暖かい香りがした。
(……誰?)
体中が何かを思い出そうとしていた。何かが体の中を駆け巡っていた。
その感覚は体を大きく変えていった。足や手からそれぞれ角が伸びた。それはまるでデプリヴンの特徴そのものであった。リリーはデプリヴンの腕に触れた。そして腕を掴み、軽々と引きちぎった。デプリヴンは大きな叫び声をあげた。そして腕を抑えて床を転げて回った。椅子やテーブルを押し倒しながらもがいていた。
リリーはその様子を冷静に確認しながら、近くに落ちていた剣をひろいあげる。眼を大きく開き、そして息を吐き、デプリヴンに向けて剣を向け、狙いを定めた。剣を持つ手に力を込めると体全体から普段の筋力からは得られない力が伝達された。大きく腕を振り上げ、そして剣を振るった。その衝撃波がデプリヴンに届き、その体は真っ二つに分断された。しばらくデプリヴンは苦しみにあえいでるようだったがすぐにその動きを停止した。
リリーはしばらくの間、そのままずっと立っていた。彼女の目の奥は金色のゆらゆらと光っていた。頭の中は冴えわたり、次の獲物を求めていた。だが周囲にはもうデプリヴンはいなかった。しばらくすると緩やかに手や足から生えていた角は引いていき、その身体の形状は人間のそれに戻っていった。
それから、どこに隠れていたのか。男がおそるおそる頭を上げ、体を現した。デクランだった。床の隙間、もしくはその物陰に隠れていたのかもしれない。デクランは立ち上がって茫然としていた。そしてすぐにエドに駆け寄った。
そして茫然としたように呟いた。「エドさん・・・・・」
そして我に返ったようにデクランは恐々としてリリーに目を移した。彼の顔は恐怖で引きつっていた。
――― 宮廷のとある職務室
近衛騎士団のブラックスとケイデン、ガリアーノ宰相は臨時で情報交換を行っていた。
「ケイデン、リリーの様子はどうだ?」
ブラックスが心配そうに尋ねると、ケイデンは答えた。
「担当してくれた医師によると、大きな外傷は見当たらないそうです。しかし違和感がある、と。傷を受けた後はあるがそれがすぐに治癒しているようにみえるそうです。通常ではありえないほどの短期間での回復力。しかしいづれにしても、すぐにでも復帰できるほどの身体状態だそうです。」
ブラックス「しかし、あのような巨大なデプリヴンを一人で倒したことは驚きだ。彼女はまだ剣の扱いがなっていない。それなのにほぼ無傷ということは、彼女の体が尋常ではないほど強靭であるがゆえかもしれない。」
ブラックスは深刻な面持ちで話をつづけた。
「彼女の話で特に今後のあり方について考えなくてはいけないことがある。そのデプリヴンが口にしていた言葉だ。王女様を探していると、そう言ったそうだ。」
ガリアーノ宰相「デプリヴンがそのようなことを言ったというのか?いままでの報告では支離滅裂な言葉を使う、オーム返しのようにしか話さないということだったではないか。」
ブラックスは首をひねった。
ブラックス「王女に狙いを定めてきているというのが本当であるのかは分からない。それもただ意味をなさない戯言に過ぎないのかもしれない。しかし、知能があるばかりではなく、この国の弱点を明確につく個体がいる可能性もでてきた。もしそうであれば相当厄介だ。なにかしらの対策をしなければ最悪の事態もありうるな。」
ケイデンはため息をついた。「どうしてこうも事態が収束しないんですかね。この国は呪われているんですか?1700年も安定して発展してきた、神の国ではなかったのだろうか。」
「神の国。初代王が神から授けられた力が、引き継がれ、その力が国を守り続けているという、神話みたいな話だな。」
「だが、実際に1700年も安定してきたのは神の力としか思えん。我々は気が付かぬうちに道を外し、神の愛想もつきたのかもしれん…。」
衛兵「失礼します、ホワイト卿が訪ねてきております。」
