05ヒロイン補正の使いどころ
青い空は清らかに澄み、頬を撫でる風も爽やかだ。穏やかな温かみを感じられる陽気も今日が絶好のピクニック日和だと教えてくれる。
これで小動物の一匹でも出てくれば呑気に愛でてしまったことだろう。
「グルルルルゥアッ――――!!」
――そう、背後から巨大な魔物の咆哮さえ響くことがなければ。
「なんでこうなるのさァッ――!?」
エレノアは今、森の中で出会ったビッグベアに追われて絶叫していた。
命の危機のおかげか、震える暇もなく体は勝手に前進していく。幼い頃の底辺生活以来の全力疾走だ。混乱でパンクしそうになる頭のせいで涙が溢れそうになった。
「ノア! ノアッ!! ノアノアノアッ!! ノアァッ――!! ああチクショウッ!! 来やしねェ!! 神様パワーで私の危機を察知してくれやしませんかねェッ!?」
狩りに行くと意気揚々と消えた男神に叫ぶ。もちろんそんなことで彼がひょっこりと顔を出すこともなかった。
この大騒ぎが聞こえないのであれば短時間で離れた場所に行ってしまったのだろう。彼自称の高スペックな肉体が恨めしい。
しかしこの場にいない者を求めたって仕方ないのだ。
(それにしても……ッ)
ビッグベアは確かにエレノアを追ってきている。時折振り下ろされる鋭い爪をかろうじて避け、転びそうになりながらも必死で逃げた。
にじんだ汗を拭うこともなく、エレノアは歯を食いしばる。
(完全に遊ばれてる……! 性格悪いなこいつ!!)
普通ならとっくの昔に捕まってバラバラにされていてもおかしくない。きっと完全な空腹ではないのだろう。だから獲物を追い詰めて楽しむ余裕がある。それが幸か不幸か、判断できるだけの経験などなかった。
(いや……すぐに殺されないだけマシ! 今の私ではひとりで倒すのは無理だから、とにかく安全な場所に……!!)
ビッグベアは名前の通り巨大な熊だ。あの体が物理的に入り込めないところに逃げ込むことさえできれば、何とか時間は稼げるだろう。
これだけの森なら大きな樹洞のある大樹もあるはずだが、ビッグベア相手にはいささか不安だ。木の幹ごと砕かれかねない。
疲れたなどと言っていられなかった。エレノアはなんとか脚に鞭を打ち、足場の悪い道に踏み込んでいく。この森には小さな洞窟もいくつかあったはずだ。
ビッグベアはエレノアをじわじわと追い詰めているつもりなのだろう。時々動きを止めては鼻をひくひくとさせて、エレノアを再び追い始める。不思議と楽しんでいる気配が感じられた。
そういう残虐な面を持つのが魔物である所以なのだ。必死に走り回っている最中でなければ舌打ちをしたいところである。
背後にビッグベアの気配をべったり貼り付けながら、エレノアは森の中を駆け巡った。しかし、なかなか洞窟も見つからない。その上、徐々にビッグベアの移動速度が上がっているのを感じていた。
「も、もう……ッしんどい、んですけどぉ……ッ!」
脚もがくがくと震え、軽装の冒険着には汗がびっしょりと染みている。いくら拭っても汗が止まらない。
気が付けば、苔の生えた大小さまざまな岩が転がる荒れた場所に辿り着いていた。密度を増した木々のせいで陽の光は薄れ、蔦などがあたりに垂れさがっている。どこからか、ギャアギャアと不気味な鳥の声が響いてきていた。
森の奥にまで来たのだと気づき、エレノアは顔を引き攣らせる。
(追い込まれた……!?)
