01脱ヒロイン
「――大罪人エレノア・エバンス、何か言い残すことはあるか?」
酷く冷えた声だった。感情も温度も一切感じさせない、人間味のない機械的な言葉。
断頭台に固定された首と腕ではろくに相手の顔を見ることもままならない。そもそも相手は頭を無機質な白い兜で覆ってしまっていた。しかし、それでもきっと無表情で自分を見下ろしているのだと確信できる。
(なんでこうなった?)
疲れた頭ではまともな思考が働かない。こうならないために人生を変えたつもりだった。平穏からは程遠い物であったとしても、それなりな日々を送っていたはずだ。
(なのに、なんで――)
――『処刑エンド』を迎えているのか。
ぼやけそうになる目を瞬かせ、なんとか視線だけを上へ向ける。視線の先にいるのは純白の鎧に身を包んだ人物だ。頭まで兜に覆われており、やはり顔はわからない。両手で支えた銀の長剣を体の前に立たせ、静かにこちらの言葉を待っている。
笑いたくなってきた。実際、口から笑い声が漏れる。
「この状況下で笑えるとは……流石稀代の〝悪女〟だ」
兜に遮られて籠った声だった。
「……悪女、ですって……?」
聞き捨てならない言葉である。今度は怒りが湧いてくる。人がどれだけ苦労して生きてきたのか、相手は全く知らないらしい。それは当然だと理解しつつ、釈然としないのも事実。
怒りでぶるぶると拳が震えた。自分を尊重しない相手に我慢するのも馬鹿馬鹿しい。何よりこの状況に一番憤りを覚えているのは間違いなく――自分だ。
ぎりっと歯を食いしばってから息を吸い込む。そして、曇天に向けて腹の底から叫び出した。
「――だから私、ヒロインは嫌だって言ったでしょうがよぉぉぉぉぉぉッ!!」
エレノア・エバンス――国家転覆を謀ったとされる、まだ十代の少女。もしかしたら本当にそうなっていたのかもしれない。
しかし、たった今処刑されそうになっているエレノアは違う。聖女を死に追い詰めてもおらず、幼馴染を想う少女の心も壊してもおらず、義姉の人生を破滅に追いやってもいない。魔王を唆して国の乗っ取りなどもってのほかだ。
脳内を駆け巡っていくのは、死の間際に見る走馬灯にも似た記憶の群れだった。
それは、この『ゲーム』のプロローグから狂い始めた『ヒロイン』の物語である。
§
――誰よりも輝かしい未来を歩むつもりだった。
何もかもこの手に収めるつもりだった。
全てを捻じ伏せ、己こそが唯一絶対であると知らしめるつもりだった。
それはいつしか心の中に芽生えていた〝欲望〟であり、疑う余地もない〝己の願い〟だった。
今、この瞬間を迎えるまでは。
薄桃色の花弁が散る晴天の下、純白の鐘がガラァンと大きな音を立てた。
――あれ? ここって『ラスレボ』の世界じゃん?