蒼い髪の青年、ジョエル・ホワイトは話をききつけてやってきたようだった。
「私もお力添えさせてください。貴国の友好国であるレイシアはできる限りの協力ができるでしょう。今回の情報についても取り纏め、すぐに本国へ使いをやります。どのような対応ができるのか協議してもらいましょう。」
ブラックス「ジョエル・ホワイト卿、レイシア国には真に感謝している。どうか引き続き我が国の国難を乗り越えるべくお力添えをいただきたい。」
「微力ながらお力添えさせていただきます。」
ジョエルは真剣な表情で、そして、力強くこたえてみせた。
ケイデン「それで、他の議員をいつ招集するのですか?今回発覚した事実は早急に周知すべきではないでしょうか?」
ブラックス「明日遠くに行っていた各部隊の隊長が集まる。そこで話題にしてはどうか。加えて、アデリーナ王女様の警備については今日から厚くすることとしよう。」
―― ガリアーノ宰相の執務室
ジョエル・ホワイトはガリアーノ宰相を訪ねていた。
ジョエル「王女様警護の件ですが、レイシア国から提案させていただきたいことがあります。」
ガリアーノ宰相「ホワイト卿。早いな。それはどのようなことだ?」
「アデリーナ王女を一度我が国に避難いただいてはどうかと考えています。」
「なんと」
ガリアーノは手を顎にやり、思考を巡らせた。ジョエルは話をつづけた。
「実は、デプリヴンの発生についてはレイシア国も非常に興味を持っております。また、このサンクレア王国が困難な事態にあることも承知しており、現状もある程度把握しております。私が情報を逐一共有、我が国でも同様の事が起きた場合の対応策を模索しているのです。」
「なるほど」
「原因が究明されるまでは、王女様には一度避難いただくのが無難。もしもアデリーナ王女に何かがあるといけませんから。」
「そうですな。王女はまだ王位を継承しておりません。もし一度国外に避難することとなってもさほど大きな問題にはならないでしょう。それに、この緊急事態です。ぜひ前向きに検討させていただきたい。」
―――
ガリアーノ宰相は事の経緯をアデリーナ王女に説明をした。
「…そういうわけですから、一度国外に非難されるべきだと考えています。」
アデリーナは眉間にしわを寄せた。それは突拍子もない提案であり、すぐに受け入れることのできない内容だった。
「私だけが一人で避難・・・ですか?そんなことができるわけがない。」
「しかし王女様。何かあってからでは遅いのです。」
「国民はどう思いますか?」
「国民には知らせずにおきましょう。指揮命令の方は私が今も務めておりますから問題ないでしょう。それに、事情が事情です。もし国民に知れる事態となっても理解してもらうことは十分にできるでしょう。」
「でも…、少し考えさせてください。」
アデリーナはとある言葉を思い出していた。
――人は、未来の自分が想像できない場所に居続けることができないのです。
(王女がいち早く逃げる国に国民は未来を感じるだろうか…。)
ガリアーノ宰相「しかし、王女様。そのようなわがままを言ってもらっては困ります。あなたは状況を理解されていない。もし万が一の事があり、ここで王家の血筋が途絶えることなどありえないのです。もちろん血筋としては近縁のレナート・キャロウェイ卿もおられるわけだが、すんなり受け入れられるかどうか。ここ1700年、グレンヴィルの血筋の者が王として納めてきたわけですから。」
「私だけが逃げるわけにはいきません。いち早く逃げるなど・・。」
アデリーナはガリアーノ宰相との話し合いの後、ゆっくりと息を吐きだした。胸の内でつかみどころのない薄暗い影が渦巻いているようだった。
――― 夜。宮廷内の噴水公園にて
「アディ、やっぱりここにいた。」
リリーの声が後ろからした。そしてリリーはアデリーナの隣に座る。