鬱蒼とした森の様子にエレノアは頭を抱えたくなった。
《ロートホルン》の近くにある森はいわゆる〝初心者向け〟だ。だが、それも森の中間くらいまでの話である。森はそれなりに広大で、方向を間違えて深くまで入り込むと一気に難所化してしまう。ゲームでも後半以降に経験値稼ぎで森の奥に入ることがあった。その時の背景画像と、今いる場所の光景が被って見える。というよりもそっくりと言っても良い。
つまり、今のエレノアでは到底太刀打ちできない魔物たちが跋扈する場所に逃げてきてしまったのだ。
「詰んだかもしれない……」
ビッグベアどころではなかった。あれとかこれとかそれとかに出会ったら死ぬ可能性が高い。早く元の場所に戻りたくとも、背後にいるビッグベアがそれを許さないだろう。
思わず後ろを確かめれば、僅かに離れた場所でビッグベアがうろうろとしていた。その視線はエレノアを捉えて離さない。
だが、僅かにその雰囲気が先ほどは異なる。完全に様子を窺っているのだ。
「……? 一体、なに――」
ぼたり。重量のある柔らかい物が近くに落ちる音が聞こえた。エレノアは息を飲んで身を硬く強張らせる。苔むした岩に置いていた手の感覚がわからなくなった。
ゆっくり、ゆっくりと視線を下げる。その間にも、ずりずり、ぱき、ずりずり、と這いずるような音がした。
やっとのことで視界に映った物を認識し、エレノアは歪な笑みを浮かべるしかなかった。
そこにいたのは大きめな石程度のサイズの黒い液体だ。ぷるぷるとした液体の体の中心には、心臓となる魔核が僅かに透けて見える。
エレノアは一瞬、頭の中が真っ白になった。知っているのだ。この一見無害そうにも思える、黒い液体のことを。
(ブ、ブ、ブ、ブラックスライムゥ――――!?)
喉奥から零れそうになった悲鳴を飲み込む。ビッグベアが寄りつかない理由が理解できた。できてしまった。
ブラックスライムとはスライムが派生進化した魔物だ。見た目こそ雑魚のようだが、ラスレボのスライムはむしろ厄介な魔物である。
魔核へ的確に当てぬ限り、物理攻撃が無効。獲物に飛びついて窒息させたり、生きたまま溶解させたり、体内に侵入して内側から溶かし食ったりなど行動がえげつない。魔法攻撃が有効ではあるものの、スライムの種類によっては使う術を間違えれば逆効果だ。飛び散ったスライムの肉片で周囲に被害が出ることもある。
初心者ならスライムを見たら逃げろと言われる存在だ。ビッグベアなどの魔法が使えない魔物もスライムにとって格好の獲物である。勿論それは今のエレノアにもいえることだ。
そして、そんな厄介なスライムの中でブラックスライムは特に忌み嫌われている。スライムの中で最も物を溶かす力に長け、強酸液を吐き出し、溶かした獲物を啜るように食べるのだ。しかも魔法耐性が強く、下手な戦い方はできない。倒したところでうまみもないのに倒すのに苦労する魔物の相手など誰もしたくないだろう。
そんなブラックスライムが今、エレノアの足元にいる。
もう終わった。脱ゲスヒロインを目指し、この世界で逞しく生きて行こうとした途端にこれだ。《名も無き女神》の祝福もとい呪いを解くための一歩すら踏み出していない。そして本当にあの男神は何処で呑気に狩りをしているのかと泣きたくなる。
(お肉のために狩りを許したのも私だけどさ! こうなるなんて微塵も思わないじゃんかッ!!)