〝彼女〟の中で唐突にそんな間抜けた考えが弾けたのは、城と見紛う立派な学園を見上げた時だった。
身分関係なく、実力さえあれば通うことができる王国一の魔法学園。ずっと入学する日を夢見ていた。今日がその念願の入学式当日だったのだ。これからの人生の足掛かりにするため、どうしても通う必要があった。
だが、今の己の胸中に浮かぶ感情は期待ではない。強い困惑と驚愕だ。学園を囲う純白の壁と、茨を模した彫刻が施された特徴的な校門は見覚えがある。ゲームを立ち上げるたび、ホーム画面で必ず目にしていたものだ。
思わず周囲を見渡した。近くにいるのは見覚えのある制服を身に纏った、年若い少年少女たちだ。彼らはどこか浮ついた様子で歩みを進めている。荘厳な装飾が施された校門を潜り抜けていった彼らを呆然と見送った。そんな彼らを祝福するが如く、頭上からは淡い桃色の花弁が舞い降りてきている。
心臓が大きく脈打つ。
震える手で己のポケットに手を差し込む。折り畳み式の鏡を取り出し、大きく深呼吸をした。ぱかりと開いた鏡を覗き込み、そこへ映り込んだ絶世の美少女と目があった。
艶やかな長い黒髪に、深みのある黒瑪瑙のような目。肌は白く、頬はほんのりと赤く色づいていた。紅も付けていないというのに鮮やかな色をした唇はとても愛らしい。
完璧と呼んでも良い美少女だ。
「あは」
引き攣った笑いが漏れる。
知っている顔なのは当たり前だ。毎朝欠かさず眺めている顔である。この美貌こそが己の武器であると、磨き続けてきたものに違いない。
だというのに、今は酷い衝撃を与えるものでしかなかった。何故なら絶対にそうであって欲しくなかったからだ。
手に込め過ぎた力のせいで、ぱきん、と鏡にひびが入った。
「ッ――よりにもよって『ラスレボ』のヒロインかよ……!!」
抑えきれない叫びは、悲痛さを伴って辺りに響き渡っていった。
§
エレノア・エバンス、十六歳。金を欲した実の親に幼児趣味の変態へ売られそうになり、必死に逃げ出して孤児になったのが十年前のことだ。
親元から脱した後は浮浪者に混じってゴミを漁る底辺生活を送っていた。だがそんな人生も運良くエバンス男爵家に養子として拾われて一変した。
優しく甘い養父。柔らかく清潔な寝床と温かな食事。自分だけの玩具と華やかなドレス。自分の命令を聞く従者たち。養子として与えられた〝特権〟に執着するのは、あまりに早かった。それからというもの、再びあの孤児生活に戻らないように自分の地位を守り続けてきたのだ。
だが、エレノアは様々な贅沢を覚える内に男爵家の娘程度では満足できなくなっていた。
もっと素敵なドレスが着たい。もっと美味しい物が食べたい。もっと愛されたい――膨れ上がる欲望に終わりはない。
だからエレノアはこれからの人生を自ら切り開くことを決めた。誰からも奪われないように、絶対的な地位と力を手に入れるのだと。そのために手段を選ぶつもりもなかった。自分の行動によって他の誰かが不幸になっても構わない。必要なのは自分自身の幸福のみだ。
むしろ、他人の不幸は安堵すらする。誰かが苦しむ分だけ、己が幸せになれる可能性が増すのだから――。
(――なんて、馬鹿みたいなことを本気で考えていたとか……!)
サア、と血の気が引いていく頭を両手で抱えた。ほんの数分前の思考がもはや遠い過去のように感じられる。
どういうわけか突如脳内にフラッシュバックした記憶は『エレノア』の物ではない。間違いなく、他の誰かの人生の記録だった。この世界よりも科学の方面が発達した異国の地に暮らしてした女性の人生である。彼女は娯楽を好み、ゲームなる物をこよなく愛していた。そして彼女が遊んでいた、数多いゲームの内のひとつの記憶がエレノアの精神を苛んでいる。
(〝私〟がゲームの主人公、だったなんて……)
ふふ、とうつろな笑いが漏れた。眩暈がする。誰かに漏らせば頭の心配をされるような話だった。
『ラブレス・レボリューション』――通称『ラスレボ』。発売当時、巷では異色の乙女ゲームとして騒がれていた。
世界観自体はよくある剣と魔法の世界だ。妖精やら魔物やらも存在しており、それらがストーリーに絡んでくることもままあった。
