新たな日常
今回も、読みに来ていただいて有難うございます。
ユタの家に戻ると皆が席に落ち着き、朝食が始まる。普段通りに体調や健康状態を口頭で確認してから、ユタが大きく深呼吸して話し始める。
「昨夜、サラ様からお聞かせいただいた事なんだがな。アヤメ……は、セトラナダと言う国から来たのだよね」
野菜を口一杯にして返事の出来ないアヤメはユタを見て頷く。
「へえ、タタジクの他にも人が住んでいるんだね」
トトの世界は、このトレザと、まだ見たことの無いタタジクで全てだったのだが、他の土地にも人が居ると聞いて目を輝かせた。
「うん、いっぱいあるよ。シュラに付いて旅した所は他にもあるし、まだ行った事が無い土地の方が多いからね」
口の中の野菜を飲み込んだアヤメが答える。他にも人が住む土地があるのは薄々感じていたリリとムウは、あまり驚かない。
「そのセトラナダでアヤメが五歳になる頃に誘拐されたそうだ。そうだよね」
ユタはアヤメとシュラに目を向けて、スープの入った器を口に運ぶ。二人とも食べ物で口が塞がっているからだ。
「アヤメは……誘拐なんて、自分から進んで旅を始めたのでは無いのね?」
驚いたリリが心配そうに聞く。
「その頃の事は、あんまり覚えてないんだけど、何となくシュラが助けてくれた気がする」
誘拐されたとかシュラに助けられたとか、内容が少々物騒な感じになってきて、リリはアヤメとシュラを見比べながら早目に食事を済ませようと急いで食べる。
「アヤメの誕生日前日に、セトラナダで色々な事が起きた。あと、助けた訳ではない。アヤメが付いて来たのだ」
付いて来ただけなら物騒な話しでは無いが、誘拐されて家族はどうなのだろうとリリが
「ご両親が心配してないかしら?」
「アヤメの父親でもあるセトラナダの王は、アヤメが誘拐される前に暗殺された」
シュラの言葉にリリは言葉が見付からない。アヤメの父親が王ならば、アヤメはセトラナダのお姫様だ。これだけで充分に驚いたのだが、暗殺されたと言われると、咄嗟に言葉に困る。しかし、イイスはアヤメを羨望の眼差しで
「ア-ちゃん(アヤメ)はお姫様なのね。でさ、アンサツって何?」
暗殺、殺されたという言葉が解らなかっただけのようだ。ユタが言い辛そうに
「アヤメのお父上は、殺されたんだ、イイス」
イイスは目を何度か大きく瞬いて
「アーちゃんゴメン」
「いいよイーちゃん(イイス)。もう過ぎた事だし、本当の事だから」
言い終わるとアヤメは肉を頬張る。
皆が黙って食事を口に運ぶ。
食器を動かす音が異様にユタの気持ちを重くする。アヤメは肉を飲み込んで
「母さんの料理は、どれも美味しいよね」
いつの間にかアヤメもリリを母さんと呼んでいる。
「あたし、もっと色々な料理を教えて欲しいな。シュラに任せると、変なものが入っているんだよ」
「毒の無い物しか出してないぞ」
食べられれば何でも良いシュラの味覚は、多分他人に受け入れられるものではない。シュラがどんなものを食べるのかは、食事中に話さない方が良いとアヤメが言う。反って興味を持ったトトが知りたがるが
「ラージャ様も分身体というものがセトラナダに居られるそうなんだ、だから誘拐される前のアヤメの事を御存知だったんだよ」
ユタはシュラが薬を作る工程で、素材にするものを味見していた事を思い出す。食材の話を打ち切る為に、昨夜知った事に話を戻す。
「シュラは次に向かう所があると言っていたね。そこはセトラナダで間違いないかな?」
「アヤメを母親の所まで、連れて行こうと思っていたのだが……」
大きな壁があると知った。ラージャだ。これを越えられる気がしない。
「あたしは、行きたい。母に会って、無事を確かめたい」
急いで食事を終えたリリが
「大切な家族に会えるのなら、喜んで見送りましょうね。お母様だってアヤメに会いたいでしょ?」
「いや、何というか、私は、本音を言えば、行かせたくは……ない」
