103.名瀬遙香 その六
その後、「一度に纏めても飲み込むのに時間が掛かるだろうから、今は体でも動かしておくといい」と言われ、私は道場へ足を運んでいました。
「貴女は知っていたんですか?」
「まあ、はい。現地協力者というやつなので。異能も持っていますし、ある程度の事情は把握しています」
ピッチングマシンから放たれるテニスボールを、愛咲さんはメイド服のまま竹刀で弾き飛ばしています。その動きは常人のものではなく、見てから動いて対処する、超人的なものでした。
「……分かりづらいとは思いますが、これが私の異能《限定加速》です。私自身の体感速度を加速することで、相対的に周囲の速度を減速させます」
「だから、全部狙い通りに返せるんですね」
「はい。お嬢様がゲーム内で獲得した二つの異能は、どちらも私のものより強力です。ですが、訓練をしなければ宝の持ち腐れですよ」
竹刀を置いて、ピッチングマシンを止めながら彼女はその力を説明してくれました。
「原石と宝石のような関係です。例えば、ダイヤモンドがあるとします。そのままでも十分価値がありますが、原石のままでは美しさに欠けますよね? 不純物を取り除き、精密な加工を施すことで、宝石としての価値が生まれるのです」
「そして私は、原石を手に入れただけ……と言うことですか」
「はい。……次はお嬢様の番ですよ」
ボールを手に持った愛咲さんが、ぶんぶんと腕を振り回して投げる用意をしています。
体を動かすついでに異能の訓練をしようと、彼女が提案してきたのです。
「当主様が仰るには、お嬢様自身の異能は歪な状態です。なので、後天的に獲得したもう一つの異能を使いましょう」
「…………《私に従え》」
その瞬間、胸の内側から熱が広がり、沸騰した血液が全身に行き渡る感覚を覚えます。途端に身体が軽くなり、手足の先まで思い通りに動くようになりました。
【純潔魔王】に内包されていたらしいこのスキルは、リアルに持ち出すことが出来る異能だったのです。
世界を魅了し、傅かせる力。限定的な現実改変能力を用いることで、『仮想空間適応症候群』の症状を一時的に消したのです。
私が異能を使ったことを確認した愛咲さんがボールを投げます。
それを認識した私は竹刀を構え、最小限の動きで打ち返しました。
「――はあ、はあ、はあ」
けれど、今の私はそれが限界でした。
症状が元通りになり、全身を覆っていた熱が消えています。
「お見事です、お嬢様」
「一〇秒も持ちませんでしたけど……」
「いえ、発動出来ただけで上出来ですよ。異能は魂という曖昧な場所から力を引き出していますから、発動するまでに相当の訓練を要します。数秒とはいえ、最初から使えるのは十分に素晴らしいことです」
お世辞ではなく本心から褒めていると雰囲気から伝わってきます。
「では今日はこれでお終いにしましょう」
「……まだ一回しか使っていないのに、ですか?」
「無理をしては体調を崩します。現に、お嬢様は一度気絶しているのですから」
「うぐ……」
それを言われてはやろうと言えませんね……
仕方ありません、一分にも満たない訓練でしたが終わりにしましょう。
あとの時間はストレッチやキャッチボールで時間を潰すことにします。
♢
翌日の昼頃、遙香はまた志遠の執務室に呼ばれていた。
彼女の後ろには相変わらず愛咲が付いているので、やはり異能関連の話なのだろうか。
「早速訓練をしたようだな。どうだった?」
「使い熟せるようになるまで、かなりの時間が掛かりそうです」
「まあ、そうだろうな。俺も習熟するまで半年を要したからな。それでも使い熟せるとは言えない」
χを継承した志遠ですら使い熟せないことからも、異能がどれだけ扱いが難しい力なのか分かるだろう。
「さて、と……今日はまず矯正だな」
そう言って立ち上がると、彼は遙香の額に手のひらを向ける。
「分かっていると思うが、お前の異能は無理やりに解放した影響で歪になっている。今は大丈夫でもいずれ破綻を起こすだろう。だから、その前に矯正する」
「可能なんですか?」
「……一応、な。とはいえ、すでにあるものを消すことは出来ない。レバーを取り付けて本来の形を継ぎ足す形になる」
進路の切り替え、あるいは接ぎ木のようなものだ。
今の遙香の異能は《侵食領域・色欲世界》という形に固定されてしまっている。これは歪みの影響であり、本来の彼女の異能ではないが、消すことは不可能だ。
そのため、志遠はここに接ぎ木する形で本来の異能を芽生えさせる。
「少し痛いが我慢しろ」
「――ッ!?」
すると、遙香の胸の内で弾けるような痛みが迸る。痛みは熱を持って全身に回り、四肢が膨れ上がる錯覚を起こしすだろう。
だが、錯覚はほんの数秒で薄れ、痛みもだんだんと消えていく。
「お嬢様、こちらを」
「……ありがとうございます」
