15
すかさずあなたはふたつのマグカップへ少量のお湯を注いだ。
私の動作を引き継いだみたいに。
「そうだよなあ、ボクも初めて聴いたときは意外な感じがしたよ」
コーヒーポットにあなたがお湯を満たしていく。
私にとってハイドンのイメージはこんなに動的なものではなく、どちらかと言えばテンポが速いとしても落ち着いた雰囲気を感じられる、そんな作曲家であった。
なのにこの曲の躍動感はどうだろう。
ハイドンの膨大な作品のうちのほんの限られた数曲を「西洋音楽史」で鑑賞しただけでなんとなく理解したつもりでいたものの、私が抱いていたイメージは所詮のところ実態がなく薄っぺらで貧相なものにすぎなかった。
私はハイドンに頭を下げなくてはいけないと思った。
まったく何も知らないよりも生半可な分だけ却って質が悪いではないか。
「ハイドンの最後の交響曲、第104番で、通称『ロンドン』と呼ばれることもある曲の、最終楽章なんだ」
あなたは手を止めることなくそう教えてくれた。
ということはつまり、ハイドンが作った幾多の交響曲の締めくくりである音楽を今こうして聴いているのだ。
「だからということもないんだけど、このテープの大トリにいいなと思って選んでみたんだ」
フィナーレを華々しく飾ったんだな。
私はそう理解した。
「自由に曲を作れるようになって思いっきり伸びをしてみたかのような、ハイドンのそんな開放感をボクは想像しちゃうんだ」
「ハイドンは自由に曲を作れなかったの?」
私は反射的に質問をしていた。
「時代的なことだけど、ハイドンは長い間貴族のお抱え音楽家だったから」
あなたは即座に返答してくれた。
「モーツァルトもだけど、なんの束縛もなく曲を作れたのは晩年に近くなってかららしいよ」
「そうだったのね……」
限られた時間内での全力疾走のような講義では聞くことがなかった情報だ。
ましてや、この曲は鑑賞する時間もなかったのだ。
「講義のときは残念ながら、この曲は省略されちゃってたよなあ」
「うん。交響曲が104番まであるということは教えてもらった気がするけど」
「実はプラス2曲おまけがあるのですけども」
あなたの知識はすごい。
私はタマキちゃんと初めて会話をした日のことを思い出した。
ジャズのCDを5枚借りて満面の笑みを浮かべていたタマキちゃん。
そして、それらを貸し出したのは講堂の最前列右隅に座り闇を纏っていた「堕落先輩」……その人が今こうして私に向かって洗練された苦笑いを披露してくれている。
まさか未来にこんな場面があるなんて、あのときは全宇宙にいる誰もが決して想像できなかったはず。
それとも、どこかにあるというアカシック・レコードには決められた事実として刻まれているのだろうか?
「オイゲン・ヨッフム指揮のロンドン・フィルの演奏で、有名なヤツなんだけど、やっぱりいいよなあ。真ん中に太い柱がドーンとあるみたいで」
弾けるような、祝祭のような、最後の最後にオーケストラ全体を嬉々として踊らせてしまうかのような「交響曲の父」の包容力、そんな新たなイメージを私は抱くことになった。
その間にあなたはミルで挽いたばかりのコーヒー豆をドリッパーへ移す。
手際良く。
すごく手慣れている。
レコード盤やオーディオ機器を扱うのと同じくらいに。
挽きたての豆の香りが微かに強まってくる。
私は我に返る。
「同じオケのショルティ盤にしようか迷ったけど、ヨッフムで正解だった気がする」
あなたがミルを簡単に片付けながらそう言い終える前に、私はコーヒーポットを確保した。
ドリップは私もできるし、したかった。
あなたに直伝してもらっているし、テープがもうすぐ終わってしまうのなら、ますますドリップ作業は私がするべきだと思ったのだ。
ドリッパーをサーヴァーに載せるとき、あなたは私がコーヒーポットに手を添えていることに気がついた。
あなたの笑顔はほろ苦いものに変化した。
「ドリップもボクがやるつもりだったのですが」
私は再び首を振って「ノー」という意志を示した。
「ドリップは私に任せて」
「なんだか気合入ってるなあ」
「あなたにはね、あなたにしかできないことをやってほしいな、って思ってるのよ」
あなたの表情は何か言いたげな、うっすらと疑問を帯びた様子に変化している。
私は機先を制して答えを明かす。
「次の曲を用意してほしいの」
「なるほど」
そろそろテープが終わっちゃうもんな、とあなたは言うと、キッチンから仲間たちの方へ移動した。
私はコーヒーポットをドリッパーの方へ傾ける。
荒挽きの豆をしっかり蒸らせる量のお湯を静かに注ぐ。
熱い香りが立ちのぼりみるみるうちに豆はふわっと膨らんで盛り上がってくる。
新鮮な豆だから膨らみが大きくなりすぎてドリッパーからこぼれてしまわないように、私は息を止めて慎重にコーヒーポットの角度を戻す。
うまくいったのを確認して小さく息を吐く。
豆を蒸らしている隙に、私は思い出して冷蔵庫を開けてみる。
コーヒーに合うものは見当たらない。
合わないものも見当たらない。
要するに、すかすかだった。
やはり今日は買い物に行かなくてはいけない。
「あ」
一文字だけの声の方向に目をやると、あなたはCDを1枚持ったままこちらを向いていた。
ハイドンが終わってなかったら聞こえなかったかもしれない。
うっかりしていたというニュアンスが一文字だけなのによく伝わってきた。
「コーヒー豆を買ったついでにウォーカーズのショートブレッドも買ってこようと思っていたのに忘れてた」
あなたは職人的な苦笑いを見せてくれた。
そうだよね。
ウォーカーズが欲しくなるタイミングだと私は納得する。
カロリーについては目をつぶって、ウォーカーズのショートブレッドは常備しておきたいくらい私の定番なのだ。
欠かしていてもこうして淹れているコーヒーは絶対に美味しくいただけるのは間違いないけれど。
今は無理だと分かるとなおさら欲しくなってしまう。
買い物に行ったら忘れずに手に入れなくちゃ。
私はそう決めると改めてコーヒーポットをドリッパーの方へ傾ける。
ゆっくりと、小さな「の」の字を書くように、なるべく細く、お湯を注ぐ。