ユタの言葉にシュラも黙って頷く。
危険なのだ。王の城は新しく書き換えられた契約に縛られたラージャが、王に使役されている。潜り込めばすぐに見付かるだろう。
「何でラージャ様がシュラやアーちゃんを捕まえるのさ?」
「契約により、王に使役されている為に、王の命令は絶対なのだそうだ。アヤメの父親を暗殺させた張本人が、現在の王だからな。アヤメが見付かれば、ただで済む訳が無い」
「ラージャ様、契約の時に陣の紋様を確認しないなんて、なんか抜けてて可愛いね」
「神を可愛いと言うのはアヤメぐらいだな」
「でもでも、ヒムロ様は可愛いよな」
トトが食べ終わって立ち上がって言った。同時にリリも空になった食器を片付け始める。トトも難しい話しになりそうなので、片付けを手伝う。
「じゃあ、今の王は悪い奴なんだね」
ムウが聞くとシュラが
「確かに私やアヤメにとっては悪だな。しかし、政治というモノは統治する者が善らしい。だから迂闊に王を倒しても、こちらが犯罪者にされてしまう」
政治が良く解らないシュラの説明では、皆が混乱するだけなのだが、アヤメも上手く説明出来ないので、この混乱は放置する。
「何とか、アヤメをお母様の所まで連れて行けないものかしら」
リリは食器を洗い始めて、トトが食べ終わった食器を何度も往復して運ぶ。片手しか使えないので、幾つも同時に運べないからだが、器用に重ねて上手く運べるようになってきた。
片付けながら、安心してアヤメを帰せる方法は無いものか皆で意見を出し合ってみる。
セトラナダのラージャを上手く説得出来ないか、とリリが言ったがこれの答えは否。神と言えど、契約に縛られたラージャの意思と、王の命令が違えば苦しむのはラージャだ。それに手加減した状態でもシュラが太刀打ち出来る相手でも無い。
王と話し合って見ては?とイイスとムウが言うが、そもそも話し合いの場を設けられるか解らない。
あまり良い意見は出ない。
「うん、他の皆には吹聴しないようにして欲しい。だが、皆が助かる方法を思い付いたら、私やシュラ、アヤメに教えて欲しいな」
ユタの言葉で締め括られて、食事の後片付けも手早く終わる。
診察室ではバムが、慣れない左手で字を書く練習をして待っていたようだ。
湖に残された家には、実際に造られる事のなかった模型も残されている。ムウとトトが実物を小さくした模型に早速近付いて、手に取る。
兵士達が数日間ここで生活していた様子はほとんど解らない程、綺麗に片付けられていた。残された模型の処分はバムが任されたらしい。
ラージャとヒムロもやって来て、ヒムロが早速ユタに近付いてコッソリ話す。
「オサはアヤメの事を家族に伝えたのだな。何か良い案は出たか?」
「あの、何から伝えるべきか考えながらだったので、まだ家族の意見はあまり聞いていないのです。何かしら思い付くのは、これからだと思います」
「あまり気長に待てる訳でもなさそうだ。明日の夜にでも、聞いて良いか?」
気長に待てないとヒムロから聞かされると、ユタはより一層不安になる。
少し離れた所では、ラージャが書類を読みながらシュラとバムの対話を聞いている。
「行政については私に教えられる知識が殆ど無いが、街の様子や金銭のやり取りぐらいなら教えられると思う」
「トレザの民は、ほぼ物々交換なので、金銭の価値や計算、それに文字も覚えたい者に教えてもらえるか?タタジク迄の道が出来る前には、価値の感覚も理解できると良いのだが」
「そうだな。価値のある物なら、あの特殊な美しい布はいくら位で売るのだろう?」
「あの布は売り物にならないだろうな」
ヒムロが脱皮した脱け殻だなんてバムは想像もしていないだろう。
「何でじゃ?あれは価値があると思うぞ」
ユタと話していたヒムロがシュラの側に来て、ムッとした顔で見上げて来る。
「あのような貴重な布は売買する物ではない。幾らでも生産可能な物なら良いが、限りがあるだろう」
