第06話「眼差しの向こうに」
――― アデリーナの私室にて
「いい帽子。ありがとうアディ。」
それは薄いベージュ色のフラワーコサージュ付きのキャスケットだった。ちょうどリリーの角がすっぽりと隠れて、かつ、しっかり固定されるように作られていた。アデリーナが特注したものだった。
リリーはとても喜び、アデリーナにお礼を言った。「どうしてこれを用意してくれたの?」
「布を巻いているよりもいいでしょう。それに、その襟章も大事にしてね。私の側近である証拠だから。」
リリーの服には赤い薔薇をかたどった小さな襟章が付けられていた。
「側近?」
「大事に扱われるためのおまじない、みたいなものよ。」
それからリリーはしばらくなにかを考えている様子だった。そして打ち明けるようにアデリーナに言った。
「私、どうしてもお願いしたいことがあるの。近衛騎士団に入団したい。」
リリーが胸の内を打ち明けるように言うとアデリーナはリリーの申し出に驚いた表情をした。ゆっくりティーカップを置いてから言った。
「急にどうしたの?」
リリーは真剣な表情で答えた。
「私はきっと役に立つことができる。そういう気がするの。なんとなくだけど」
リリーはそう言いながら自らの手に視線を落とした。アデリーナは微笑んでいった。
「もちろん。リリーがしたいようにすればいい。きっとその選択に間違いはないと思うから。」
リリーの表情がパッと華やいだ。「ありがとう。」
――― 近衛騎士団長ブラックスの執務室
アデリーナ「そういうわけで、1名を入団させてほしいのだけれど。」
ブラックス騎士団長は少し考えて、頷いてみせた。
「そうか、それは助かる。とにかく人手が足らんのだ。デプリヴンが現れて以来100名を超える者が死亡、騎士団のうち4分の1が重度の負傷で長期の戦線離脱を要する状態。それに残りの3分の1は軽傷だが長期任務で疲れの色が濃い。しっかり休ませる必要もある。」
ブラックスが話し始めると、アデリーナの顔色が少し陰った。ブラックス気にもせずに話をつづけた。
「私の古くからの友人もこの間の戦いで負傷した足を切断せざるを得なくなってね。私は団長として自分の不甲斐なさに落ち込んでいる。本人は命あってよかった、なんて言っているがね。あいつはすげー奴ですよ。いやぁ、とにかく人手不足だから助かりますよ。王女様の推薦ということならきっと腕の立つ者なのでしょう。」
アデリーナは顔面蒼白だった。
「それで、その方はいつから入団できますか?」
ブラックスは期待の眼差しをアデリーナに向けた。
――― アデリーナの私室
「近衛騎士団入団の件、ダメになりました」
アデリーナが言うと、リリーは驚いて目をパチパチと瞬かせた。「どうして?」
「人は足りているそうよ。それにあなた女の子だから入団できないみたい。それより王立図書館の職員なんてどう?あなたとても褒められていたわよ?」
アデリーナが申し訳なさそうにリリーに伝えた。
「わたし。本当はあまり得意じゃないの。本読むの」
「あんなに熱心に本を読んでいたのに?まぁいいわ。とにかくダメになったのよ。ごめんね。リリー。力になりたかったのに。」
リリーは国のために、そして、アデリーナのために力になれると考えていたのだった。これでは役に立つことができないと肩を落とした。
――― 近衛騎士団の練習場
リリーは一人でとぼとぼと歩いていた。自然と練習場に足が向いていた。近衛騎士団を諦めることができずにいたのだった。そこでは多くの兵士がその武術や体を鍛えるため日々訓練をおこなっている。ブラックスもその様子を確認しながら時折声を張り上げていた。リリーは暫くその様子を確認し、隙を見てブラックスに話しをもちかけた。
ブラックス「どうしても入団したい?」
リリー「私はこう見えても力があります。それに、かなり体は丈夫です。」
ブラックスは声を立てて笑いながら言った。
ブラックス「そいつはいい。」
ブラックスは覗き込むようにして、リリーの全身を様々な角度から点検した。そしてしきりに頷いてから言った。
「たしかになかなか筋はよさそうだ。うちにも女性隊員はいるぞ。衛生兵が多いが、腕に覚えがあり、剣や弓を使う者もいる。」
「え?女性は入団できないって…」
