それぞれの朝
龍の城で埃の積った部屋を出る。
『ラージャ様……ですよね?』
女性の姿と、簡素にヒムロの布を巻き付けただけのラージャにアヤメは戸惑いながら、声をかける。
『アヤメ、随分 大きくなったな。以前供に食卓を前にした龍で間違いないぞ。我の事はラ-と呼ぶがいい』
ラ-と名乗った分身体がアヤメに微笑む。
石造りの床には塵一つ無く、皆の姿が映る。
『畏まりましたわ、ラ-様。こちらの広間は、床だけは清められているのですね。安心致しました』
側仕えに準ずる誰かが床を磨いていると思ったアヤメが話す。
『いや。我が清めた』
『なんですって?』
やはり驚きと、怒りの表情が隠せない。
『暇だったからな。この城を清めに入る者は、今はいないのだ』
少々おどけた表情で、アヤメを見下ろしてラ-が言う。ラ-と、連れて来られた人の血で汚れていたとは、アヤメに知らせない。
アヤメは鼻息も荒く
『ラ-様の お城なのですから、側仕えを総動員して清めるべきですわね。わたくしも、お手伝いしますわ』
雑巾がけぐらい、アヤメだって出来ると豪語する。
『次期王に雑巾など持たせる者はいないだろう、アヤメちゃん』
ロアルの言葉にシュラとヒムロは苦笑する。
ユタの家では、アヤメも普通に掃除にも参加していた。職人に教わりながら工具を使ったり、狩で仕留めた獲物の皮を剥ぐ事も、今のアヤメには出来るのだ。
厨房の階段を下り、酒樽の上に乗って進む。
『ラ-様、不躾な問で悪いが、この酒樽は全て空だな。私の店の記しが付いているのだ、返却して貰えるだろうか?』
『うむ。好きに持ち帰るといい』
ラ-の返事を聞いたシュラが、扉の近くにあった樽を一つ、外まで運び出した。
『幾つも持てない。今回は私とロアルで一つずつだな』
シュラに続いてヒムロが出る。ラ-は開いた扉の見えない壁に阻まれた。
『ラ-様、出ましょう』
アヤメが手を繋いで外に出るが、ラ-と繋いでいる手は外まで出ない。
「私の出番じゃ。トトの作戦を実行する」
ヒムロが再び中に入り、ラ-を抱えた。
しかし抱えたままではヒムロも外に出られない。
『どうなっているんだ?』
ロアルが呟く。
『結界に似た、我の檻だな。やはり出られぬ』
「口惜しい」
それでもヒムロは力ずくで見えない壁に体当りする。
『もう良い。ヒムロの思いは嬉しいぞ。まだ、他の策もあるで あろう』
「ラ-の奪還が出来れば、事も楽に運ぶじゃろうに」
悔しいと 何度も言いながら、ラ-を下ろす。
『いや、皆が無傷で今の状態ならば、上等だろう』
シュラが外に出した樽を持って中に戻る。アヤメも続いて入ると扉を閉めた。
『我が外に出られぬのは、想定範囲内だろう。泣くな』
「まだ泣いておらぬ」
くしゃくしゃの顔でラ-を睨むヒムロ。
改めて作戦会議になる。騎士や警備の状況を、知る限りラ-にも言葉で伝え直す。
ラ-が口を開いた。
『ヘルラが居る時間に謁見の間へ行くのはどうだろう。祭りの期間なら平民でも謁見できる』
皆がラ-を見た。ラ-は続ける。
『アヤメの偽物が、毎年 来るらしい。今年はまだ偽物が居ないとは、言っていた』
忍び込むよりは、確実にバルコニーの近くまで行ける。しかし、どう対応されるのか、全く予想が付かない。
『もしかしたら、ですけどね。穏便なお話に なる事も、ありますわよね』
全く予想外の事を言うアヤメに、ロアルだけが頷いた。
無理もない。地下室の事は知らないのだ。
ただ、その場で処刑される事は無かったとラーとロアルが言う。
シュラは、ラージャとの通信が出来ないうちに返事をするのは躊躇う。分身体とはいえ、ラーを完全に信用して良いのかわからない からだ。
「シュラ、いきなり我の言葉を全て信用するのも無理だろう。だが紋様に干渉されていない間の我は王の命令以外なら自由なのだぞ」
通信手段としてラージャからシュラに与えられた力がある。当然 分身体ラーとも連絡が出来る。
ただ、他の波長が割り込んで来るのだ。
「ラージャとの通信では、他の波を感じるのだが」
