86.名瀬遙香 その四
第五章スタートです。
□東京・名瀬遙香
世間はハロウィンで賑わっている中、私は普段通りに過ごしています。講義を受け、課題をこなし、ゲームをする。
とても充実した日々ですね。
……本音を言えば混ざりたいのですが、『仮想空間適応症候群』を患っている私は体を思うように動かすことが難しく、どんちゃん騒ぎをしようものならすぐに転んで怪我をするでしょう。
この障害は脳が仮想空間に適応し過ぎたことで、現実の体が脳からの命令に追いつけなくなるものです。例えば、歩こうと思って一歩踏み出しても、その瞬間には三歩目を出している前提の命令が出るんですよね……
我ながら面倒な体です。ゲーム内では思うとおり自由に動けるので、プラマイゼロだと割り切っていますが……ユキがいなければきっと、私はやさぐれたままだったでしょう。
「あの、付き合ってください!」
そんなハロウィンで賑わっていたある日、顔だけは知っている同級生からいきなり告白されました。しかも大勢の人の前で。ハロウィンムードで浮かれてたんでしょうけど、そんなの関係ない私はドン引くばかりです。
「嫌ですけど……」
「せめて友達からとか――あ、SNSのやり取りだけでも」
「嫌って言ってますよね?」
断ってるのに何言ってやがるんですかこいつは。
眉間に皺が寄っているのを感じますが、隠す気が失せるぐらいには腹立たしいですね。どうやって追い返しましょうか……
「――ハルっち~……およ? 何してるの?」
「あ、えと、これは」
「絡まれてる」
ユキが来た途端にしどろもどろになった彼は、笑顔のユキに襟首を掴まれると、そのまま引き摺られて教室の端に追い詰められました。
「私のハルっちに何してんの?」
「いや、あの」
「言い訳とかいいから。で、何? まともに話したこともないくせに迷惑掛けてんの? なんにも知らないくせに? 馬鹿なの? それとも間抜け? どっちでもいいけど、金輪際近寄らないでね。近寄ったら処す」
……聞かなかったことにしましょう。ええ、ドスの利いた声なんて聞きませんでした。
「そだ、ハルっち! 気分転換にデートしよ!」
「いいけど、今の時期はどこの店も混んでるんじゃない?」
「そ、こ、は! 私の人脈をフル活用して席をもぎ取るから!」
「……じゃあ、任せるよ」
私が了承すると、ユキは携帯端末を取り出してどこかへ電話を掛けました。バイト先や知り合いのいる店でしょう。
あれこれ交渉して数分、バッと振り返ったユキはとてもいい笑顔で親指を立てました。
さて、一体どんな店に連れて行ってくれるのでしょうね?
「――お待たせしました、こちら季節限定の甘柿のタルトとジェラートです」
ユキに連れられてきたのは、一月ほど前に開店したというお洒落なカフェでした。少し狭い路地裏に店の入り口を構えた、いわゆる隠れ家カフェです。
レンガ調の壁はざらざらとした手触りで、席数も雰囲気を重視してかそこまで多くありません。
そしてお酒も提供しているらしく、カウンターの棚には幾つもボトルが並んでいます。
テーブルに運ばれてきたのは、柿が盛り付けられたタルトとガラスコップに注がれたジェラートです。
これはユキが注文してくれたのですが、一つ足りないような……?
「むふふ、食後のお楽しみというやつだよ」
表情から察したのか、ユキは猫みたいに口元を緩ませそう言います。
「ほらほら、食べよ? フランスで修行したパティシエをスカウトしてるから、そんじょそこらの量産型スイーツ店とはレベルが違うんだよ」
ユキ曰く、この店のオーナーの友人であるパティシエは自分の腕を磨くため本場フランスに修行に行っていたそう。それから独立して店でも持とうかと言うときにオーナーがスカウトし、この店で働くことになったらしいです。
なんでそれを知っているのかというと、開店当時の混雑を避けるためスタッフとして働いていたからだそうです。
ただ、席数が少ないのもあって次第に落ち着き、今は数名のスタッフで回しているとのこと。
「……あ、美味しい」
「でしょー?」
サクサクのタルト生地と、とろけるような柿の食感がとてもいいですね。柿の甘さが存分に活きています。
中のクリームはねっとりしていますが甘すぎることはなく、それでいて柿の存在感をきちんと主張させています。
ジェラートもとても美味しいです。重たそうな見た目ですが意外とさっぱりしており、こちらも柿の甘さが活かされてます。
しかも果肉が混ぜられているので、食感にアクセントが生まれています。
「――こちら、食後の珈琲になります」
タルトとジェラートを食べ終わると、一杯の珈琲が運ばれてきました。ふちと持ち手が金色に塗装された白いカップに、細かい泡が浮かぶ珈琲が注がれています。
細かい泡が浮かんでいるのはトルコ・コーヒーの特徴です。淹れ立てですね。
少し待って泡が落ち着いてから飲むと……
「むふふ、言葉も出ないぐらい美味しいでしょ」
「……うん、すごく美味しい。甘いスイーツの後だから、濃いのにすんなり飲める」
もちろん砂糖は入っていますが、苦みが濃いので少量でしょう。それなのにすんなり飲めるのは、甘いスイーツを食べた直後だからでしょうね。
三口目ぐらいから苦みが強くなり、飲み干す頃にはブラックより苦く感じました。
けれど、不味いかと言われるとそうではなく、ゆっくりと堪能することで美味しさを感じられる……そんな珈琲でした。
「三品目ってこの珈琲?」
「うん。単品で売ってるんだけど、食後に飲むのが一番いいってオーナーが言ってたから」
「そうなんだ」
「……落ち着いた?」
言われて、ハッと気付きます。
あの迷惑な野郎のせいで今日の私はとてもイライラしていたのです。ユキが心配するぐらいには分かりやすかったのでしょう。
「ほら、遠目でも分かるぐらいイライラしてたからさ」
「……うん、落ち着いたよ。ありがとう」
「どういたしまして。あ、私が奢るから財布出さなくていーよ」
すると、私が財布を取り出す前に席を立ち、ユキは会計を済ませてきました。
カフェを出た後もデートは続きます。近くのデパートで洋服を見たり、お洒落な小物を眺めたりして過ごしました。
実はコーディネートは得意ではないので、洋服関係は義母様と実家のメイド達に任せています。あとで連絡して冬用の衣服を相談しましょう。
この日は夜まで遊んで、マンションに帰る頃にはすっかり遅くなってしまいました。
さっさと風呂に入って就寝します。
トルココーヒー、またの名をターキッシュコーヒー。あれすっごい苦いらしいですね。私は飲んだことありませんが、機会があれば飲んでみたいものです。