強酸で溶かされるのは痛いだろう。凄まじく痛いだろう。きっと痛いどころではない。見た目もグロいに決まっている。死ぬその瞬間まで苦しむのだ。なんて酷い終わりなのかと神を恨んだ。
ずり、とブラックスライムが前進する。それに合わせてエレノアは思わず後退した。
その瞬間、エレノアの足元に再び何かが落ちる音がした。またスライムかと心臓が出るほど驚いて跳び上がりかける。
だが、涙目で見下ろした先にあったのは生き物でもない。エレノアの荷物から零れ落ちたバケットサンドの包みだ。
走るのに夢中で気づいていなかったが、背負っていたワンショルダーバッグの蓋が緩んでいたらしい。
もそもそと動く速度を上げたブラックスライムが、落ちたバケットサンドに近づく。エレノアは本当にあと少しで触れるかどうかの位置まで来た、黒い液体の体の動きに固唾を飲み込んで見守った。
ブラックスライムはバケットサンドを色んな角度から窺い、ぴくぴくと体を震えさせる。その様子は未知の物の匂いを嗅ぐ獣にも似ていた。
ふいに黒い体が僅かに広がり、包みごとバケットサンドを体内に取り込んだ。体が黒いせいで見えづらいが内部で溶かしている音は聞こえてくる。
(あ、私もこの後こうなるのか)
うふふ、と笑いが漏れる。現実逃避だ。むしろシミュレーションができて良いだろう。何も良くないが。
じわじわと溶けていった今日のお昼を虚無の瞳で眺める。やがて全てを溶かし終えたブラックスライムは、その身をぷるぷると震わせた。
ついに自分の番が来たのか、と覚悟を決めた瞬間――ピコンッと電子音が脳内で響く。
「うん?」
何処かで聞いたような音だ。一体どうしたのかと自分の頭を片手で押さえ、足元を見た。
「……んんん?」
当たり前だが、そこにはブラックスライムがいる。しかし、そのブラックスライムの上に何かが浮いているのが見えた。ハートの形をした赤色の宝石のアイコンだ。
とても見覚えのあるものだった。前世で良く見ていたのだから間違いない。ラスレボで攻略中に、ステータス画面で確認できる〝洗脳度〟を示すアイコンにそっくりだ。
軽度な黄色から始まり、洗脳が進むごとに宝石のアイコンの色が変化していく。黄色の次はオレンジ、ピンク、赤、紫――そして、もうどうしようもないところまで堕ちたキャラのハートのアイコンは黒に染まる。
そんな恐ろしい物がブラックスライムの上に浮いている。じっと己を見つめているように感じられる、喋らぬ魔物に汗が一筋垂れた。
やがてそんな緊張も切れ、ふ、と小さな笑みがこぼれる。
「私の〝洗脳〟って魔物にも効くんかいッ――――!!」
その笑みもすぐに霧散する。
しかも手作りのバケットサンドを一つ食べただけで、三色すっ飛ばしてわりと重度な赤にまで染まっている。ゲーム的なアイコンが視覚的に現れたのも驚いたが、ここまで効果がわかりやすいと自分でも引くしかない。
「え? どういうこと? なに? じゃあこのスライムは私に洗脳されてんの? は?」
ゲームではそんな展開はなかったはずだ。とまで考えて、思い至る。ルートによっては魔族と共に国を乗っ取っていたのだ。その時は確かに何体もの魔物を当然のようにエレノアは侍らせていた。ゲームプレイ中は手を組んだ魔族の術の効果か何かかと考えていたが、エレノアの洗脳気質な魔力の影響である可能性が湧く。そんなこと設定資料集にも書いてなかったのだ。ヒロイン本人に転生しなければ気づかなかっただろう。気づきたくなかった。