愛咲からハンカチを受け取った遙香はそれで汗を拭う。
一分にも満たないとはいえ、予想だにしなかった激痛に襲われたため汗を掻いたのだ。
熱自体はまだ残っているが、志遠は「この熱は異能の歪みが解消された証拠であり、今日中には消えて無くなる」と彼女に説明する。
「あまり無茶はしないことだ。異能を矯正できたのは芽生えて間もなかったから。あと数日遅れていればどうしようもなかっただろう。あの世界はあくまで仮想、夢のようなものだ。お前が躍起になる必要は無い」
「いずれ消えるから、命に頓着するなと?」
「そうだ」
「っ、それじゃあ!」
「――と、言えるほど無責任ではないつもりだ。落ち着け」
反射的に立ち上がった遙香を諫め、志遠は座って話を聞くように促す。意見の相違から僅かな不信感を覚えたものの、遙香は黙ってそれに従った。
「そうだな……あの世界の基となっているものから説明するか」
白紙の紙を取り出して、さらさらっと何かを書き付ける。
「まず、生物に魂があるように、星……ひいては世界にも魂があると仮定する。細かい理論は省略するが、その魂を異なる位相に映し出し、手を加えることで唯一のものとして成立させる。
その後、作成した魂は用意したサーバーに出力し、仮想空間上で世界を構築する。あとは時間を加速させれば勝手に発展していく。そうして出来たのが『セカンドワールド』という世界だ」
天地創造に等しい偉業だ。だが不思議なことではない。
彼は……彼ら【管理者】と呼ばれる者達は、正しく神の力を獲得しているのだから。
「――あとは要所要所で介入し、ゲームとしての体裁を整えれば完成だ。これが今の『セカンドワールド』であり、俺達の計画の舞台だ」
「……では、なぜ躍起になるなと?」
「お前がプレイヤーだからだ。こちら側へ来たとしても本質は変わらない。今まで通りプレイヤーとして、ゲームとして遊べばいい。そこにある命に躍起になるのは、最初から関わっている俺達だけでいい」
つまり、元々計画には何の関係もない一般人なのだから、一々無茶をしなくていいと彼は言ったのだ。
『セカンドワールド』で生きる人々の命に責任を持てるのは、生み出した者だけなのだからと。
「遙香、【管理者】としての俺はお前を貴重な戦力だと考えている。計画の要として働ける重要な存在だと。だが一方で、無関係のお前をむやみやたらと巻き込むわけにはいかないのも事実だ」
「…………」
「必要以上に無理をするな。躍起になるな」
「……なんで、わざわざそれを言うんですか」
「言わないと同じことをするだろう? 昔みたいに」
返答は無い。だが、納得し受け入れたと志遠は感じた。
遙香は過去に、無茶を通して伊吹家から名瀬家に移った。その影響でお家騒動に発展しかけたのだから、それを許可した志遠に相応のしわ寄せがいくのは当たり前のことだった。
だが、何も最初から許可を出したわけじゃない。
先代当主は分家のことだからと我関せず、志遠もまた勉強中の身として関わろうとしなかった。
だが、電話やメールで許可が貰えなかった遙香は唯一の友達と一緒に、臥龍岡家の本邸に押しかけたのだ。分家の娘とはいえ、使用人達からすれば敬うべき相手。
雪奈から学校での遙香の様子と、不安定な精神状態を伝えられた志遠は悩み、名瀬家に養子縁組の依頼を出した。
遙香が無理を重ね、志遠が折れた形だ。
「(まあ、そのおかげで伊吹家を取り潰す方向に舵を切れたんだがな。あとはきっかけさえあれば……)」
過去を振り返ったことで、志遠は伊吹家の現状も思い出す。
ろくな成果を出さず、先々代が磨き上げた技術にあぐらをかいている今の当主は、あまり褒められた人物ではない。
「……分かりました。今後は気を付けます」
「そうだな。なに、止めろとは言わない。身の丈にあった行動をするといい」
会話を切り上げる。伝えるべきことは伝えたからだ。
あとは自ずと技術を培い、力を高めるだろう。志遠はそう考え、仕事に戻る。
……遙香は新幹線の中で、言われたことを脳内で反芻する。
無理をするな、無茶をするな、身の丈に合ったことをしろ。どれも彼女のための言葉だ。
納得は出来る。受け入れることも出来る。けれど、彼女自身の考えとは少しだけズレていた。
愛咲は主が悩んでいることを察しているが、それは主が自分で答えを出すべきと考えて口を挟まない。
新幹線は揺れることなく、二人を無事東京に送り届けた。
志遠が遙香に語ったことは全体の一部でしかありません。明かしていないことはたくさんあります。
例えば、『あの世界の生物が死んだとき、その生物のリソースの半分は世界に還元され、もう半分がドロップ品と斃した者の経験値になる』とか、『魔王の座を創るに至った理由』とか、『あの世界の神々の正体』とか。
いずれ訪れるであろう外敵がどのような存在なのかも……




