深夜の対話
コアは淡々と語る。
アシンの狂気的な残虐性と、権力に異常な執着心を見せるヘルラの事を。
王の世代交代で出来た派閥の中で、一番関わりたくないと本能で感じ取った上で、実際に当人が報告して来る内容と行動に解離が見られることは多々あった。
取り繕うのは異様に上手い。ただ、不信感を持って観察していれば、綻びは見えてくるものだ。
側近に密かにヘルラの内情を報告させれば明確だった。
龍神と古代史の研究者としてヘルラが王に成果を報告した内容とは別に、バルコニーの紋様には新たな図形を加える指示を、王族の許可無しで出していた。
実際に書き加えた図柄の意味合いを問いただせば、龍が王を守るだけだと言い張った。
ヘルラを王にと、強く推薦する貴族アシンとゾーベにも、良い噂が無かった。
信用できない相手を婚約者に薦められる中でウェルは本当に信頼できたし尊敬する相手だった。
コアの苦手な政に関しては、懇切丁寧な解説付きで勉強する時間が設けられたし、王妃としての立ち居振舞いの指導にすら付き添う。どうにもコアが苦手な分野を上手く捕捉する形で、セトラナダを導く為にウェル自身も努力していたのを思い出す。
時には互いに慰め、時に辛辣な言葉まで使って励まし、生涯を共にすると信じて疑わなかった。目の前で刺される迄は。
感情に合わせて涙が頬を伝うが、ヘルラがコアの父親との信頼関係を築いていた事が大きな誤算だったと言う。
『お母様、とてもお辛い体験をなさったのですね』
アヤメは当時 不安な感情と息苦しさだけは身をもって体験した。しかし、目の前で止められなかった苦痛にコアを気遣う。
コアはアヤメの顔を覗き込み、楽しいお話を沢山してあげたかったのにごめんなさいと呟く。アヤメは『これからいっぱい楽しいお話をしましょう』と、コアの手を握りしめた。
居合わせた周りの皆に視線を向けてから、地下牢でのことを話す。
食事は一日で一回にだけ減り、執務書類も激減した。暗号化した書類が紛れ込むのを防ぐ目的なのは明らかだった。
牢に押しやられた面々も徐々に衰弱していくのが目に見える。
皆が口数も少なく、動き回らずじっと横になる時間も多い。時間がわからない薄明かりは いくら睡眠を取っても疲労が抜けないし、慢性的な空腹感で思考も鈍る。
寝台は撤去されたままなので、常に誰かが床に横になっている。誰かが脱出の方法を口に出しても、状況を変える程の力を持たない。
絶望の取り巻く時間が流れる。
ヘルラとアシンが連れ立って見知らぬ子供を連れて来た。男子は右腕の肘から先が無い。女児の足は両方とも膝から先が無い。共に意識はあるが、怯える様子も手に取るようにわかる。
「親に会いたいと泣くのでな、慈悲深い私が面会させてやると連れて来たのだ」
アシンが得意顔で言う。
子供たちは震えながら首を左右に振る。我が子と気付いて駆け寄る大人にそれぞれがしがみつく。
傷口は火傷したように見える。
「爪を剥いだ跡が痛むと泣くので、優しい私は痛む所を落としてやったのだ。まずは爪を剥がし、痛むなら指とな。止血は手間がかかるのでな、焼けば出血は治まる。どうだ?痛むなら次は腕ごと落とすか?」
震える子供を満足そうに見て、頭を撫でながら優しい顔で話し掛ける。
狂っている。
誰もがアシンを見て思う。
「アシンよ、今回はもっと素晴らしい提案を聞かせる為に来たのだ。親どもも喜ぶと思わぬか?」
「そうでした。この子供たちの不足した四肢を付けてやると、伝えに来たのでしたな」
アシンの胡散臭い笑顔が深まる。
「手足に傷を負わせたのは、アシンでしょうに。怪我をさせたあなたが原因を作っておきながら、何を言っているのかしら」
コアが睨んで吐き捨てるように言う。
「おやおや、コア様は相変わらずお元気のようだ。またヘルラ様に手を上げる前に退散しませんと」
嫌がる子供たちを親から引き剥がす側近に目配せして、さっさと出ていく。