「うむ。ヘルラも研究するつもりでいるらしい。ただ、内容までは まだ理解しておらぬぞ」
「どの程度なら、安全だろうか」
「セトラナダの外に居る龍を、探し出すのが目的だろう。国内に有る『気』にまで深く頓着せぬ」
「ならラーとの通信には問題は無いという事か?」
「王の命令さえ無ければ、な」
それが いつになるのか、予測は難しい。ラーとの通信も最低限にしておきたい。
結局、明日の昼に謁見の間に向かう事に決めて龍の城を後にする。
深夜ではあるが、まだ朝 迄には時間がある。
ユタはルフトが書いていた手紙を、ほぼその文面のままで書き写す。
「ユタは文字の練習も、した方がいいな。大きさを揃えて書くだけでも読みやすくなるぜ」
「ルフトさんの指摘は有難いな。シュラやアヤメは綺麗な字を書くからね」
覚えたばかりの文字や形をとるのが難しい字は、少し大きく書いていた事に気付いて続きを書く時に注意すると、全体に読みやすそうに見えてくる。
書き上げた手紙を満足そうに眺めるユタから手紙を奪い取ったルフトが、インクの色を変えて容赦なく書き込み始めた。
「ええ?何をするんだ」
「まさか、このまま出せると思っていたのか?」
ルフトは読み難い文字や、段落の指摘を書き込みながら話す。
完璧だと思っていた手紙がみるみるルフトのインクで書き込まれて行く。シュラの文字が綺麗な理由と、ルフトが文字を教える事を躊躇った原因だと、諦め半分に書き加えられた紙に従って書き写して行く。
実際に的確な指示なので、何が悪かったのか理解しながら書き写せば、次に書く手紙の返事には困らないだろう。納得しながら書き写し終えてルフトに見せる。
「まあまあだな。バムは、手紙の叩き台ぐらい作れるようになっておけ」
ユタが写している間にルフトは木札に文章の例を幾つも書いていた。書き慣れているせいか、綺麗に揃った文字は読みやすい。
木札に目を通したユタがため息を吐く。
「まだ先は長いね。ルフトさんみたいにサッと文章を書ける気がしない。しかも、これで まあまあ じゃあね」
ルフトは得意顔で笑い
「商売ってヤツは、ある意味 言葉の戦いだからな。相手が気分良く財布を開くように仕向ける策略は、幾らでも しておくものだぜ」
叩き台の例文を見ながらバムも呻く。
ラージャが帰り際に陽の出前に来ると伝えて消えた。
ルフトとバムは診察室に、ユタとリリは寝室に行く。
「ユタ、ずいぶん火薬の匂いって残るのね。着替える?」
「ああ、自分ではわからないからね。外で顔も洗って来るよ、着替えを出して置いてくれるかな」
外の水道まで出て、溜めてあった水で顔を洗い 蛇口の栓を抜いて その場で頭を濡らす。
サッパリするまで水に当てて頭や顔を擦り、栓を閉めて 空の桶を置いておく。ポタリポタリと落ちる水が桶を鳴らす。
寝室に戻って濡れた髪を拭い 乾いた着替えに袖を通して
「思っていたより、随分 火薬の匂いがするものだね」
脱いだ衣類はリリが全部 籠に入れ、外の蛇口付近に置いて来る。
地下通路の中、光苔の仄かな灯りを頼りに 四人は無言で走る。
分身体ラーと会えたものの、連れ出せなかった苛立ち。謁見の間に行く計画。ヒムロはラーと城に留まると意見したが、王が直接 龍の城に出入りしている事を知らされた。
アヤメは知らないが、ラーの体を切り刻むのも実験の内だと 臓器を取り出していたのは、王ヘルラと共に研究と称して同行する貴族アシン。
アヤメを名乗る偽物が、今まで辿った末路を考えるロアルも、正当な手順でありながら 王に面会させるとなると計画の見直しを計算しなければ ならない。
それぞれの考えは、走りながら まとまって行く。
階段を上がり訓練所に出た。
「アヤメとヒムロは、夜のうちに少し休んでおくといい」
シュラが言うと アヤメは当然のように、部屋に向かうがヒムロは
「次の作戦はどうするのじゃ?」
「ロアルともセトラナダの状況を擦り合わせ、目覚めたら伝える。今のヒムロでは、感情が先に立って話にならない」
