02自称する男
「ギルド作って生計を立てよう!」
それしかないと、人気のない路地裏でエレノアはひとりで頷く。
『ラスレボ』のプロローグから逃げ出し、ヒロイン『エレノア・エバンス』を辞めることを決めてから半刻は経っていた。きっと入学式自体は既に始まっているはずである。自身の不在がどれほど響くかはまだわからないが、今のところ街中で生徒を捜索しているような気配はない。
(善は急げってね)
この世界に悪役ヒロインは不要だ。普通のゲームならば主人公がいたから誰かが助かった、という話になるだろう。しかし、ラスレボはその逆である。エレノアがいるからこそ不幸になる人間が存在してしまうのだ。
学園のエンブレムが目立つ制服のジャケットは脱ぎ、ひとまず裏返して小脇に抱えていた。ジャケットさえ脱げばシャツとスカートのシンプルな恰好だが、学園の生徒だとすぐにわかる者もいるはずだ。今後のことを考えると早々に次の行動に移さねばならない。
もはや男爵家の養子という地位にも興味はない。養父は商売で大成功した成金で、とにかく金がある。今まで通りの生活ができるのであれば人生自体はイージーモードだろう。だが、どんなに品行方正を心掛けたとしてもラスレボのヒロインである限り、周囲に対して何かしら望まぬ影響を与える可能性がある。何故ならあのラスレボだ。とにかく人の心を折ることに心血を注いだようなストーリーが売りのラスレボだ。甘い考えは捨てるべきである。ならばさっさと別人として人生を変えてしまったほうが良い。これは己のためでもあった。
(ここまで育てて貰った恩はあるけど、だからこそ挨拶もせずに去る親不孝をお許しください……!)
胸の前で手を組んで軽く祈るように胸中で呟く。
これで義姉はエレノアの苛めから脱し、エバンス男爵家には平和が訪れるはずだ。行方不明になる養子のことは早々に忘れて貰って構わない。
別人に成るということは普通なら簡単にいかないだろう。だが、ここは世界観的に身分証明など若干曖昧な部分がある。
ギルドを設立して日々様々な依頼を受けている者には、特に出身地不明が多い。傭兵ギルド、商人ギルド、何でもこなす便利屋ギルド等々――そこには自由に生きる者たちが集まっているのだ。ならばエレノアもそこに紛れてしまうのが一番楽で安全だ。
(ラスレボもゲーム内の戦闘パートで手に入った素材は換金もできたし、装備さえ整えば……)
ならば行き先は決まっている。ここがラスレボの世界ならば、あの店も存在するはずなのだ。
「よし、行きますか! ――《小鬼の小袋》に!」
その声が興奮で僅かに上擦ったことには気づかないふりをした。
§
「で? なにを売りたいってェ?」
低いのに高くも聞こえる不思議なしゃがれた声にエレノアは唾を飲み込む。
エレノアの前にいるのは古ぼけたカウンターに肘を掛けた小柄な人物だ。フードを深く被った彼――店主の顔は見えない。それでも煙管から美味そうに煙を吸っていることだけはわかる。
(ほ、本物の店主だ~! ちっちゃい~!)
