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ほんのかすかにパラパラというような音が聞こえる。
雨の音だと私は思う。
同時に、あなたも私も黙り込んでいるからだと気付いた。
私は雨の音が嫌いなわけではない。
でも今は雨の音に耳を澄ましているべきではない。
私はあなたが中断した作業を引き継ぐことにした。
コーヒーを淹れるのは私にもできるし、楽しい。
あなたには私にできないことをしてほしかったのだ。
私はふと思いついてガスコンロへ伸ばしかけた手を止め、お湯を沸かす前にあなたへ声をかけた。
「ねえ」
「はい」
あなたは両方の掌を合わせたまま顔を上げて言った。
私はあなたにこう訊いた。
「次はどんな曲を聴かせてくれるの?」
「おっと、そう言えばテープは止めたままだったっけ」
あなたはカセットデッキとその仲間たちの前に移動した。
「テープの続きだと、モリコーネだったよな」
あなたのつぶやき声がはっきり聞こえた。
私はガスコンロに点火した。
あなたへ視線を戻すと、あなたはかしこまった様子で正座をして右腕を伸ばしている。
左手は何故か膝の上で、右手の人差指はリモコンではなくカセットデッキ本体の再生ボタンを押す手前で止まっていた。
少し無理があるらしく微かに震えて見える。
「どうしたの、そんな不自然な体勢で?」
「まあ……とりあえずは、続きでいいか」
私が質問するとあなたはそう言った。
カセットデッキは再生を再開した。
あなたの右手も正座した膝の上に置かれ、あなたの両肩からは力が抜けたように見えた。
ふう、というつぶやきが聞こえた。
ゆっくりしたテンポの曲が静かに流れてくる。
ストリングスの音だと私は気がつく。
少しずつ音量が大きくなっている。
木管楽器がストリングスに重なったように聞こえる。
女性のハミングも重なっているのだろうか?
そんなふうに聞こえるけれど、残念ながら私には判断できない。
断言できるのは、懐かしいような、寂しいような、とても美しいメロディの曲ということだった。
「これはロバート・デ・ニーロが主演した『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のテーマ曲だよ」
あなたは私の目を見て教えてくれた。
「やっぱりモリコーネもいいなあ」
あなたは顔をカセットデッキとその仲間たちの方へ戻し、尚も正座をしたまましみじみした様子で言った。
「映画は大作で見終わるまでに3時間くらいかかるんだ。この曲はすぐ終わっちゃうけど」
私がドリッパーにペーパー・フィルターをセットしているときにあなたの声がした。
私があなたの方へ向き直ったときには、あなたは仲間たちの方へ向いて目を閉じていたけれど、声をかけてくれたときはたぶん私の方を向いてくれていたと思う。
間もなくあなたの言ったとおり、その曲はすぐに終わってしまった。
余韻に浸っている様子で、あなたは目を閉じたまま納得したように細かくうなずく。
今回のあなたの選曲には短い曲が多いのだろうか?
徐々に威勢よく聞こえてくる次の曲をバックに、私は尋ねてみた。
あなたの答えはこうだった。
「テープが余らないように1、2分程度の短い曲をいくつか用意したからね」
LPレコードに限らないがカセットに録音する場合、A面、B面それぞれちょうどいい長さで終わることはほとんどない。
大抵は数分以上録音されないままの「余白」が残ってしまいがちだ。
カセットを良い状態に保つには、再生後に毎回しっかり巻き取っておくべきだということを私も知っている。
だから各サイドの最後の曲が終わったら「早送り」をすることになるのだが、余白の残り時間によってはアルバムの中の曲を繰り返して入れたりシングル盤の曲をそこに録音することもある。
テープの有効活用方法だ。
あなたは自分で選曲しているのだし、90分テープを好きな曲でなるべく隙間なく埋め尽くしたかったに違いない。
短い曲はそのために用意したのだと私は理解できた。
とはいえ、私には短い曲というのはなかなか思いつかない。
あなたのことだから、こんなときに備えて頭の中のどこかにいくつもの曲を長さも含め記憶しているのだろう。
そう私は直感する。
音楽に対するあなたの態度は尊敬に値すると私は感服している。
こんなふうにあなたが本気になってくれたらいろいろとすごいのになあ、と私は度々思ってしまうけれど、余計なお世話になってしまうから言葉には出さない。
あなたにだって、私について思うところはたくさんあるはずだから。
お湯が沸騰し始めた。
音でそう分かる。
聞こえている曲からはとても元気を感じる。
あなたの部屋では日常的になっているが、この曲も私が知らない曲だ。
弾むようなリズムでオーケストラが鳴り響く。
私はそのリズムに合わせて身体をおとなしめに揺らしている。
舞踊のための曲だろうか?
祝祭的なイメージも浮かんでくる。
「この曲はしばらく続くから、手伝うよ」
私が音楽に意識を取られているうちに、あなたは手早くマグカップをふたつ手にとっていた。
あなたと私がいつも使っているふたつだ。
「もしかしてこの曲、知ってる?」
あなたは私の様子を見て微笑んでいた。
苦笑いではなくて。
私は首を振って「ノー」という意志を示した。
「初めて聴く曲よ。ノリがいい曲ね」
「確かに、言われてみるとそうだなあ。そんなふうに思ったことはなかったよ」
あなたの笑みは続いていた。
洗練されているらしいあなたの苦笑いが嫌いなわけではないけれど、いつもこんなふうに微笑んでくれたらいいのにと思わずにいられない。
とてもいい表情なのだ。
「実はハイドンなんだよ」
「え?」
私はあなたを見たまま手を止めてしまった。