ヒムロはラージャが今の契約に縛られた時から、ずっと分身体を殺せと言われて来たのだ。助かる方法の一つが無に帰り、態度でわかる程 沈んでいる。
「私の意見は役に立たぬか?」
「今のヒムロでは、だ。一度冷静になれば、以前の通り頼りになる」
眠い上に感情が昂ったままでは、無茶な意見でも実行可能だと、間違った判断に向かいかねない。
アヤメがヒムロの手を取り「行こう」と訓練所から連れ出した。
『以前、アヤメ様の偽物の事は話しただろうか』
『聞いた』
『アヤメちゃんは本物の次期王だ。だが、証拠になる物はあるか?』
旅芸人の衣装に紛れて、一緒に持って来ている衣装がある。王族が儀式の時に身に付ける衣装で、高価な素材で作られているのはルフトも確認して知っている。
その事を伝えると
『盗品と疑われる事は無いだろうか』
歌に被せた副旋律は、王ヘルラの都合に良い内容ではある。
他の正当な王が現れたら、ヘルラが難癖を付けて処刑に持ち込もうとするだろうと。
『ロアル、謁見の間まで入れれば、策は幾つかある。だが確実に実行可能な策略に絞りたい』
『偽物だと言わせない方法でもあるのか?』
口角を上げたシュラが
『当然だ』
自信ある表情に、ロアルの不安は薄れて行く。
紋様さえ 変えられれば、ラーは解放される。
『私も、策略をまとめる。ロアルは使節団を呼べるだろうか』
『さすがに深夜だから無理だ』
朝になったらロアルはタタジクの使節団を呼びに行くと約束し、ロアルは蜜の入った小瓶を手に、シュラも部屋に戻る。
ぐっすり眠るアヤメの隣で、ヒムロは膝を抱えて小さくシュラを睨む。
「眠れぬのじゃ」
期待、不安、焦り、あらゆる感情が巡って眠れないと呟く。
「謁見の間は硝子越しにバルコニーの前だ。紋様を張替えられると、思わないか?」
城の模型、二階にある謁見の間は窓ガラスで隔てただけの隣に紋様の描かれたバルコニーがある。
スッと模型の隣まで来たヒムロが覗き込んでシュラを見上げた。
次の作戦に意義を見付けた赤い瞳は、強い輝きを見せる。
夜明け前の暗い時間に起きる習慣が着いたバムは、外の蛇口周りにユタが着ていた服が入った籠に気付く。
何故?と 顔を洗いながら、自分の衣類から硝煙の匂いがするのに気付いた。
ユタが火薬の量を計りながら燃やしていたのだ。後から入ってすぐに窓を開けたバムの衣類より、ユタの衣類の方が硝煙の匂いが強い。兵士に会いに行くなら、硝煙の匂いで気付かれる可能性もあるのだ。
上手く一人で着替えられないバムは、ルフトが起きているか診察室に戻る。
案外ルフトも早起きだ。木札に色々と、書き込んでいる。
「バムは早いな。もう蜜回収当番の連中が来る時間か?」
ルフトは硝煙の匂いに気付いたのか、昨日の衣装とは違う衣装を出している。
「まだ少し時間がある。その前に硝煙の匂いを何とかしたいと思ってな」
バムは昨夜のままの服で ルフトは肌着だが、袖口に鼻を押し付けて匂いを嗅ぐ。
「こりゃ酷いな。言われるまで気付かなかった。火薬を先に持ってきたのがバレちまう」
言いながらバムの頭も硝煙臭いと笑う。
急いで二人とも蛇口の水で髪を洗い、匂いが移ってない服に着替えた。
蜜回収当番が来ると、ルフトが座っているだけでも 滞りなく確認と見送りは終わり、バムがルフトに聞いた。
「兵士が持ってきた火薬の量って、どれぐらいあるんだ?」
「ユタが実験してた部屋に全部運んだぜ」
残りは導火線に見えた紐と、火薬の代わりに石や土を詰めた木箱だと説明する。
「俺なら、簡単に開けられる箱なら火薬を確認する為に、中を見る。ルフトさんならどうする?」
「ああ、多分 確認するだろうな」
詰めた土を隠す程度に火薬を乗せて置いたら、兵士にすり替えた事を知らせず大きな爆発は防げる。それに兵士が火薬が無い事に気付いて総攻撃に転じられても、今のトレザに戦力は無いに等しい。
「だが、入れる火薬の量を間違えれば、結局 大惨事だぜ」
確かに、適量はわからない。
話し合っている間にユタも混ざる。元々 早起きなのだ。