「こんなところにいるところをみられたら、怒られるかも?」
リリーは心配しているようだった。いつ何時デプリヴンが現れるか分からない状況であり、ひとりで出歩かないようにと侍女含め、宮廷内に言い渡されているからだ。
「一人になりたい時もあるんだよ。」
月明かりが噴水にたまった水溜まりに映し出される。まったく風もなく、それは鏡のようにきれいな月だった。リリーはその様子にかける言葉一つ見つからなかった。そしてただ、アデリーナと同じように、月明かりがあたりを静かに照らしている様子をじっと見つめていた。アデリーナはしばらくして、自分に対して問うように話し始めた。
「どうしたらいいか分からないの。王女である私は一度国外に避難したほうがいいそうよ…。」
リリーは驚いたようにアデリーナの顔に視線を向けた。
「たしかにブラックスさんやホワイト卿の言うことも理解はできる。正直に言うと私だって怖い。逃げ出したい。でも本当にそれでよいのかな…。」
リリーは少しの間考えてからこたえた。
「私にはどうしたらよいか分からない。きっと私が答えられないこと。」
アデリーナは頷いて言った。
「きっと、私自身が解決しなくてはいけない問題。」
それからしばらくの沈黙があった。ゆるやかな風が吹き、水面の波紋が月の形を歪めた。
リリーは思い出したように言った。「なんだかキッチンに忍び込んで、アップルパイを根こそぎ、おなか一杯食べたい気分になってきた。」
アデリーナはフフフと笑った。「そんなこともあったよね。またきっとやろう。」
リリーは笑って頷いた。そして言った。
「アデリーナはこの国にとって大切な存在なのだと思う。だから、わたしはアデリーナがどのような判断をしたとしてもついていく。」
「ありがとう。」
―――
その日の夜。アデリーナの部屋に尋ねてきたものがいた。もう就寝しようという時間帯だ。
「何者だ?」
扉の外で警備をしていた衛兵が手元の明かりで顔を照らす。
「侍女のハンナです。王女様より依頼がありやってきました。」
衛兵はちょうどハンナの顔見知りだった。
「なんだ、こんな時間にどうしたんだ?しかし、王女様からの依頼なんてあったのか。何だ?まぁいい。」
ハンナはゆっくりと部屋に入った。
アデリーナは衛兵からハンナがやってきたことを聞き、ハンナに尋ねた。
「ハンナ。用事なんてなにかあったかしら?」
アデリーナは宙に視線を向けて、ひとしきり考えてみたが思い当たる節はなかった。
「王女様。お約束のモノをお持ちしました。」
「なにか私が頼んだかしら・・?それに王女様って。いつもそんな言い方だったっけ。」
するとハンナは少し考えるようなそぶりをみせた。その視線は宙を捕らえ、焦点があっていないようにみえた。
「なにをいっているんですか、頼みのものをお持ちしますなんていいましたっけ。私はただ、あなたをお救いにきただけです。」
そういって差し出した手の甲から角が生えてた。王女は息を止め、それからすぐに周囲を確認する。小さな寝室の隣のキャビネットの上に短剣がおいてあった。
「どうしたの、ハンナ。一体…。」
アデリーナの問いかけに、ハンナはゆっくりと首を向けてこたえる。
「普段と変わりませんよ。王女様のためにいつも従事させていただいています。」
アデリーンは起きている事態が分からず混乱していた。ハンナなのか、そうではなのか。王女は短剣を咄嗟に手にして握り締めた。しかし、相手がもしデプリヴンであれば対抗できる自信はない。王女はそれからゆっくりと動きながら、じりじりと部屋の隅に追い詰められていく。その間にもハンナはゆっくりとその姿を変容させ、デプリヴンのそれに代わっていく。それはいままでのような獣のような姿ではなかった。あくまでも人間の延長線上に過ぎなかった。手だけは長く伸び、人間としては歪な体系に変化していた。その手先には鋭い爪が光った。それが一瞬のうちにアデリーナの体をとらえようとした瞬間、ハンナの体が飛ばされ壁に激突した。
