第04話「時の微細な秘密」
国境警備隊のモランとその部下は、王室近衛騎士団長であるブラックスに呼び出され執務室で待機をしていた。彼らはそわそわとして落ち着かない様子であった。
「獣を打ち負かした件ではないですか。モラン隊長。」
モランの部下であるバーナードが言った。部下のうちの一人であり、とても頭の切れる男で、モランは彼を重用していた。バーナードは続けて言った。
「しかしあれは運がよかった。小型タイプだったし、意表を突くことができた。」
モランは部下の声に得意げになって言った。
「お前はいつも卑怯なことを考える。でもそれくらいでちょうどいい。真正面からやっていたら命がいくつあっても足りない。そして今度こそ手柄が認められ、俺も国境警備隊から本体への配属になるかもしれん。」
モランは口元に笑みを浮かべ、遠い目をして言った。
「ようやく俺も国境警備隊から本体への昇進か…。お前も期待していてよいぞ。引き上げてやるよ。」
王室近衛騎士団の団長といえば、武官を目指すものにとって最も憧れる地位である。武官から貴族として認められ議員になる者もいるが、その登竜門でもあった。それに比べて国境警備隊はグレート・バリケード外の辺境を守る部隊のうちの一つ。その地位の差は比べ物にならなかった。
しばらくして、ブラックスが室内に入ってきた。ジロリと二人に視線を向ける。室内は物音ひとつせず、緊張感のある空気で満たされていた。
「王室近衛騎士団長のブラックスだ。小型の獣を打倒辺境警備隊の二人とはお前らのことか。」
「はい。その通りであります。」
モランは姿勢を正し、緊張感のある声で答えた。
ブラックスはそれからゆっくりと二人に視線を移し、少しの沈黙の後、口を開いた。
「二つ確認したいことがある。」
「なんでありましょう。」
「一つ目だ。なぜ宮廷にいたのだ。お前たちは国境警備隊に所属しているだろう」
モラン「それは、宮廷にて複数の獣が発生したとの情報を得たからであります。そのため、急遽はせ参じた次第であります。」
「国境付近にも奴らは発生しただろう。今も続々と被害の報告がある最中だ。王都を守ろうとするその気概は認めるが、まずは自らの持ち場の保安がお前の役目であろう。これからの身勝手な行動は慎め。国を転覆させようと画策する内通者であると誤解される可能性があることを肝に銘じよ」
「ハッ…。」
こころなしか、モランの握りこぶしが小刻みに震えていた。
「もう一つは小型の獣の話だ。小型であれば生きて捉えることも可能だっただろう。なぜ殺した」
「いや、なぜと申しましても…。」
「複数獣たちが突如発生したのかはいまだ不明。その原因を突き止めるきっかけになったかもしれん。なぜ殺した?」
びくりとしてモランは唾を飲み込んだ。ごくりという音が聞こえるほどの静けさだった。
「こ、殺したのは私の考えではありません。このバーナードの考えで…。」
バーナードは顔を上げてモランに視線をやる。驚きと困惑の混じった視線であった。
ブラックスは鼻から息をゆっくりはきだし、モランの胸の内を見透かすようにして続けた。
「何を言っている。お前の部下がやったのなら、お前がやったのと同意だろう。」
モランは無言のまま、ただの一点を凝視して固まっていた。
「よいか!貴様の部隊とその部下に伝えろ。原因と思われる者や獣は可能であれば捉えろ。生け捕りにせよ。私の言いたい事は以上だ。帰ってよいぞ。」
「了解しました。」
―――
…どうした、なぜ何も言わない?言葉にしないと分からない。何も声を発しない者は死んでいる者と変わらない。
…これでは救いようもない。何も言わないのだから。私はお前を助けたいと王の座に着いたころから真剣に想っておるのだぞ…
なにか小さな声が聞こえる。
鳥たちがさえずる声だ。
波が打ち寄せては帰っていく音がする。でも違うかもしれない、木々の葉がこすれて織りなす音かもしれない。
目をゆっくり開けてみる。
深い緑が幾重にも覆い重なって、あたりは非常に暗かった。だが、枝葉の間から差し込む一筋の光が自分の体を明るく照らし出していた。思わずまぶしくて目を細めた。その枝葉の合間からキラキラと日の光が覗かせているのが分かった。
なぜ、私は生きている・・・?
