苦い夜の始まり
コアが涙を拭いながら 一人で頷いたり微笑む姿は、直接 見てはいけない気がしたのだろう。アヤメとロアルは机の上にある書類の文字を読むでもなく眺める。
「アヤメ様は、こんな仕打ちに怒らなイのか?」
ロアルは地下牢な上に不衛生で、次期王であるアヤメや前王妃に対して罪人のような扱いは おかしいと憤慨する。
「凄く臭いけどね。お母様に会えたからアタシはどんな場所でも平気だよ」
シュラとの旅では、家畜小屋に忍び込んで夜を明かしたり、肥溜めに落ちた時は これ以上に辛かったとアヤメが笑う。
「宿屋に泊まらなかったのかイ?」
「うん。滅多にお泊まりしなかったね。大抵は野宿で、屋根があるのは家畜小屋が多かったかな。倉庫とかね」
あまりに想定外な旅路を語るアヤメにロアルは言葉を失う。ルフト所有の砂漠の城と迄は言わないが、ある程度の宿屋を使っていたと疑わなかったからだ。
ただ、語るのは上手いアヤメの旅路を、コアが落ち着くまで聞く体制でロアルも構え直す。
事実上、貴族の前で話して良い言葉は特定されてしまう。場合によっては直接対話する事もできないのだ。なので刺激臭の中でも貴族に割り込まれない現状の方が落ち着くと笑うアヤメに困惑しつつも、旅路の話しに耳を傾ける。
金銭の管理は全てシュラにお任せなので、宿屋に宿泊しても かなり安い所であったり、実際に宿泊施設のある所ばかりではなく、雨風を凌げれば何処でも眠れると言う。洞窟と思って入り込んだ穴で先住の動物と遭遇したり、簡単な小屋を建てたら眠る前に崩壊したこと。
波乱万丈なりに、得難い経験を多く積めたと楽し気に語るアヤメにロアルもただ頷いたり相槌を打つ。
突然、床の穴から小動物が続々と入り込んで来た。排泄物の入った壊れた箱に群がり、どうやら食べている。
アヤメは軽快に喋っていた口を止め、ロアルも 小動物から目が離せない。
更に腐敗した遺体にも違う小動物が群がった。かなり大きな鼠だ。
腐敗したとはいえ、人として生きた者の末路にしては あり得ない。ロアルは込み上げて来た物を我慢出来ずに吐き出した。
「獣葬じゃ。魂を留められぬ肉体は、自然界の理に乗せてやらねばのう」
ヒムロが穴から顔だけ出して言う
ロアルの背中を擦りながらアヤメが
「じゅうそう?」
解っていない様子で聞く。
「うむ。魂の抜けた体は大地に還り、魂は次の体に宿るまで天に還るじゃろう?」
「んー、多分」
排泄物を喰っていた小動物が木箱から離れると、綺麗になっている。続けてロアルの吐瀉物も綺麗に喰らい尽くした。
それでも遺体の骨を噛る音に ロアルの吐気が治まらず、胃液だけを吐く。
「コア、どうじゃ。皆の気持ちは届いたか?」
ヒムロに向き直ったコアが、深く頷く。
腐敗した遺体も喰らい尽くしたのだろう、悪臭がかなり落ち着いた。
『側近へのご配慮ぉ、深く感謝致しますぅ』
両手の指先を揃えて床に付き、ヒムロに向かって深く頭を下げる。頭が床に付くほど下げて、小刻みに震えているのは、現実を思い知った苦しみと悲しみからだ。
まだ息をしている鱗に包まれた側近と、カンナは変わらずに眠ったままだ。
「よし、かなり臭いは減ったようじゃのう。して、コアはこの者たちはどうする?」
呟いてヒムロが穴から入る。
息をしているが、目覚める事が無い鱗に覆われた側近。そして緑の髪の少女は少し瞼を動かす。カンナと呼ばれていた側仕えだ。
タタジクでは晩餐の宴の準備が整った。
控室に戻って来たアギルが皆に伝えて、大きめのソファーに身を埋める。
そんな態度に文官たちが苦笑して
「おいアギル、兵士の仕事はしなくて良いのですか?」
気軽な雰囲気で声をかける。
「もう大仕事やったんだけどな」
ふう。と息をついてアギルは体を起こしてソファーに深く座り直す。
ルフト主導でトレザでの文官仕事が山積みだと知らされたばかりだ、対話しやすいアギルが いきなり態度を崩したことで、空気が和む。
ユタの控室に用意された客間は、玄関ホールから近い。