「ほうほう、貴重なのか。それはあまり、世に出回らぬ物だな」
「そういう事だ」
貴重と言われて満足したヒムロは、跳ねるように走って、模型を触って夢中で話しているムウとトトの中に割り込んで行く。
「ところでラージャ様、サラ様はどちらにおいでなのだ?」
「ああ、サラならユタの家に向かったはずだが。今頃はリリ達と一緒だろう」
リリとイイスが家に残っているので、アヤメも置いてきた。トレザではアヤメと別行動しても身の危険は少ないので、シュラは随分と自由に感じている。
バムは上手く使えない左手で、これから教える事になる文字や数字を書く練習のつもりで、シュラと話した内容を書き留めている。ぎこちない文字に苦笑しながら、整わない文字の形を見て
「少しは読める文字になってきたんだけど、まだまだ以前のようには書けないな」
左手を何度か握ったり開いたりしてから、腕の無い右の肩を擦る。
「トト君がね、言ってくれたんだ。俺たち、ちょっと不便になっちまったなってな」
「ほう、トトが?」
ラージャが聞き返す。ちょうど書類も読み終わったようで、シュラが書類を受けとる。
「はい、ラージャ様。トト君は不幸になった訳じゃない。不便になっただけだって、私の背中を痛いほど叩いて励ましてくれました。もう、生きているのも嫌になった、本当に死にたいと考えていた私の心も助けてくれました。立派な親子です。生涯、この命をかけて恩をお返しせねば」
「あ~、バム、言い辛いのだが、傷が完治して道も完成したら、タタジクに帰れと父さんが言ってた。あまり気負わなくて良いと思うぞ」
そもそもユタはバムに対して、良い感情は持っていない。バム自身もそれは痛感しているようだ。仕方のないことだが、それでも誠意を見せたいし、出来る事なら許しを得たいと切実に願っている。
「いつか、ユタ様に認めて頂ける日は来るのだろうか」
「解らんな。すぐに認められるやもしれぬし、いつまでも今のままやもしれん。だがユタは人の命を大事に考えている。それに、人との繋がりも大切にしているぞ」
ラージャが呟いた言葉をバムは心に刻もうと、何度も小さく言葉にしながら自分の工具箱に小さく書き込む。後で文字の所を削って、消えないように残すつもりだ。
「バムは多分、少し勘違いしてると思うぞ。慕われるのと主従の関係になるのとは違う、なんというか、温度差があるように見える」
「ふむ、シュラは面白い例えをするな。価値観の温度差か」
ラージャは少し面白そうに口の端を上げて言う。
温度差を例えられた当人は、あまり理解できていないようで、曖昧に頷いただけだった。
ラージャの読み終えた書類を受け取ったシュラがムウとトトの間に入り、書類と見比べながら模型を触り始める。
「シュラ、これの作り方が書いてあるの?」
ムウが書類を覗き込んで、図面を指して聞いてくる。
「実際に使われている水門と水路、橋の図面だな。この模型は縮小して作られているだけだ。それにしても、トーナは作図も上手いな」
「その作図部分だけは、トーナ様ではなくて、得意な兵士が描いてましたよ」
バムが作図した兵士が別に居ると教えてくれた。書類の完成度を上げたいと、トーナが兵士達に尋ね、頭を下げて頼んだ時の兵士一同は、驚きで言葉を失ったと少し懐かしそうに話す。
更に縮図の計算方法や書き方も教えてくれた。シュラは計算なら早いが、試しに描いた作図は何が描いてあるか判る位、トトは何が描いてあるのか説明すれば、そう見える程度。ムウは、元から絵を描くのが好きだったせいか、上手い。作図のコツが掴めて、外にある水門と橋を描きに出て行った。
「オレ、字も解らないし、計算もダメ、作図だって下手くそで良いとこ無いや」
トトが少し膨れて言うと
「ムウ兄さんもまだ字は全部覚えて無いと思う。先に覚えて教えられると良いかもな」
