エッセイ ー 黒澤明の夢を見た
黒澤明の夢を見た
私はこの日、古めかしくて陽光輝く佇まいのエックス・アン・プロバンスの町を散歩していた。年老いた、何かしら日本人風の人が左右を丹念に見ながら石畳をスタスタと私の方へ向かってくる。私は当時、日本人を殆ど見なかったこともあったので声を掛けてみた。先方は驚いたふうに私を呆然と眺める。沈黙が暫く続くので気まずさを感じさせてはならないと思い、私は直ぐ近くにあるカフェに誘った。
「ここエックスはワインでもロゼが有名なので、ご一緒に飲みませんか?」
「いただきましょう」とこの男はやっと口を開いた。
「あなたはこの町に長いのですか」と彼は私に尋ねる。
「いいえ、2週間前に来ました。この町を気に入ったものですから、滞在が長くなってしまったのです。」
「本当に美しい町だ。どこを見ても絵になるね。」
「この町はセザンヌの生まれ故郷で、彼が愛した町でもあるんですよ。」
「私はゴッホの描く鮮やかでまばゆい黄色が好きなのだが、セザンヌもいいね。」
「セザンヌは浮世絵にかなり影響を受けていると聞きます。」
「そうだね。ところで、この町に美味しい牛肉料理店がありますか?」
「料理店でここというところは知りませんが、フランスは農業国で畜産業が盛んですから、このような自然環境で生まれ育った牛はきっと美味ですよ。」
「是非、いただきたいですね。」
「牛肉がそんなに好きだとは知りませんでした。」
「料理の腕には自信があるのですが、みんなに牛肉をよくご馳走しました。一つの楽しみみたいなものです。」
「そうですか。ところで、こちらには観光でいらっしゃったのですか?」
「この5月に私の作品・影武者がカンヌの映画祭で上映されまして、パルム・ドールを受賞したのです。」
「それは大変、栄誉なことです!」
「帰りがてら南フランスでもカンヌから東のほうに足を延ばして独り散策を楽しんでおこうと思い立ちました。」
「それはいい考えでしたね。」
「日本に帰ると滅茶苦茶忙しい。ですから、逃亡なのですよ。」と笑みを浮かべて語る。
直射日光避けのパラソルがテーブルの真上にあり丁度好い具合に太陽を遮っていた。私の前に居る彼はいつも見る図体の大きい黒澤監督ではなく、小柄であって私より小さく見えた。それにしても黒澤がなぜ私の前にいるのだろうと急に疑問に思えてきて彼に尋ねた。
「黒澤さん、あなたはご自身が亡くなったのをご存知ですね?」
彼は私の問いを気に留めるでもなく、テラスの前を行く歩行者を眺め入っていた。
「京都の旅館の階段から転げ落ちたと思うのですが、打ちどころが悪かったのか、その後、リハビリに精を出されました。でも、数年後、脳卒中で亡くなくなられたと聞いています。」と説明を加えた。
彼は自分が今でも生きていると信じているのだろうか?驚いた様子もなく町行く人を目で追い、創作活動に専念しているように見える。暫くすると、彼の姿は半透明化して美しき淡い光と溶け合い、彼の背の向こうにいた多くの往来の人々と一緒に消え失せてしまった。
ロゼワイン Vin Rosé