興奮で頬や目頭が熱くなる。
カウンターからちょこんと見える程度の背の高さも、語尾が持ち上がるような喋り方も、ゲームの中で見知っていたままだ。一応はこのゲームをやり込んでいたのだから、ゲーム内のキャラや設定に愛着はある。
《小鬼の小袋》は正式な許可を得て営業をしていない、いわゆる非合法なショップだった。表の店では売れないような違法な物品の売買が行える場所である。そしてラスレボにとってはゲーム内のメインショップというわけだ。どう考えても乙女ゲームのメインショップの名前ではないことはこの際気にしてはいけない。
(しかし、『エレノア』の知識の中にこの店の場所が記憶されていたのは流石……ゲームだと最初から利用できるもんね)
路地裏から入れる下水の通路の途中に、この店の入り口は巧妙に隠されていた。
そもそも、店としての在り方ゆえに一般人が知るはずもない存在なのだ。だが、人道を外れた所業を行う予定の『エレノア』が知らないはずがない。情報元はエバンス男爵家に出入りしていた商人の助手だった記憶がある。男だったから情報を引き出すのは容易かった。
(我ながら恐ろしい女だわ……)
記憶だけをそのままに人格だけが切り替わった感覚は奇妙なものである。いつしかこの違和感にも慣れてしまうのだろう。それがまた不思議に感じられる。
(でも、そのおかげで人を不幸にせずに済むと思えば)
ひとまず気を取り直して周囲を見回した。
店内はカウンターと同じくらい古い棚や机が詰め込まれ、何だかわからない物が所狭しに並んでいる。魔石や本、魔具、角の生えた異形の頭のミイラなど様々だ。その全てが商品であることを知っていた。
エレノアはちらりと横を見た。本来なら壁が存在している場所には大きなガラスが嵌め込まれ、水に満たされている。店のすぐ外で時折奇妙な生き物が泳いでいるのを見て、少しばかり身を震わせた。
「……お嬢ちゃん、冷やかしならお断りだよォ」
「え、あ、すみません……! その、珍しくって……」
はは、と乾いた笑いで誤魔化す。店主は溜息のように煙を吐いてから肩を竦めた。
「どうやってここに辿り着いたかは知らんけどね……。まあ、客なら良いんだよ、客ならァ」
言外に金さえ払えば構わないということを知らされる。エレノアはもう一度乾いた笑いを浮かべると、小脇に抱えていた物をカウンターに置いた。
「うん?」
「……学園の制服です。勿論、今着ている一式を全部売ります。それで代わりの服が欲しいんですけど……」
店主は煙管を咥えこんでからエレノアが差し出した制服のジャケットに両手で触れる。
「ふうん、新品だねェ。……普通の古着屋なら憲兵を呼ばれてるところさねェ」
「あはは……」
だからこそ《小鬼の小袋》に持ち込んだのだ。学園の制服には生徒のために微弱な防魔魔法が使われている。素材も魔物から採取した一級品という設定だったはずだ。
通常、制服の売買は禁止されている。本来は入学者以外には買えない代物なのだ。だから店主の言う通り、表の店で売れば影で憲兵を呼ばれて事情聴取コース直行だろう。
「服はそこらから適当に選びなァ」
鋭い爪が生えた指が店内の角を示す。種類はそう多くないが衣類が置かれた棚がある。
(ゲームでも装備品を買ってたなあ)
そういえばパーティーなどに着ていくドレスもここで揃えていた。今思えば可笑しなものだ。ゲームの都合というものだろう。
(……戦うことになる、んだよね)
この世界で手っ取り早く稼ぐのはギルドに所属し、依頼をこなしていくことだ。魔物と戦うことも多く、命の危険は高い。
ギルドで生計を立てると決めたのは自分だが、流石に怖気づく気持ちもある。同時に魔法や武器を早く使ってみたい憧れじみた感情も滲んだ。
はっ、と気づいてエレノアは首を振る。
(まずはすごく地道な仕事からこなさないと! 薬草探しとか、それこそどぶさらいとか……!)
己の力量もわからないのに突然魔物と戦うなんてことは無謀だ。今のエレノアは『レベル1』なのだから。やれることから体を慣らしていかねばならないだろう。
一通り見てから選んだ服はフード付きの軽装だ。肘などの一部分が革で補強されている。黒いズボンとブーツも手に取ってから防具に視線を彷徨わせた。
「防具も欲しいのかい。胸当てくらいならおまけしてやるよォ」
「えっ、いいんですか!? ヤッター! ありがとうございます!」
「変わったもん売ってもらったからねェ。これ欲しがる奴はそれなりにいるもんさァ、クッフフ」
女子生徒の制服をどうするつもりだ、とは問い掛けない。どの世界にも色んな趣味を持つ人間がいるのだろう。売った本人に文句を言う筋合いはない。
着替えの一式を両腕に抱え、エレノアはカウンターに戻ってくる。