食事の量も最低限で 硬い床で眠るしかない皆は、追い縋るも すぐに息が上がり、連れ出される子供たちを取り戻すこともできない。
子供たちの泣き声が耳に残る。
食事が二回運ばれた後で子供たちの腕と足が付けられた状態でやって来る。
「国民の前で披露したのだ。ヘルラ様の温情で子供たちはいずれ側近に取り立ててやると決まったぞ」
ただ、連れて来られた子供たちの意識は朦朧としている。無かったはずの肘から先、膝から先は清潔な包帯で巻かれているが、血色はかなり悪い。当然、自分の意思で動かせるのか疑問だ。
愕然と見上げる親にヘルラは
『アシンに対する国民の評価は、かなり高いのだぞ。今回は手足を再生する奇跡の医術師として更に絶賛された』
『ヘルラ様のおかげでございます。国民がこぞって実験台になりたいと、手を上げるようになりました』
珍しく爽やかに笑うアシン。
しかし、誰もヘルラとアシンの言葉の意味が理解できない。
ただ、苦し気な息づかいの子供たちに目を奪われる。
『アシン、この子たちを早く休ませてあげなさい。治療ができるのでしょう』
『勿論 出来ますとも。お望みでしたら子供たちは置いて行きますが、どうなさいます?』
地下牢の環境で救えるとは、思えない。
荒い息づかいと火照った顔。高熱に苦しんでいるのは明らかだ。
『治療のできる所で善処なさい。ここでは休むことすら難しいのよ』
貴族として生活してきた為、寝台で眠れないだけでも疲労がかさむ。その上 窓も無ければ時間の経過もわからない。始めから居るコアと側近に至っては、季節の変化すら曖昧なのだ。
一年中同じ灯りでは、心も休まらない。
そんな環境に意識が混濁した子供を置いても、徐々に悪化するのは予想できる。
数日が過ぎてヘルラとアシンがやって来る。
子供たちが息を引き取ったと知らされ、悲痛な空気が漂う。
そして他の貴族にコアと繋がりが無いか、次々と調べているとも。
『本来なら、わたくしが ここに居るべきでは無いのを お忘れかしら?』
当然、地下牢に居る皆が不当な待遇だとコアが語る。
『コア様は、何を言いたいのですかな?』
相変わらず胡散臭い笑顔でアシンが聞く。
『ヘルラを始めとする貴族が犯罪者だと言っているのですよ』
ダン!とヘルラが足を踏み鳴らす。
『私は犯罪者ではない。国民の全てが私を称え、尊敬し、崇拝するのだ』
それだけ言って、ヘルラが地下牢に足を運ぶことは なくなった。
長く語り続けたコアは、喉を潤そうと湯飲みを手に取るが 茶は入ってない。アヤメがぬるくなった湯飲みを持ってコアを見上げると、微笑んで受け取り 飲み干した。
度々目を潤ませながら話す内容に、居合わせた従業員たちが言葉を無くしている。
奇跡の治療と信じていたアシンの功績は 全て擬物だったという事実と、多い家臣の下働きに次々と雇われた国民の数。
実際に、大通りで『アシン様に直接声をかけていただいた』と、喜んで大盤振る舞いしていた家族の その後は誰も知らない。
『ヘルラが言った事も、間違えでは無いのですよ。善も悪も、王の一声で決まってしまうのですから』
『シュラも以前言ってましたわね。勝てば正義、統率者が善だって。ならヘルラをマッサツすれば良いのですよ』
アヤメの言葉にロアルがギョッっとする。
抹殺の意味を理解してないのに、わかったような口振りだからだ。他の従業員たちも同じだが、
『アヤメは抹殺の意味を理解していて?』
『多分、見えない所にでも隠すのでしょうか』
話の途中で震えたり、涙ぐんでいたアヤメには理解できてないと周りが覚る。
『意味がわからないまま、言葉に出すのは危険なのですよ。命令と間違えて誰かが行動するかもしれません。でも良いですね、ヘルラを抹殺しましょうか』
冷たい眼差しで虚空に向けてコアが呟く側で、こっそりアヤメとヒムロが「マッサツって何?」「よく解らぬ」と言い合う。
『ヘルラは国民の意識に何らかの変化を与え、個人の利益のみに動いています。アシンも同様ですね。本当はアヤメの旅路を詳しく聞きたいのですよ』
