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「だったら、あなたの本はどこにあるのよ?」
「どっかのクローゼットの奥、かな、と……たぶん」
「そんなことでいいの? 曲がりなりにもあなたは」
言いかけた私を慌てた様子のあなたの言葉が止めた。
「まあ、慌てなくても、どうにかなるよ。今はただ寝かせてあるだけで」
「どうにか、ねえ。寝かせて、ねえ」
両方の肘を曲げ、私は掌を上にしてみせる。
寝かせてある、なんて、熟成でもさせるつもりなのだろうか?
「熟成させるとさらにおいしく……」
あなたの声が私の予想どおりの単語を響かせた。
私は露骨に呆れた眼差しをあなたに浴びせた。
あなたの苦笑いは石化したかのように静止した。
この部屋のことは掃除をする度に私の方があなたよりも詳しくなっている。
だから私はクローゼットの奥に本が詰められた大きめのダンボールがふたつあるのも知っている。
そこにしまったのは私ではなく、あなた自身だ。
かろうじて記憶が残っているようだけど、もっとあなたは本についてCDよりも正確にその在処を覚えておくべきだと私は思うのだ。
「一度以上はひととおり読んであるんだ。それにボクだって厚い本くらい持ってるし」
一度以上って、「一度だけ」も含まれるよね。
敢えて突っ込まずに「厚い本」について訊いてみる。
「どんな?」
「漱石先生晩年の未完の大作『明暗』を、岩波文庫でだけど」
「私それ、知らない」
「まあ、漱石好きじゃないと読まないかもなあ」
「あなたがなんて、嘘みたい」
私は冗談半分な気持ちで言ってみた。
「なんかさっきからひどい言われようを……ボクだって神保町くらい行くこともあるぞ」
もちろん神保町は書店が多く集まっている町として都内でも有数なのは私だって知っているし、行ったことだって何度かある。
「大昔なんでしょ?」
私は横目であなたを眺めながら言ってみた。
「『明暗』を読んだのはキミと知り合う前だけどさ」
「ほら、やっぱり」
「……あ」
「何よ」
「もっと後で、あのバイトに行く前に寄ったこともあったと思い出しまして」
「ふうん」
「ほら、近所だったし、バイト先とは」
「そうね」
「幸美さんと知り合う前にはそんな遠くまで行こうなんて全然思えなくなってたけどなあ」
苦笑い。
幸美さん、なんてへりくだって言う場合は、何かしら苦笑い以上にうしろめたさがあるときだ。
「あらかじめ言ってくれてたら、私も一緒に行ったのに」
「いや、でもさ、あの頃は幸美さんが読書家だってまだ知らなかったし、ボクは大抵は近所の本屋さんしか行かないから、たまたまなんだよ」
「あなたが今も出不精なのはよ~く知ってるけど」
私は不満を込めて言った。
あなたの苦笑いにはまだ続きがあった。
「それに実は……これも思い出したのですが」
「何かしら?」
言い回しが丁寧になっている場合のあなたは、うしろめたさに申し訳なさを上乗せしているときだ。
「その、前回神保町に行ったときは、キミがバイトを休んでいた頃だったと思うけど、割と午後早い時間だったもので」
「それで?」
「『いもや』の天丼が頭をよぎって、500円玉が財布にあったので食べに行って……」
雑誌の特集で知った『いもや』の天丼がこんなときに出てくるなんて!
「食後のコーヒーを飲みたくなって『さぼうる』でくつろいでたら……」
同じく老舗の喫茶店『さぼうる』まで出てくるなんて!
しょうがないことだと頭で理解しているのに、私は腹立たしく感じていた。
「あっという間にバイトに向かうべき時刻になってですね」
「そ」
「そ、と言われましても」
「よかったわね」
あなたは苦笑いを浮かべたまま肩をすくめた。
「結果的にお昼を食べに行っただけで、三省堂すら覗かなかったからなあ。三省堂方面に行ってたら通り越してスマトラカレーを食べたかもしれないけど」
共栄堂のスマトラカレーはもうダメ押しだった。
私は「ずるい」と思ってしまった。
「食べに行くならどうしてなおさら誘ってくれなかったのよ!」
あなたに思わず文句を言ってしまった。
私が勝手に周囲の人達に迷惑をかけていた頃のことなのに。
「あれ? 本屋の話、じゃなくて?」
「だって私、三省堂は行ったことあるけど、そうした他のお店に行ったことがないんだもの」
「なんだよ、それこそ言ってくれたら」
「あそこでバイトをしていた頃は、そういうことまで頭が回っていなかったから……」
そう、私には全然余裕がなかった。
今の私とあの頃の私はまるで別人だ。
今の私は、あなたと一緒に神保町で楽しく過ごしてみたい、と素直に言える。
「つまり……」
言いかけたあなたの声を私は遮った。
「そうよ。私は、あなたと」
「分かったよ」
言いかけた私の声をあなたが冷静に止めた。
「分かってくれたの?」
「おかげさまで、キミのことなら何処の誰よりもよく分かるようになりましたので」
キミ、だって。
懐かしいような、くすぐったいような、不思議な感じがする。
あの頃の私は決してこんな気持ちになることはなかった。
「さすがね」
「今度キミの時間があるときにでも行くとしますか」
「うん。是非そうして」
私は笑顔になってしまう。
あなたの表情はたぶん、とびきりの苦笑い。
* * *
話は本のことから神保町での外食の件に変わってしまい、そのときの私はうまいこと煙に巻かれたのだと思うことになった。
だいたい今にしたって、読んでいるのはレココレではないか。
ぷんぷんしたことを思い出してしまったが、そんなことにこだわっている場合ではなかった。
私はあなたに質問していたのだった。
「ねえ」
あなたはビリー・ホリデイのディスクを山々のひとつの頂上に載せるところだった。
流れている音楽は弦楽合奏だろうと思える曲になっていた。
私の耳では、まだ自信を持って言い切れない。
はっきり言えることは、私の知らない曲ということであった。
私は重要な質問に話題を戻すために、もうひとこと追加した。
「ちょっと」
「ああ、この曲のこと?」
私の意図とは異なるけれども、知らない曲について知っておきたいのも私にしてみれば素直な気持ちだった。
あなたはストリングスがメロディーを美しく奏でているこの曲について教えてくれた。
「ウィリアム・ウォルトン作曲、『弦楽のためのふたつの小品』で、元は映画『ヘンリー5世』のサウンドトラックから。で、もう終わりそうだけど、これは第2曲『やさしき唇にふれて別れなん』(注:「Touch her soft lips and part」)ていう、日本語訳のタイトルがついた短い曲だよ」
あなたは淀みなく言った。
私は知らない情報の行列に出くわしてしまい、どこから訊き直すべきかと思っているうちに曲が終わってしまった。
「ね、短いだろ?」
あなたはカセットデッキの「巻き戻し」を直接押した。
頭出し機能を使用して1曲分だけ戻したらしい。
「もっと長くしてくれてもいいのに、2分もないくらいだから、もう一度再生するよ」