2
*
私はずいぶん昔から、つまり物心がついた頃から、自分を取り巻くすべてのことが不思議だった。
幼い頃、おそらく三歳くらいからだと思う。
小さい子ならよくあることかもしれない。
私はご多分に漏れず「どうしてなの?」、「なんでなの?」と際限なく繰り返す「どうしてっ子」だった。
相手になってくれたのは両親を皮切りに、祖母や近所のおじさん、おばさん、幼稚園や学校の先生、友だちや友だちの友だち、先輩に後輩……出会った人たち全員に何かしら問いかけていたかもしれない。
ひょっとしたら、自分が覚えていないだけで妹にも問いかけていたかもしれない。
まるで、いつも誰かにクイズを出していたかのようだ。
さすがに今ではそこまでのことはせず、もっぱらすぐそばにいる人に遠慮なく質問する程度のみには落ち着いてきた。
きっかけはさまざまであるが、会話の中で「ねえ」のひとことから始まったり、少し熱くなって「ちょっと考えてみてよ」と迫ったりして、「議論」が……と言うと大げさかもしれないが……始まることもある。
どんなことであれ、そばにいる人が私の言葉をいつだって受け止めてくれるから、私は今でも「どうしてっ子」でいるに違いない。
いちいち言葉にはしないけれど、私はいつも感謝をしながら「議論」を楽しんでいる。
時として意見がぶつかり、質問は答えがないまま疑問に戻り、また別の疑問を呼ぶ。
私にとってはそれがさらに大きな疑問に形を変えたりもする。
私は迷路に入ってしまう。
間を取って、私は自分なりに考えてみる。
すると、うまくいけば私でもヒントや答えに気がついて、迷路を抜け出せることもある。
逆に、幼い頃よりだいぶレヴェル・アップした「どうしてっ子」の私が、答えを見つけられず暴れまわることもある。
迷路から抜け出したいのに行き詰まってしまう。
暴れ疲れて落ち着くと、その原因は私が暴れたこと自体にあるのだと分かってきた。
暴れてしまうのは、認めたくないからだ。
自分の弱さを。
自分自身の限界として立ち塞がる巨大な壁を越えていけないからだ。
*
やがて私は、いつからかこんなふうに思うようになっていた。
── 世界は不思議で満ちている。
このひとことに続きがあるならば、それはこうなるに違いない。
── そして疑問でできている。
これら一対のセリフが、現在の私を取り巻く世界について、自分がこうして生きているこの世界について、自分なりの言葉で出した結論なのだ。
* * *
私は考えすぎなのだと、多くの人に言われてきた。
自分でそう思うこともある。
インド哲学を専攻したのは当然なのかもしれない。
哲学と言えば、すぐにソクラテスを初めとした古代ギリシャ以降の西洋の哲学が頭に上るけれど、私は東洋の方により惹かれた。
仏教の思想も含め、底知れない深さが隠れているように感じた。
疑問の奥に疑問が続き、どこまでも深淵に入って行けるかのように感じたのだ。
なんの迷いもなく、「どうしてっ子」の私にふさわしい、と。
また、ただ深淵に向かっていくだけではなく、遥か宇宙に通じるような、この世界のすべてを内包しているような手応えさえあった。
これしかない。
私の専攻はそうして決定した。
*
近頃の私は「演劇」について改めて思いを巡らせていた。
中学生だったときから「演劇」は自分の一部になっている。
今でもまだ「一部」であることは変わらない。
ただ、時の流れと共に「一部」の範囲が広がっている。
「一部」ではなく「全部」になりそうな勢いで。
演劇とは、考えようによっては、舞台という限られた空間に新たな世界を生で創造しているようなもの。
ナマものだから、脚本という枠があるにしても毎回形が違ってくる。
同じ演目を繰り返し上演することは、言わば、並行宇宙を創造しているようなもの。
そうした、創造されていく宇宙の中の一員として、自分がいる不思議。
並行宇宙の中の自分もいるという実感。
驚いている自分。
自分。
自分がこうしてここにいるということは、すなわちこの世界に自分という人間が確かに存在しているということ。
では、この世界とは何か?
地球という星から出ていったならば、そこには果てしない宇宙があるはずだ。
地球は宇宙の一部である。
そして私の身体は地球上の物質からできている。
地球上の物質とは宇宙にある物質である。
つまり、自分は地球の一部であり、宇宙の一部である。
宇宙の外に何があるのかは知らない。
厳密に言えば私自身は宇宙を肌で感じたことはないが、夜空に無数の星々を見ることは可能だ。
私はその無数の星々から宇宙を感じている。
今のところ私を取り巻く世界に宇宙より大きなものはない。
つまり、宇宙まるごとが、自分が知っているはずの世界そのものということになる。
私は地球に存在しており、地球に存在しているすべては私の仲間と言える。
拡大解釈をするなら、宇宙に存在しているすべては私の仲間と言ってもいいと思う。
この点において、私は宇宙の一部を担っており、この世界の一部でもある。
よくある話に違いないが、私はときどき私と世界の関係についておさらいしては、自分の位置を確認してみる。
原点はどこにあるのか忘れてはいけないと感じるからだ。