領主の城は一階部分が主に作業する身分の者が使用し、地下は倉庫として使用されている。あまり知られていないが、罪人の収容も地下でされる。
二階部分は領民に広く公開されている。外階段から続く廊下があり、城内に続く玄関ホールを通らなくても 外の廊下伝いに会議室や食事もできる宴会室が複数設けられている。勿論、事前の使用許可と予約が必要になるが、普段着で気軽に城を訪れる領民は多い。
アギルは案内だけ伝えて控室に残ろうとするが、ユタが困ると言って晩餐に同席する事になる。
タタジクの常識がわからないのだと、懇願した。
晩餐会に案内する側仕えがラージャに質問の許可を取る。上位者に対しては、色々な決まりが多いのだ。
「我に聞きたいこととは?」
特に何も隠す事は無いと、畏まった態度の側仕えに問い掛ける。
「食事での御好みが わかればと、領主様からのお言い付けがございました。お好きな食材は御座いますか?」
準備が整ってから聞くのだ、肉でも野菜でも酒でも 何でも出せる自信があるのだ。
「そうだな。特に好むなら人だろうか。酒は果汁の風味が残る程度の物が好みだ」
ラージャの言う「人」は、人の持つ気の事だ。しかし側仕えの解釈は違うようで、顔色を変えて強張った声で尋ね直す。
「生きた人を召し上がるのでしょうか?」
この質問にユタは苦笑する。初めてリリがラージャに見せた態度を思い出したからだ。
「ラージャ様は、人を食べたりなさらないよ。お酒はお好きなようだけど、食べ物を召し上がることは ない」
ユタの助け船に安心した様子で、側仕えは報告する為に先に行くと出ていく。
側仕えが先に行ってしまった為に、晩餐会の準備が整えられたホールまでアギルが案内する。ルフトの要望で残っていた文官も、報告する為に執務室へ向かうと退出した。
「建物の中だと言うのに、とても広くて迷ってしまうね。アギルもここに住んでるのかい?」
廊下に出たユタが聞く。
「いや、俺は兵士に与えられた建物に個人の部屋があります。それと、班長になったので 今は会議室も有るんですよ」
アギルが廊下に出たユタに、見える範囲で部屋の説明をする。
ユタたちが通されていた玄関ホールに近い控室は 普段から領主の側近や、城を使用する領民の予約管理する文官が待機している。
廊下を挟んで玄関ホール側の扉は領民も利用する会議室が並んでいる。反対側に領主の執務室、資料室、奥に図書室があり、領民も許可さえあれば資料や本を閲覧する事もできると、アギルの説明をユタとルフトが感心して聞く。
晩餐会の会場は逆の廊下に近く、やはり領民も利用可能な食事ができる部屋が並んでいる。そして廊下を挟んですぐの広間に通された。
温かい食事が すぐに給仕できるよう、椅子毎に側仕えがきちんと立っている。
ストラークの演奏隊は広間の片隅に椅子に腰掛けて楽器を構えた姿勢を崩さない。馬車の周りで演奏していた制服と違い、落ち着きのある色合いで女性は裾の長い服、男性も似た雰囲気の服だ。室内は豪華に飾られていながら決して派手ではなく、初めて入るユタも妙に落ち着く。
アギルに案内されるまま、広間に入ったユタは、広間全体を見回して
「素晴らしい部屋だね。家族や、トレザのみんなに教えてあげたいよ」
ぼんやりと呟いた。
トレザの広場では、パウゾの剣舞を夜に行うらしいと噂が上がる。パウゾ本人は、その雰囲気に乗せられて複数人でやる気満々だ。
噂を流したのはタタジクの兵士だが、闇で顔が解りにくい状況を利用した。
「パウゾの剣舞は今夜辺り見られるのか?」
その一言で充分だった。
祭りの余興で代わる代わる 皆が歌ったり踊ったり、職人の工作発表や蝶の観察記録を意見交換するのも定着した。食材に関しては、広場に一旦収穫物を持参して銅貨と交換するようにもなってきた。
広場はトレザ全域の情報が集まり拡散される唯一の場所になった。