「火薬の適量で良ければ、昨日のうちに確認したよ。マッチにするには使い勝手が悪い火薬でいいかな」
半分ぐらいの火薬は 少し火力が強い為、安全に使えるマッチにするには まだ加工する必要があると、別にしていた分だが、激しく燃えてすぐに終る分量を見極めたくて、何度も計りながら燃やしていたのだ。
ユタは小分けした火薬を十六個、計って準備した。
ヒムロは巡る不安な思考に眠れなかっただけで、目的が定まった途端にトロンとする。やはり子供だ、すぐに寝息に変わる。戦闘準備は万端と、武器すら身に付けたままだが 迂闊に触って起すのも面倒だと、シュラは毛布だけかけてやる。
アヤメの武器を仕込んである上着は 無造作に脱ぎ捨てられていて、シュラは丁寧にたたんで置く。
謁見とは、何が必要になるのか。貴族の礼儀作法や、挨拶の順序には 面倒な決まりが多い。ルフトから借りている資料には、何度も目を通した。しかし特に必要と感じていない時に読んだ物は、見落としも あるものだ。およそ把握した内容のうち、詳しく読み返しながら状況を整理していく。
時折ラーと通信して現状を確認すると、ヘルラが王になってから儀式の時間が昼間になったという。王の命令下では 抵抗する事が出来ないが、ラー自身も ある程度の抜け道は残しているようだ。
今は王ヘルラと貴族アシンが不在で 束の間の自由だと笑う。しかし儀式は朝の太陽が大きく左右するとラージャ本体やアヤメからも知らされている。
実際にトレザの洞窟内で起こる奇跡は朝陽のあたる時間だ。
儀式の時間を変更したのは、ヘルラが早朝に合わせた準備を厭った為だと呆れた理由だ。しかし不平不満を訴える者はいない。不平不満が正当な理由であれば、王に対する不敬で処刑されて来た。貴族であれば、称号剥奪だけでも黙る。
急激に貴族が減った理由は、王の意向にそぐわない貴族の称号が次々と失われた為だ。
ルフトから借りた資料の内容とも時期が一致する。
貴族のしきたりを確認していると、静かに扉を叩く音がすした。
『シュラは起きてるか?』
ロアルの声だ。
小さく返事をすると、ロアルが入って来る。
『こんな薄暗い中で、よく読めるな』
光苔の薄明かりで資料を見ていたシュラに言う。
『確認するだけなので、充分だ』
こんな短時間でもロアルはスッキリした顔で、蜜を仕入れたいと商談に入りそうな雰囲気だ。
早々に打ち切り 貴族に会いに行く手順を確認する。資料やラーから得た情報と あまり変わらず、特に祭りでは平民の謁見も多くあるので、形式は 目上の立場から発言する、という順序だけ守れば 大きな問題はない。
『ところで、アヤメちゃんもヒムロちゃんも、動物と話せるんだな』
ロアルがアヤメの眠る寝台に腰掛けて話す。
『そうなのか?』
特に考えた事も無かったが、食う為に命を捕る動物に対しても涙を浮かべる事は多い。それに、初めて見た時には餓えた野犬に囲まれていたのだ。
『地下には鼠も多いだろ?コア様の事を尋ねていた』
別行動していた時のアヤメが『お母様は生きていらっしゃるのですね』と、鼠に聞いて笑っていたらしい。
ラーから直接聞いた訳ではないが、鼠は何処にでも出る。城内を知っている可能性はある。
とても小さな戦力が増えたと、互いに笑い合う。
『ところで、ヒムロちゃんは何処で休んでいるのだろう?』
アヤメの隣で眠ったヒムロに毛布をかけたと シュラも寝台を見るが、明らかに人の形をした膨らみが無い。
突然の事態にシュラは勢いよく毛布を剥がした。
朝陽に照らされ、所々に虹色の蝶がはためく。
「珍しい蝶だよな。トレザに来て初めて見た」
ルフトは明るくなり始めた外の様子に楽しそうだ。ちらほら朝陽で虹色に見える蝶は、昼間は白い。薄暗い時間から蝶の観察記録を書く様子の子供も遠くに見える。
バムが洞窟内から飛び出した蝶の大群は圧巻だったと話し、ムウの絵が再現している事を伝える。洞窟の奥に沢山の蝶が羽ばたいている絵だ。
リリはユタの衣装を着替えやすいように出している。
「リリ、ユタの衣装は持てるよう荷物に入れるといい」
