04ギルド
ギルド連合協会・《アイコン》支部の受付嬢シャーロットの朝は早い。
(眠い……)
思わずあくびが漏れた。亜麻色の豊かなポニーテールが揺れる。シャーロットは眼鏡を外し、滲んだ涙を指で拭った。
(昨日も残業だったし、今日は早く帰りたいな~)
《アイコン》はこの世に多く存在するギルドを纏め、管理する役目を請け負っている。昔はギルドそれぞれが個別に仕事を処理していたが、膨れ上がる数にギルド間の揉め事が絶えなくなっていった。ゆえに、混乱を避けるためにギルド全体を纏める組織が出来上がったのだ。《アイコン》の仕事内容は各地から集まる依頼の斡旋やギルド同士の仲裁、ギルドの新設受理など他にも多岐にわたる。
朝は主に新規依頼の張り出し、こまごまとした受付業だ。決められた席で自分のペンや書類などを用意していれば、横から声が掛けられた。
「シャーロット、ポーションの在庫確認は終えたの?」
「あ、はい。発注済みです。二日後には納品予定だと《白草の露》から聞いています」
「そ、なら良かった。あそこのギルドが作るポーションは質が良いから助かるわ」
隣の席に座る金髪の受付嬢――ダフネは手元の資料を仕分けしながら頷く。彼女はシャーロットにとって先輩にあたる。シャーロットはこの仕事を始めてまだ一年。膨大な仕事を抱える《アイコン》支部に馴染めているとはまだ言い難い。
(もっと頑張らなきゃな~……)
最近は魔物の行動も活発化しており、戦闘系のギルドが駆り出されることが多い。討伐が多ければ魔物の素材の処理依頼も増える。その手配だけでも随分と時間を食ってしまうのだ。
「あらやだ」
ダフネが素っ頓狂な声を上げる。どうしたのかと顔を向けると、彼女が一枚の依頼書を手に取っていた。
「ねえ、エバンス男爵の娘さんが行方不明ですって。ほらこれ捜索依頼書」
「ええ? ……十六歳って、昨日は学園の入学式でしたよね? いついなくなったんですか?」
見せられた依頼書の詳細を見て眉を顰めた。
《アイコン》支部のあるこの街――《ロートホルン》には《赤の国》で最も有名な学園が存在する。平民から貴族、はてには王族まで、優秀でさえあれば門を潜る資格を手に入れられる実力主義の学園だ。
昨日はその学園の入学式があった。祝い事を報せる白い鐘の音が高らかに響き渡ったのも覚えている。
ダフネは依頼書の内容を検めながら溜息をついた。
「なんでも入学式前にいきなりいなくなっちゃったみたい……誘拐かしら? エバンス男爵家ってお金持ちだし」
「物騒ですね。早く見つかると良いですけど」
人捜しの依頼が向いているギルドはいくつかある。こういう時は情報網が広い商人系のギルドが頼りになることもあった。
しかし、行方不明者の捜索依頼など珍しくもない。それこそ私怨や金銭目的の誘拐。運が悪ければ魔物に襲われて巣穴に連れて行かれてしまう事例もある。
(今回は街中みたいだし、やっぱり誘拐か……家出?)
実は貴族の子供だとありえない話でもないのだ。堅苦しい家が嫌になっただとか、冒険者になりたいだとか理由は様々だが。
ダフネから受け取った依頼書の束を手に持って掲示板に向けて歩き出す。《アイコン》施設内にも人が増えてきた。馴染みのギルド団員たちに軽い挨拶をしながら、シャーロットは掲示板に新しい依頼書を張り出していく。
その時、ガラン、と新たに誰かが入ってくるベルの音がした。同時に少し施設内が騒がしくなる。
(有名どころが来たのかしら)
名のあるギルドが訪れると自然と注意が向く。ほんの少し後ろの様子を伺い、あ、と声を出しかけた。
扉を押し開けて入ってきたのは全身を黒に統一した、背の高い美丈夫の男だ。彼は艶やかな黒髪を耳に掛けながら辺りを見渡し、受付に向けて進んでいく。
(ノアさんだ!)