陽が傾いて、近くに寄らなければ人の判別も付き難くなる頃に、タタジクの兵士たちは広場の周りを改めて観察する。四方八方に繋がる道があり、大人でも隠れられる程度の茂みも多い。
舞台は見晴らし良く高い位置になっている為に、舞台上での催し物は広場から離れていても確認できる。その代わり舞台から離れた場所まで丸見えでもあるのだ。
ただ、以前と違い 舞台上に置いた衝立ては広場の中から見ればムウの絵画だとわかるのだが、さすがに後ろから見るだけでは ただの衝立てなのだ。
火薬を仕掛ける為に広場の何処に設置するべきか、直接 現地で確認した上で火薬設置班が集まる。
人目を迂回して広場の茂みまで伸ばした導火線も、全て繋いだので余裕はある。
暗い時間になると、広場から子供たちは各自の家へ帰って行く様子も見て取れる。代わりに仕事が落ち着いた大人は広場に集まり出した。
「あの舞台上にある衝立ての後ろに火薬を仕掛けるのが良いだろう。パウゾが舞台に上がったら退避する」
設置班の一人が言うと、皆が同意する。
子供の犠牲者が減らせる上に、当初の予定であったパウゾ暗殺が確実な場所になる。舞台上での催し物が無い時は、衝立ての前で何人も集まり感嘆の言葉を並べているが、後ろまで回り込む者がいない。
設置班は複数人で火薬を運ぶと目立つと言う事で、先ずは単独で火薬を衝立ての後ろまで運ぶ。これは案外簡単に済んだ。
続いて導火線。
茂みとはいえ、複数の大人が隠れるには怪しく見られても当然だろうと、他の兵士に合流する為にその場を離れる。火薬設置班の二人が残り、一人は周りに警戒しながら導火線を延ばして行く。衝立ての後ろまで着いても 特に誰かと遭遇することもなく、火薬の箱に繋げて茂みまで戻る。
あとは、パウゾが舞台に立つのを待つだけだ。
剣舞が始まり次第、着火地点まで走る。消火班も安全な区域まで水を運んでいる頃だ。
「子供たちが広場から離れてくれたのは、良かったかもな。バムより簡単に丸め込める」
「全くだ。子供なんて親がいなけりゃ、楽に扱える。それに、人数が多いなら使い捨てても大丈夫だろう」
「使えそうな子供だけ残ればいい」
辺りが薄暗くなり、広場で談笑する大人の周りに灯りが付く。ボンヤリと広場に点在する灯りが、茂みに隠れる兵士をすっかり隠した。
龍の城に数人。
王ヘルラと側近が二人。そして貴族アシンと側近が二人。王の言葉で動く龍神ラーは、その瞳に今の景色を映していない。
手足を拘束されて床に転がされているシュラに、アシンが話す。
『そろそろ言葉を解らん振りは止めたらどうだシュラ?』
「名を呼ばれても、何を問われているのか理解できません」
言葉を知らない振りを通しぬくつもりでシュラが答える。
側近たちの手でシュラの採寸は済み、アシンの配下が着る御仕着せにちょうど良い寸法の衣類があると伝えられた。
『そうだな。御仕着せが有るのだから、今から私の配下としてやろう。国民が憧れる立場にさせてやるのだ、喜ばしいだろう』
シュラの正直な気持ちとしては、とんでもなく迷惑な限りだ。しかし顔に出さないように
「セトラナダの言葉では、何を言われているのか理解できません」
言い終わらないうちにアシンがシュラの腹を蹴る。
『惚けるなよシュラ。以前のように、私が満足するまで可愛がってやると言っているのだ』
ニヤニヤ笑うヘルラと胡散臭い笑顔のアシンが見下ろして話す。
『アシンよ、このヌッタの男に龍の手足をすげ替えてみるのは、面白そうではないか?』
龍はラーの事で、腕を切り落としても数日あれば再生する。しかし夜明けには儀式を控え、国民の前に出るには外聞が悪い。
『それは試してみたい実験ですな、王。しかし、龍の手足が無い状態での儀式は 国民に見せられません』
アシンも実験には乗り気だ。
だが数時間後にアヤメを国民に披露する予定もあり、同時に龍にも会わせると約束はした。
『うむ。アヤメも手に入れた事だし、このヌッタもアシンの実験に役立てるが良いぞ。なに、時間は有るのだ。急いで殺す事もあるまいよ』
実験と言いながら、死に直結する事を隠そうともしない。