「そんなことはないぞ。もちろん男の場合は簡単にはいかない。近衛騎士団はこの国を守る特別な軍だからな。各部隊で名を挙げたエリートでなくては入団できない。女性の場合はそうでもないかな。っむしろ衛生兵として重宝される。」
「でも、人は足りているって・・・」
ブラックスは眉をひそめた。そしてあごひげを撫でながらこたえた。
ブラックス「何を言っている?むしろ不足しているんだ。そういえば王女様が一人入団させたいと言っていたな。問題ない旨をお伝えしたはずだが…あの話はどうなったのか」
リリーはその言葉に眉をひそめた。
――― アデリーナの私室
リリーは自信満々な様子でアデリーナに宣言した。
「私、やっぱり近衛騎士団に入団します。」
「リリー。その話はダメになったと言ったでしょう?」
アデリーナの前にリリーは一枚の紙を差し出した。それはブラックス将軍からもらってきた、近衛騎士団に入団するための推薦状だった。
「ブラックスさんがいいよと言ってくれたの。ここにサインしてください。そうすれば入団できるんです。」
リリーはその紙を受け取り一瞥した。そして言った。「ダメです。」
「どうして?」
「もう話はこれでおしまい!ダメなものはダメ!」
――― 侍女の控室にて
ドーリーと侍女は二人の関係がうまくいっていないことについて話し合っていた。
ドーリー「それであの二人はろくに口をきいていないわけね。いつも二人でいるところを見かけるのに、おかしいと思った。まぁ、王女様のお気持ちもわかるけれど。困ったわね。」
「困ったときはあの人にお願いすればいいよ。」
侍女はちょうど用事で訪れていたケイデンを指さして言った。
ドーリーがケイデンに二人の仲裁を依頼する。「アデリーナ様はリリーが近衛騎士団でやっていけるかどうか心配しているみたい。リリーは自信があるようだけれど。それで揉めているのよ。」
ケイデンは露骨に嫌な顔をした。「勘弁してください。そんなことまでやらないといけないんですか?」
「あなた、総務担当でしょう?王女様の喧嘩の仲裁、お願いしますね。」
ケイデン「なんでも押し付けられちゃ困るんだけど・・ただでさえここ最近は仕事が多いんだ。ご遺族への見舞金の手配、心を病んだ方へのケア、負傷者のための適切な看病施設の確保、兵士同士のいざこざの仲裁、セクハラの相談、庭の植栽の入れ替え、トイレの修繕、・・・・・・。」
ケイデンはそう言いながら大きなため息をついた。
「とにかく、解決すればいいんでしょう?早く終わらせて少しでも仕事を減らさないと・・」
――― 近衛騎士団の練習場にて
既に多くの者が集まり、その様子を観戦しようと既に多くの侍女や兵士たちや宮殿の職員たちが集まっていた。中央には椅子と机が置かれ、そこにはリリーと一人の兵士が座っていた。
「それで、ケイデンさん。結果これですか?」
ドーリーが尋ねるとケイデンは手を広げていった。
「仕方がないでしょう。お二人とも全く譲ろうとしないのだから。リリーさんと、新入りの騎士団員さんで力比べをして、リリーさんが勝ったらリリーさんの入団は決まり。これが簡単でいいじゃないですか?これが一番早いんです。」
リリーの正面に座わっているのは新入りの騎士団員ココイト。腕まくりをして、受けて立つとばかりに先に手をドシンと置き、リリーに満面の笑みを向けた。とても大柄で、筋肉質な男であった。
「がんばれー。王女様がみているぞー」同僚からの声援を受けて手を上げて答える。「当たり前だ。王女様から直々に絶対に勝つようにと仰せつかったのだ。こんな日がいつかはくるのかと思っていたが、もう来るだなんて。なんて運のいい男なんだ、俺は。絶対に勝ちますよ。アデリーナ様。あなたのために!」
ケイデン「では互いに手を組んでください。私の合図で開始です」
ケイデンが開始の合図を口にした1秒後に決着は着いていた。リリーは男の手を曲げ、その甲をテーブルに叩きつけた。声援を送っていた周囲の観客はその様子に唖然として、声一つ立てなかった。リリーは満面の笑みをアデリーナに向けた。
――― 侍女の控室にて
アデリーナは不満そうな顔をしてふくれっつらだった。「リリーったら、近衛騎士団での勤務が危険なことを理解していないのよ。一体どうしてこうなっちゃったんだろう」