「よし!オレは先に字を覚えて計算も出来るようになるぜ」
トトは、昨日の夜に書いた文字の表を持っていたらしい。まだ覚えていない字を書きながら、書類を読めるようになろうと勢いが付いたようだ。
「これは……どのように作ったのだろう?」
模型は湖の水路を作った辺りの地形も再現されていて、不採用になった橋や水門の模型は湖部分に無造作に転がっている。転がっていた模型にも興味はあるが、地形を作った材料についてバムに質問する。
「主にオガクズと土に接着剤を混ぜてあります。割りと扱いやすく、水に浸けて置けば半日ぐらいでオガクズに戻りますよ」
後始末も任されているのだろう、シュラと子供達が模型を見て満足した様子を察して、バムは模型や地形の処分に取り掛かり始めた。
「待ってくれ、これは、このまま保存できないか?」
トトもその様子を見て、父親でもあるユタを引っ張って来て止めるのに加勢する。
「そうだな、私達は今まで図面や模型を作ってから大きな物を作った事があまり無い。このような解りやすい資料は今後も役に立つだろう、残してくれるかな?」
「ユタ様の仰せの通りに処分は止めておきます。では、今回採用されなかった模型はどうしますか?」
ユタが残す方向で話しをまとめている隣では、シュラとトトが喜び合う。
「あ~、なんだ、ユタさまって言うのは、やめてくれないかな」
居心地の悪そうなユタがバムに言う。
「ユタ様のお気に障りますか?」
「そうだね、むず痒いって言うか、慣れてない」
トレザの民も、ユタが嫌がるのを知っているので、直接ユタに話しかける時には敬称を付けていない。
「練習しておきます、ユタ様と呼ぶ方が、私には言いやすいので」
困惑した顔のユタに
「ラージャ様やヒムロ様の敬称を付けずに呼ぶのと似たような感じなんだと思うよ」
トトが茶化すように言って、計算の練習を始めた。
「バム、この不採用になった模型は、何故そうなった?」
少し盛り上がった形の橋や、複雑な細工がされた水門が、幾つかある中の橋を一つバムが手に取り
「馬車が通れる橋にするなら、坂道になっては通る度に一苦労だと誰かが言ってな、平らな橋にする為に水路を深く掘り下げた」
「成る程。では、この水門は?」
「ああ、水門だと常に水に浸っているからな。木材では直ぐに朽ちてしまうだろう。石材を利用した事で老朽化を遅らせたかったのだが、木材のようには加工が出来なかった為に、これは作れなかった」
書類を良く見れば、バムの言った老朽化を遅らせるといった内容も書かれているが、実際に聞いて納得出来る。
「処分する必要は無いな」
短く答えたシュラに応じて、他の模型も見比べやすいように、近くに並べて置き直す。
ムウが絵を描く様子を見てきたラージャが
「あれは大した才能だな。地面に直接では消えてしまうのが惜しい、消える前に観ておくと良いぞ」
話の途中で察したヒムロは外に出た。続いてトトもラージャの言葉が区切れた所でムウの絵を見に行く。
「学びを求める民が集まれる所も必要だな。どうだユタ、バムに住まう場所を与え、その住まいに学びたい者が通うようにしてみては」
学べる場所を新しく作るなら、広場の近くが誰でも解りやすいだろうとか、バムに教えられる事等の話し合いが始まる。
男達が出払った後、リリとイイスに続いてアヤメも家の窓や扉を開ける。寝具に使われている毛皮を外に出して、リリが一枚を大きく振るうと、小さな埃が日差しの中でキラキラ舞い上がる。
「綺麗」
アヤメは記憶にある限り、宿屋か野宿で夜を明かしていたので、寝具の手入れは始めての経験だ。イイスと一緒に一枚の布団を振るえば、同じようにキラキラ舞い上がる小さな埃に楽しくなってくる。
家中の窓が開いているため、風が通り抜けて気持ちいい。
広げた毛皮にホツレや傷んだ所があれば、日が落ちる前に補修しておく。食材になった獣の毛皮は厨房の決められた所に常に置いてあるので、補修をするなら厨房で行うが、今日はホツレ等は見当たらない。少し風に当てたら寝台に広げ直す。