?「これが宮廷で暴れた獣か。小さな奴もいるな。」
?「魔物デプリヴンではないかと噂されている。気をつけろよ。」
?「さぁ、さっさと言われた通り死骸を捨てよう。」
?「しかしひどい有様だ、こんなに山になって捨てられている。一体何匹いたんだ。それにひどい臭いだ。鼻がねじ曲がる。」
?「早いことずらかろう。帰って酒場で一杯やろう。こんな嫌な気分は初めてだ。」
?「しばらく見張っていろと言われただろう?いいのか?」
?「必要ない。みんな死んでいる。」
霞みがかる思考の中で、少しずつ思い出しはじめていた。私は兵士に殺され、そして捨てられた。そしてなぜ生きているのかも思い出した。私は一度も死んだことがないのだった。もしかしたら死んだとしても生き返るのかもしれない。どちらだっていい。
何かが足元にいることに気が付いた。そして、足元の痛覚が体に伝わった。
「っ!!」
痛みに声をあげようとするが声はでない。足を少し動かすと何かが飛び跳ねて逃げていく。もしかしたら森の小動物が食べ物と間違えてかじりついたのかもしれない。急いで体を起こそうとするが手足に力が入らない。まだ私は十分に生き返っていないようだった。
?「・・・。王族を侮辱する盗人が!」
盗人?こんなこと、誰かに言われただろうか。これははるか遠い記憶かもしれない。
あれこれ考えているうちに次第に記憶も蘇ってきた。そうだ、誰かが私を外に連れ出してくれた。名前は何だったか。
アデリーナ。とても元気で、おせっかいで、優しい人。彼女はどうしているだろう。
そして私の名前はリリー。彼女が付けてくれたお気に入りの名前だ。白いお花の名前。
それからさらにどれくらいの時間と日が経っただろうか。
ようやく起き上がることができるようになった。おなかのあたりを手でさすってみる。もう既にほとんど完治しているようだ。だが服はぼろぼろに破けていた。血が固まって黒ずんでいた。せっかくもらった綺麗な服がもう使い物にならない。
ふと、衛兵たちが言っていたことを思い出した。
――嘘をつけ、化け物め、証拠にお前の頭に角が生えている。
頭頂部を手で触ってみる。たしかに角のようなものが生えている。これは一体なんだろう・・。大きさは少し違うけれど、あの獣に生えていた角と同じ。自分は獣になったのだろうか。それともこれからあのような姿になり、人を襲い暴れることになるのだろうか。
ゆっくりと確かめるように立ち上がって周囲を見渡した。足元は鼻がねじ曲がるほどのひどい臭い。どうやら、獣たちの死骸と同じように捨てられていたようだ。
周囲を確認したが見渡す限り薄暗い木々に囲まれている。どうやら町から遠く離れた場所に捨てられたようだった。注意深く確認してみると、車輪の後が見つかった。柔らかい土に何度か往復した後があった。これを辿っていけば町に戻ることができそうだ。
しかしこの角だけはどうにかして隠さなければいけない。私は服の裾を破いて頭に巻き付けた。それから立ち上がりふらついた足取りで車輪の後を追い始めた。
―――
しばらくすると明るい場所に出た。目の前には広大な景色が広がった。周囲には牛が何匹かゆっくりと草を咀嚼している。のどかな風景だった。ぼろぼろの黒ずんだ服を来た私はおそらく全く似つかわしくない異質な存在だろう。
歩いていると視界がだんだんとぼやけてきた。どうやらまだ体力が回復しきっていないようだ。気が付くと道端で倒れて動けなくなっていた。
―――
「大丈夫?お姉ちゃん?」
目を開けると見知らぬ女の子がこちらを見つめている。
「大丈夫ですか?」もう一人の大人の女性がこちらを心配そうにみていた。どうやら記憶をなくしている間に私をみつけ、家の中に担ぎこんでくれたみたいだった。
「道端で倒れていたんですよ?もう大丈夫ですか?」
「ありがとう」
「よろしければこちらの服を使ってください。その服では・・。もしかして獣に襲われたのですか?」
「ええ、まぁ…」
「そうですか。大変でしたね。無事でなによりでした。」
大人の女性はとても親切で優しい人なのだとわかった。それに小さな女の子もとても気立てのよさそうな子だと感じた。
しばらくして、ゆっくりと戸を叩く音がした、何度もゆっくりと戸を叩き続けている。誰かが訪問しにきたのだろうか。
