春のパングラム祭りの思い出
今年の春あたりで、エッセイジャンルがちょっと盛り上がった時期がありました。エッセイを沢山投稿しよう、沢山読んで評価しよう、みたいなキャンペーンが発生していましたね。エッセイ好きの私にとっては面白かったです。
なんと言っても一番印象に残っているのは、そんな盛り上がりにかこつけてエッセイジャンルにパングラムが投下されたことですよね。非常に画期的でしたねー。ね? ねーぇ。
パングラムにあんなにポイントが入ることなって普通ではありえないですからね。
私の中では春のパングラム祭り状態だったんです。
来年の春にはですね、エッセイの表紙をパングラムで独占しようと画策してるんですよ。それが成功したらですね、パングラムがこんなに評価されるわけないだろ! クラスタだ! と言われて、大炎上するでしょうね。
そしたら「じゃあみんなでリポグラムを投稿しようよ」キャンペーンを私が仕掛けます。それでワーワー盛り上がってみんなハッピー、めでたしめでたし、という「祭り」になるという段取りとなっております。
楽しみですねぇー。
さて、冗談はさて置いて本題に入りましょうか。
エッセイ民ならそりゃ気になります。興味津々ですよ。いろいろと見てました。いろんなポジションの人が居て、いろんなコメントがあったと思います。
うーん、現状肯定派とでも呼びましょうか。その方々が思いのほか過敏に反応したなというのが私の印象です。もっと堂々とていれば良いのではないかと思ったのです。ちょっとエキサイトしているなって感じました。
私の作者や読者としてのポジションからすれば、そりゃ言いたい事もなくはないですよ。ただナーバスになられるのがとても困ります。もう投稿しないなんて作家が出て欲しくはないですから。
なので十分過ぎるくらいに効果があったみたいなので、例の話題は十分なんだと思います。あとはユーザー個人の活動の自由を尊重するという事だと思います。
その後の事なんですけど。ランキング上位の常連さんが投稿を控えたというのは実体としてあるようですね。祭りの影響と言ってよいと思います。大変に公共性を考慮した献身的なご判断かと思いますし、その行動に敬意を持っています。
一つ言えるだろうと思うのは。「明文化されたルールの範囲内なら完全に自由である」という考えでは居心地の良い環境にする事は叶わないのではないか。このように思います。
私はその考えを浅はかだとすら思います。
例えば、日本は資本主義だ、自由経済、競争社会だ。などと言われますが、完璧な、自由かつ公正な競争なんて存在した試しは無いし、存在しえないはずです。そんな経済、どの分野にも無いでしょう。
法律や条例による規制や、税金による誘導はもちろんありますが、行政が関与しない実質的な規制があります。
業界内の取り決め、それから談合やら明文化できない当事者間の了解事項があるでしょう、そこだけの文化や慣習などもあります。それは競争社会の中でプレイヤー同士が平和に共存するための知恵なのでしょう。
ついでに言うと、そのような明文化されない規制は、常に緊張をはらんでいるものです。それぞれのプレイヤーが自分が有利なようにしようと機会をうかがっているものでしょうし、はっきりとした線引きなどできない流動的なものです。
ややこしい話はまあよいのですが、サイトの利用規約で判断するという安易な思考だけでは、争いを避ける事はできないと言いたいのです。
それは同時に、はっきりとした答えなど出ないし、正しいか間違っているかを判定することもできないという事も意味します。これで解決だ、と出来ることもないでしょう。
それは、人それぞれ考えが異なるから好きにすれば良いという意味ではありません。いつだって問題がそばに転がっているということです。頑なにならず、柔軟であるべきだと思うのです。
私はこんな考えの持ち主なので、ルールやら暗黙の了解を破るのが好きな方です。やってみないことには本物の境界線がどこにあるか分からないですから。ホンマにだめなんかなあ、どうなんかなあって。で、怒られたら、あ、ここが境界線だったんだと確信できるんです。
ギリギリがどこにあるかをよーく観察するのが好きです。
だから、いつでも怒られるかもしれないという覚悟と準備、それと怒られた時の対応ですよね。こういう事が大事になるだろうと思います。
ま、でも、何事も実際にやってみんことには分からんものですよね。
あと。本当に怖いのは、誰も怒ってくれない事かもしれません。