ドーリー「アデリーナ様のお気持ちはよくわかります。しかし、相手の気持ちを尊重する思いやりも大事ですよ。」
「相手の気持ちを尊重する思いやり・・・・・。そうね。分かったわ。でもブラックス団長には彼女に気を回すように言っておかないと。」
そこへケイデンがやってきて言った。
「すごかったですね、彼女。いや、実は近衛騎士団のことを説明したのは私なんですが、合格できてよかったですよ。」
アデリーナは左の眉を吊り上げて、ケイデンに詰め寄った。険しい形相だった。「あなたのせいじゃない!リリーに何かあったら許さないわよ。」
―――
ブラックスはあご髭をなで、彼女の剣の構えを見ながら言った。
「ふむ、腕っぷしはずいぶんと自身があるようだ。衛生兵にしとくにはもったいない。だが、実際の戦いとなるとそれだけでは勝てないぞ。しっかり、その戦術を体や頭に叩き込む必要がある。」
リリーはブラックスと剣を片手に向き合った。
「最近、体内にもエレクタが存在しているという説がある。しかし俺はそれを聞いた時にすんなり合点がいった。体験的に分かっている事だった。体内にあるエレクタを自在にあやつることにより、神経や筋肉の活動を活発にさせることも可能、つまり瞬時に強靭な力を発揮することができるというわけだ。」
ブラックスは説明しながらリリーに打撃を打ち込む。リリーは必至にそれを防ぐ。しかし、たまらず剣は手からすり落ち、回転しながら弧を描いて地面に落ちた。
「剣を振るう瞬間、エレクタを自在に使いこなし普段持っている能力以上の力を発生させている。それを知っているのか知っていないのか。お前は無意識のうちにやっているようだ。しかし、まだまだ使いこなせてはいない。」
ひとしきり剣を交えた後、ブラックスは言った。
「意識することだ。自らの体の内側に存在しているエレクタに。神経を張り巡らせろ。自分の体を理解することがまずは第一歩だ。」
練習が終わった後、騎士団の男がブラックス団長に質問した。
「ずいぶんいれこんで鍛えているみたいですね」
「まぁな。王女様にも特別に任務をいただいていることだし。しかし、とても不思議な奴だ。」
ブラックスはそれから胸の内で言った。
(あんな奴はみたことがない。・・楽しみが増えたな)
――― オズワルド国会議事堂にて
議会では様々な声が飛び交っていた。デプリヴンが現れて以来、国内に多くの被害が出て、その対応に追われ続けているのだった。
「…しかし、最近の被害報告は減少傾向にある。問題は収束しつつあるということかもしれない。気を抜くことはできないが。」
「ただ原因はまだ分かっていない。なぜこれほど広範囲に上層にも下層にもデプリヴンが発生したのか。なぜ建国以来起きなかったことが今再度、起きているのか。」
とある議員はとなりの者に耳打ちをした。「どうにも議会にもまとまりがなくていかんな。王が亡くなられて以来、求心力が失われているように思えてならない。」
耳打ちをされた男は答えて言った。
「王は厳しい方だった。その王が亡くなられたのだ。」
「せめて王子がいらっしゃったら代わりを務めていただくこともできたのだが。」
「王女様がいる。」
「それも考えないではないが・、まだお若いのでな・・。」
「いづれは立ってもらわねばならないだろう。」
―――
アデリーナは自室で腕の痣をじっとながめていた。体調はなにも依然と変わらない。あの時だけおかしくなったのだ。おそらくあの時に何かが起きていたのだ。そして異国から来たという青年のことを思い出していた。ジョエル・ホワイトという名の青髪の男だ。
この間、痣の事を尋ねた。
「王女様。私には分かりません。どこに痣があるのでしょう。」
「見えない?」
「ええ。なぜでしょう。古くからの傷があちこちにありますから、アデリーナ様にはそれが際立ってお見えになるのかもれませんね。」
ジョエルは見えないと言っていた。それともこの痣、私にしかみえないのだろうか。リリーにも確かめてみる必要がある。
コンコン、扉をノックする音が聞こえる。リリーだった。
「実はお願いがありまして・・」
「どうしたの?」
