うぃ~異世界に来たぞぉ
唐突に始まった新連載です。
鬱蒼と木々が並び立つ森の中、少女マリナは一心不乱に走り続けていた。風につややかな黒髪がなびく。木の枝のごとく細い手足を必死で動かし、小柄な肢体には不釣り合いな双丘が揺れる。息も絶え絶えであるが、足を止めればそこで終いというのは自明だった。
「小娘が。俺様から逃げられると思うか」
くぐもった声とともに、重圧のある足音が響き渡る。少女の背後からは醜悪なる怪物が追い迫って来ていた。
巨大なブタの怪物。一言で形容するならそうなるだろう。だが、マリナの二倍ほどの体長があるブタなど、そうそう存在していいものではない。おまけに、ブタのくせに二足歩行である。矛を携え、一丁前にふんどしを身に着けていた。
必死の逃亡は無為に転がっていた小石によって阻まれる。躓いてバランスを崩したところに、矛が突き刺さる。尻をついて後ずさるが、ブタはゆったりと追い詰めていく。
「てこずらせやがって。グフフフ、感謝するのだな。貴様は魔王チルドレンが一人、オークロードのブザンマ様によって糧となるのだ。安心しろ、きちんと骨までむしゃぼりつくしてやる」
汚らしく舌なめずりをするブザンマ。マリナは涙目になりながらも悲鳴をあげようとする。
だが、喉まで出かかった言葉が発せられることはなかった。あまりの恐怖に喉がしめつけられているのだ。あまりにか細く、嗜虐心をそそられる仕草。ブザンマは溢れるよだれを留めることができなかった。どれ、まずは逃げられないように足をいただくか。いや、物理的にいただくのは惜しい。なかなかの上物だ。女としての尊厳を失墜させ、心を完全に折るのも一興。
下賤に鼻息を吹き鳴らしながら、汚らしい腕を伸ばす。儚き命がまた一つ散ろうとしていた。
「うぃーす、ここは、どこだー」
あまりにも場違いな間の抜けた声。ブザンマは鬱陶しそうに声のした方を見遣る。
頭にハチマキのごとくネクタイを巻き、スーツの上着はだらしなく着崩している。ワイシャツの第二ボタンまで開かれているのはまだいい。問題なのは、遠目でも判別できるぐらい社会の窓は全開だったことだ。
「なんだてめえは」
ブザンマは恫喝する。当然の疑問だったが、その男もまた当然のように返す。
「なんだてめえはってかぁ。そうです、私が変なおじさんでーす」
「んなもん、みりゃ分かるわ」
「はあ、てめえ、俺をなめてぇんのかあ」
ろれつが回っていない口調で威圧し、ゲップを喰らわせた。
謎の闖入者はあっちへふらふら、こっちへふらふらと千鳥足を続けている。ブザンマからしたら、謎の舞を踊っている珍妙な男という認識だろう。そして、マリナは敵か味方か分からない変人の登場に怯えるばかりだった。
「ふざけた野郎だ。邪魔をするなよ、これからお楽しみの食事タイムだからな」
「あんだって。俺はな、酒木陽介ってんだよぉ。坂場商事の営業部長様だぉ」
「今更名乗ってんじゃねえぞ」
陽介なる男は、どなられてもなお、千鳥足を続けている。興奮しているわけはなかろうが、全身が火照っており、意味もなく右手を振り回していた。
「んあ、おめえ、ブタかぁ。ブタはなぁ、動物園にいんだよ。ってことは、ここは上野かぁ。おい、どうしてくれんだぁ。京浜東北線に乗りたかったのに、山手線に乗っちまったじゃねえか。スイカの代金返せよ、おらぁ」
「いや、知らんが」
訳の分からない単語を連発され、ブザンマは戸惑いを見せる。彼の世界の常識では京浜東北線はおろか、電車という概念すら存在しない。そして、理解が追い付いていないマリナは自意識を保つのに精いっぱいだった。
「ブタかぁ、ブタ。いいねえ、焼き肉で食いてえなぁ。カンカンカンカンばんさんかーんってな」
謎の歌まで披露され、ブザンマのこめかみにしわが寄る。ちなみに、そのCMソングに出てくるのはブタではなく牛である。
傍若無人な狼藉に、ついにブザンマの堪忍袋の緒が切れた。
「てめえ、おちょくってんじゃねえぞ。気が変わった。まずはてめぇからやってやらぁ」
ブザンマは勢いよく矛を振りかざす。凶器はまっすぐに陽介の喉元を狙いすます。「危ない」とマリナは声を振り絞った。ふざけた男は無惨にも惨殺死体となり果てる。
そう思われたのだが、ブザンマの矛は空を切った。瞠目する怪物。いつの間に移動していたのだろうか。矛から一メートルほど逸れた地点に陽介は突っ立っていた。
「ああん、あぶねえなぁ。おめぇ、銃刀法違反って知ってっか。んなもん振りましてっと、おまわり来るぞ」
「馬鹿な。ただの人間が俺の攻撃を避けただと」
