ある宗教にいたときの話。
「コウフクノカガク」の中心―臼井正己氏、種村修氏、上祐史浩氏、大川きょう子氏と
2012年7月某日都内某所。
私と『毎日が革命』でおなじみの臼井正己氏のふたりは、種村修氏、S氏と教団の中心の姿についてさまざまなことを伺った。ある週刊誌に教祖の「性の儀式」を告発したとして教団から訴えられたばかりの除名幹部である。
お二方とも始終おだやかな顔つきで、私たちの話を聞いてくださり、そしてその穏やかさのまま真剣な口調で教団の自浄作用が働かない官僚体質を語ってくださった。彼らは教団を非難し、恨んでいるというよりも、会員らや社会を「救いたい」という意志をもっていたようだった。
そのすぐ後に、私たちは「ひかりの輪」の上祐史浩代表のもとで、この告発についてのオピニオンを伺いに行く。記事をみた上祐氏はオウムとの共通点を指摘し、昭和の終わりに興隆した精神運動が、2012年になって終わりを迎えていると予想していた。
それから、また数日経たないうちに私たちは都内の高級住宅街で、現在東北で復興支援の活動をしている大川きょう子氏と会うことになる。わずか数年前には政党の党首も務めていた。教団の夫人・総裁補佐として組織を引っ張ってきた大物だ。そんなきょう子氏も、臼井氏が創価学会の本尊が変わって家族の態度がころりと変わったというネタを聞くと、何十秒間も笑いを抑えることができなかったようである。そんな意外な姿を見て、「ああ、やはりこの方ももとは一人の女性なのだな」と感じた。
いやはや、なんとも話題の渦に居るビッグネーム三方と直接お話しが出来たことは、ひとえに臼井正己氏の行動力によるものが非常に大きい。私はそれに飛び乗っただけの形になるのだが、なにか「新しい一歩」が踏み出せるような予感がした。
いよいよ、この朽ちた教団にもチェックメイトがかかりはじめたのは明らかだ。
教団の名前は、「幸福の科学」。2009年に政党を結成して話題を醸し出したものの、一議席も取れず泡沫政党として世間の失笑を買ったことも記憶に新しいだろう。
私も臼井氏も立場は違えど、過去にこの教団で明日を夢見て教えを学び活動していたことがある。
しかし、葛藤や失望や恐れや哀しみを経て、自分の道を選んでいく。
現在、わたしにとって、「コウフクノカガク」は本当に「なんでもない」距離にある対象になってしまった。
ネットを見ていると、「やや日刊カルト新聞」をはじめ、アンチのサイトやブログなどが多く立ち上がり、盛況を呈している。
そういったあふれる見解に対して、私の過去を振り返りつつ私見を呈してみたい。
本稿は、多くの週刊誌のように「あの教団の裏側」というような類のスクープを挙げるつもりは毛頭ないので、野次馬的に「何かを知りたい」と思われている方にとっては非常に物足りないのは承知の上である。教団を糾弾し争うつもりもない。そして、現役信者からも散々カムバックするよう呼びかけられてきたが、ごめんこうむりたい。
ただ、これは「外部」からではなく、一度「内部」で活動したことのある末端信者として誠実に心の変遷や葛藤を等身大に綴った告白と考えてもらえると嬉しい次第だ。ほとんどが私の主観である。当然、これが、「コウフクノカガク」のすべてでは決してないし、むしろ万人向けの「シュウキョウ」の解釈など存在しないのかもしれない。「答え」を与えるというよりも、むしろ迷いの材料を与えることになるかもしれない。「なぜ、コウフクノカガクという宗教に走る人がいるのか。」という視点を持ってくださればなにか壁を超えるきっかけが得られるかもしれない。これは、ひとつの「コウフクノカガク」を通した私の「魂の遍歴」とみて欲しい。考える材料や、もし「誰かから与えられた価値観」から抜け出すヒントなどを与えることができたら幸いである。
問われているのは、「コウフクノカガク」が何か、という問題もではもちろんあるが、「それと関わってしまった私とは何であるか」ということでもあるということなのだ。