主人公の『エレノア・エバンス』はゲーム上にて、類まれなる美貌と様々な手段を用いて攻略対象を篭絡していくのだ。
それだけならまだ普通の乙女ゲームだっただろう。しかし、ラスレボはただの恋愛シミュレーションではない。いわゆる、成り上がり要素がメインだったのだ。
エレノアが貪欲な野心を燃やし、男を魅了し、ライバルを蹴落とし、最終的に国の頂点に至ることを目的とするゲームである。そのために手段は選ばないのだ。
このゲームに『好感度』や『親愛度』などといった温かな物は存在しない。攻略対象に好意をコントロールする魔法やアイテムを使用して『洗脳度』を上げていくことでルートを解放する。平行して邪魔なライバルを失脚させるため、毒を盛ったり周囲のモブを扇動したりして追い詰めていくシステムだ。
そう、エレノア・エバンスとはそもそも下衆で醜い性格をした主人公なのである。そういうコンセプトのゲームとはいえ、作中の極悪非道な行いに対して擁護が一切できない存在だ。
おかげでプレイヤーの間で『人間調教師』『クズノア・エバカス』『お前がラスボス』など言われ放題だった。
自分が今、その最低最悪なヒロインなのだという現実に心が打ちのめされる。
(ひ、人として終わってる……詰んだ……)
自分は間違いなくエレノアとしてこの世に生を受けた。死にそうなほどの飢えを覚えてゴミを漁ったことも、誰よりも幸せになりたいと苛烈に願ったことも覚えている。しかし、何故か蘇った別の人物の記憶に人格や精神が引きずられているらしい。ゲームクリアのため、非道な選択肢を選びはしたものの感性次第は真っ当な一般人のそれだ。だからこそ、これから行おうとしていたことや、今まで生きてきた中で行った悪行を思い返して吐き気がした。
(む、無理無理無理! どうしたらあんな可愛らしくて優しい女の子たちを排除できるっていうの!? 攻略キャラの人生も人格もめっちゃくちゃにぶっ壊すし! いや、私もゲームの中では手を下しましたけど!? だからといって〝現実〟で犯罪に手を染めるつもりはないんですよ!?)
キリキリと胃が痛む気がしてきた。
気に入らないメイドを追い出すため、養父を泣き落すのは日常茶飯事。それどころかエバンス家の実子である娘――エレノアにとっては義姉にあたる――の立場を奪うように養父の愛を独り占めする始末だ。他にも日々やらかしている。
そしてゲームではそんなことが可愛らしいと思えるくらいの所業に手を染めるのだが。
(落ち着け……落ち着くのよ、エレノア……)
この状況自体が夢という可能性も僅かに残っているが、夢にしては五感がしっかりしすぎていた。叫んだ後に百面相しているエレノアを不審そうに眺める通行人の視線も痛い。こうなった理由について考えたところで答えは得られなかった。だらだらと嫌な汗が流れる。
痛む頭を押さえ、ふらりと歩く。学園を囲う壁に手を置いて思考を整理しようとした。
しかし、それよりも先に声が掛けられる。
「おい、キミ。顔色が悪いぜ……?」
挙動不審なエレノアを見かねた生徒の誰かだろう。何処かで聞いたことがある気もするが、自身に向けられた親切な気持ちが素直に嬉しい。心配が滲んだ言葉に、エレノアは反射的に顔を上げた。
「あ、ああ……おかまいな――くゥッ!?」
「うぉっ!?」
裏返ったエレノアの声に少年も悲鳴を上げて後ずさった。短い尻尾のように編み込まれた金髪が跳ねる。空のように青い瞳をぱちくりさせ、エレノアのことを凝視していた。
だが、そんなことはもはやどうでも良い。
(なっんで『ロルフ』がこんなところで声を掛けてくんの!?)
不安げに眉間にしわを寄せている少年にエレノアは顔を引き攣らせた。
『ロルフ・ミッドフォード』、ラスレボの登場人物にして攻略対象のひとりである。騎士団長の父に憧れ、自分自身も騎士を目指している活発な性格の少年だ。学園に通っている間は、この国の第一王子の護衛も兼ねた学友として過ごしている。新入生のエレノアから見ればひとつ上の先輩でもあった。
(え、攻略キャラとの遭遇イベは入学式の後だったよね……?)