次は収穫の頃合いになった野菜や薬草を取り、薬草は洗ってから日陰に干したり、煎じられるように準備しておく。
「ア-ちゃんは、お姫様なのに、こんな仕事させてゴメンね」
イイスが薬草を刈り取る為の鎌をアヤメに手渡しながら言うと、リリも考えるような顔で見つめる。
「旅してると知らないままだった事が、沢山わかって楽しいよ。薬草も、自分たちで育てて収穫が出来るなんて、凄いよね」
本心からアヤメは楽しくて仕方ないのだ。
普段から自然に生える野草の中から、食べられる物や薬の材料になる物を見付けては収穫する。あまり多くが必要な訳では無くても、探し回らずに沢山収穫できる畑は、旅先では勝手に入る事も出来ない憧れの場所だった。
少し申し訳ないが、楽しそうに手伝ってくれるアヤメをリリも止めずに見守りながら収穫する。
「わたくしにも、やらせて下さるかしら?」
「いいよ」
上品な鈴の音のような声にアヤメが答えた。とても自然に言われて、普通に鎌を手渡そうとしたアヤメがハッとする。
「いや、サラ様のやる事じゃないよね?」
サラはクスクス笑って
「わたくしね、人だった頃には家畜の世話も畑仕事もしてたのよ」
呆気に取られるアヤメの手からそっと鎌を取り作業に取り掛かれば、それはそれは手際よく刈り取られて行く。作業しながら、ユタには人だった頃の記憶を見せたのだと話し、こうして作業しているのを見たら懐かしくて、つい手を出したくなってしまったのだと照れ笑いする。
「本当ならすぐにお止めするべきでした。でもサラ様の手際の良さが、あまりにも効率が良くて……見習わせていただきますね」
「サラ様、カチクノセワって何?」
イイスが聞く。リリも気になっていた。
「そうね、今のトレザには家畜が居ないものね。牛や豚、羊を乳や肉を頂く為に育ててましたわ」
「へえ、じゃあ、逃げられたりしないのね?」
「ええ、イイスが捕まえて来る動物よりおとなしかったのかしら?だけどね、動物の育ちやすい環境も、人が維持していたのよ。屋根のある所で寝床も清潔にしてあげるし、餌も毎日与えていたわ」
「それって、大変じゃないの?」
「確かに大変かもしれないわね。だけどね、人が生きる為には、必ず何かしらの命をいただくでしょう?」
「……うん」
「捕獲した生き物とは違う、様々な命の模様を感じる事が出来るわ」
大変だったけど、家畜も可愛がっていたと言うサラに、近いうちにもっと色々と教えて欲しいとイイスが言うと、サラは喜んで頷いた。
「アヤメ、それにリリとイイスにも見せたいものがあるのだけど、時間はあるかしら?」
リリが刈り終わった薬草を日陰にある網の上に手際よく並べて
「サラ様のお陰で半日ぐらいかけるつもりだった仕事も終わりましたし、幸い今は泊まりの病人も居ません。夕方迄に戻れるなら、ユタも心配しないでしょう」
サラの向かう先は氷の洞窟だ、サラと並んで先を歩くリリが
「サラ様、アヤメを無事に返す事は出来るでしょうか?」
「ユタと話し合ったのね。多分、今のままでは行くだけ無駄になるでしょう。シュラとヒムロが力を合わせても、とてもラーに敵わないもの」
「ラージャ様を傷つけず、皆が無事に済む方法は無いのですか?」
「人の知識や知恵は、時に神すら使役します。ラーが現在、そうであるように。皆の知恵に期待していますわ」
厳しく遠くを見る眼差しとは裏腹にリリを見る時は穏やかな笑顔になる。
知恵と言われても、思う事は皆の幸せと健康だ。リリに思い付く事は、今の所はそれしかない。
「サラ様も、かなりお強いと聞きましたが」
クスクスとかなり苦しそうに笑うサラが
「その情報は、ヒムロかしら?」
「いいえ、シュラが言ってました。手加減されてるのに、何も出来なかったと」