「コウフクノカガク」との出会い―私のそれまで
私の家は小学生まで、祖母経由で伝えられた「生長の家」という新宗教に親しんでいた。
「人間神の子無限力」を説く光明的な思想や、ジュニア向け冊子の漫画に私は子どもながらに「宗教」特有の明るさや素晴らしさを感じていた。講演会にいったり、子どもの私は託児室で友達と遊みに夢中になったりしていたことが記憶の片隅にある。
法事には田舎に「お寺さん」が来て、仏様に南無妙法蓮華経をあげて、お茶を飲みながらニコニコお話をしたりということがあった。また、私自身も自分で選択して私立のカトリックの中学校に進学した。そんな「宗教」が違和感なく日常にある生活だった。
そのようにして、幼心ながらに素朴な私の「宗教心」というのは植え付けられていたのかもしれない。
そのような環境に親しんできたわけなので、ある日、母親から「あっちの教えは旧い、今はこの人の時代よ」と持ってこられた「総裁先生」の本に対して何かしらの反発心があったのはあるかもしれない。
それが、「大川隆法」という見慣れない宗教家との出会いだった。私が小学生を卒業するかしないかという時のことである。
その本は、小学生には高尚そうに見えて読みづらい内容だったが、生活の知恵や、経済、国家の考え方など、哲学的でない分かりやすい考え方であり、今まで触れてきた宗教らしくない新しさを感じて不思議に思ったりもした。「幸福の科学」という団体らしい。「変わった名前の宗教だな」と思ったりもした。
親が出会ったのは大学で「学生部」が主催する「心のエステ」というワークショップを通じてだそうなのだが詳しくは分からない。
それから次第に会の冊子や書籍を私の家でたくさん見かけることになった。
「ヘルメス・エンゼルズ」なんていう子ども向けの冊子もあり、道徳的なことや勉強の仕方などいろいろなことが書かれてあった。たしか、初めて読んだ「大川総裁」の記事は「しつけ」の大切さだったと記憶している。子ども時代やんちゃだった私は、「少し身を正して道徳的にまっとうな人間になろう」と思わされたものだ。とにかく家に来る出版物を通じて「会」がどのようなものかを少しずつ知ることになった。今まで見てきたり触れてきた伝統の宗教、戦後に出来た宗教とは違う、新しい視点の現代的な宗教だなということを感じていたのである。
初めて会の「支部」に訪れたのはいつであろうか。
その年の秋に「太陽の法」という宣伝用の映画を上映していて、「スケールが大きすぎて一般人にはドン引きされるんじゃないか」と感じたが、エル・カンターレの教えに素直に感動した。特に、ラ・ムーやクラウドや釈迦といったエル・カンターレの生まれ変わりの説法を聞いた人々が涙を流し改心して光り輝く文明を創り上げていくというシーンは素直に心に残っている。「太陽の法」の映画が私の「信仰」の原点なのかもしれない。「地球を導いてきたエル・カンターレという存在」をそこで初めて知った。うすうす私は、この現代日本に生まれてきた「特別な使命」のようなものを感じていたのだろう。
その時期に私も三宝帰依という入会の手続きをした。そして、「正心法語」や「祈願文」といったお経をいただいた。
「三帰」に導いてくださった会の職員さんがこう言ってくださったのを覚えている。
「今は分からないかもしれない。けれども、この時はあなたの魂に黄金の刻印が押された大切な時だということがあとになって分かることが来るよ」と。
一緒に来ていた兄も一緒に「三帰」をした。もちろん自分の意志ではなく。「自分で読んで勉強しようとは思うけど、会に入るのはちょっと。」という感じで嫌がっていたのだが、会員さんにやさしく笑顔で「入っても何も変わらないからね、とりあえず入るだけ入ってみなよ。霊的に守られるからさ。」と勧められて一応三帰誓願式を受けた。記念に二人してポロライドカメラで写真撮影をしてもらったのを覚えている。