「すみません、ついでにハサミも貸してもらえませんか?」
店主はぷかりと煙草の煙を吐き出す。唯一見える口元は愉快そうに歪んでいた。
カウンターの下から切れ味の良さそうなハサミを取り出し、ごとりと置く。そして彼はそのままカウンターの奥にある古びた扉を指差した。
「制服貰うついでだ。着替える時に一緒に切っちまいな。ああ、その綺麗な髪を切るつもりなら買ってやるよォ」
「え、マジすか」
どうして髪を切ろうとしていることがわかったのか、とも思ったがエレノアの行動の節々から感じ取ったのだろう。鋭い男である。
エレノアは片手で自分の長い黒髪のひと房を軽く摘まんだ。
少しでも金は欲しい。髪が売れるのならありがたいくらいである。しかし懸念もあった。
「あ、あの……できれば呪いとかには使わない方向で……」
「ヒヒッ、なぁに、あんたは上客になりそうだ。悪いようにゃしねえさァ」
「それなら……」
できるだけこの店の利用回数を増やそうと決める。良い客だと思われることは身を護ることに繋がるはずだ。どちらにせよ、普段の物品の売買もこの店で行うつもりでいた。
エレノアが店の奥へ足を進めようとした時、店の入り口が開いた。
「いらっしゃい」
壊れかけのベルが遅れて鳴る。エレノアは店主の声に釣られ、思わず振り返ってしまった。そして、目を見開く。
「ひぇ……」
そこにいたのはひとりの若い男だった。歳は二十代半ば程度だろうか。
彼が歩くたび、濡れたように黒い髪が揺れる。その黒い髪の隙間から吸い込まれそうなほど深い緑の瞳が覗いていた。陶器に似た白い肌は、それでも人としての熱を確かに持っている。
腰には細身の剣を提げていた。その剣は柄も鞘も漆黒のため、注視せねば気づかなかっただろう。
(冒険者、かな)
黒いローブと鎧を組み合わせた格好は旅人の装備とは思えない。鎧にも細かな傷が見える。店の奥に行くのも忘れ、エレノアは男を眺め続けた。突然の来店者に驚いたこともあったが、純粋に男から目が離せなかったのだ。
(この世界ってモブにもこんなとんでもねえイケメンいるんだ……)
とにかく顔がすこぶる良かったのだ。乙女ゲームのパッケージをメインで飾っていても違和感はない。
ゆったりと歩いていた彼がカウンターに辿り着けば、その横顔を更に近くで眺めることができた。長い睫毛のせいで彼が目を伏せると影ができそうなくらいだ。彫刻家が心血を注いで作り出した美の化身の彫像と言われてもエレノアは信じただろう。
ふと、男が顔をエレノアに向けた。不躾にぶつけていた視線に気づいたのだろう。自身を見る緑の視線に心臓が跳ねる。まるで全てを見透かされそうな瞳に喉が鳴った。
(ちょ、ま、そんな見つめないで……! い、いや、ちょぉっとやぶさかではないこともないけど……ッ)
逆上せた思考回路が馬鹿なことをほざく。そうやって内心あたふたとしていても体は動かない。エレノアもまた、彼の視線と己の視線を交らわせた。その瞬間、緑の瞳が大きく見開かれる。
「なんじゃ、なんじゃ、このまっくろくろすけは」
「――は?」
彼の口から零れた声は素っ頓狂な響きを纏っていた。想像していた男らしさや、色気もない。「まっくろくろすけは貴方ですが?」と告げる間もなく、彼はエレノアの顔をじろじろと覗き込んでくる。
「ほほぉ? これは……とんっっっでもない祝福を受けておるのう。いやはや、ここまでくればもはや呪いか? おぬし、よくもまあその歳まで生きてこられたものじゃな……」
好き勝手喋っていた男は何故か涙ぐみ、取り出したハンカチでわざとらしく目尻を拭う。そして懐を漁ったかと思えば、すぐにエレノアの手を優しく取った。
「気を落とすではないぞ、生きていればきっと良いことも起こるじゃろうて。ほれ、飴ちゃん舐めるか?」
「あ、ありがとうございます?」
手の平にころりと転がされた飴に対し、反射的に礼を言う。飴玉の包装には『マンドラゴラ味』と記されていた。
毒気を抜かれた気持ちでぼんやりと飴玉を眺めていると、やっと今の状況に対する理解が追い付いてくる。
「……って、え?」
「うん?」
「え、え? あの…………の、呪い、って……?」
聞き間違いでなければ男はエレノアが呪われていると言ったはずだ。だいぶ聞き捨てならない話である。引き攣ったエレノアの顔を見て、男は「お?」と首を傾げた。
「もしやおぬし、気づいておらんかったのか?」
男は逆に驚いた様子で返す。エレノアはサアと血の気が引くのを感じた。
「え、いや、ちょっと、待ってください……その、私、え? え、呪われてるんですか!?」
「うむ!」
百点満点の笑顔と力強い返事。向けられたサムズアップに頭が痛くなってくる。
(の、呪い……!? どういうこと!?)