つい胸が高鳴った。
彼はひとつのギルドには所属していない、放浪冒険者だ。助っ人を必要とするギルドに短期間だけ手を貸す変わり者である。
彼のようにあちこちのギルドを転々とする者がいないわけではない。だが、普通は入りたいと思うところを見つければ落ち着くものだ。彼はそうしない。ギルドのほうから誘われてもやんわり断り続けているのを知っている。
(今日はどうしたのかな)
ノアに気づいた様々なギルドの者たちが声を掛け始めていた。足を止めて談笑している姿を見ていると、やはり彼は人気者なのだと実感させられる。
実は《アイコン》の受付嬢の中でも彼の人気は高いのだ。少々年寄り臭い話し方をするが、おかげで威圧感もなく接しやすい。
何より――。
(かぁっこいいのよね……!)
ノアの美貌に見惚れない女性など早々いないだろう。彼をデートに誘おうとして玉砕している女性の姿は何人も見ている。だからといって女性に厳しい態度を取っているわけでもない。
街中でも老若男女問わず、困っているところを見れば声をかけていた。助けてもらったお礼にと少女から花を一輪受け取っている姿など胸が温まるくらいだ。そしてたまに喫茶のテラス席で年老いた女性の昔話にも付き合っているのも見たことがある。高齢者にはよくあるループする話題にも決して面倒くさがらず、笑顔で会話を弾ませる彼には尊敬すらした。
ちなみにシャーロットには話しかける勇気すらなく、基本的に眺めているだけだ。
(ととっ……見惚れている場合じゃなかった)
急いで依頼書を難易度ごと掲示板に貼り終え、受付に駆け込んだ。ダフネはあたふたしているシャーロットを見て、小さく笑う。
「彼、今日はどんな用事かしらね。最近は何処とも組んでなかったと思うけど」
「次のギルドの仲介依頼でしょうか?」
「さあ……あら、来たわよ」
ダフネに促され、シャーロットは慌てて前を向く。彼女が言った通り、ノアが会話を終えて受付に向けて歩みを進めているところだった。そこでふと気づく。
「あの子、誰でしょう……?」
ノアの傍らに見慣れぬ姿が寄り添っていた。
長身な彼の胸当たりくらいまでしか背がない人物だ。フードを被っているせいで顔がわからない。
首を傾げている間にノアたちはシャーロットのいる受付に辿り着いた。上から覗き込むようにしてノアが前屈みになる。
そして隣に立っている、例のフードの人物の肩を軽く押した。
「すまぬが、こやつがギルドを新しく設立したいそうなんじゃが……手続きを頼めるかのう」
「え、あ、はい!」
久々に近くで見たノアの顔にシャーロットはどぎまぎした。それでも言われたことは忘れない。新規ギルド設立のための書類を用意しながら、ノアの隣に立つ人物をこっそりと見る。
(わ……綺麗な子……!)
目深に被ったフードでしっかりは見えないが、顔が整っていることはよくわかった。白い肌に小さな唇。やや雑に整えられた黒い短髪が残念だが、艶やかさはノアに負けていない。そして、前髪から僅かに見えた瞳の色が彼と同じ緑色だったことが印象的だった。
「こちらの書類に記入をお願いします。文字は書けますか?」
取り出した書類とペンを渡しながら告げれば、こくんと頷かれた。少し戸惑った様子にシャーロットも頷きで応える。
「では、わからないところがあれば仰ってくださいね」
また言葉もなく頷かれた。
(男の子かな?)