ブラックスライムは苦悩するエレノアの周りをぽよぽよと動き回り、ぷるぷると身を震わせている。そこに敵意は感じられない。
(というか、これってもしかして……)
エレノアはごくりとつばを飲み込み、少し離れた場所にいるビッグベアを震える手で指差した。
ぴくりとブラックスライムが震える。
「あの、ブラックスライム……くん? ちょっと、あそこにいるビッグベアを追い払って欲しいな〜……なん、て――」
冗談のように乾いた笑いを浮かべながらそう告げた瞬間、黒い液体の体が目の前から消えた。
「え?」という間抜けな声が漏れる。ほぼ同時に凄まじい咆哮が響き渡った。
驚いて弾かれたように顔を向け、エレノアは目を見開く。
見えたのはビッグベアと、それに纏わりつくブラックスライムだった。黒い体はじわじわと面積を広げてビッグベアを包み溶かそうとする。不自然な形で欠けていく、毛皮に包まれた巨躯はグロテスクそのものだった。
ビッグベアは濁った悲鳴をあげ、必死にブラックスライムを剥がそうと暴れるが無意味な足掻きである。振り回した腕の爪で周囲の気や岩を削り、半狂乱に陥っていた。
そしてついに頭にまでブラックスライムが飛びつき、致命的なダメージが入る。最後に一際激しく暴れたビッグベアは突然全身を痙攣させ、そのまま全ての力を失ったように倒れ伏せた。
ずしんと重量感のある音が響く。エレノアは一歩も動かず、その光景を眺めていた。
あれだけ恐ろしかったビッグベアの無惨な姿がそこにある。ブラックスライムはその頭を半分ほど溶かしてから、ぷるんと体を揺らした。
そしてまるで仕事が終わったといわんばかりにビッグベアの亡骸から離れ、エレノアのほうへ戻ってくる。それを見るまでが限界だった。
「ヒェッ……」
様々な緊張や恐怖がぶち切れる音を聞いた気がした。暗転する視界と、ぐらりと揺れる体。こちらに飛びつこうとするブラックスライムを避けることもできなかった。その後どうなったのかなど、意識を失ったエレノアにわかるはずもない。
――ただ、温かく柔らかいものが優しく体を受け止めてくれた気がした。
§
ぷにぷに。ふにふに。ぷにぷに――。
「う……うぅ……ッ」
視界は真っ暗で、胸が少し苦しい。頬にだけやたらと肌触りの良いものが触れているのがわかる。エレノアは暫く呻いてから、やっと呼吸を思い出したように目を見開いた。
そして冷や汗を噴き出しながら、勢いよく上半身を起こして叫ぶ。
「ビッグベアとスライム――――ッ!?」
「お、やっと起きたのう」
「…………へ?」
呑気な声が聞こえてエレノアは首を傾げた。視線の先にいたのは焚き火を見守るノアだ。焚き火の上には鍋が吊り下げられ、何かを煮ているようだった。
エレノアはゆっくりと状況を確認する。今いるのは荒れた岩場ではなく、ごく普通の森の中だ。陽は落ち切っていないが、それでも少し薄暗くなりつつある時間らしい。
簡単な敷布の上に寝かされていたようで、毛布も体に掛けられていた。
「わ……私……」
「森が騒がしいと思って捜したんじゃよ。まさかいきなりビッグベアに出くわすとはなあ。不運じゃったが、まあ、怪我もなく無事で安心したわい」
鍋の中身を器に移したノアがエレノアに向ける。
「ほれ、チーズ入りのミルクスープじゃ。飲めるか?」
「う、ん……」
言いたいことは色々あったが、逆に思考が纏まらない。
両手で受け取ってスープを眺めた。甘くてまろやかな匂いがふわりと香る。何となく気分がおちついてほっとした。