政治に関係の無い対話なら、言葉使いの責任は少ないし、この場であれば何を話しても大丈夫だと微笑む。
真っ青な顔で広場に集められた兵士が副班長と、トレザまで来た兵士全員が揃う。
「終わったな」
兵士が呟く。
サラが軽々と火薬の入った大きな木箱を持っていたのだ。
「ここに向かって歩いていた時は、何も持って無かったぞ」
「やはり神の起す奇跡だろう。俺等の事は、お見通しだったんだ」
小さな木箱を一つ取り出して、着火して見せろとトレザの民に囲まれる。
土地神であるサラの前で、逃げる事も出来ずに改めて以前と変わらない広場を見回す。爆破を失敗したのではなく、土地神が広場を守ったのだろうと兵士全員が確信した。
逃げる手段も無く、神とトレザの民の前で公開処刑されるのだ。
「死ぬ前に、なんか食いたかったな。腹は減って無いけど」
覚悟を決めたというよりは、諦めた兵士がボソリと呟く。
副班長は、ただ悔しそうに拳が震える程 強く握り締めている。
「アギルの次に偉い人って誰かしら」
松明を持って兵士の輪に入って来たのはユタの妻リリだ。兵士たちも良く覚えている。
「兵士の皆さんは、座って下さいね。前の方の人は出来るだけ低くなって」
張りのある声は、広場全体に届く。
「私がアギル班長の代行を任されている」
兵士の中で一人立ち上がった副班長に、リリが松明を手渡す。
「じゃあ、火を着けて。少し離れた方が良いかしら」
近くで座る兵士に少しだけ下がるように言う。
「では、トレザの長が不在である今は、長の代行としてあなたも近くに残るといい」
副班長はリリに兵士の間で着火を待つように勧める。
「あら、特等席ね。なら喜んで」
強張った表情の兵士たちに笑顔を向けて、ペタリと近くに座る。道連れとなるリリに同情の視線を向ける兵士が多いのは気付いてない。
ただ最前列で大きく開く炎の花に期待している。
強張った表情で副班長が木箱に向かう。
カカカットトトンと剣舞で合わせた鳴り物が響く。
何事かと副班長は音の出た方に視線を向けた後、両手で松明を持ち 静かに木箱へ着火した。
導火線に繋ぐ箇所に松明を当てて、きつく両面を閉じる。
「ちょっと、下がらないと火傷しちゃうわ」
リリが副班長を木箱から少し離したとたんに大きく燃え上がった。
シュシュッっと軽快に燃え上がる炎は広場全体から良く見える。中央に集められた兵士は着火の直後こそ目を閉じて逃げ腰だったが、色とりどりに燃え上がる炎を見上げている。兵士によっては腰を抜かし、その殆どが両目を開いて口もポカンと開く。
それもそのはず。爆破に巻き込まれる事を覚悟していたのだから。
眼前で燃える炎は美しく鮮やかな色を発して静かに消えていく。
僅かな時間でありながら、兵士は思い知らされた。
神々に護られたトレザを制圧下に治めるなど、愚かだと言う事実を。
鎮火の準備は充分とはいえなくても、ある程度 整えていた。
導火線があまりにも短くて、着火場所を広場だけに決めた。
大きな爆発で広場は焼け消えたはずだった。
神々の在る神聖な土地だと言う事実を失念していたのだ。
小さくなった炎の前に立ったサラが兵士たちだけに聞こえる音で伝える。
「事前に火薬の存在に気付いていたアギル。火薬を抜き取ったのはルフト、細工したのはユタです。わたくしたちは、少しトレザの民が好意的に振る舞えるよう、手助けしただけなのですよ」
副班長が声に出さずに叫ぶよう、膝を付いて天を仰ぐ。
兵士や副班長の様子に気付かないトレザの民は、炎の花に感嘆の言葉を伝えあいながら、剣舞で鳴らす木々をカツカツ、コツコツと賑やかに立てて楽し気に騒いでいる。
少し緊張していた兵士の様子に気付いていたリリが立ち上がり、副班長を慰めるように歓迎すると言った。
ヘルラが例の衣装に袖を通したと聞いてから、しばらく龍の城は静かなままだ。