リリーは事の詳細を語り始めた。どうやらこの間、下層でお世話になった者にお世話になったきりだから何かを返したいということだった。彼らはリリーの命の恩人と言っても過言ではない。アデリーナは頷き、彼女がしたいように手配することとした。
「私からもお願いがある。ちょっとこっちへ来て、腕をまくってみせてもらえる?」
リリーは言われるがままに腕をまくり肘のあたりをみせた。最初に出会ったときと同じ、白くて透き通った腕だった。しかし、少し肉付きがよくなっているようにもみえた。そして、そこにやはり痣があった。小さな、特徴的な形をした痣だ。
「この痣、どこでつけたの?」
「痣?どこにあるの?」
リリーは分からないと言いながら、しきりに自らの腕を確認していた。
アデリーナは深まる謎に頭を悩ませた。
(私だけがみえている?それはどういうことかしら・・・。)
――― 下層ベルディア、エドの料理店
リリーが店内に入るとそこにあの男はいた。男は一瞥をして妙に緊張したような態度になる。
「エドさん。」リリーが声をかけると、ようやくエドはそれが誰であるかに気が付いたように目を丸くした。「おい、誰かと思ったらリリーか。一瞬、軍による検問かと思ったよ。」
胸をなでおろしているようだった。カードを偽装しているということだったから他にも怪しいことをしているのかもしれない。
「どうしてそんな恰好しているんだ?」
「近衛騎士団の兵士になりました。」
「そりゃ本当か?」
エドは目を丸くしてリリーの頭からつま先までを確認した。それから、エドには事の経緯を話し、王女に見繕ってもらったお金を手渡した。
「別に良かったんだけどな。まぁ、もらえるものはありがたくもらっておくよ」エドは言いながら袋の中を確認して、ヒューと首笛を鳴らした。
奥にはあの男もいた。リリーに顔を向けてそれから、知らないというように顔を戻し、ひたすら口に食べ物を放り込んでいる。「確か、デクランさんでしたっけ。エレクタに詳しい・・」
リリーの言葉に、ようやく手を止め口を開くデクラン。
「あんた、上層の人間だったのか。騙しやがって…」
「私は・・」
「いいか、そんな小奇麗な服をきていると狙われるぞ。獣じゃなくても狙われる。しかも女。上層を良く思っていないやつも多いから気をつけろ。」
「忠告ありがとう。」言いながらリリーは頭を下げた。
それからエドはあらたまってリリーに尋ねた。
「それで、何か用事でもあるのか?ただお礼を返しに来たって訳でもないだろうに。」
「実は、デプリヴンの発生原因を調べる役目を受けていて。何か知っていることはない?」
リリーの問いにエドは考えを巡らせた。
「頼りになりそうな情報は思いつかんな。デプリヴンについては謎が多い。そもそもいまだにどこから現れたのか分からずじまいだ。空から降ってきた、とか。」
お店を出るとき、体の痩せた黒い服の男とすれ違った。背丈もリリーと同じくらいであった。男に多少の違和感を感じたがそれほど気にとめなかった。エドのお店は変わった人が集まるお店なのだ。
―――
リリーは一日中、下層の周辺をひとしきり歩いてまわった。行き交う人に声をかけ、あるいは、店があればその店主に確認もした。デプリヴンに襲われたという人もいたが、逃げるのに精いっぱいでなにも分からないといった。気が付くと周囲はすでに日が落ち始め、橙色の雲が空いっぱいに広がっていた。ひときわ綺麗な星が輝きはじめていた。
リリーは肩を落とし、元来た道を返り始めていた。ふと、とあることに気が付いた。雑多な家路が立ち並ぶ場所にひと際大きな屋敷があった。下層ではあまりお目にかかれないほどの立派な屋敷だ。その屋敷の玄関に一人の老人が座り込んでいたのだ。おそらくその老人はずっとそこにいる。同じ道を通りがかったとき、やはりその老人はそこにいたからだ。
老人は煙草をずっとふかしてぼんやりとしていた。足元にはたくさんの吸い殻が山になって積もっていた。
「煙たいかな?」
リリーは声をかけられたことに気が付き、足を止めた。たしかに煙の臭いがする。あまり良い臭いではなかった。リリーの考えをまるで読んだかのように老人は言った。
「すまんのぅ。これはわしが生きるために手放せないんじゃ。アフターヌーン・テーというやつじゃな。」
(アフターヌーン・・・?)