高校生だった兄も支部に来させられることに対して、初めは「なんだよ」という感じだった。しかし、会員のみなさんと話をするにつれ、とても素直で明るくなっていって、帰る頃にはすっかり上機嫌になっていたことが思い出される。数年後には、もうほとんど縁など無くなるのだが。
「何も変わらないから」と勧めた会員さんは、「うん、三帰する前とあとで確かに変わったよ。光が来てるのが分かる」と目を輝かせて、嬉しそうに祝福していました。内心「アレアレ」である。
しかし、私にとってこんなにスッキリした感覚は初めてであった。今までの宗教観が変わった瞬間だった。すがすがしかった。
「この宗教は決して怪しい宗教ではない。」
「支部は居心地がいいし。この宗教はきっと僕に何かよいものをもたらしてくれる。」という期待をもとに私は何の違和感もなく自然にすんなり会を受け入れてしまった。
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「コウフクノカガク」が説く世界観―「仏法真理」
私が、書籍や映画で繰り返し見て刷り込まれてきた世界観というのが、「霊界の次元構造」ということである。
この教団を動かす論理を知る上で欠かせないのが、大川隆法と幸福の科学が説く「仏法真理」である。これを知らないと必ず世間の人たちは「なぜこんなことを彼らはするのだろう」と疑問を抱く。この「仏法真理」の世界観、価値尺度が良くも悪くも、信じる人に幸福をもたらす半面、縛り付けて苦しめるのである。私も今だに、この差別的ともいえる「幸福の科学的価値尺度」での物の見方から抜け出すことが難しいということを告白しておく。中心となる軸は大まか次のようなことである。
◆人間の人生は生まれてから死ぬまでではない。
人間には魂があって、一定の周期であの世(四次元以降の実在界)からこの世(三次元)に生まれ変わりながら永遠に魂の修行を積んでいる。人間の本当の姿は霊であり心である。
そのことを忘れて、地上世界で肉体だけがすべてと信じこみ欲望にとらわれた人生を送ると、悪霊に取り付かれ地獄に行くことになる。
だから唯物論や無神論は誤りであり、そのような説を説いた人間は地獄に行くことになる。
◆愛の発展段階
「自分が愛して欲しい」という「奪う愛」から脱却し、他人に愛を与えることが、霊的に進化することである。
愛する愛→生かす愛→許す愛→存在の愛
とより高次にグレードアップする。
◆あの世には段階がある
人間が行く死後の世界は、霊格によって、四次元から九次元までヒエラルキーが存在する。
四次元の世界は普通の人が行って、様々な地獄界もそこにある。
五次元の世界は「与える愛」で、善人が赴く世界。
六次元は「生かす愛」でプロフェッショナルとして人生を淘冶したような人が来る。
七次元には、「許す愛」の領域で、偉人になるような人が来る。彼らは「菩薩」「天使」と呼ばれている。
八次元は大きな文化の屋台骨になる人物がいるという。
九次元が人間として最高の領域である。仏陀やキリスト、孔子、ニュートンなどの霊が十体おり、地球の文明計画を進行していると説かれている。
幸福の科学において地獄にいる「悪魔」としては、ヒトラーやスターリンが挙げられ、
また思想界で言えば唯物論、無神論を説いたダーウィン、マルクス、ニーチェなどが思想的な誤りによって地獄で苦しんでいると言われている。天台宗の開祖である最澄も地獄にいるということだ。
ひとつ言えるであろうことが、会員達は自らの心を「仏」に向けようと努力している半面、常に自分の心が地獄の方に向いていないかを注意しながら(おそれながら)生活しているということである。
◆私たちひとりひとりには「守護霊」と呼ばれる「魂の兄弟」がついているという。