『実験も楽しみですが、王はヌッタの利用法を思い付きませんかな?』
少し馬鹿にする言い方にも取れるが、ヘルラは気にもせず
『何かできるのか?』
普通にアシンに質問する。
『先程の剣舞で見たように、ヌッタの武力は相当な物ですからね』
現在セトラナダに居る騎士では、個人でシュラと対戦させて敵う相手はいないと話す。
『ふむ、戦力として使うのか?』
『その通りでございますよ、王。この男シュラに、タタジク制圧を任命されては如何でしょうか?』
シュラは言葉を知らない振りで聞いている事を意識して、アシンが話す『タタジク制圧』の言葉に反応しそうになる体を止める。
『さすがに一人で制圧するのは無理ではないか?』
『勿論、逃げられても困りますからな』
何が面白いのかヘルラはかん高い声で笑う。
しかしタタジクの使節団と共にアヤメを謁見の間まで連れて来たのだ、シュラとタタジクに関係性があると見越してアシンが続ける。
『例えば、シュラの見張りを先程の使節団に言い付け、武力的な殲滅をシュラにさせる事ができれば、今後の武器輸入も安価に代えて行けると思います』
タタジクは金属加工品を産業の主流としているのだ。
勿論 武器だけではなく、工具や部品、金属の装飾品も多く出回っている。
『それは面白そうではないか。どうやらタタジクとも交流を持っているのであろう?親密な相互関係が崩壊するのは愉快だからな』
思った以上に展開が楽しみだと笑うヘルラ。
対話を聞いているシュラは、この王と貴族のやり取り事態に立腹しているのだが、呼吸を整えながら冷静に思考を巡らせる。
ヒムロの行方とアヤメへの処遇、そしてラーの無表情な視線。
全てが予想外の悪い方向に進んでいる中で、何処から救いだして行けるのか。シュラ自身が単独で逃げても、ラーの状況は改善されない。アヤメもヘルラの言いなりになるか、不遇な環境下に落ちる。
『ヘルラ様はまず、このシュラをどのように洗脳して行くのがお好みですかな』
アシンの言葉使いが気安い。
『それはもう、死なない程度に苦痛を与えるのが手っ取り早く、観るのも愉快だが?』
『同感にございます。では、王ヘルラ様のお言葉の通り、今から徹底的に洗脳してやりましょう』
けたたましいヘルラの笑い声に合わせて、側近達が動く。シュラを囲んで見下ろす六人から、身を捩ってラーを見上げる。
相変わらずラーの瞳は何も映していない。
「のうアヤメ、腹が減ってないか?」
ヒムロに聞かれて『食事』と手渡された湯飲みを眺めていたアヤメが苦笑して頷く。
「さっきもお茶とお茶請けのお菓子我慢したじゃん。それに、今もこの仔達がお腹いっぱいって満足しているからね」
小動物の群れを見て それから ロアルが嘔吐したばかりなので、きまり悪そうに話す。
「しかし、それを飲むのは勧めぬ。ラーの血に何か混ぜてあるのじゃ」
「混ざって無くても飲まないよ」
ヒムロが袂から袋を出し、湯飲みに入った龍の血を入れる。
「後でシュラに何が混ぜて有るのか調べて貰うのじゃ」
ヒムロも現在のシュラがどんな状況なのか知らない。
先日龍の城に入った時は 不安も感じなかったし、離れたアヤメの位置も把握できていた。しかし今は離れた相手の場所すら特定できない。
「明日はシュラもお着替えして、お披露目する時にも一緒に居てくれるんだよね」
着替えを用意すると言っていたのは、貴族アシンだ。
『ねえロアルゥ。お家に行っても良いかしぁ』
胃液も出ないほど吐いていたロアルは、すぐに返事ができない。
体制を立て直し、大きく深呼吸してから
『国王妃をお迎えするには、とても狭い所でございます』
大きく首を左右に振る。
『だったらぁ、地下のぉ通路でも良いわよぅ』
『なぜですか?』
『ここだとぉ、ロアルが苦しいでしょぅ』
腐敗した遺体が無くなった辺りに視線を向ける。
嘔吐した原因があった所だ。
それに、地下牢よりはロアル所有の酒蔵の方が良いのは明白だと、思い直す。