「誰か来たみたいね。みてきてもらえる?」大人の女性が女の子に言った。「うん。わかった」
戸の外の気配にリリーは不穏な匂いを感じ取った。それはほとんど直観だった。子供が入口まで歩いていくのを目で追いながら体を起こす。
「ちょっと、待って!」
それから急いで走り子供に手を伸ばす。その瞬間ドアが蹴り破られ、けたたましい音が鳴り響いた。リリーの体は子供毎吹き飛ばされ、壁面に打ち付けられた。こうなることを幾分予測できていたためか、それとも偶然か、子供を庇いながらうまい具合に受け身を取ることができた。衝撃で頭に巻いていた布切れはすっかり破れ、リリーの頭部から大きな角が一つあらわになった。だがリリーは気が付かない。気を張り詰め相手の様子を伺うように目を凝らす。そして扉の前に立つそれを見て確信した。
「獣だ・・」
背中に2本の大きな角が生えている。人型の獣。そいつはこちらをみている。おそらく話など通じない状況であることが見て取れる。大人の女性も子供も訳が分からず恐怖におびえていた。
(どうしよう。私一人ならこのまま逃げればいい。でも…)
この人たちをおいて逃げることはできない。何とか追い返すしかない。
次の瞬間、獣はものすごい速さで体当たりをしてきた。今度はよけることができず体が床に打ち付けられる。その衝撃で意識が飛びそうになる。それから間髪を入れず獣は巨大な手でリリーの首を押さえつけた。それはとてつもなく大きな力で、徐々に首が閉まっていく。
(息が・・できない・・・。)
その時、ふいに誰かの顔が脳裏をよぎった。それが誰であったのか思い出すことができない。
その女性は悲しそうな顔をしてこちらを見ていた。そしてなにかを叫んでいた。目に涙をたくさん貯めて繰り返し叫んでいた…。
(ここで死ぬわけにはいかない。絶対に・・!)
急に押さえつけられている力が弱くなった。獣の手を両手で握り締め、それから思い切り獣の体を足で蹴りだした。獣の体は勢いよく宙を飛び、壁面に体を打ち付けた。あたりにはその衝撃で土埃が舞い上がる。
体が熱い。ふと自分の手を見た。それは自分の手ではないようだ。少し大きくなり、爪も長くなっていた。
(いける・・)
あいつが倒れこんでいる今しかない。思い切り地面をけり、間合いをつめる。それからこぶし一杯にそいつの頭を叩きつけた。思いもよらないほどの大きな力が小さなこぶしにうまれた。次の瞬間に体を残して頭は胴体から分離した。血しぶきとともに言葉にならない断末魔が響き渡り、あたまは親子の目の前に転がり止まった。そして獣は完全に停止した。
(助かった・・・)
そう思ったときだっただろうか、ゆっくりと手の形は元に戻った。それから体中にどっと疲れがやってきた。ふと後ろを振り返ってみると、親子が体を震わせながらこちらをみていた。
まだ怯えているのだろう。
「もう大丈夫ですよ」
そういうと、大人の女性は顔をこわばらせながら言った。
「ありがとう・・ございます・・・」
子供は顔を隠して何も言わなかった。顔を大人の女性にうずめ、抱き着いたままだった。
それから子供がちらりとこちらを見た。すっかり怯えた表情だった。
「このお姉ちゃん・・・こわいよ・・・」
「そんなこと・・言わないの!守ってくれたのよ」
「イヤだよ・・・」
私はその子供の視線に耐えられず目を背けた。孤独だった。闇に囚われていた時と同じだ。そして、頭に巻いていた布がいつの間にかどこかへいってしまったことに気が付いた。早くここから立ち去らなければいけないことだけは理解できた。「なんでもいいです。布切れだけいただけませんか?」
大人の女性は震える足で立ち上がりすぐに布を渡してくれた。リリーは感謝の言葉を告げて家を出た。頭頂部から出た小さな角は少し大きくなったような気がした。それから大人の女性から受け取った布で頭も巻き直し、角を隠した。
これからどこへいけばいいというのだろう。こんな姿ではもうアデリーナに頼るわけにはいかない。もしこの角が目に入ればきっとあの子供と同じ怯えた表情で私を見るだろう。あるいは憎悪の視線を向けるだろう。それだけは絶対に嫌だった。だからもう彼女に会うわけにはいかなかった。
(もうこれ以上傷つくのは嫌だ・・)