愕然としつつも、矛を取り戻し、しかと握りしめる。戦況としては想定の範囲内だ。攻撃を回避されたぐらいでうろたえていては魔王軍の名折れである。
「おめえが先に手ぇ出したんだからなぁ。正当防衛ってやつだあ」
陽介は拳に息をふきかける。モンスター相手に素手で挑むつもりだろうか。愚かの極みだ。ブザンマは鼻で笑う。
だが、次の瞬間、でっぷりとしたメタボ腹に強烈な拳が撃ち込まれる。反吐をまき散らしながら、ブザンマは大木に叩きつけられる。自身の二倍以上の体長があり、なおかつ五倍以上の体重がある相手を吹き飛ばしたのだ。徒手空拳としてはありえない威力であることは言うまでも無い。
規格外の巨体が飛ばされてきたことで、マリナは目を見開いている。眼前で繰り広げられている光景を咀嚼するのに精いっぱいだった。
そんじょそこらの雑魚ならそのままKOとなる一撃。なのだが、ブザンマは鼻息を吹き鳴らすとゆっくり立ち上がった。
「なめやがって。こうなりゃ本気を出すしかねえな。俺を怒らせたことを後悔させてやる」
頭に血が上ったブザンマは真正面から突撃してくる。人間だったら全身骨折は免れない一撃だ。まして、生身で受ければ命に関わる。
承知しているのかどうかは不明だが、陽介は一向に動こうとしない。それどころか、気持ち悪そうに前かがみになっている。切迫してくるブザンマよりも、己の体内から放出されようとする吐しゃ物の方が問題だと言いたげだ。
恐怖の突進攻撃により、陽介の体は宙に舞う。そう思われた。だが、接触する寸前、陽介は体を大きく横に傾けたのだ。
そのままよろめいたことで、ブザンマの突進範囲から逃れる。攻撃を躱されたことで、ブザンマは方向転換をしようとする。
まさにその瞬間だった。
「うぃー、とんでけー」
いつの間に切迫していたのだろうか。ブザンマが存在を認めた時には、わき腹に強烈な拳がお見舞いされていた。
巨体が空を飛ぶ。ブザンマは自分がどのような状態に陥っているのか把握できなかった。さもありなん。飛空するという、日常生活ではありえない体験をしているのだから。
「うぃー、たーまやー」
意味もなくネクタイを振り回す。ブザンマはもがき続けるが、重力には抗えるはずもない。
墜落して全身を強打する。即死を免れたのは、大木が下敷きになったおかげだろう。大規模伐採をしてしまったブザンマは痙攣している。理解を超えた出来事の連続に、マリナは開いた口が塞がらなかった。
もはや虫の息のブザンマは恨めしそうに陽介を睨む。
「くそ、こんなおっさんにしてやられるとは。てめえ、覚えてろよ」
魔物はそんじょそこらの生物と比べると自己治癒能力がけた違いに高い。立ち上がれさえすれば、すぐさま撤退できる。そんな算段を踏んでいた。
だが、どのセリフが琴線に触れてしまったのだろうか。陽介は据わった眼でガマガエルなみのゲップを繰り出した。
「てめえ、ふざけたこと言ってんじゃあねえぞ。俺はまだおっさんじゃねえ」
「どっからどう見てもおっさんだろうが」
「俺はぴちぴちの四十二歳だぁ」
「十分におっさんだろ」
マリノも密かに頷いていた。しかし、理不尽な物言いにいくら抗議したところで、陽介の頭が冷えることはない。
「失礼な野郎にぁ、お仕置きしねえとなぁ」
そういうと、陽介は高々と右手を伸ばした。指先には稲光が迸っている。薄暗い森の中で彼の一帯だけが真昼の如く光輝く。
魔法を使おうとしていることだけは自明だ。しかし、滞留する電力はけた外れだ。魔王軍の中でも上位に位置するブザンマは、これまで幾多の魔法と対峙してきた。だからこそ分かる。あの酔っ払いはとんでもない威力の魔法を放とうとしている。
逃げようにも、全身を叩きつけられた反動でまともに体を動かせない。そして、陽介は勢いよく右腕を振り下ろす。
「喝!!」
稲光がブザンマの巨体へと直撃する。激しい閃光に目を開けてはいられない。マリナはとっさに膝の上へと顔をうずめる。
ほんの一瞬。それこそ、つむじ風が通り過ぎるぐらいの時であったろう。雌雄は決せられた。
全身丸焦げになって横たわるブザンマ。その周辺で千鳥足になっている陽介。危機は去ったのか。マリナは恐る恐る陽介へと近寄ろうとする。
「うぃー、つかれたー」
大あくびをしただけだが、マリナは脱兎のごとく木陰へと隠れてしまう。一瞬目線が合った気がしたが、過度に恐れる必要はなくなった。陽介は大きく伸びをしたかと思うと、その場で大の字になって寝息を立ててしまったのだ。
煙が燻る巨大なブタの焼死体。その隣でうるさいほどのいびきをかく謎のおっさん。交互に見渡した後、マリナはぽつりとつぶやくのだった。
「なんなんですか、このおじさんは」