胸はなく、平坦だ。年齢はおそらく十代半ばだろう。ボーイッシュな少女という線もあるが、何となく少年だと感じた。
しかし眺めていると奇妙な心地に陥る。
(なんかこの子……ちょっと苦手、かも)
まだ大して会話もしていないというのに腹の底がざわつく。べつに忌避感を抱く外見でもない。むしろ本当によく整っているのだ。自分でもよくわからなくなり、シャーロットは内心で首を傾げた。
そうやって眺めていれば早々に書類を書き終えたらしい。彼が書類とペンをシャーロットに返してくる。それを受け取って、不備がないか目を通し始めた。
(名前は『エレン』くん、年齢は十六歳……。ギルドの活動傾向としては……万屋系ね)
確かに荒事は苦手そうな体付きだ。万屋ならば薬草採取から人捜し、必要ならば魔物討伐までなんでもこなす。ただ、途中から得意分野を伸ばし、ギルドの指針を変えるところもある。彼はまだ若いのだ。今は様子見の段階なのだろう。
「職業は《薬師》ですか?」
「おお、まだ暫定じゃがのう。こやつは薬草の取り扱いが上手いんじゃ。だがもしも他に適職があればそちらに変える予定じゃよ」
ノアは少年――エレンの頭をフード越しに撫でて答える。エレンはその手を軽く振り払い、ぐいとフードを深く被り直した。
ふたりのやり取りを見て、シャーロットは目を瞬かせる。
「かしこまりました。……あの、ノアさんはこの子とどういう……?」
「うん? おお、言っておらんかったな」
シャーロットの疑問に対し、ノアはおどけた様子で肩を竦めた。そしてエレンの背中を手の平で押すように叩き、ニッと笑った。
「こやつは――ワシの親戚じゃ! のう、エレンよ!」
「ええっ!?」
シャーロットの驚きの声と共に、周囲のざわめきが大きくなる。どうやらここのやりとりをずっと窺っていたようだ。
(ノ、ノアさんの親戚!?)
思わずエレンを見つめた。彼はざわつく空気に驚いているのか、フードの下からしきりに周囲を窺っている。
ノアは突然、《ロートホルン》に訪れ、どんな難解な依頼も颯爽と解決していく経歴不明な人物だ。今まで何処に隠れていたのかと問いたいほど、彼の剣と魔法は巧みだった。《アイコン》では基本的に個人情報を追求しないのが暗黙の了解ではあるが、不思議に思う者は少なくない。
だからこそ、こうして血縁者が出てきたことに他の者たちも湧いている。
ノアは注目の的になっていることも気にせず、ああ、と呑気な声をあげた。
「そうじゃった。こやつの処理が終わってからで構わんが、ワシのギルドカードの情報を更新して欲しいんじゃが」
「あ、はい。もしかして次の依頼ですか? 今回はどちらのギルドの助っ人で……」
彼から受け取ったのは銀色に輝く小さなプレートのカードだ。このギルドカードには見ただけではわからない情報が詰め込まれている。持ち主の個人情報は勿論、これまでの実績や所属ギルドについてなど様々だ。情報を参照する場合、《アイコン》内では特殊な魔道具を使用する。本人ならば自身の魔力を流すだけでカードに情報が浮かび上がる仕組みだ。
現在のノアのカードの所属ギルド欄は空いている。彼が他のギルドの助っ人をする時のみ、一時的にそこを埋めるのだ。
今回もその流れだと思い、シャーロットは魔道具のペンを手に取った。
だが、彼は笑顔で言い放つ。
「いや、もう助っ人業はやめじゃ。ワシは本日からエレンのギルドに入ることにしたからのう!」
そう胸を張って彼は高らかに答える。一瞬で《アイコン》のホールが静まり返った。シャーロットもまた、驚愕で言葉を失う。
しかし、その静寂も瞬きの間だった。
『えぇぇぇぇぇぇぇぇ――――――ッ!?』