「あ、美味しい」
一口啜れば予想通り、優しい美味しさが舌の上に広がる。少しずつ飲む量を増やしていった。そして、ふいにぽろりと目尻から熱い雫が零れる。
ノアの目が丸く見開かれた。
「へ、あ、いや、これは……ッ」
慌てて取り繕うとしても、もう遅い。緊張が解けた体は言うことを聞かなかった。
「よいよい。ワシも迂闊じゃった。魔物のいる森など初めて入るだろうに目を離すとは……悪かったのう」
ぽんぽんと頭を撫でられ、堪えていたものが決壊した。涙が次々に溢れ、視界が滲んだ。
「ううううう~~~~ッ……! こ、こわ、こわかったぁ……! ほん、と、じぬがと、おも、った……!!」
「そうじゃな。怖いじゃろうて。次からはちゃんとワシもついていくから大丈夫じゃ。本当にすまなかった。ほれ、肉も焼いとるんじゃが食うか?」
「だべるッ」
「食欲があるのは感心じゃな~!」
ノアはにぱっと笑って串に刺して焼いていた肉を取り出した。持ち手には布が巻かれ、持ちやすいようにしてくれている。
鼻を啜ったエレノアはスープを片手に持ち、もう片手で受け取った串焼きに齧りついた。脂の少ない赤身の肉には塩胡椒が適量振られ、肉本来の香ばしさと美味しさを引き立てている。
エレノアは泣いていたことも忘れ、目を瞬かせた。
「美味しいッ! 屋敷で食べてたのよりすごい美味しい!」
夢中になってバクバクと食べる。歯を突き立てればジューシーな肉汁が溢れるのも堪らない。その肉汁をミルクスープで流し込むと、味が混ざり合って何とも言えない旨味が増していった。
「そうじゃろ? いや~高級レストランの食事も美味いが、こうした野営飯も乙なもんじゃ」
「いやいやいや、これはノアの焼き加減が上手なんだって! 焼いただけでこんな美味しいなんて……あれ? これって何のお肉?」
この森に来る時のノアはほとんど手ぶらだった。持ち物は腰のポーチと剣くらいだっただろう。鍋やら何やらは一体どこから取り出したのかと疑問が湧く。
「肉は獲ったのを早速焼いたんじゃよ。本当は熟成させたほうが美味いんじゃがな。まあまだあるからのう。残りの肉は少し置いてから食べればよい」
「へえ、この森で獲れるお肉っていったらブラッドボアとか、ホーンラビットとかかな……?」
男爵家では贅沢にも様々なものを食べてきた。そんなエレノアでも食べたことのない味に感じるが、何か変わり種でもいたのだろう。
だが、ノアは首を傾げて答えた。
「うんにゃ? 竜じゃよ。この森の最奥にはダンジョンがあってのう。あそこの入り口を護る地竜を一頭、ちょいちょいっとな」
「なるほど地竜ね~。そりゃ流石に私も食べたことがな……い……」
食べ終え、脂の染みた串を握り締めてエレノアは固まった。
「…………地竜?」
「地竜じゃ」
「…………ドラゴン?」
「ドラゴンじゃな」
エレノアは頭を抱えた。彼の言うことが本当ならば、そのダンジョンとやらはラスレボの隠しダンジョンのことだ。この森にあるダンジョンなんてそれしか知らない。
もちろん隠しと名がつく通り、今まで誰も入ったことがない場所だ。屈強な魔物がうろつく森の最奥に隠されているのだから。
そしてそのダンジョンの入り口を護る地竜にも覚えがある。倒さないと入れないのにやたらめったら強く、倒してもまたダンジョンに来れば必ず生き返っているのだ。
(あれ、生き返ってたんじゃなくて何頭もいたってわけね……!)