現れたラージャが、ユタとバム、ルフトもこのままタタジクに向かうと話す。
「あら、着て行かないのですか?」
持って行くより着て行く方が荷物にならない。
「崖を下りる。昇降機を使うが、人が移動する早さを知りたい。多分タタジクで着替えるのがよかろう」
早ければ今夜にはタタジクに着く。とラージャは予想しているようだ。
「それなら、肌着も準備するわ」
背負う形の鞄で、着替え一式と手紙 それと金貨が詰まった財布。
「おいおい、そんなに金は必要ないぜ。せめて銀貨でいいんじゃないか」
ユタが足りるかルフトに聞きながら財布を見せると、呆れられた。
「でも、今まで お金を使う事が無かったから、家で一番多いのは金貨なんだ」
実際にトーナから届いた金貨と、シュラから預かったラージャが使わないと話していた金貨。
仕方なさそうにルフトが
「金貨一枚、両替してやる」
銀貨二十枚をユタに手渡し、金貨一枚受け取る。
銅貨三十枚が銀貨一枚。
銀貨二十枚で金貨一枚になる。
「凄く、増えてしまった と思うんだけど……」
本当に現金を使う習慣が無かったから、聞いていた感覚と実際に持つ実感の違いにユタが戸惑う。
ルフトにとって、貨幣価値は本能的な感覚だが これから覚える相手に説明するのは簡単ではない。
ちょっとした買い物程度なら、銅貨と少しの銀貨を理解できれば充分だ。しかし、ユタがこれから覚えなければならないのは「領地を動かす」大金になる。
「持って行くなら、金貨より蜜にしたらどうだ?トレザじゃ誰にでも薬が作れるらしいが、他の土地だと薬は重宝するんだぜ」
「ふむ。ルフトの意見は今後の繁栄にも影響するであろう。参考にすると良い」
ルフトの助言で簡単な荷造りを済ませ、ラージャ、ユタ、ルフト、バムが崖に向かう。
リリは留守番だ。回収した蜜を受け取ったり、ユタが不在になる事を 皆に伝えに行かなければならない。
崖に兵士の姿は無く、ラージャとバムが滑車を鳴らす。下に居る兵士との連絡手段のようだ。
ラージャは兵士と同じ制服に着替えている。
「ラージャ様の衣装が違うと、雰囲気まで違って見えるな」
「タタジクの動向を探りたくてな、試しに兵士に紛れて見たのだ。あまりにも指揮系統が杜撰で呆れたが。バム、以前と同様に気安くラージャと呼ぶが良い」
兵士に再会した時も一線置いた態度が物足りなく感じて、以前のように同じ制服なら対話もしやすかろうと笑うラージャに、苦笑いするバムと呆れるルフト。
滑車が昇降機を動かす音に変わり、間もなくアギルが上がって来る。
「先触れをタタジクに向かわせた。一番足の早い奴が二人、夜のうちに降りたから、今頃は砂漠を進んでいる」
昇降機から下りて、既にタタジクへ向かう面子はトーナに伝えに向かわせたと話す。
ユタは膝が震えていて、昇降機に向かう足取りがぎこちない。誰もが見てわかる狼狽えぶりに、ルフトがユタの背中をバンバン叩く。
「飛び降りる訳じゃねえんだ、自分の足で移動する意味は、絶対に有るぜ」
そう言うルフトも、実は冷や汗は止まらない。
見下ろすだけでも、ここに昇降機を取り付けた兵士の度胸と技術力には脱帽だからだ。
震えるユタ、冷や汗で苦笑いするルフトは昇降機の中央に、操作するアギルとは取っ手の着いた丸いハンドルの所に、ラージャとバムが端に乗り込む。
アギルがハンドルを回すと、昇降機の滑車がカラカラ音を立てて下がり始めた。
シュラが勢い良く毛布を剥がすと、そこには小さな白い蛇が居る。良く見れば短い手足があり、蜥蜴にも見える。
『シュラ、ヒムロちゃんは何処だ?』
ロアルはヒムロが白龍だと知らない。だがシュラも龍の姿のヒムロは人が乗れる程の大きさしか 見た事は無かった。
「ヒムロ……?」
生きているのか不安になり、声をかけて頭部を指先で撫でる。
『もしかして、ヒムロちゃん?』
ロアルは、ただ驚いている。
ヒムロはフッっと息を吐いて薄目を開けたが、また目を閉じて眠る。
『息はしている。ヒムロは龍神だ、私の知る姿は もっと大きかったが』