シュラはゆっくりと呼吸しながら、ラーから聞いた情報を基に思考を巡らせる。このまま朝までアシンがヘルラを連れて来なければ、危機を回避できる。
朝になる前に儀式の準備も整えるだろう、シュラの回復と同時にヘルラが悲痛に苦しみ続ければ、苦痛に耐える必要など無い。
だが開け放した扉の遠くから無様な悲鳴が接近している。ラーが声に出さず笑う。
間もなく椅子ごと四人の側近に抱えられたヘルラと、それに まとわりついて足を進めるアシンが広間に現れた。
『王ともあろうお方が、まるで子供の如く泣きわめくなど。無様ではないか』
ラーは表情を変えずに言う。明らかに挑発した言葉使いなのにも関わらず、側近たちはラーの前にヘルラが座した椅子をそっと下ろした。
『何をしている、龍はヘルラ様を楽にして差し上げろ』
アシンの声にラーは口角を上げて
『どのような楽を望む?』
ヘルラが直接 言葉を発せないのを良い事に、ラーを睨んでは苦痛の表情に歪むヘルラを見下ろして言う。
実に愉快。そんなラーの表情に気付いたヘルラが更に絶叫する。
『では、王の望むままに。魂を苦しむ身体から解放して差し上げよう』
楽に殺してやる。と、腕を伸ばしたラーにヘルラが
『や……めろ……ぐぁあ』
『苦痛から解放される事を望むのであろう。アシンの慈悲に倣ったまで』
朝を待たずに解放される機会だと感じたが、ヘルラに止められたラーは無表情に戻る。
アシンも側近たちも 気絶した振りで眠るシュラには目もやらず、ヘルラが纏う服を脱がせろとラーに言い続ける。
『我は王の望むままに動く故、其方等の声に従って愚考するならば、王は このままをお望みだ。何故なら王は、楽にして差し上げようと我が動くのを止めたまま、囀り続けて居られる』
『りゅ……う、はぁっ』
『何か?』
『ぬ……げ』
『はじめから、我は何も着ていない』
以前から不当に使役されている事を快く思っていないラーの態度に、アシンは苛立ちながらヘルラに向けて助言を叫ぶ。
のらりくらりと屁理屈を足しては、王の魂を解放してやると対応するラーの時間稼ぎに、聴覚だけ覚醒しているシュラも安堵している。
ヘルラを救う為にシュラを構う暇など無いからだ。
ただ、ヘルラも必死なのだ。苦痛に喘ぎながらも『脱がせろ』と単語になる。
シュラは間もなく苦痛の時間が始まることを予感しながら、ヒムロの衣をどう活かすか思考する。
『肌ごと脱がせれば良いか?其とも肉ごと脱ぐか』
『ふっ……服だ』
必死で返答したヘルラに、ラーは ゆっくり歩いてヘルラの前に屈む。
ヒムロの衣で与えられる苦痛を引き延ばすように、あえて遅い動作でヘルラを立ち上がらせた。
『王よ、あまり喚き続けられては指令を違えるであろう』
叫ぶヘルラに『黙れ』と微笑み、ゆっくりと、ゆっくりと袖を外して行く。
できるだけ時間を稼いだつもりだが、朝までは まだ遠い。
『龍、私の命令は素直に聞け』
『至って素直に聞き入れ、魂の解放を手伝うと申し上げた』
苦痛から解放されたヘルラは怒り心頭だが、ラーは無表情で受け流す。
思いがけない苦痛を味わったヘルラは かなり感情的になっているので、ヘルラだけなら御しやすい。しかしアシンが冷静に助言する。
『その衣装に使われている布は何か、答えられるか?』
ヘルラがアシンに促されて聞く。
ラーは黙ってヘルラから脱がせた衣装を見つめるだけだ。
『シュラを起せ。全て吐かせる』
盥の水を手桶に汲み上げ、乱暴に顔にかける。
『アシン様、起きたようです』
側近の一人が髪を掴み顔を上げれば 薄目で睨むシュラと目が合い、慌てて離れる。
「シュラ、この衣は何処で入手した」
「旅先だ」
「詳しく言え」
「拾った大蛇の脱け殻を小さな村落で加工した。詳細は記憶してない」
アシンはシュラの服に指先で触れてすぐに離す。
『ヘルラ様、龍に確認を』
『聞いていたであろう。龍は、この衣が大蛇の脱け殻と主張するのに、異論はないか?』