ゲーム上は一頭ずつの戦闘だったわけだが、ここは現実だ。何かあればぞろぞろと地竜に囲まれることを想像すると恐ろしい。
ゲーム画面で見た地竜の無骨で強大な姿を思い出し、ぶるりと震える。だが、舌の上に転がした肉の美味さを思い出すと唾も湧いた。なるほど、あれは美味かったのか。
なんていうふうに思考が飛びかけていたが、エレノアは息を飲んで頭をぶんぶんと振る。
「こ、ここの森のダンジョンって、レベルカンスト間近じゃないと挑めないはずだと思うんだけど……!?」
「ん? なに、ワシはダンジョンの中にまでは入っておらん。入口の前までじゃからな」
「いや、それでもさ……!」
言い募るエレノアにノアは笑う。
「ワシ、神様じゃし」
そうあっけらかんと言うのだ。エレノアは一瞬固まり、そして、大きな溜息を吐いた。
「自分じゃなくて相方がチートなタイプの異世界転生か……!」
「喜ばんかーい。ワシが言うのもなんじゃが、めちゃくちゃ有能じゃぞ? 《アイコン》で皆に、ギルドに一人欲しいっていつも言われるくらいじゃよ」
「そりゃそうでしょうよ」
ひとつのギルドに所属を決めたと聞いた時、どうしてあれだけ周囲に驚かれたのか理解した。おそらくこの男神は人間の冒険者のふりをしながらも、その非常識な戦闘力を特に隠していなかったのだろう。厄介な魔物もばっさばっさと倒してしまう冒険者なんて仲間にしたいに決まっている。それこそ様々なギルドから引く手あまただったはずだ。
「私はレベリングもしてない初心者冒険者だよ……? いくらノアがすっごく強くても私がついていけないんだから、心強さより先に恐ろしさが勝るんだって……」
どうにかして早く戦えるようにならなければならないだろう。一応短剣などは揃えたが戦い方などまったくわからない。これは早急に対処を考えねばならなかった。
(ゲームのエレノアって魔法使いタイプだったから、私も早めに術を覚えていかないと……)
ラスレボの戦闘システムは、いわゆるミニゲームに近い。
学園の授業の一環で生徒同士のギルドを立ち上げ、ちょっとした採取や魔物討伐の任務を受けるのだ。レベルやステータスの概念は存在しており、このミニゲームに時間を費やすプレイヤーも少なくはない。なにせ、任務に成功すればお金や素材が手に入るのだ。
(しかも体力の減った攻略キャラを魔法やアイテムで回復させると〝洗脳度〟が上がるもんだから、わざとキャラに攻撃を受けさせてアイテムを使う鬼畜プレイする人たちもいたな……)
どういうシステムだ、と突っ込んだのも懐かしい。流石に前世のエレノアはそこまで鬼畜になれきれなかった。なかなか〝洗脳度〟が上がらないキャラがいた時は少しばかり悩んだが、正攻法でなんとか堕とした。洗脳している時点で正攻法もクソもないのは仕方ない。
ノアはエレノアの葛藤などどこ吹く風といった様子で、自分の分のスープを器に盛り分けた。
「ワシも戦力差についてはどうしたもんかと考えてはおったが、そこまで心配する必要もなくなったじゃろ」
「……? なんで?」
「なんでもなにも、そやつがおるし」
「…………そやつ?」
ノアがスプーンで示した場所はエレノアの腰の辺りだ。どういう意味だと視線を下げ、硬直した。
ぷるりと震えたのは黒い液体。丸く柔らかそうなシルエットはエレノアに見られていることに気づき、もそもそと動き出す。そして毛布越しにエレノアの膝の上に乗っかり、その丸い黒い体を一際大きく揺らした。
目もなにもない真っ黒なそれを直視、エレノアは身動きひとつ取れない。
「……ノア」
「結構可愛い奴じゃよな。ワシは今まで殲滅しかしたことしかなかったんじゃが、そうしていると愛嬌があって……」
「ノアッ!!」
「うお急に大きな声を出すんじゃないわい」
緑色の瞳を丸くさせたノアにエレノアは涙目で訴える。
「な、な、な、なんで!? なんでブラックスライムがまだいるの!? ていうか私の膝の上に乗っちゃってる!! どうしよう!? う、動いたら溶かされる……!? ノア早く取ってよ!!」