それから、行く当てもなくふらふらと道沿いに歩いた。どこに行けばよいのか分からずに、ただ無心に歩いた。
夜になった。気が付くとお腹が減っていた。いままで長い間何も口にしてこなかったというのに、一度お腹を満たすとまた食べたくなる。それはとても不思議な感覚だった。気が付くと大きな家の前に立っていた。人が住んでいるような場所ではなさそうだったが、何かのお店のようにみえた。中から良い匂いが漂ってくる。
その匂いに吸い寄せられるように扉に手をかけた。その瞬間、何かが自分の体を襲ってきたことが分かった。剣だ。私はその剣先をじっと見ていた、裂けようともせずに。剣先は驚くほどゆっくりと迫ってきて、目の前でピタリと止まった。
目の前には男が驚いた顔をして立っていた。「危ないな!人じゃないか。」男は剣を降ろし、それから腰にしまった。
「すまないな、しかも女の子か。そんな気配じゃなかったんだが、俺の勘違いか‥まぁいい。町で獣デプリヴンが多数徘徊しているっていう話は知っているだろう。それで神経質になっていてな。お嬢ちゃんも合図くらいしてくれないと困るよ。」
「デプリヴン?合図?」
「よその町からきたのか?デプリヴンってのは最近この国周辺を襲っている人型の獣だ。どんどん被害は拡大している。あと、合図ってのは扉に対してノックを5回やるんだ。これが人間である合言葉だ。」
デプリヴン。頭の中で繰り返してみたが、この言葉はどうも知らないようだった。男は言った。「まぁいい。とにかく入れ。外は危険だ。」
――― エドの料理店内部
中はずいぶんと広い空間だった。天井にはいくつものランプが吊り下げられており、中央にはカウンターがある。ずらりと並んだ一番奥の席には男が座り、こちらには目もくれずもくもくと食事をとっていた。カウンター以外にはいくつかの机と椅子が適当に配置されていた。おそらくここは料理店なのだ。そしてその内装はとても簡素なものにみえた。
「それにしてもお嬢ちゃん。なんつー服着てるんだ。血かそりゃ。それにひどい匂いだ。」
男は少々顔をしかめてみせた。「おい、ハンナ。タオルと服、用意してやってくれ」
ハンナと呼ばれた女性がやってきた。とても恰幅の良い女性だ。よく見ると目鼻立ちが整っており、昔はとても美人であったのだろうという面影がある。
戸惑うリリーを見て、「いいんだよ。気にするな」といっておじさんは笑って見せた。
―――
リリーは暖かい水の出る道具を借りて体を洗った。そして置いてあったタオルで体をふいた。それからハンナがもってきてくれた服にも着替えた。広間に戻ると男が少し驚いたように言った。
「結構いい玉じゃねえか。俺はエド。あんたの名前は?」
「リリー」
「そうか。いい名前だ。はっはっは」
奥の方から男の声がした。「おい。エドのおっさん。あんた昨日ねーちゃんにこっぴどく振られたかと思ったら、今日はそんなに若いのをつれてきたのか。」
エドは抗議するように答えた。
「お前はとっとと飯を食って帰りやがれ。」
エドはぶつぶつと文句を言いながらリリーに向き直って言った。
「それで?どうしたんだ。お前の衣類には血がべっとりとついて、それが固まっていた。獣にでも襲われたのか?」
「・・・そんなところです。」
リリーは本当のことを語らなかった。きっと話しても理解されない。それに自分自身がまだ何が起きたのかそもそも理解しきれていなかったのだ。
「そうか、最初に現れて以来、デプリヴンは増え続けている。ものすごい被害だ。この下層ベルディアでも今や大量に発生している。住民はみな、顔見知り以外は疑ってかかっているんだよ。一部の魔物は人のふりをする、擬態するっていう話だからな。」
部屋の奥でむさぼるように食事をしていた男が手を止めて、顔をこちらに向けることなく話し始めた。
「俺たちはとかげの尻尾みたいなものだ。上層のやつらは俺たちなんて屁にも思ってないさ。あの大きな壁のおかげで、俺たちは城内に逃げることさえできねぇ。城内はまだ優秀な騎士団様がいるからまだいい。満足に警備も整っていない下層で獣共がこれ以上増えたら俺たちは全員死んじまう」
「国境警備隊がいるじゃないか」とエドがいうと「あんなのは糞の役にも立たんぼんくら共だ。王は上層のやつらのことしか考えてないさ。いまだに何の対策も打ち出さない」と答えた。