その日、その場にいた者たちの声が《アイコン》支部の建物を大きく揺れ動かした。
§
「ワシ、モテモテじゃったの~!」
――どうしてこうなった。
エレンもとい、エレノアは新しく作って貰った銅色のギルドカードを手にして目を細める。隣ではノアが浮かれた様子でスキップしていた。
エレノアとノアがいるのは《ロートホルン》から出てすぐ近くにある森の中だ。ギルドを立ち上げ早速、薬草採取という初心者依頼をこなしに来ていた。
(呑気な神様だな……)
エレノアは溜息をひとつ吐いて、ギルドカードを眺める。
ラブレス・レボリューションのヒロインを辞めてから二日目。不要な物は売り払い、冒険者として必要な装備は一通り揃えた。長い黒髪も適当に切り落として短くしてしまった。
しかし、エレノアには隠し切れないヒロイン補正の美貌がある。誤魔化しても限界があるだろうと悩んでいたところ、ノアが「ちちんぷいぷい!」と認識阻害の魔法を掛けてくれたのだ。
それはエレノアが『男』に見える魔法である。ついでに瞳の色もノアと同じ緑色に変えてくれたそうだ。だから親戚という設定も付け加えたのだった。
「ノア……私、聞いてないんですけど……」
「何がじゃ?」
「いやいや、あんなに有名人なら先に言っておいてよ! ノアと親戚って目立つじゃんか!」
そう、ノアの親戚発言からとんでもないほど注目を受けてしまったのだ。認識阻害魔法が掛けられているとはいえ、安心などできるはずもない。必死にフードを両手で押さえてノアの後ろに隠れるしかなかった。
「それは仕方なかろう。なに、奴らも物珍しいだけじゃよ。すぐ落ち着くわい」
ノアは自分のギルドカードを取り出して笑った。指の間に挟んだカードに彼の魔力が走る。その魔力が何も書かれていなかった表面を削るようにして文字を浮かび上がらせた。
そこには所属ギルド《ギルグランヴェル》としっかりと刻まれていた。
同じ文字が刻まれたカードを両手で抱え、エレノアは首を傾げる。
「ギルドの名前考えるの面倒だったから助かったけど……ノアの世界の名前なんでしょ? これにした意味って何かあるの?」
ゲームでもギルドには自由に名前をつけられた。しかし、ネームセンスがなかったため、デフォルトの名前でプレイしていた記憶がある。そのデフォルト名にしてしまおうかとも迷ったが、できる限りゲームの設定からは離れるべきだと判断してやめたのだ。
そうして悩んでいたところ、ノアが《ギルグランヴェル》を提案してきたというわけだった。
ノアは近くの草花に目をくれながらゆっくりと頷く。
「厄除けみたいなもんじゃな。他の神の祝福は剥がせんが、それはそうとして少しでも効果を阻む意味合いがあるんじゃ。つまり、ワシの力でおぬしを囲ってしまうってやつじゃな!」
「言い方」
何となく自分の身を守るように腕を抱けば、ノアが頬を膨らませた。
「人を変質者みたいに扱うんじゃないわい! まったく、こっちは善意でやっとるんじゃよ?」
「善意だからってすべての行為が許されるわけじゃないんで……。えーと、つまり……ノアに関連するもので私の周りを固めて《名も無き女神》の力を薄めよう……みたいな意味合いで合ってる?」
「うむ、そんなもんじゃ」
ノアは人差し指を立て、先端に淡く魔力を集め始める。金色を纏う魔力はゆらゆらと揺れて光の軌跡で円を生み出した。
「神とはいえ、あらゆる場所で無条件に全能でいられるわけではない。力を発揮できるのは大抵が己の陣地内じゃ。だからワシにとって異世界であるこの場所では本来の力はほぼ使えぬ。ゆえに何かしら縁を繋いで簡易的な境界を作る必要があるわけじゃな。まあ、神として弱くなっても人間より強いことに変わりはないがのう!」