肉体を持った人間の側からは見えないのであるが、常に地上にいる私たちが誘惑に陥らないよう守ろうとしており、また、地上に生きる人間にインスピレーションを与えることもあるという。であるから常々そのような見えない存在に対して感謝し同通することが大切であると会は主張する。
もっとも、近頃では「守護霊」はもっぱら大川隆法に呼び出されて「本心」を語るための道具として使われているが。
逆に、心に曇りがあり、悪い波長を持っていると、悪霊、魔といわれる存在が憑依して人を惑わせたり、病気にさせたりすると信じられている。生前反省することなく、悪霊や魔にとりつかれたまま死んだものは、地獄に赴くと教えられている。
◆人類の歴史は何万年、何億年も前から存在する。私たちはムーやアトランティスといった高度な文明を持った大陸で輪廻転生しいろいろな経験を通じて魂の修行を積んで地上ユートピアの建設を目指して生きてきたという。
◆愛、知、反省、発展の「四正道」が幸福になるための原理として説かれている。
さて、会を支え、会にとっていちばん根本でもある最も強烈なオリジナリティーが次のことである。
◆総裁先生は、「根本仏」であり、エル・カンターレと呼ばれる。仏陀の生まれ変わりであり、大救世主である。
偉大なる霊存在の本体が今、日本に下生している。仏陀に同じ時代に生まれることができるというのは奇跡にほかならず、この現代日本にいる私たちは、高い競争率のなか仏陀にあいまみえるために地上に生まれてきたというのだ。
この時代は仏陀の直説金句の説法が聞けるという二度とない、奇跡の時代である。この時を逃すと魂は永遠に後悔すると大川は述べている。
コウフクノカガクにとって信仰の対象は、まさにこのエル・カンターレであり、総裁として下生している大川隆法に向けられている。
出版された本は、なんと七百冊を超える。大川隆法によって示されたこれらの教えは「仏法真理」とよばれ、会員たちは自分が仏法真理と出会い幸福になれたということと、仏陀の再誕を伝えるために「伝道」という行為に励むのである。
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わたしは、いかにして「コウフクノカガク」に救いを求めたか―学校と家庭の問題のはざまで
中学生が終わり、高校生を迎えたときの頃だった。
多くの人が青年期を迎え「自分とは何者か」「自分はどう生きるべきだろうか」といった実存的な問題に直面し、人知れず精神的、内面的なものを求める傾向があるに違いない。そして、大人の造り上げた社会に対して疑問や反発を覚え始めるだろう。私の場合もそうだった。いや、それがほかの人よりもずっと強いことを自覚していた。「自分はほかの人間とは違うのだ」なんていう特別な思い込みをもって、低俗な話で盛り上がる友人たちを軽蔑していたりしたが、そんな心に「仏法真理」は拍車をかけることもあったのかもしれない。そして、「生きる」ということは悩みや苦しみの連続だということも、うすうす気がつくようになっていた。
高校時代のあるひとつの出来事が私を「コウフクノカガク」に入れこませるきっかけとなる。
それは私が高校一年の頃だった。
それまでは、定期的に「コウフクノカガク」と触れ合っていたものの、「のめりこんだり」「はっきりとした信仰を持つ」というところまではいかず、一種の道徳的、倫理的な基盤や、価値観、世界観をもつにとどまっていたにすぎなかった。
六月の体育祭が終わったころである。学校の体育祭のHPの掲示板を通して同じ年のひとりの女の子とメールを始めるようになった。男子校育ちだった自分は全く下心がなかったというわけではないのだが、とにかく家につないだばかりのインターネットで友人が出来ることが嬉しかった。
メールをはじめてほどなく、楽しそうな文面から一転して、彼女はいきなり急に泣きながらメールを打ってきた。
「死にたい。」
「リストカットをしている。」
「誰でもいいから抱かれたい。」