「おーおー、混乱しておるのう」
スプーンを咥え、ノアが苦笑した。笑っている場合じゃない。あのビッグベアを溶かしたブラックスライムが毛布越しとはいえ、自分に触れているのだ。ビビるなというほうが無理である。
「落ち着いてよく見るんじゃ。酸も出しておらんし」
「へ?」
言われてみればブラックスライムは本当に乗っかっているだけで、毛布の毛一本溶かしていない。何よりその上にはあの赤いハートのアイコンがふよふよと浮いたままだ。
「あっ」とエレノアは声を上げる。それを見てやっと思い出した。
「この子、私が作ったバケットサンドを食べちゃって……!」
「ほう、そういうことか。おぬしに対して従属している状態じゃったから、何かしたとは思っていたが……」
「従属……」
本当に洗脳してしまっていたらしい。エレノアがもう一度ブラックスライムを見下ろせば、こちらを見ているような気がした。恐る恐る、その黒い体を串でつつく。するとその串は体をすり抜け、そのままジュワリと溶けた。
「ひぃっ!?」
「こら、怖がるな。ゴミを食ってくれただけじゃろ」
「怖いよ!? 膝の上で溶かさないでくれない!? えっ!? 私の足ちゃんとあるよね!?」
「五体満足じゃよ」
「困った主殿じゃな~」と呆れた声でノアがブラックスライムを撫でた。串を溶かし食べていたブラックスライムはふるりと震えるだけで、彼の手は無事だ。
「しかし、エレンよ。おぬしのその困った体質にも使い道があって良かったのう。おぬしの手料理は人に食べさせられんが、魔物に与えればこうして仲間にできるようじゃぞ」
「……あ」
言われて気づく。つまり《魔物調教師》の真似事ができるのだ。まだブラックスライムの結果しかわかっていないが、それなりに強い魔物を味方にできればエレノアが直接戦闘に出る必要も減る。
(それは……すごく、良いのでは……!?)
正直、危ないことなどしたくないのだ。何故なら魔物と戦うなんていうことが自分できるとは思えなかった。卑怯者と呼ばれても構わない。代わりに戦ってくれる者がいるのなら、お願いしたいくらいだった。
「あ、で、でも、洗脳が解けたら結局襲われるんじゃ……?」
「うーん……この掛かり具合なら大丈夫じゃと思うがな。まあ、不安なら念押しで常に色々と食わせてやれば良い。ようは正気に戻れないほど堕とせば良いんじゃろうて」
「悪役の台詞だよそれは」
いや、この体は悪役のものだったと思い出す。しかし、この奇妙な魔力に使い道があるだけマシだ。
(まだ食べてないバケットサンドがあったはず……)
エレノアがきょろきょろとしていれば、何を探しているのか察したのだろう。ノアがエレノアのワンショルダーバッグを取り出して持ち上げた。
礼を言ってから荷物を受け取り、中からバケットサンドの包みを取り出す。包みを開くとブラックスライムが膝の上で蠢いたのを感じた。
「……召し上がれ?」
差し出すとブラックスライムはどこか嬉しそうにバケットサンドに齧りつく。歯がないので齧りつくというのもおかしな表現だが、そう見えた。エレノアが手を離してもバケットサンドは落ちず、じゅわじゅわとブラックスライムに吸い込まれていく。
包みごと食べ終われば、嬉しそうに黒い体が揺れた。そして、その上に浮いているハートのアイコンがじわりと色を濃くさせる。
「うおぉ……紫にはならなかったけどほんとに効いているっぽい……」
「うむ。見た感じ、従属も強固になった様子じゃな。まあ正式な《魔物調教師》も最初は薬や魔法で縁を持つことがほとんどじゃし、間違ったことはしておらんよ」
「そうなの? そういうことなら罪悪感も薄まる気がする……」
魔物とはいえ使い捨てのような扱いは気が引ける。人と仲良くするのが難しい運命なのだから、少しでも仲良くできることに越したことはない。
(それが洗脳による偽りの絆であったとしても……!)