ホッホホ、と笑うノアにエレノアは眉間に皴を寄せた。そうやって人間の中に溶け込み、ちょっとした超人プレイを楽しんでいたらしい。なんとも子供っぽい神だと若干呆れた。
「これでおぬしがワシのことを信仰してくれれば更に阻害が強固になるんじゃがの~」
「悪いけど無神論者なんだよね」
「ばっさりじゃな! これだから元日本人は!」
「何で日本人ってわかるの……」
「勘じゃッ!」
何故か決め顔で言われれば頷くしかない。
腐っても神というところだろうか。彼も本来の世界で異世界の魂を転生させたことがあると言っていた。それも関係しているのかもしれない。
「さて、お喋りはここまでにしておこう。採取する薬草はわかっとるのか?」
「あ、うん。ゲームでもよく採ってたからね」
初仕事として選んだのはポーションの原料になる薬草の採取だ。ゲームの中でも基本的な依頼として存在していた。
「青い花弁で葉っぱの形がハートみたいになってるから、見ればすぐわかるはず」
「そうかそうか。ならばひとりでできるな? その間にワシは狩りでも行ってくるわ」
「狩り?」
ノアはエレノアに向けてピースする。
「ギルド設立記念じゃ! ここらは獣もよう出るからのう。美味い肉を獲ってきてやろう」
「お肉!」
それは素直に嬉しい。解体は《アイコン》に持って行けばやってくれるだろう。ニコニコし始めたエレノアを見て、ノアが目を丸くさせた。
「なんじゃ、おぬしは肉が好きか」
「好き! 大好き! こっちの世界のお肉って色々あって美味しいしさ~!」
エレノアとしてエバンス家では様々な料理を口にした。一般的な牛から魔物の肉まで幅広く食材は扱われている。その中でも魔牛の肉がエレノアの好物であった。
目をキラキラさせて語っていれば、ノアの口元が柔らかく緩んだ。
「育ち盛りじゃしな、良いことじゃ! たくさん獲ってきてやるから待っておるんじゃよ~!」
「あっ、ちょっと待って。別行動するならこれあげる」
「ふむ? なんじゃこれ?」
「お弁当!」
ノアに渡したのは宿屋で用意してきた食事だった。依頼をこなしている最中に小腹が空いたら困ると考え、作ってきていたのだ。
「簡単なバケットサンドだけどさ、良ければ食べてよ。採取中にお昼は過ぎちゃうと思うからさ」
これでも元は乙女ゲームのヒロインである。料理の腕前はなかなかなのだ。自分で食べてみて美味しかったことを思い出し、胸を張って差し出した。
ノアは包みの上から鼻を近づけて、すんすん、と匂いを嗅ぐ。そしてすぐに眉を下げて首を振った。
「すまぬ。気持ちだけは頂いておこう。ワシには食えぬ」
「えっ、何か食べられない物でも入ってた? てか、匂いだけでわかるもんなの……?」
犬みたいだ、と若干引いていればノアは「こらっ」と声を荒げた。
「そうじゃないわい! ああもう……おぬしには少しばかりしんどい現実を告げねばならぬな」
あまりに真剣な様子で言うため、エレノアも流石に身構えてしまった。
「な、なに……? どうしたの……?」
エレノアの問い掛けに、ノアは昼食の入った包みを目線の高さに掲げてから指を差した。
「…………これ、ごっつい洗脳魔法掛かっとるぞ」
「はぁッ!?」
裏返った声が出た。慌ててノアから包みを奪い返し、何度もひっくり返して確認するが何もわからない。
「ちょ、ちょっと、どういう意味!?」
「うーん……可哀想な体質じゃのう」
「ひとりで納得してないで!? え!? なに!? 体質!?」
心底憐れむ声だった。狼狽えるエレノアの肩をノアは優しく叩く。
「おぬしの魔力なんじゃが……食物に良く溶けやすいみたいじゃな。しかも魔力そのものに己に従わせる洗脳の性質が出ておる」