「あら、シュラは人としてはかなりの強敵でしたわ。手加減など、ほんの少ししかしていませんでしたもの。それとね、誤解の無いように先に言っておくわ。ラーはわたくしより、強いのです。彼は女子供には決して手出ししませんのよ」
子供には……?ヒムロは子供だろうと思ったが、些細な疑問は飲み込んでおく。
「では、やはり穏便な方法を探さなくては」
シュラが気絶する程の実力を持つサラより、ラージャの方が強いならば尚更だ。
「今のリリも、とても素敵な『気』でしてよ」
眩しいくらいのサラの笑顔にみとれつつ、後ろで楽しそうに話しながらついて来る二人の対話に少し耳を傾ける。
「あの花、凄く良い香りなんだけどね、食べるとめちゃくちゃ苦いんだ」
「ア-ちゃん、何で花を食べたの?」
「シュラはモシャモシャ食べてたから」
毒は無い。だがしかし、美味しい訳じゃない。アヤメが嫌がるので、昆虫はシュラしか食べないが、野宿の間の食事には何が入っているか解らない。イイスも驚きながら、面白がってどんな食材があったのか聞いている。
「随分と逞しく育ったお姫様だこと」
一緒に聞き耳を立てていたサラもクスクス笑いながら、洞窟の入口まで着いた。
「足下に気を付けて歩いて下さる?リリとイイスには、これを」
舞いの時に作ってもらった衣装を渡される。
「中は寒いでしょう?羽織るといいわ」
「ア-ちゃんは寒くないの?」
「あたしは、中に着てるから大丈夫。サラ様から賜ったんだ」
ちょっと嬉しそうなアヤメに安心して、リリとイイスは上に羽織る。
洞窟の中には掌に乗せられそうな大きさの玉が幾つも輝いているのが解る。そして、キラキラと輝きながら、静かにキンと音を立てている。耳を澄ませていないと聞き漏らす程、微かな音。これを踏まないように、気を付けながらサラの後に続くと、一つだけ一際輝く大きな玉がある。
「此は、主にアヤメの『気』で育ったのよ」
サラが愛おしそうに撫でながら、皆に伝える。
「へぁ?」
間の抜けた声で返事とも言えない返事をしたアヤメに
「セトラナダの王に相応しい『気』を持っているのね」
ポカンとした顔で、何を言われているのか全く理解できて無いアヤメに
「人の『気』は、そうね、感情とも言うかしら?その『気』でわたくし達が満たされるのは御存知よね」
「始めてお会いした時にお聞きしました」
リリの言葉にサラが頷いて続ける
「わたくし達の特に好む『気』は喜びや達成なのです」
フワリとアヤメの肩に手を乗せて、大きな玉に視線を向けさせて
「アヤメの大きな『気』は、わたくし達を満たし、更に形となったのよ」
「あたしの『気』が形になる……?だけど、他のと大きさが違うよ?」
「ええ、望むものが違うのね。民が望んだのはきっと、アヤメとは違う物だわ」
アヤメが視線の先にある玉に向かって、小さな玉を避けながら歩く。触れてゆっくりしゃがみ、両手を乗せて
「温かいな」
包み込むように抱き締めて、頬をあてる。安心する温かさに目を閉じる。
キンと音を立てて玉が一層強く輝くと、次第に熱を帯びてきて、徐々に小さくなっていく。規則的にキンと硬い音を刻みながら、眩しさに直視出来ずにいるアヤメの両腕に抱かれるようにして、次第に姿が確かになってきた。
「あらあら、余程アヤメに会えたのが嬉しかったのね。この小さな仔達と同じ頃になると思っていたのに」
微笑むサラと、余りにも幻想的な光景に言葉を失うリリとイイス。
アヤメは形のハッキリとした其を優しく抱き締める。
「誰か、誰か来てくれぇ」
叫んでいるのはヒムロだが、何故かムウがヒムロから羽交い締めにされている。トトはヒムロとムウを引き剥がす事も出来ずに、ただオロオロしているだけだ。
「何事だ?」
一番に出てきたシュラが、状況に目を丸くしていると、ユタとバム、最後にゆっくりラージャが出てきて
「ヒムロは何をしているのだ?ムウを離してやれ」
「嫌じゃ、ムウはこれを消そうとしているのだ」