何があったのかを聞いた。
彼女は、小学校中学校といじめられていたという。そして、中学校では親友だと思っていた友人に裏切られた。そして卒業式も出られなかったという。さらに決定的だったのが、「一生一緒だよ」っていって心の底から信じていた彼氏とも別れてしまったことだという。
私立の男子校で勉強ばかりしていた私にとっては、「知らない世界」を垣間見たような気がした。
私は、同時に「仏法真理でこの子を幸せにしなければ。」とも強く思った。「仏が遣わしためぐりあいだ。」「伝道の絶好の機会だ。」と感じた。
学んでいた仏法真理の言葉をメールのなかにたくさん織り込んで、彼女を励ました。「仏法真理によってこの子を幸せに導きたい。」と想っていた。それを機に以前にも増して、仏法真理の書籍をむさぼり読むようになった。寝る前の布団の中でも、通学の電車の中でも。いつも、通学鞄に大川隆法の書籍を入れていた。彼女が幸せになることはおろか、いつか彼女を信仰まで導きたいともくろんでいたのである。
夜になると、布団のなかで必死になって祈っていた。それは、おそらく生まれてはじめての「祈り」だったのではないだろうか。
「お願いします。主よ。自分はたとえどうなってもいいから、あの子をお救い願います。どうか彼女が真理へと導かれますように。お願いします!お願いします!」と。
「コウフクノカガク」の皆がそうしているから、ではなく、私はただ一人、自分の意思で天上界に救いを求めていた。
ところが、彼女は私が何を言っても「堕ちていく」ことをやめない。
「死にたい」「何十回も手首切ったよ」はいつものこと。「寂しい。好きでない人でもいいから抱かれたい。」とネットを通して、不特定多数の男の人と会い、行為には及ばないながらも癒しを求めていたようだ。
彼女の語ることは私にとってはとても衝撃的なことであり、驚きの連続で、どう対応してよいのかわからなかった。私にとって、男女の交際のことはもちろん、性については別の世界の話でしかない。なにより、私はどこかで彼女は「悪霊」に憑かれていると見ていた。霊能力で悪魔を払いたい、仏法真理の書籍を読ませて光を通したい、支部に連れていきたいなどと本気で思っていた。
また、私自身、親との仲が悪かったこともある。
実は当時は私に携帯など与えられておらず、その時自分の使っていた携帯は、いざというときのために家にあるけれど誰も使っていなかった携帯だった。いずれそのことがバレる。
メールを見た親は激怒する。「何、あんたのものでもない携帯勝手に使って!ドロボウネコみたいな真似しやがって!こんなとんでもない奴とは一切手を切れ!」など散々言い散らされた。
「確かに勝手な面はあったかもしれない。しかし、どんな思いでやっていることかも知らず…。」理解を示さず拒絶する親には怒りしかなかった。
後に、彼女とは「文通」という手段で連絡を取り合うことになる。
高校生ながら、今思えば、傲慢であった。そう、多くの「コウフクノカガク」の信者のように。苦しんでいる人間にたいして、「私は幸せになる方法を知っている。この子は知らない。かわいそうだ。」という一種の見下しの目で見ていたとも言えるだろう。見下しどころではない。恐ろしいことに、私は「悩みを持つことや、暗い心でいることは悪霊の影響だ」と見ていた。そして、「人助け」をしている自分が何か偉い、霊格の高い天使になれるとでもどこかで思っていたのだ。自分は、「他人の悩みを聞く」「人の相談に乗る」ことのなんたるかを一切分かっていなかった。「想い」ばかりが先行して、「方法」「相手の立場に立って考えること」などどうでもよかったのだ。
悩みや苦しみを持った人たちを「けがれたもの」「おぞましいもの」として軽蔑する思想がやはりどこか「コウフクノカガク」にはあったし、ほかならぬ私自身にもそれは刷り込まれていた。そして、悩みや苦しみから抜け出せない自分自身を裁き、責め抜く。そして幸せになるために、必死にエル・カンターレに祈り、何万円ものお布施を出して、研修や祈願を受けるのである。