アデリーナが驚いて部屋を見渡すとハンナがいた場所にはジョエルがいた。ジョエルが剣をハンナに向けている。デプリヴンが倒れ込んだ床から立ち上がろうとした時、すでに勝負はついていた。ジョエルの素早い剣裁きはそれを捉え、胸を一突きしていたのだった。
ジョエルは剣を鞘に納めて言った。
「大丈夫ですか、アデリーナ様。」
「ありがとう。どうしてわかったのですか?」
「いえ、あの侍女とは少し以前話したことがあったのです。そこでついさきほど彼女をお見かけしたのですが、どうも様子が変だなと思っていたものですから。気を回しておいて正解でした。」
ジョエルは言いながらデプリヴンの亡骸を子細に確認した。顎に手を当て、思考を巡らしているようだった。
「それにしても、これは一体どういうことなんだろうか。これはあの子なのだろうか。しかし、そうとしか思えないほどに身体的な特徴が酷似している。」
王女は動転していた気を落ち着かせてからジョエルに言った。
「ハンナ……なの?」
「いえ、まだ詳しいことは分かりません。」
「そうですか…。とにかく助かりました。」
ジョエルは言った。「王女様のためならこのジョエル、いかなる時でもはせ参じます。」
――― 執務室にて
王女が襲われた後、宮廷は慌ただしくなっていた。近衛騎士団長ブラックス、ガリアーノ宰相がやってきてその状況を確認していた。
「それで、王女様は?」
ブラックスの声にジョエルが答えた。
「軽いかすり傷です。間一髪のところでした。間に合ってよかったです。」
「そうか。貴公の活躍は素晴らしいところだ。どのようにレイシア国に恩を返せばよいものか。それにしても、これは大変な事態だぞ。デプリヴンはこのように擬態することもできるのか。それも我々には見分けがつかないほど。衛兵は知り合いだったらしいがまったく気が付かなかったらしい。優秀な奴なのだがな。」
ジョエルは思考をめぐらせながら言った。
「もう一つ可能性もあります。人が変容して、デプリヴンに変わってしまったということです。」
「たしかに、ハンナという侍女は行方不明のようだ。」
「もうすでに死んでいるか、それともホワイト卿のおっしゃるようにデプリヴンとなってしまったのか。もしそうだとすると、信じたくない事事実だ。これでは警備が非常に困難だな…」
会話に割って入るようにガリアーノ宰相が言った。
「ブラックス、これはもう待ったなしだ。王女様には避難していただく。」
――― 宮殿内の客間にて
「しかし…。」
アデリーナは言葉を詰まらせた。ガリアーノ宰相は強い口調で言った。
「あまりわがままをいわれては困りますよ。今度同じことが起きてしまっては、もはや王女様を救う手立てはありません。いまこの宮殿の内部にもデプリヴンは潜んでいるかもしれないということです。」
「それは分かっています…。」
「デプリヴンはあなたに的を絞って狙っているという情報もあった。それが事実のものとなったのです。やつらは本気でこの国の転覆を狙っているのかもしれません、それもなにかしら組織的に裏で誰かが手を引いているということも考えられる。どのような指示が、どこから行われているのか、それはいまだ分かりません。不可解です。これらが解明されるまではやはり安全な場所に退避いただくより他はない。これは逃げるわけではない。国を守るために仕方のないことなのです。よいですか王女様、これはあなたのなすべき正式な公務と考えてください。」
アデリーナに選択肢は無いようだった。手をきつく握り締めた。自分の中で大切にしていた何かが壊れていくようだった。しかし同時にデプリヴンの恐ろしさを感じていた。その姿、危険な様を思い出し体が震えた。たしかにガリアーノ宰相が言うようにあれは私を明確に狙っているのだ。