「なにか、特別な用事でもおありですかな?お嬢様。」
男はリリーに首を向けずに言ってから、再度口元から煙を吐き出した。
「お嬢さんのような方がこのような時間に一人で出歩くものでもないと思うがね。」
リリーは男が座っている後方の扉に目を向けた。扉は開いたままで、中に様子をうかがうことができた。テーブルや椅子の上には様々なものが山積みになっていた。お皿や花瓶、フォークにナイフ、コップ。多くの家具が無造作に置かれ、あるいは散乱しているようだった。遠くの方でなにかがジリジリと鳴り続けていた。それはとても不思議な光景だった。家の中で突如嵐が巻き起こったとしか考えられなかった。
「おせっかいだったかな。だが人間年を取ると小言がいいたくなるものだ。」
リリーは男の後方を指さして言った。「なにか音が鳴っていますよ?」
「ああ、電話か。別にどうでもいいことじゃよ。あんなもんには触る気にならん。人と会話をするときは直接会って話をしないと人として大切なものがぼけてしまう。だからこうして通行人に話しかけているというわけじゃ。お嬢様にはまだ分からない話かもしれない。」
リリーは付け加えるように言った。「私はお嬢様なんていうほどの人ではないです」
「そうかい?わしにはまったくもってそうは思えんのじゃが。まぁよい。」
老人はまた煙草を口にくわえて、煙を吐き出した。話を続けて言った。
「最近は珍しいお客さんが多くてな。この間は異国の旅人も訪ねてきた。」
「どんな人ですか?」
「髪の青い青年だよ。歩く速度、足の踏み出し方、姿勢、どれをとってもレイシア国、おそらくはエメラルドヘイブンからやってきた者だろう。デプリヴンの発生原因を調べている、とかいっておった。一見好青年ではあったが・・。あれは気をつけなくちゃあかんな。背筋が凍った。わしは、目も合わせることができんかった。」
背筋が凍る?どのような男なのだろう。
「あの人をみなさい。」
老人は通り過ぎていく人を指した。
「あの歩き方、これから町にとある約束事をはたしにいくようじゃ。仕事かのう。遅れているようじゃな。そしてその相手はきっと貴族。かなり気取った相手。」
その男が大きな建物に入るところが見えた。なにやら身なりの良い男がでてきて話をしていた。――いやぁ、上層はもう手一杯だからねぇ。工場は下層に作るしかないね。綿花農家さんだって、染色屋だって、下層に集まっているんだから好都合だ。――たしかになんらかの交渉事のようだった。
「歩き方をみなさい。そこに人のすべてが表現されている。本当に面白いことだ。こんなことでほとんどわかってしまうのだから。だがわしは若い頃、人を見抜く眼をもっていなかった。どのような人を周りに揃えておくのか。それは人生に大きく左右し、時には大切な人を亡くし、人生を破壊してしまう。」
老人はそう言ってから首を振った。呟くように言った。
「…いや違う。最終的にやったことが全て自分にかえってきただけのこと、どんなに運任せでうまくいったとしても、人間死ぬ前にすべてかえってくる。そういう風に人というものは出来上がっているんじゃろう。」
リリーは老人に問いかけてみた。「最近、おかしな人は通らなかった?」
老人は思い出すように視線を宙に向けた。それからリリーに視線を向けた。
「最近は妙な者が行き交うようになった。まるで人となりの分からん奴だ。今日も通っていきよった。やけに体の痩せた黒い服をきた男。ありゃいったい、どういうもんか。長年生きていてもまだわからん奴がいるのだから不思議なもんだ。」
(体の痩せた黒服の男・・?)