どんな呪いかは知らないが、日々の生活の中でそんな自覚はなかった。だが、悪質な冗談にしては男の言葉は自信に溢れていて、どうにも否定できる気がしない。
「そんな元気良く肯定しないでくださいよ!? ガチ!? 私まだ何も悪いことしていませんけど!?」
「まるでこれから悪いことするつもりみたいな台詞じゃな~」
「しないためにここにいるんですよ!!」
そこで、ハッ、と気づく。エレノアとしては既にエバンス邸でメイドや義姉のいじめに励んでいる。裏で遊んで捨てた男も複数人。よくよく考えれば呪われていてもおかしくはない身の上である。
再出発を決めた途端にこの仕打ちだ。この世は自分に甘くないらしい。だからといってくじけてはいられないのだ。
「解呪! 解呪方法教えてください! お願いします!」
「無理じゃな。ワシの手には負えんわ」
「無情ッ!!」
即刻折られた希望に思わず男の胸倉を掴んでがくがくと揺らす。黒い髪を振り乱しながら前後に頭が動いても、男は朗らかに笑うだけだ。
「まあまあ、そう気を落とすでない。あ、店主、前に頼んでおいたものは入荷しとるかのう?」
「《ケルベロスの髭》に《ヒュドラの吐息》だねェ。お前さんなら自分で獲って来れるだろォ?」
「なに、《黒の国》は散歩にはちと遠くてな。ジジイにはもう辛い」
「無視しないでくださいます!?」
大声を出し過ぎて、ぜえはあ、と肩で息をする。
男は構うことなくのんびりと店主に金を支払い、受け取った物騒な素材を腰のポーチにしまう。そしてやっとエレノアを再び見た。
「話をしてやっても構わんが……おぬし、随分と訳ありみたいじゃな」
「う……」
思わずたじろぐ。今のエレノアは無断で学園から抜け出してきた男爵令嬢だ。場合によっては金になる自覚はあった。
男は少しエレノアを眺めてから、ふ、と笑う。
「そう緊張するな。取って食うような真似はせんよ。……ほれ、とっとと着替えてしまえ」
「え?」
ぱちんっ、と指が鳴らされる。同時に魔力が渦巻く気配がしたかと思えば、一瞬、目の前が眩くなった。驚いて目蓋を硬く閉じ、自分を庇うように両手を顔の前に翳す。
しかし、何も起きない。おそるおそる目を開き、手を下げた。
「……あれ? え?」
気づくと服装が変わっていた。先ほどまで腕に抱えていた着替えの一式が過不足なく、エレノアの身を包み上げている。着ていたはずの制服はカウンターの上で綺麗に畳まれていた。
「え、え、ええええええっ!?」
両腕を広げてくるくるとその場で回る。着替えたという認識もない。魔法で服を着替える方法は確かにある。だからとはいえ、こうも簡単に行ってしまった男の魔法の技量に驚かされた。
しかし、驚いているのはエレノアだけらしい。店主は気にした様子もなく、エレノアの制服を大きな袋にしまいこんでいる。
「ほれ、お嬢ちゃん。釣りとっときなァ」
「あ、は、はい」
ジャラと音を立てて小袋がカウンターに置かれる。釣りにしては決して小さくない額だろう。呆然とそれを受け取ってから、傍らに立つ男をエレノアは見上げた。
「……あの、貴方は何者なんですか……?」
店主とのやり取りから見るに《小鬼の小袋》の常連だ。その時点でだいぶ怪しい人物ではある。その上、人離れした美貌と、一目で呪いを看破するような魔法の熟練度。ゲームの中に出てこなかったことが不思議なくらい濃い人間だ。
エレノアの問い掛けに緑色の瞳が瞬いた。そうしてすぐ、にこり、と人好きしそうな笑みを浮かべる。
「ワシはノア!」
落ち着いた優しい声がエレノアの鼓膜を揺らした。
そうして腰に両手を当てた男――ノアは得意げに言い放つ。
「――そして《神様》じゃ! 崇め奉っても構わんぞ!」
あ、とんでもねー奴に声を掛けちまったな。と、エレノアは心の底から強くそう思った。
『ラブレス・レボリューション』設定資料集ネタ
★《小鬼の小袋》
路地裏の下水路から行ける非合法なショップ。店主はゴブリンという噂があるが、いまだそのフードの下は謎のままである。
壁は全面ガラス張りになっており、外には巨大な海の魔物が多く泳いでいるが見える。店主曰く観賞用とのことだが実際はショップに危機が迫った際、ガラスを割って店を水没させてから逃げるためらしい。