リリーは思い出した。あの時、王はもう虫の息で、それから衛兵たちによって死が確認されていた。王は既に死んだのだ・・。この人たちはもしかしたらまだそれを知らないのかもしれない。長年にわたって私を暗闇に閉じ込めてきた王。その復讐こそが生きる目的だったはずなのに・・一体これからどうすればいいのか。
「しかしデクラン。平等を唱える者も上層にはいるぞ。」とエドがたしなめると、デクランと呼ばれた青年は笑い飛ばしてから言った。
「平等じゃないから、平等を高らかに宣言するんだよ。無意味なスローガンをかかげてやった気分になるのが目的なんだ。その証拠に関係ない俺たちにまで押し付けてきやがる。無能な議員達の考えそうなことだ」
それからデクランはようやくリリーに顔を向けて言った。「いいか、お嬢ちゃん。この国を支えてるのは俺たち下層民だ。農地を耕し、食物を作り、衣類を織り、そしてエレクタを使って機械を作る。俺たちなしにあいつらやってけるか?」
リリーがどう反応していいか困り、エドに顔を向けると、手のひらを上に向けて肩をすくめてみせた。
デクランは付け加えて言った。「とはいっても、王都のエレクタの恩恵を受けて、最近では夜もこうしてしっかり明るい光が照らしてくれている。ついこの間までは真っ暗だったのさ。エレクタってのは実に面白い。昔は発光石っていうのがあった。これはほんのり青白く光る石なんだが、これがとても貴重でね。別名「輝煌の明星」、まるで星のようにみえるからということだが、想像するに、石が掘れる一体ではきっと星のようにみえたのだろう。今となってはまったく採れない。昔取りつくしてしまったようだな・」
エドはリリーの傍にやってきてから耳打ちをした。
「あいつはエレクタについて語りだしたら止まらん、食べるのも忘れて話し続けるんだ。この下層ベルディア随一のエレクタ第一人者。すまんがちょっと付き合ってやってくれ。」
デクランはその間も話を続けていた。
「…………そして、最新の研究についてだ。人間の体にもエレクタが駆け巡っていることが分かってきた。思考したり、体を動かしたりしたときにね。エレクタとは生命の一部なのかもしれない。そして、そう考えると上層はもちろん、この下層ベルディアも生きていると言えなくはないかもしれない。これは憶測だが、すべての物体や物質にはエレクタが駆け巡っていると俺は睨んでいる。」
デクランは一呼吸をおいて、付け加えるように言った。「それからエドのおっさん。俺はエレクタで人の役に立ちたいと思って常に思考しているんだ。年中、女の尻と胸のことを考えて生きているあんたとはわけが違う。」
エドはやれやれというようにジョッキにはいった飲料を一口飲んでいった。
「だからこそ、俺はもっと表に立って活躍してほしいんだがな。」
「そんな面倒なことはごめんだ。エレクタの開発、解明こそが重要だ。後は僅かな飯にさえありつければ十分だ。」
「うーん、他にも大事なことはあると思うぞ。例えば、ふくらはぎやふともも、二の腕も大事だ。」エドはリリーに顔を向けてにっこりと笑って見せた。
―――
建物は3階建てで、屋上にあがるとあたり一帯を見渡すことができた。すっかり闇が濃くはなっていたが、さきほどの男が話した通り、ところどころに明るい光が灯されていた。
「綺麗だろここらへんでは一番見晴らしがいいぞ。グランド・バリケードの向こうは夜なのにあんなに煌々と光り輝いている。だからあそこは浮遊船とよばれる。まるで上空に浮かぶ船のようだろう」
エドはどこから持ってきたのか、ジョッキを片手に一口飲んでから続けた。
「どうだ、あいつは癖が強いだろう。頭はいいが偏屈な奴なんだ。暴言も吐くし、怒りっぽい。だから友人もできない。人間社会じゃ生きづらい性格をしている。でもな、俺はあいつをここに置いてやりたいようにやらせている。どうしてだかわかるか?」
エドの問いかけに、リリーは少し考えてから首を横に振った。
「信用しているからだ。人は見た目や言動では判断できない。そいつの心を俺は信用しているんだ。」
エドはまたリリーに問いかけた。
「お前さんの悩みはなんだ?」
リリーはその問いかけに口を噤んだ。なんといってよいのか分からなかったのだ。