『大蛇……蛇だったので、間違いない』
ヒムロと名乗るまでは、蛇と呼んでいたのだ。
『苦痛を受ける理由は』
『蛇に害意無しとシュラが認められたからではないか?』
普段は無表情のラーが、衣を感慨無量の表情で見つめて瞳も僅かに潤んでいる。
『龍は衣による苦痛があるのだな?』
『心の底まで染み入るほどだ』
ラーは苦痛など微塵も感じていない。ヒムロの脱け殻が人の手で衣装として仕立てられたのを、しみじみ眺めているのだ。
『着るが良い』
言外に苦痛を味わえと、ヘルラが満足そうにラーに言う。
衣を手に持ったまま、ラーはヘルラを見る。驚いた表情のラーと目が合ったヘルラは、声に出して笑いながら着て見せろと言う。
『承知』
従う返答をしたラーは無表情に戻り、衣に袖を通す。帯を巻き、男物の衣装でありながら華やかな出立ちになる。
突然、ラーが両手で顔を覆って座り込んだ。
『それでは見張りの仕事ができまい』
『たまには良いだろう。龍が震えて踞る姿など、なかなか観られぬ』
ヘルラとアシンはラーの態度に、すっかり安心したのだ。苦痛で立てないほどだと。
実際には、ラーが感極まった笑顔を見せる訳に行かず、仕方なく顔を隠して座り込み、滑稽な己に笑いが込み上げて苦しんでいる。
思いがけず強い護りの付いた幼龍の衣装に袖を通した喜びで、感情が押さえられない驚きと喜び、そして未熟な己に 笑いをこらえるので精一杯なのだ。
アシンの側近がシュラの上着に隠してあった武器を並べて行く。大抵の道具は見た通りに使えるが、アヤメの為に作られた「綿の種を砕いて打ち出す道具」は、使い方がわからないと聞いて来る。
「アヤメの玩具だ」
「どのように使うか、言って見ろ」
「両手が使えない。このままでは使い方を見せるのは無理だ。それに、ただの玩具に過ぎない」
この流れで手の拘束だけでもほどかれるように、シュラは相手の様子を見ながら言葉を選ぶ。
顔に残る傷はまだ痛々しいが、すっかり回復した身体を覚らせる訳に行かない。
ユタはトレザを離れた地で眠れるか不安だと言っていたが、タタジクで用意された寝台に全身で興味を示したまま深い眠りに落ちた。子供のような寝顔だ。警戒心の無さも トレザでは常識だが、タタジクでは領主の寝台付近に夜通し警護の者が立つのが常識だ。
人の常識とは時間が変化させるだけで無く、土地や環境、生活の習慣でずいぶん変わる。
ルフトもラージャの懇切丁寧な解説に、脳が追い付かずに夢の中でも解説を繰り返して少々 魘されている。光は速度によって色合いを変化させる。音は振動の幅によって音色を変える。振動が人の心にまで作用する、等々。
「人は夜に休む生き物だが、シュラと分身の様子が見えぬ状態で過ごすには 朝まで手持ち無沙汰だな」
誰に言うでもなくラージャが呟く。
整えられた寝台に寝転がってみる。ユタの感動はここにあったのかと、感心して寝台の弾力性を堪能した後でルフトの夢に更に干渉しておく。
人の知識をどう応用したら、映像を造り出せるか。ルフトの知識よりも人脈から糸口が掴めると判断したからだ。
警護に当たる兵士は扉の外で、トーナの兵隊から二人が立っている。
トレザでは平和的に兵士を制したと、アギルに伝える為にラージャが扉を使わず移動する。
兵士の宿舎は ラージャも滞在した時期がある為に、間取りも覚えている。
アギルの個室ではバムも一緒に話し合う姿を確認して、
「人は夜になると休むものではないのか?」
ラージャがアギルの部屋に突如現れた。
「今後のことを考えると、俺の休みは長くなりそうなんで、班長のうちに班長らしい事をやっておきたいんだ」
ラージャの出現に動じることも無く苦笑するアギルは、最悪の場合 極刑だろうと呟く。
「唯でさえ短い命を、己の意識で諦められるものなのか?」
ラージャはまだ若い龍だが、人の命は 更に短いと知っている。
誕生を前後して魂が体に定着し、時間と共に成長して老いて行く。