リリーはいやな予感がした。エドさんのお店を出るときにすれ違った男だ。私が感じた違和感。そしてこのおじいさんが感じた違和感。なにか胸の内の鼓動が早くなった。急がないといけない。
リリーは走り出した。おじいさんはその様子を無言で見送った。それからまたタバコに火をつけてゆっくりと咥えた。
――― エドの料理店入口
リリーは息をのんだ。(ここだ)
ゆっくりと扉を開ける。中をみるとそこにエドはいなかった。いないようにみえた。ちょうどカウンターの付近に大きな何かがうごめいている。間違いない。デプリヴンだ。大きな角が体から5本突き出して、背中のあたりから伸びている。
そいつはゆっくりと顔を上げてこちらをみた。口元や体に一部に赤い血が付着していた。そして、しばらく考えるようにしてからリリーに言った。「こんにちは」
リリーは驚いた。そいつはしっかりと話すことができるのだ。さきほどまで人間の姿をしていたところから、もしかしたら人間に擬態しているのかもしれない。話すふりをしているのかもしれない。
リリーは腰から長剣を抜き、構える。ゆっくりとその獣の足元を見た。そこには変わり果てたエドの姿があった。体は血で真っ赤に染まっている。今しがたこのデプリヴンに襲われたのだ。(もう少しはやく来ていれば・・)
「あなたがやったの?」
ふるえる声で問いかけると、獣は言った。「なにをやった?」
そしてしばらく考えてから「ああ、この男の人のことか。誰がやったのか俺にも分からないんだ。できれば教えてほしい。可哀そうに…」
リリーは驚いた。そして何をいっているのか、分からなかった。あきらかにこの化け物が手を下したのだ。
(こいつは・・こんな稚拙な言い訳でごまかせると思っているんだ・・・)
ブラックスの声がよみがえる。
――よいか、ひとりでやつらを相手にしようとしてはいけない。いったん逃げろ。複数で囲むことで勝率は圧倒的に高まる。いいな。お前に何かあると俺が困る。
リリーは長剣をかまえた。
(そんなこといっても、こいつはエドさんを・・・)
相手との間合いを詰めた。そして力いっぱい剣を振り下ろす。しかし、剣はその強固な皮膚に通らない。まるで強烈なゴムのようにそれはリリーごとはじき返す。
「どうしてそんなことをするんだい?まるで私が悪いことをしたみたいじゃないか」
デプリヴンはそう言いながら、腕や体はみるみるうちに巨大化し、手は鋭い爪をもった巨人に生まれ変わる。それはもう人型ではなく、巨大な黒い皮膚を持った獣の姿だった。背中から飛び出した角はより大きく鋭くなっていた。
それは間髪いれず反撃の一撃を繰り出した。巨大化した腕をリリーめがけて振り下ろす。けたたましい音とともに床を破壊した。その衝撃で土煙が上がった。寸前のところでリリーは避けて、受け身を取っていた。しかし凄まじい速さでやってきた次の左手の追撃を受け、壁に跳ね飛ばされる。
リリーはうずくまった。胸のあたりがきしむように痛い。骨折をしているかもしれない。
顔を上げたところ、デプリヴンに体を押さえられる。リリーの目の前にそいつの顔があった。人の顔のようにも見える、奇妙な形をした顔だった。
リリーは思い出していた。そうだ、王立図書館で本に書いてあったことだ。
――角事態にはそれほど大きな意味はない、むしろ、それを形成するなにか、人の体の秘密に目を向けなければその原理を解決することはできない。
ブラックスも言っていた。
――エレクタを自在にあやつることにより、神経や筋肉の活動を活発にさせることも可能ということ。
こいつは、デプリヴンは体内のエレクタを操っているんだ・・・。強烈な力で締め上げられる。リリーはなんとかその腕から逃れようとするが身動きがとれなかった。デプリヴンはそれから意外な問いをリリーに投げかけた。
「ところで、私は王女様を探しているんだ。君は彼女がどこにいるのか知っているかい?」