人間じゃないから抵抗感があまりない、というのもそれはそれでどうかとも思うが。生きていくためには仕方ないと割り切るしかない。
やっと余裕が出てきたエレノアは、膝の上のブラックスライムを見つめる。
「……今から触るけど、溶かしたらダメだよ?」
ぷる、と体が揺れた。了承という意味だろうか。思わずノアに視線を向けるが、彼も微笑んで頷いた。
唾を飲んだエレノアはスープの入った器を傍らに置き、両手を伸ばす。そして、そっとその黒い体を持ち上げた。
「わあ……!」
冷たいと思っていた体は少しだけ温もりを持ち、つるつるのすべすべでもちもちとしていた。つまりとても手触りが良い。重さもちょうど良かった。
ブラックスライムは黒い体の中心に薄っすらと魔核が見えるだけのシンプルな生き物だ。人によっては嫌悪感を抱く見た目かもしれない。だが、こちらを信頼し、身を任せているのが伝わってくるのだ。それが自分の作った食事の効果のせいとはいえ、何となく可愛い生き物に見えてきた。
ブラックスライムをむにむにと触るエレノアを見て、ノアが笑った。
「気に入ったようなら良かったのう。そやつならそこらの魔物にもそうそう負けんじゃろ。護身用に最適じゃな」
「うん! ビッグベアもすぐ倒したんだよ! 強いよね!」
「さっきまでめちゃくちゃ怖がっていたくせして適応力半端ないの~! 若者~!」
それはそれ、これはこれだ。自分には無害だと思えば心強い魔物に違いない。
「名前でもつけてやればおのずと真の絆も育まれるじゃろうて。名づけは大切じゃぞ」
「あ、そっか。一緒にいるなら必要だよね」
ブラックスライムを持ち上げて目線高さに合わせる。黒くてつるっとした体を見て、閃いた。この体は〝あれ〟にそっくりだ。ならば名前は決まったも同然である。
エレノアは大きく頷いてブラックスライムに語り掛けた。
「よし、これからもよろしくね! 〝クロミツ〟!」
「まてまてまてまてまて」
「え? なに?」
ブラックスライムあらためクロミツを抱き締めれば、ノアが額に手を押し当てていた。頭痛が痛いみたいな顔をしている。
「それでよいのか? もっとこう……カッコいい名前とか……」
「だって〝黒蜜〟に似てるし、名前の響きも可愛いじゃん。ねー、クロミツ!」
あのトロッとして甘くて美味しい和菓子の供を思い浮かべる。餅菓子に掛けると特に美味いのだ。なかなか可愛いだろうとクロミツを撫でれば、嬉しそうな気配が漂う。
何故か呆れた様子のノアは少し黙り込み、すぐに小さく笑った。
「……ま、ええじゃろう。大切にしてやりなさい」
「うん!」
ギルド設立初日から散々な目に遭ったが、仲間が増えるのは良いことだ。いくらノアが強くとも今日みたいに離れてしまっていては意味がない。その点、クロミツはエレノアとずっと一緒にいられるはずだ。
「あッ、忘れてた! 早く薬草採取しに行かないと……! 夕暮れになったら門閉まっちゃうし……!」
「おお、そうじゃったな。食事したら満足して帰るところじゃったわ」
「私もそうなりそうで怖いよ……」
それほど地竜の串焼きは美味しかった。なんならもう一本食べたいくらいだ。しかしお腹が一杯になってしまったら普通に眠くなってしまう。ここは我慢だ、と堪えていればノアと目が合った。
「帰ったら宿で豪華な飯を作ってやろうかの。もちろん、地竜の肉を使ってじゃが」
「ノア様~ッ!!」
「今まで一番本気の感謝の念を感じたわ」
どんだけ肉が好きなんじゃ、という声は聞こえないふりをする。あの肉を使った料理が食べられると聞けば俄然やる気が湧いてくるというものだ。エレノアはクロミツの体を抱き締めてはしゃぐ。
「よしっ! さっさと薬草取り終わらせて肉パーティーだ!!」
寝床から飛び出して拳を握り込む。腕の中から擦り抜けたクロミツも足元でぽよんぽよんと跳ねている。
「目的変わっておるの~。……ま、よいか」
そう言って、ノアは小さく笑うのだった。