だが、こうして入学式どころか学園の外で話しかけられてしまった。もしかしたらずっと校門の前で道草を食っていたせいで、タイミングがずれたのかもしれない。思わず唾を飲み込んだ。
エレノアはまじまじと彼の顔を見つめる。ゲームとして画面の中にいたキャラクターそのものだ。わかっていたというのに、本当にこの世界が『ラブレス・レボリューション』であるのだと強く意識せざるを得ない。
(うわー、とんでもなく顔が良い。やばい)
傾向としてはカッコいい系の少年だ。性格の明るさも手伝って太陽のようなイメージが強い。実際、若干のお気楽さを伴った気の良い子なのだ。だからこそロルフルートに入った時の落差が酷い。
(エレノアはこの子を洗脳して絶対服従させたっけ……)
攻略していた日々の記憶を遠い目で呼び覚ます。
ロルフルートのエレノアは第一王子ごと彼を懐柔させ、己の身を護らせる剣にしてしまったのだ。その時の彼は快活な性格はそのままに、エレノア至上主義として一種のヤンデレと化す。この場合の病み方はエレノアに近づく者を排除する方向になるので、バッドエンドさえ回避すれば刺されることはない。
ロルフのトゥルーエンドでは女王になったエレノアの目の前で、彼が恍惚とした表情で微笑む血まみれ姿のスチルが見られる。これは女王エレノアの暴虐に憤った反逆者が無残に殺されたシーンでもあった。頭に浮かぶハイライトのない目で嗤うロルフと、目の前にいる明るい少年を比べて頭が痛くなってくる。
(駄目だ、こんな太陽っ子を病ませるわけには……!)
クッ、と呻いて拳を握る。それはそうとして生のロルフの顔を見てしまうと、脇を過ぎ去っていく名も知らぬ一般男子生徒たちが案山子に見えてきた。ゲーム内のモブの顔の描写が曖昧な理由を体感しているような気分だと、ちょっとした現実逃避に走る。
「えーと……大丈夫か?」
しかしそうやってぼんやりしているエレノアが更に心配になったのだろう。ロルフの問い掛けに慌てて頷いた。
「あ、はい、大丈夫です! さすが顔が良いなあって思って……アッ」
「え、か、顔? おれの?」
口から漏れ出た心の声にロルフが困惑する。
(完ッ全に不審者じゃねーかッ!)
いくらこの身が美少女になっていたとはいえ、初対面でこんなことを言われたら戸惑うに決まっている。なんだこいつ、程度には絶対に思われる。
しかし、ロルフは視線を彷徨わせてから困ったように微笑んだ。
「よくわかんねえけど……褒められた、んだよな? はは……なんか、恥ずかしいな」
照れからか、健康的な色をした頬が淡く上気する。それを見てエレノアはぞっとした。ゲームで使用していた洗脳グッズはまだ手に入れてもいないが、エレノアの美貌というのは勝手に好感を抱かせるものでもあるのだろう。どんな形であれ関心は持たれたくない。
(ていうか、ロルフがいるなら……!)
慌てて辺りを見渡し、視界に入った人物に息を詰まらせる。
軽く吹いた風が〝彼〟の髪を揺らした。黒に見紛うほど濃い赤色の長髪を彼は耳に掛け直す。表情らしいものが浮かんでいない冷めた顔は整いすぎて人形のようでもある。周囲の女子たちは頬を染め、ちらちらと彼の様子を眺めていた。その気持ちはとても良くわかる。エレノアもゲームをやっていた時は彼のことは推しのひとりだったのだから。
(やっぱりいるじゃん……ユースタス王子――ッ!)
護衛であるロルフがいるのだから彼がいないはずがない。
彼こそ、この国の第一王子である『ユースタス・グリフィン・グリフィス』だ。冷めた性格、というよりも感情に乏しい人物である。次期王として厳しく育てられたため喜怒哀楽を表に出すことがあまりない。幼い頃から一緒にいるロルフや、聖女の少女くらいにしか気を許していないはずだ。
だからこそユースタスルートで彼を陥落させた時もすごいのだ。エレノアだけが自分の理解者なのだと膝をつくことも躊躇わず、犬のように慕ってくる。そしてエレノア以外の人物には冷酷になり、最終的には国を守っている聖女を偽者として処刑するのだ。エレノアが邪魔者である聖女を消すために唆した結果である。
(処刑寸前の聖女のセリフ、私も泣いちゃったんだよな……。心からユースタス王子のことを思い遣ってて……)
じりじりとエレノアは後ろに下がる。自分という存在が何なのかを先ほど理解したばかり。ゆえに攻略対象とは距離を置くべきなのだと強く感じる。もはや攻略する気は毛頭ないが、下手に関わってルート入りしたら目も当てられない。
(だってユースタスのルートなんか、失敗すると逆にエレノア処刑エンドだし……!)