「ひぇ」
「生まれながらの支配者といったところか。別にワシは食べても支障はないじゃろうが、そういう魔力の味はちょっと苦手でのう」
ノアの言葉の後半はあまり聞こえていなかった。衝撃的な暴露にエレノアは震える。
つまり、ゲーム内で攻略対象に渡していたお菓子やお弁当で洗脳度が上がる理由がこれなのだろう。プレイヤー時代は、てっきり食事に薬を混ぜているのだと思い込んでいた。まさか『エレノア』の魔力そのものに洗脳成分があるとは考えもしなったのだ。
エレノアは膝から崩れ落ち、地面に両手をつく。傍らに転がった昼食の包みを気にする余裕はない。
「生まれつきの女神の謎祝福に……洗脳向きの魔力があるとか何……? 悪役スターターセットかよ……」
「まあまあそう気を落とすな。そのうちに何か合法的な使い道もあるじゃろ」
「洗脳が合法になる日なんか来るわけないでしょうが!!」
頭を抱えて叫んだ。しゃがみ込んだノアに優しく背を撫でられるが、そんなもので慰められるショックではない。
ゲームではそういうシステムとはいえ、ずっと攻略対象に食べさせ続けていたわけだ。
もし昨日、入学する道を選んでいたら攻略を放棄しても、確実に周囲に影響を及ぼしていただろう。やはり学園の入学そのものを諦めて良かったと実感する。
「ああもう……自分が食べても影響はないもんね。いいよ、私が食べるから……」
「すまんのう」
落とした包みを拾い、土埃を払う。少しばかり視界が滲んでいるのは気づかないふりをした。
ノアはわざとらしいほど明るく笑う。
「では、ワシは狩りに行くとするか。おぬしも気を付けるんじゃぞ」
「子供でもできるおつかいみたいなもんだから大丈夫だよ」
ひらひらと手を振って答える。それに納得したのだろう。ノアは道を逸れて森の中へ飛び込んでいった。
「あ、あんまり沢山は……ってもういないや」
草木を掻き分ける音はあっという間に遠ざかり、聞こえなくなってしまった。あの張り切りようでは、どれだけ獲物を持ってくるかわからない。
「ま、いいか」
食べきれない量を持ってきたとしても保存するか、売り払ってしまうかすれば良い。昨日、制服を売った時に得た金銭がそれなりに残っているが、活動資金は多いに越したことはないのだ。
「よし、私は初依頼! 調合もしてみたいんだよねぇ」
気を取り直してひとりで頷いた。
ギルドには薬師として登録したのは『エレノア』のおかげでもある。元々、洗脳薬や毒薬作りを得意とするヒロインなのだ。能力として薬師に向いているのは当たり前である。得意になった理由が酷いことには目を瞑っておく。
(ポーションとか色々薬が作れるならそれを売ってお金の足しにもできるし……うんうん、のんびり生活できそう)
別に戦うだけがギルドの役割ではない。作った物を細々と売ってスローライフ、というのは理想だろう。
「確かゲームだと癒しの薬草は日当たりの良い場所に生えて……ん?」
妙なことに気づいた。地面に落ちた影が己の体よりもずいぶんと大きいのだ。後ろに背の高い木でもあるかと一瞬考え、エレノアは固まった。
グルルルルッ――低い唸り声が響く。鼓膜を震わせるそれに汗が一気に噴き出した。
(いや……いやいやいや、まさか、まさか、ね?)
油の切れた絡繰りのようにぎこちない動きでエレノアは振り返った。そして、己を見下ろす鋭い眼光に気を失い掛ける。
「グルルルルルァッ――――!!」
「いやぁ――――ッ!? ビッグベア――――ッ!?」
己の三倍以上の体格がある魔物とのエンカウント。腹の底から響き渡った悲鳴は残念ながら、誰にも届くことはなかった。