『コア様の御配慮、有り難く賜ります。ロアルの家へ、ご案内しましょう』
『嬉しいわぁ』
ふんわり立ち上がるコアは、やはりよろける。すかさずロアルとアヤメが転倒を防ぐ。
『ウフフ、頼もしいのねぇ』
支えられて床の穴まで歩くと、ヒムロが先に穴から飛び下りた。
「私が受け取る。コアをよこせ」
ロアルに抱えられたコアは穴からそっと下ろされた。
アヤメが続いて飛び下りる。ロアルが最後に飛び下りて
「穴は塞イだ方が良イか?」
「いや、朝迄に戻るじゃろう。誰も近寄る事は無かろう」
このままで良いとヒムロがコアを担ぐ。
『小さいのにぃ、ヒムロちゃんが頼もしいわぁ』
ロアルを先頭に、コアを担いだヒムロ、殿にアヤメが付いて走る。今は通路のあちこちに罠を仕掛けたと、ロアルが説明しながら駆けて行く。
訓練所に着けば、外がすっかり暗くなっている事を知る。
ロアルから食堂に向かうように言われ、アヤメとヒムロが食堂に向かう。ロアルは厨房で軽食の準備をするように指示を出しに行った。
『お母様、改めて申し上げます。お会いできて嬉しい』
『ええ私もよぅ、アヤメェ』
おっとりと笑うコアの表情は、地下牢で見た時より陰りがある。
『何があったのか、お伺いしても……よろしいでしょうか?』
それでも、状況を知りたい。アヤメが尋ねると
『いっぱいあったのよぅ。私ねぇ、アヤメみたいにぃ、上手にお話しがぁ、できるかしらぁ』
「アヤメ、コアは龍の血で生き永らえておったのじゃ。同時にあらゆる思考が、今も混在しておる」
ヒムロはコアの記憶を垣間見た程度だと話すが、何から伝えれば良いか困惑するコアの話しを補助する形で地下牢に押し込められてからの事を話し始める。
王ウェルがコアの前で側近の護衛騎士に刺された時から。アヤメ自身、嫌な胸騒ぎが起きていた時を思いだし、グッと膝の上で両手を握る。
護衛騎士から血で濡れた手紙を受け取り、救護班が到着した。混乱しながら側近に囲まれて自室に戻り、手紙に書かれた驚愕の内容に憤りを隠せなかったこと。
急いで側近の文官たちに手紙を複写させ、護衛騎士を追い詰めた貴族アシンに追及するつもりだったこと。
アヤメが危険な目に合っていると僅かに感じながらも、生きている確信はしていたこと。
ウェルが亡くなった翌日には まだ王妃の自室で過ごしており、翌日以降から多くの貴族から面会の打診があったこと。信頼できる貴族との面会を予定していた日に、側近を含めて地下牢に連れて行かれたこと。
地下牢も始めはコアが眠れる程度の小さな寝台は用意されていた。同室に入れられた側仕えは二人、側仕えの寝台は無い。コアの提案で、時間がわからない地下牢なので寝台は交代で使う事にした。
机は複数あり、本来ならウェルが行っていた執務の書類と一日に二回の食事が届けられていたこと。
ヘルラがアシンと側近を伴って数日置きにコアの様子を見に来ていたこと。
『地下牢に押しやった上に、コア様に執務までさせていたのですか?』
話しの途中から食堂に来たロアルが憤りの声をあげる。
『退屈していたからぁ、もうどうでも良かったのよぅ』
何もせずに考え込んでしまうと、ただ悲しみと不安でおかしくなりそうだったと話す。執務書類と向き合う時間があって、唯一の救いに感じていたこと。
『これがシュラの話していた洗脳ってヤツか』
「そうじゃろう。しかし、コアの筆跡に気付いた者が救出を試みてアシンに地下牢へ連れて来られたのじゃ」
心を病んで人前に出られる状態ではないと、コアへの面会依頼は全て却下されていたのだ。しかし執務に携わる文官たちにコアの筆跡を覚えていた者が数人いた。
話しの内容に躊躇して軽食を運んで来た使用人が動けずにいる。
『わたくし、とても空腹ですの。温かいうちに、いただきませんか?』
張り詰めた空気を笑顔で切り割いたアヤメに、皆が肩の力を抜いて同意した。
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