「いや、言わなくていいんだ。歳を重ねると不思議と勘が働くようになるもんだ。」
それからしばらくの沈黙があった。リリーはまぶしく光る上層の街並み、宮廷に目をやった。あれだけ美しく立ち上がっていた青い光の建築物はどこにも見当たらなかった。そしてアデリーナの事を思い出した。あの場所での記憶の中にはいつもとなりにアデリーナがいた。
「お前さんが思っている以上に、人は優しいと思うがね。迷ったら、まずは飛び込んでみろ。意外と、杞憂だったんだということも多いさ」
「宮廷に帰るのか?」
リリーは驚いてエドの顔を見た。宮廷にいたことなど話してはいないはずだった。
「わかるさ。グレート・バリケードの通行証は持っているのか?」「通行証?」「なんだ通行証も知らないのか。しかたがない、ここまできたんだから面倒を見てやる。うちにはいくらでもパスがあるからな。大きな声ではいえないが偽造ってやつだ。うちはカード作成を請け負っているからな。いくらでも量産できる。ハッハッハ。」
「今日は夜も遅い。飯食って、一泊していけ。」「え?」「変な意味じゃないぞ。違う違う。」
エドは自らの発言の何かに気が付いて、一人で首を振って否定しているようだった。
リリーはエドに尋ねた。
「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
「その台詞はもっと色っぽいねーちゃんに言われたいな。それに、もとはとるつもりだよ?」
「もと?」
「お嬢ちゃんは宮廷に住んでいるわけだろ。もとがとれないわけがない。お返しを待っているよ。」
――― 翌日
「通行証だ」
リリーはエドから手渡された板状の物体を子細に眺めた。これが通行証。平らで薄い手のひらサイズのカードのようだった。エドは「それからコイツだ。」と言って短剣をリリーに手渡した。リリーは分からないといった表情をエドに向けた。
「外には獣がうろついている。一人じゃ危ないからな。それなりに腕に覚えはあるんだろうが無理をするな。なにかあったら走って逃げることだ。」
「ありがとう。」
エドは頷きながら、付け加えて言った。
「あとな、いつでもおいで。歓迎するよ。わしが生きとったらな。ハッハッハ」
それからリリーは町の中心部に向かって、宮廷の有る方向へ向かって歩いた。しばらくするとグレート・バリケードが見えてきた。外から見るととても巨大な壁にみえる。内側から見たときとは印象が異なって見えた。
グレート・バリケードでは兵士が順に確認して、一人ずつに許可を与えては通していた。人々がずいぶんと長い列をつくっていた。リリーもそこに並ぶ。それからずいぶんと待つことになった。ようやく順番が回ってきて通行証を見せると、女だったからだろうか、比較的すぐに通してもらえた。それがどのような仕組なのかは分からない。通行証から音がして、それが合図となって門が開くようだった。
門を抜けた後は見覚えのある街並みが広がっていた。このまままっすぐ歩けばヴィクトリア・ストリートに出る。そして、そのままさらにまっすぐ進めば宮廷の門までたどり着くことができる。
リリーは歩きながらエドの言ったことを思い返していた。
――お前さんが思っている以上に、人は優しいと思うがね
すぐ目の前に家族連れが歩いていた。母親とその子供だろう。子供がちらりとこちらをみてそれから何かを言っていた。それから母親もこちらをちらりとみて足早に歩いていく。もしかしたら私をみていたわけではなかったかもしれない。しかしリリーは胸騒ぎがした。
咄嗟に頭を触った。しっかりと布はまかれた状態だった。大丈夫。角は隠れているはず。しかし同時に小さな女の子の表情が思い浮かんだ。
このお姉ちゃん・・・こわいよ・・・
そんなこと・・言わないの!守ってくれたのよ
イヤだよ・・・
脳裏に女の子の顔が浮かんだ。自分を見て怯える表情を思い出し、リリーの動悸が速くなった。やはり私はもう戻ることができないのではないか。きっとアデリーナだって同じ反応をするはずだ。
気が付けば宮廷の入口に立っていた。一歩踏み出そうとするが足はそれ以上前に進むことを拒否しているようだった。まるではじめて両足で立った赤ん坊のように、どうしたらよいか分からずその場に立ち尽くしていた。