ヒムロが指した先には、地面に描かれた橋と水門がある。勿論ムウが描いた物だが、書き終わって満足したムウが、何時も通り足で消そうとした所でヒムロに捕まった。ムウは全く訳が解らず、ただ目を白黒させるだけだ。
「この絵は、ムウ君が描いたのか?凄いじゃないか」
「そうじゃろ?消してはいかんよな」
「う-ん、地面に描かれた物は自然に消えてしまうと思うけど、これこそ保存したい作品だな」
「自然に消えてしまうのか?」
バムの言葉を繰り返すように言いながら、ヒムロの手が緩む。ムウがのっそりとヒムロから抜け出して
「いつも、書き終わったら消すようにしてるよ。絵ではお腹いっぱいにならないからね」
「いやいや、これだけ描く事が出来るなら、腹一杯食えるようになるぞ」
ムウには絵で満腹になる理由が解らない。トトやユタも、サッパリ理解出来ずにいるようだ。
「宿屋でも、身分の高い者が泊まる部屋には、絵や珍しい置物で飾られていたな」
「シュラはそういった部屋に泊まった事があるのかい?」
ユタが少し驚いたように聞くので
「何度か……ある」
始めて泊まった時は、商人に連れ去られて過ごした部屋だった。そして、アヤメの具合が悪くなった時。アヤメの為に上等な寝間着を買い、一番良い宿屋を取った。医者は安い宿には来ないし、貧乏人だと解れば具合も診ずに帰ってしまうのだ。シュラは側仕えの振りをして、医者の診察する様子を見て思った事は、医師としてユタの方が余程優れているように見えた事だ。
「色々と事情があったのだ」
シュラにユタが
「そうか。だけど、此処にはそんな宿屋は無いよ」
「タタジクからの道が開通する迄に、一軒ぐらい用意せねばならんと思うが」
「ほう、シュラよ。何故に宿屋が必要か?」
「ト-ナがタタジクの領主と共に来ると言っていた。タタジクの領主が泊まれるような宿屋は用意しなくて良いのか?」
「ふむ、いずれ必要にはなるであろうな。しかし、この地に大勢が来るのは好まれぬであろう」
「ならば、崖を降りた所の開けた場所に設けてはいかがか?」
「私達がトレザと勘違いした場所ですか?」
「あそこならば、トレザ全体の安全は確保出来るし、取り敢えずの交流ならば充分に持てると思う。それに、道が出来るのは急いでも数年後だと言ってた」
数年後とはいえ、今度はタタジクの領主が来るとなれば、やらなければならない事は山積だ。
「ムウ、これに書き写す事は出来るかの?」
ヒムロはムウの絵が消えていくのは忍びないと、例の布を広げる。
「ヒムロ様の布は汚れないから、多分無理だよ」
残念ながら、軽く叩けば汚れが綺麗に落ちるのだ。そんな布に描いた物が残る事はない。
「特定した画材の色が残せるよう、私も考えてみようぞ。すればムウの絵が残せるじゃろ?」
しかし、ムウは今まで地面に落書き程度のつもりでしか描いた事はない。素材が違っても上手く描ける自信は無く、曖昧な返事をするだけで終わった。
アヤメの腕の中には、鮮やかな黄緑色の体に金色の目を持つ小さな竜がいる。アヤメの大食いに影響されたのか腹がポチャっとしていて、背中には真っ赤な羽を持ち、鮮やかすぎる色合いに毒気を感じる美しさだ。
サラの知る龍は、ラージャとクウ、そしてヒムロだが、羽を持つ龍は居なかった。しかも幼体のせいなのか、妙に腹がプックリしているのも気になる。ただ、アヤメの『気』に直接触れて幸せそうな其を、少し不安に思いながらも見守るしか無いと
「アヤメ、その仔は此からもアヤメの『気』で育ちます。喜びだけでは無いのよ、怒り、悲しみ、妬み、それらの大きな『気』でその仔は育って行くわ。……愛してあげなさい」
サラの言葉は頭で解ったつもりでも、多分アヤメの心が理解できて無いだろう。それでも、言われた言葉は忘れないようにしっかりと頷いた。
「サラ様、この仔に名前を付けても良い?」