記憶の殆どは肉体に残り、魂が離れれば記憶は肉体と共に朽ちて大地に還る。
殆ど魂に記憶が残ることはないのだ。何度となく転生した魂に巡り会ったが、記憶に残っていなかったのだ。「人は忘れる生き物だよ」クウの言葉を想いだし、他愛ない落ち着けるやり取りができる相手の、記憶が残らない喪失感にため息を吐く。
「ラージャが哀しんでくれるなら、俺が生きて来た価値もあるな」
「哀しむと思うのか?」
「そりゃもちろん。短い命だから諦めるなって言ったばかりだろ」
都合良く捉えたアギルにラージャは自然と笑む。
「ああ、そうだな。哀しむのかも しれぬ」
その後はバムが、いかにトレザが平和で住民の活気があるか、勢い良くアギルに話して聞かせる。特に交流の多い職人のことばかりだが、二階建てや三階建ての建築方法を尋ねられて詳しく説明出来ないままだと騒ぐ。
「トレザではバムが無口な男だと感じて居たのだが、随分 饒舌だな」
バムがラージャに言われて苦笑する。
「俺はトレザだと悪者なんで、自分から言い出せる機会の方が少ないから」
「悪とは何をもって言うのだ?」
ラージャの質問にバムとアギルは言い淀む。
「トレザを侵略するつもりでいたから、だよな?」
アギルが言ってバムも頷く。
「我はトレザを崩落させるつもり だったが?」
それも二人は良く覚えている。
「でもラージャはトレザの神だから、信頼されているだろ?」
「我の行いと タタジクの指令に、いかほどの違いが在るのだろう。更に言えば、我はユタやシュラの助言が無ければタタジクも消す予定で居たぞ」
ラージャの意見に二人が黙ってしまう。
「悪って……なんだろう」
ラージャの言動は、神だから何でもアリだと感じていたが、問われていることが違うと感じる。
「善も悪も、人の造り出した理の範疇だと言っている」
人の争う規模なら、神の思い付きで滅びる土地よりも 遥かに多くの生存者が残る。其処に負の感情ばかりが残ろうとも、規模の大きな自然災害に人が太刀打ちできる訳が無い。
「ラージャの言う善と悪ってさ、ちょっと俺の感覚だと でかすぎて解らないけど……例えば火薬を持ち込んだ連中も、言い訳じみた正義が前提ってことかなぁ」
「言い訳じみた正義か、面白い表現だな。純粋な悪意は、それほど多く存在しない」
ラージャの言葉にアギルは拳を強く握って、医務室に連行した二人の仲間を思う。
骨折した兵士は、歩けるようになっても以前のように走れるとは言えないらしい。鳩尾に拳を強く当てた兵士は、事情を聞きに行った時には意識が無かった。
仲間に手を上げた罪悪感と、事前に防げなかった責任感。そして善と悪は人が造り出したものだとラージャが言った意味を何度も頭の中で繰り返す。
「トレザみたいに、上手く回ると良いんだけどな」
バムは、自分が悪者になるだけでトレザが上手く回ると言う。
「バムは理解して無いな。悪は無くともトレザの活力は衰えぬ」
悪者は居なくて良い。
悪意無き行動に苦しむ者が有れば、苦しまぬ方向を模索すれば良い。
罪も、悪の存在を前提としたものだと、ラージャは言う。罪と罰は、善悪を前提にした人の常識に添うもので、根底から考慮すれば 増えすぎた人が快適に生きられるよう造り出されたものだと。
「ラージャ、ちょっと難しいや。俺は俺の周りの連中が幸せなら充分だ」
「手を差し伸べられる範疇を、幸せとやらに導ければ良いのではないか?」
アギルにラージャが応えると、
「そうだよな。バムも、悪者なんてやめてトレザでも堂々と何でも言っちまえ」
「……そうする」
他愛ない対話だとラージャは ほんの一時を楽しんでいるが、アギルとバムにとっては大きな助言になった。
先頭班の犯罪行為は、タタジクとトレザの友好関係に打撃になったことは間違いない。完全に理解できなくともラージャが言った意味を心で咀嚼しなおす事で、関係性の改善に繋げられると確信した。
閲覧ありがとうございます。
時間が欲しい。