窓の外は薄暗く豪雨だった。まるで何かこの世の終わりを予感させるような、恐ろしいほどの雨。アデリーナは思い出していた。私はこの間の誕生日会でなんと考えていただろうか。兄に何と言っただろうか。なんでもできるつもりで軽い口をたたいていた。しかしこれほどに無力だなんて。そしてなんもしないまま国から逃げるなんて。
実際には一歩も足を踏み出すことができなかったのだ。
――― 近衛騎士団の執務室にて
ブラックス「どうしたんだ、リリー」
「私はどうしたらいいのか考えていた。アディを守るために近衛騎士団の衛兵となったけれど、彼女がいなくなったらどうしようかとは考えていなかった。」
「そうだな。しかし、私も正直思うところがある。王を守ることこそが近衛騎士団の役目、その王がいなくなり、そしてその跡継ぎである王子もまだ見つからない。そして王女様が身の安全のために国外に退避されるという。」
ブラックスは言葉を切り、窓の外に目を移した。そしてしばらくしたのちに呟くように言った。
「彼女が帰ってくる場所を守るというのも我々の使命ではないか?」
「わたしには分からない。でも、それがアディのためになるのであれば、そして、国外にいくことが安全であるならば私はそれでかまわない。」
ブラックス「それでよいのではないか。なにも高尚な考えを持つ必要はないのだ。」
ブラックスはそう言いながら、胸の内にある思いを再度確認した。
(だが、私は生涯を王のためにつくすと誓った身だ。なにがあってもこの国とともに、そして王とともにあるのだ。これからもずっと。)
そうして首にかけたロケットペンダントをしっかりと握り締めた。
――― 翌日の早朝
朝になり、まだ雨は降り続いていた。あたりには霧がかかっていた。
限られた者だけで王女出発の準備は整えられていた。それらは速やかに行われ、ごく少数の人にしか知らされず、静かにその時を待っていた。
ガリアーノ宰相はブラックスに話しかけた。
「では、ブラックス。よろしく頼んだよ。」
王女は通常、他国にいくときのドレスコードがある。しかし緊急の事態であるため十分な支度ができず、いつもの普段着のままであった。ブラックスはアデリーナ王女に伝えた。
「国境付近まで私ブラックスとホワイト卿がお連れいたします。リリーもいっしょですよ。ご安心ください。」
「分かりました。お願いします。」
アデリーナ王女は浮かない顔をしていた。
「さぁ、雨に濡れる前に馬車に乗り込んでください。」
アデリーナとその一行は馬車に乗り込んだ。そして、その小さな一行は人々の目に触れないよう静かに出発した。静かな街並みをゴロゴロと音を立てながら霧の中に消えていく。
グレート・バリケードを通過する頃には霧は晴れ、雨は止み、空は雲の隙間から青空が見え始めていた。アデリーナは窓越しに外をみた。
(今度ここに帰ってくるのはいつになるのだろうか。)
すっかり外は明るくなり、人々が家から出て活動していた。畑を耕すモノ、カバンを持ってどこかへ向かう者、待ちゆく様々な人々をみた。普通に生活をしているようにみえた。しかしその表情は緊張しているようにみえた。浮かない顔をしているようにみえた。おそらくデプリヴンの脅威に怯えているのだ。怯えながらそれでもどこへ逃げることもできず、その場で生活しているのだ。
なのに私だけはこうして逃げる。
(仕方がない。務めだから‥…)
しばらくするとバラ園が見えてきた。アデリーナは思い出していた。王は私に対してとても厳しかった。兄のフレデリックも私に対して厳しかった。冷たかった。私の事を除け者にして、そしてつまらぬ言いがかりをいつもつけてくる。
でも、本当に厳しかったのだろうか。兄はいつも私に何かを提案してきた。
――もっと周りに目を向けた方がいいな…
――アディも参加したらどうだ?…
私はいつも反発してばかりいた。どうして反発していたのだろうか?