「ええ、ヒムロに会う前に付けてあげると良いわ。アヤメの呼びやすい名前を付けておあげなさいな」
「うん。『チヌ』にする」
「あら、もう決めたの?」
「どうなんだろう、さっき凄く光っていた時に、チヌって呼びたいと思ったんだ」
チヌと呼ばれた小さな竜は、アヤメの腕からスルスル肩に上がり、首飾りのように巻き付いた。だが落ち着きが悪いようで、羽を広げてパタパタと羽ばたいた。閉じた羽は真っ赤だが、広げると紫色から青空のような青い翼が鮮やかだ。ぎこちない飛び方でアヤメの頭上に鎮座する。
「まるでアヤメの冠のようね」
冠と言われてチヌは嬉しそうに目を細めて羽を広げる。帽子のように頭に乗るのが気に入ったようだ。
「チヌ……様?と呼べば良いのかな」
「チヌで良いよね?」
イイスに聞かれてアヤメは頭上のチヌに尋ねる。
「クルル」
と高い声で鳴いて、嬉しそうにチヌが応える。
「明日の朝には、他の皆も目覚めるでしょう、トレザの民にも知らせると良いわ」
キンと音がしたと思うと、イイスの足下にあった玉が輝き、中から真っ白な蝶がはためいた。
タタジクのト-ナさん、その後
城まで徒歩で帰り付いたト-ナをタタジクの領主でもある父親が直接出迎えた。
数日前に突然、トレザ制圧に向かわせていた兵士の隊長を解任した上に投獄し、その当人は龍神に拉致されて行方不明。
その日のうちに、砂漠の途中で体調を崩して難儀している兵士が多いと伝達者が戻り、翌日には水路を砂漠に引く為の大規模な工事を始めるという。
工具の運搬に荷車が何台も準備され、同時に滞在の延びた兵士達の食糧も準備する。
先に戻った兵士達は体調不良と知らされていたが、医師に診せる程では無かったようで、自宅療養の為に順次解散していく。
突然始められた工事に、役人達は今迄に無いほど働いた。
ト-ナの思い付きと、投獄された隊長の杜撰な計画で強行された出兵は、砂漠の水路工事に取り代わり、目を見張る程の早さで工事が進んでいる。
タタジクの水不足も深刻になりつつある現在、水源を確実に確保出来るのなら、トレザ制圧より望ましいだろう。
領主は窓から見下ろす砂漠の水路が、見るたびに形を造り出す様子を好ましく思いながらも一人息子のト-ナの行方が気掛かりでならない。
そうこうしている間に、砂漠をト-ナが徒歩で帰還していると報告を受ける。誰もが驚いたが、多分、一番驚いたのは領主自身だろう。荷車に座り、乗り心地が悪いと文句を言うト-ナを想像していた者が大半だと思われる。
更には、周りに気遣い感謝の気持ちを伝え、兵士達と同じように夜営地で野宿すると聞けば、本当にト-ナなのか信じられない。
何を体験したのか、顔中に深く皺の刻まれたト-ナに、領主は父親として心配していた気持ちを先に出す。
「ト-ナ、良く無事で帰還した。本来ならば報告をすぐに受けたい所だが、先ずは休みなさい」
領主は息子の肩に優しく手を乗せ、ト-ナの側仕え達の待つ方に向かわせる。
翌日にはトレザに滞在していた先頭班が重篤になった班長を抱えて帰還、班長の代わりに代表のアギルから詳しい報告を聞く事になる。
神々に庇護された土地トレザ、そこまでの道路を造りたいという要望には、領主自身も快諾した。しかし、計画から着工、他にも様々な問題は出てくるだろう。
何よりも先に貯水地を設けなければ、タタジクが水没しかねない。都市全体に水路を張り巡らせるにも人員は必要になる。
すぐに、と言う訳には行かないが、何れトレザに訪れてみたいと、ト-ナに伝言させ、領主自身は突然増えた仕事を気分良く片付けに取りかかった。
砂漠にあった都市タタジク、水没しないで済みました。
シュラとヒムロの共闘は、次回に持ち越しになってしまい、すいません。
野放しになっているヘルラをさっさと討伐して欲しいのですが、今のままでは逆に捕まってしまうかもしれません。
まだまだ続きます。
楽しみにしていただいて、有難うございます。




