17
1枚のディスクを手にしたまま、尚も仲間たちの前にいるあなたに飲んでもらうために、私はうっすらと湯気が見えるマグカップをテーブルに置いた。
あなたは手にしていたCDをテーブルに置いた。
それは『恋人たちの予感』のサントラ盤だった。
私の考えていたことが伝わっていたのかもしれない。
何故かそんな気がした。
「CDを再生する前に先を越されちゃったなあ」
あなたはぽつりと言うと、自分専用のマグカップを手に取った。
「では遠慮なくいただきます」
「はい、どうぞ」
私は息を止めてあなたの表情に注目していた。
数秒後、なんの作為もないあなたの微笑みを確認できて心の底から満足できた。
「最高に美味しいよ」
そのひとことで、私もあなたと同じように素直に微笑んでいた。
「うまいなあ、幸美さんが淹れてくれたトラジャは格別だ。もうボクは幸美さんに足を向けては寝られない」
「ありがとう。そう言ってもらえてホッとした。でもどこまで本気のセリフなのかは疑問」
「……信用されてないなあ」
あなたの笑顔は練度の高い苦笑いに変わってしまった。
私も苦笑いを浮かべることになったけれど、かなり下手だったと思う。
ヒゲさんが淹れてくれるトラジャと比べたら、あなたの評価はどうなるだろう?
そんなことが頭に浮かんでしまい、私のヘタクソな苦笑いは得体の知れない表情に変容してしまう。
雰囲気を察してくれたのか、あなたは話題を変えた。
「歌を聴きたいな、って思ってさ」
あなたはトラジャが三分の一程度残ったマグカップをテーブルに置くと、再度ディスクを手にした。
「久々にハリー・コニック・ジュニアでも聴いてみようかな、と」
そう言いながらあなたはCDのケースからディスクを取り出そうとしていた。
「“ Love Is Here To Stay”、がいいかな」
ふと私は思いついた。
このナイスなタイミングを活用するべきだと。
私はあの日保留になっていた質問をあなたに伝えた。
「『恋人たちの予感』を見た日、サントラ盤と一緒に買ったCDはなんだったの?」
「タワーレコードで?」
「そう、つばめグリルに行く前に」
「ああ、あのときのか。それならバーンスタインだよ」
私の記憶はなかなかのものだと分かった。
「バーンスタインの作品?」
「いや、バーンスタインの自作自演じゃなくて……」
あなたは閃いたようにラックを一瞥した。
サントラ盤のCDはケースを閉じられテーブルに置かれた。
おもむろに右腕を伸ばしてラックから代わりの1枚を苦もなく取り出すあなたの動きは、予め決められていたかのように見えた。
私に向けて差し出されたCDのブックレットの画像は、薄紫色に印刷されたバーンスタインだった。
指揮で左腕を振り上げた瞬間だろうか。
あの時見ていたはずなのに、見覚えがあるとは言い難いデザインだった。
私の記憶はてんで曖昧なのだと悟った。
それに、私が知っているバーンスタインの風貌よりもずいぶん若く見える。
上部中央には「IVES」という大きな文字があった。
「アメリカの作曲家で、アイヴズって、知ってる?」
「愛撫する?」
あなたはがっくりした様子になる。
私はついあなたのこんな様子が見たくて、わざとおかしな言葉を返してしまうのだ。
チャンスを逃してなるものかとすら思う。
「キミはそういう話が本当に好きなんだなあ」
「あ、その言い方って、責任は全部私にあるって意味でしょ」
「ボクにはないよ」
「ふうん」
「あの、その含みのあるひとことはどうしてでしょうか?」
さっきもちらっとあったことだが、あなたは自分にとってよくない展開を感じると、こんなふうに言葉遣いが変わってしまう。
あなた自身は気がついてないのかなと私は思っているけれど、そんなあなたの様子も私は気に入っているから敢えて口には出さない。
「だって、あなたがいつも私にたくさんして……」
「分かった。分かりましたから、元の話題に戻りましょう」
私はフフッといういたずらな表情になっている。
何故かあなたは慌ててしまう。
慌てることなんてちっともないのにな、と私は思っているのに。
よくないことだってまったくないのに。
「まあとにかく、そのアメリカの作曲家の」
「アイヴズさん、ね」
「なんだ、やっぱりちゃんと聞こえてたのか」
あなたは横を向いてちっちゃな声で「チェッ」と言う。
もっと堂々と不満を伝えてくれてもいいのに。
「チェッ」と言うのは普通ならよくないかもしれないが、私は全然かまわない。
以前チェット・ベイカーの名前を出された時は呆れちゃったけど。
「とにかく、アイヴズの代表作に、『答えのない質問』って曲があるんだけど、タイトルだけでも知らない?」
「そんな曲があるの!?」
私はそのタイトルだけでかなり強い興味を持った。
もしかしたら、その曲こそが私の真のテーマ曲かもしれない。
一瞬にしてそう感じた。
まるで私が作曲を依頼したかのようだ。
「あるんだよ」
「今の今まで知らなかった」
「じゃあ……運良く見つかったことだし、早速聴いてみるとしようか」
あなたはトラジャを飲み干すと、バーンスタインのディスクを取り出し、仲間たちに再生してもらう準備を始めた。
私は「最高に美味しい」はずのトラジャをゆっくりと存分に味わっていた。
あなたに「格別」とまで言ってもらえて、飲み干すのが惜しかったのだ。
それでもトラジャに支配されていたわけではなく、バーンスタインのアイヴズは「運良く見つかった」とあなたが言ったのを逃してはいなかった。