とてものどかな風景だった。そして私はここから逃げるのだ。
馬車が大きく揺れて止まる。
途中、馬車が突然体制柄を崩し、横転する。
ブラックス「何事だ!」
ブラックスとリリーが剣を抜きながら飛び出していく。
アデリーナは傾いた馬車からようやく外の様子を確認する。それは体躯の大きな角の生えたデプリヴンだった。しかもそれは3体もいるようだった。
「私たちの経路が知られていたとしか思えないが・・。この数。」
ジョエル「ここは我々で引き受けましょう」
ブラックスは頷く。そしてリリーに言った。「予定を変える。アデリーナ様と急いでこの先のマリーノまで行け。そこで王国軍の駐屯基地がある。そこの馬車を使って隣国までご案内しろ。」
リリーは頷いた。そしてアデリーナとともにその場から走って離れ、次の村にまで急ぐことにした。
(私はまた守られている…)
思えば、私はずっと守られてきた。厳しくされていた?ちがう、私を守ってくれていた。優しくしてくれていたのだ。おかしな反発をしていたのは自分だ。なんでもできるなどと考えて、できもしないことを考えて…。
――言い聞かせるだけよ
――あの人たちは踏ん反りかえっているだけ
空は青空が広がっていた。雲一つない、のどかな風景が広がっていた。
(私は王女なんて嫌だ。逃げたい…。)
どうして私は今走っているのか。一生懸命に駆けなければいけないのか。遠くに街並みが見えた。サンクレア王国もっとも東側に位置する町マリーノだ。
涙が頬をつたった。これが本当の私だった。私は結局のところ怖かっただけなのだ。逃げたかっただけなのだ。
その時、ふいに聞こえてきたのは父の声だ。記憶の片隅に残っていた声だ。
――よいか、アデリーナ。世の中には正しいことと間違ったことがある。間違ったことの中から正しいことを選ぶのは簡単だ。だが、どちらの選択も正しい場合はどうだ。人は結局のところ孤独だ。他の誰もどちらを選択すべきか判断することはできない。
そして人は大抵判断を誤る。だが誤ったと思ったなら自分の心を見つめ直せ。自分の生に与えられた責任を果たすための選択。心の声に従い次の道を選べ。それがやがて自らの人生になる。
父はどのような道を選んできたのだろうか。どうしてそれを尋ねなかったのだろうか。もっと話しておけばよかった。もっと大事な話をしておけばよかった。恐怖に支配された時、どうすればよいのかきいておけばよかった。自分のやりたい事に対して体がついてこないとき、足を止めて方向転換したいとき、どうすればよいのかきいておけばよかった。
どこへ向かうのかは私が判断しなくてはいけない。私が一体何をしたかったのか、それは最初から明白だったのだ。その時、濡れた草に足を取られてアデリーナは派手にこけた。水分を含んだ柔らかな土が真っ白なスカートに付着した。
リリー「アディ。大丈夫?」
リリーが近づいてきて声をかけ、手を差し出した。
アデリーナは倒れたままこぶしを握り締めた。膝が擦り剝け服の上から血が滲んでいた。リリーの手を掴み、それからゆっくりと立ち上がる。しかし頭は下を向いたままだ。リリーはそれから先に進もうとアデリーナの手を引いたが足を進める様子がなかった。手を引いても拒んでいるようだった。「どうしたの?はやくいかないと…あの町にいって逃げないと…」
リリーはふとアデリーナの顔を見た。その表情をみてピース・プレイヤー・バンケットでの宣言を思い出していた。その時と同じ目をしていると思った。
「私が行く場所はこの先のレイシア国じゃない。戻ろう、サンクレアに…。私たちの国に!」
振り返ると遠くに王国の全景が見えた。雲一つない青空の下に、下層ベルディアの街並みと、グレート・バリケード。その先にはわずかに宮廷の建物が覗かせていた。