ただ眠っているだけにも見える。しかしセトラナダでは、龍の姿になれないと話していた筈だ。
この異常事態をラーに伝えれば、ヒムロが身に付けたまま眠った刺繍に 原因があるという。アヤメ (次期王)の血で染めた糸を使った刺繍が、ヒムロに本来の力を取り戻させる一助となっていると。
「いつの間に、糸を血で染めるなど考えたんだ?」
小さく呟くシュラの声に、ロアルは首をかしげる。
『ヒムロちゃんは傷でもあったのか?血が何を染めたんだ?』
怪我を気にかけている様子と、他国の言葉は理解しきれて無いのもわかる。
『ああ、ヒムロが怪我をした訳じゃない。血液で染めた糸を使った刺繍が、本来の効力を上げるに至ったという事らしい』
『では、誰が血を流した?』
間違い無くアヤメなのだが、ロアルに本当の事を伝えると 不味いと感じ、シュラは良い淀む。
空が白んで来た。
小さく伸びをして 起きそうな気配のアヤメに
「おい、アヤメ。刺繍する時に怪我をしてないか教えなさい」
シュラがアヤメに対して命令口調の話し方になる時は、大抵 焦りがある。今回はロアルに責められそうな雰囲気に焦っているのだ。
「アタシ、針で指先を刺すほど不器用じゃありませんけど」
アヤメは隠し事をする時に丁寧語が混じる。
「つまり、刺繍する針で指先から出た血液を刺繍糸に擦り付けた訳だな」
図星を着かれたアヤメはそっぽ向いて膨れる。
「すぐに血は止まったよ」
アヤメの頬をつついて、シュラは
『ロアル、アヤメが刺繍していた時に自滅したようだ』
言い訳して膨れ、シュラにつつかれて笑いだしたアヤメを見ながら
『怪我が たいしたこと なくて、何よりだ。それで、ヒムロちゃんは……どうなんだ?』
ロアルの言葉に反応したアヤメがヒムロに気付き、可愛いと叫んで撫でる。
「うるさいのう。アヤメの声で寝てられん」
白い鱗に小さな赤い瞳。ヒムロは小さな龍のまま話す。
「しかし人の形よりは、ちと楽じゃ。この現地の古語は図形の意味合いにも通じておらんかのう?」
『龍のお姿で、心に直接 語りかけて下さるとは……私ロアル、アヤメ様に忠誠を誓い ヒムロ様を崇拝致します』
「ぬ?ロアルは普段と同じように話してくれんかのう」
『それでは不敬にあたります』
「いや、ロアルから教えられる事も多い。私はまだ幼いし、急に態度を変えられるのも面倒じゃ」
『ヒムロちゃん……さま?』
混乱したロアルの言い方に、キャハハとアヤメが笑い出す。
『ロアル、ヒムロの呼び方は今までと同じで良い。私たちは魂を宿す肉体を持ち、何れこの体を離れた魂は 新たに身体と共に命を持ち、何度も生きるのだそうだ。神々は、本来なら肉体を持たずとも在るのだと知った』
赤い目を細めて満足そうに聞くヒムロは、一見 眠そうにも思われる。
「大きさが違うと勝手も変わるが、人の形を続けるよりは良い。アヤメは ちと静かにしてくれんかのう。愛しむ心地好さより騒がしさが煩わしい。今は身体を休め策謀を固めたいのじゃ」
身体の大きさが極端に違う事と、この大きさだから可能な事を思考しておきたいと目を閉じた。
『ロアル、アヤメの態度の方が横柄だとヒムロも言っている。神々は人の決まりごとに、差程興味ない』
アヤメは少し狼狽え、ロアルは肩の力を抜く。
指先でヒムロを撫でれば、異様に短い前足を気持ち良さそうに伸ばし、コロンと仰向けになる。後ろ足は蜥蜴を思わせる大きさなのに対して、前足は飾り程度に小さい。
謁見の間まで向かう時間は刻々と迫っている。
使節団の代表者一人だけが酒蔵に訪れると報せが入った。
2022年1月3日になりました。
閲覧ありがとうございます。
1月3日は新月です。お月様がなくなる日でもあり、誕生するのも新月。これから満月に向けて膨らむパワーは、あなたの『願い』も叶える助力になります。
どうぞ、あなたの願いが叶いますように。
次の更新の予定……もう、頑張ります としかお伝え出来ません。
口喧嘩に毛が生えたような戦争(そもそも戦争じゃない)しか体験してないので、表現力のスカスカ具合に悶絶してます。