国を傾かせ、混乱に陥らせた魔女として断頭台に引き摺られていくのだ。バッドエンドも多かったゲームのストーリーを思い出し、顔を青くさせた。
(なんちゅう乙女ゲームだよ……)
自分がバッドエンドを迎えたくないのは勿論だが、ユースタスを狂わせて聖女を処刑するような未来にだって進ませたくない。
「ほら、キミは新入生だろ。具合が悪いなら医務室に案内するぞ?」
ロルフが微笑みながらそう告げた。あまりに優しい申し出だ。しかし、エレノアは彼の誘いを受ける勇気などなかった。
拳を握り締め、叫んだ。
「わ、私のことはお気になさらず! えっと、その……お、幼馴染の方と末永くお幸せにッ!!」
エレノアはロルフに向けて勢いよく頭を下げた。きっちり九十度を保ったお辞儀に彼がビクッと体を震わせる。
「え、ちょ、なんで……キミ!? どこに行――ッ」
制止の声など聞こえないふりをして、エレノアは全速力でその場を離れる。大人しく入学式などに出ている場合ではない。今はとにかくゲームの舞台から離れたくて仕方がなかった。
白い石畳が敷き詰められた坂道を下っていく。エレノアの勢いに驚いた新入生の子たちが道を開けていった。
(もう何もかも知らん! こんな剥き出しの地雷原を歩くような真似ができるか!)
『ラブレス・レボリューション』は鬱とシリアスが売りのストーリーが人気を呼んでいた。そしてその中心にいるのはいつだって最悪のヒロイン『エレノア・エバンス』である。彼女の欲望こそ、この世界を混沌に突き落とす厄災の種に違いなかった。
「どうせなら超チート能力持ちに転生して田舎で可愛いモフモフと共に自由気ままなスローライフ送りたかったわ!」
思わず込み上げた涙は悔しさからだろう。走りながら涙を指で拭い、エレノアは顔を上げる。そして視界に映ったものに息を飲んだ。
「う、わ……」
徐々に走る速度が緩まり、一歩二歩と進んでから完全に足が止まった。
眼下に広がるのは美しい街並みだった。
坂の上からは街の全てが一望できる。きらめくような光景に一瞬、胸が詰まる心地がした。
雲の間から差し込む光の梯子が柔らかく街を照らしている。白い壁と赤い屋根が連なる、海沿いの街は海の澄んだ青さも相まって幻想的に見えた。『エレノア』として知っているはずの世界なのに今は全く別の物として浸みこんでいく。
(私、本当にとんでもないことになっちゃったんだ……)
ゲームのルートによってはこの国自体、酷く荒んでしまう。魔物が跋扈し、人々の悲鳴と泣き声が絶えない地獄になるのだ。勿論それはラスレボの主人公たるエレノアがやらかした結果だ。
だが、もうそんな未来は来ない。どういうわけなのかこうして『エレノア・エバンス』の中に、別の人格が目覚めてしまった。ゲームの中で見た悲劇を生み出す化け物は消え去ったのだ。
エレノアは鼻を啜る。再び滲んだ涙は風に拭われて散っていった。
「――クズヒロインなんかに、絶っっっ対なってやるもんか!!」
ガラァン、ガラァン、と学園から白い鐘の音が響き渡る。同時に飛び立った白い鳥たちが青い空に吸い込まれていく。
まるで旅立ちの背を押すように響く鐘の音は、ゲームで良く聞いていた開幕の音と全く同じ物に感じられた。
その日、《赤の国》の学園に入学するはずの少女がひとり消えた。男爵家の養子であった少女は誘拐も疑われたが、ついぞ、誘拐犯からの要求もないまま捜索だけが虚しく空回った。
男爵家の当主は嘆いただろう。行方をくらませた少女の末路を勝手に想像して震える者もいただろう。だが、それでも世間のほとんどは今まで通りの生活を滞りなく続けていく。
確実に小さな歯車が狂ってしまったことにも気づかないまま。