高校生の子どもが、他人の苦しみなんか解決できるわけがない。「自分が助けてやる」なんて決して思ってはいけない。自分ひとりで抱え込もうとせず、周りの信用できる大人に相談するのが正しいのだ。
しかし、問題はある。そんな「信用できる」大人が周りにいるだろうか。よく、学校にも家にも居場所がなく追いつめられて誰にも打ち明けられず、苦しんでいる子どもの話を聞く。
「宗教」がそのような子どもの安心できる居場所としてもっと機能してくれたらよいと切に願っているのだが、そのような役割を果たしてくれる場所は今の日本ではあまり見当たらないというのが現状のようだ。
夜間定時制高校の教員である父がこう言っていたのを思い出す。
「自分の高校にもそのような問題を抱えた生徒はいる。そして、放課後なんかに生徒同士でいっぱい話し合ってるけど、結局は解決せえへんのや。
でもな、死にたいとかたいそうなこといいつつ結局は死なずになんとかやっていくもんや。
お前はまだ子供やし、その子を助けることなんてできへん。だから、やりとりするのはやめたほうがええ。
また大人になってからそういう知識をいっぱいつけてからやればいい。」
今、思えば本当にその通りで一理あるのだが、当時は悔しくて仕方がなかった。教員とは所詮そんなものなのかと思った。
「大人は無視。子どもにも助けられない。だったら、苦しんでいるやつに救いなんてないのか。結局無視が一番いいのだろうか。」
私は思った。世間なんて幸せなやつらが自分たちの幸せのためだけに、自分たちを中心に、都合の悪いものを排除して作りあげた虚構じゃないか、と。
どこも子どもの心を救ってくれる大人はいない。子どもたちは、現実を憎み、純粋でけがれなき社会を作りだそうとする。だから、彼らはカルトに飢えるように走る。
「コウフクノカガク」の根底に流れている、弱者蔑視の思想、福祉や悲嘆の否定はひょっとしたら現代社会のひずみを顕著にあらわしたものではないだろうかとも思っている。
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ネットと「コウフクノカガク」―何が信じられるのか
最近でも、「コウフクノカガク」の職員になろうという学生の方から、相談を受けたことがある。二世信者だったのだが、ネットをみると「ここに居ていいのだろうか」と怖くなったという。「電話してもいいですか」と訊かれたので、相当切羽詰まっていたのだろう。法友(信者の友人を指してこういう)に聞いても、「魔にやられているからなるべく見ないほうがいいよ。」と言われるという。だから、一歩距離を置いて批判をしている私に聞きたいというのだ。私は露骨に止めるように言うことはなく自分で考えるようにアドバイスしたように記憶している。
ネットで自分の教団のことを調べて、「誘惑」に負けてつい見入ってしまい、「嫌な気持ちになった。」「魔が入った。」、そして、「この信仰は本物なのか」と自問自答を繰り返したという信者も少なくはないだろう。事実、ネットが教団の信仰をしている問題は決して少なくはない。しかし、ネットの情報は自分の心を決断するための「決定打」となるにはインパクトの弱いところはあるだろう。人の心を砕き、変えるためにはいくら情報や論理を集めて見せても「迷い」の域をでない。
最近では、選挙や離婚、再婚などの話題が上がるにつれて、ネットでも様々な情報提供が行われていて、教団の嘘だと思っていたネットの告発も明るみに出るようになったが、当時は今に比べて情報がまだまだ少なかった。
私のインターネットに関する体験と私見になる。
インターネットというものが、まだ高校生である私の見方、考え方に大きな影響を与えたことは否めない。
世の中にはいろいろな視点があること。簡単にはひとつにまとまらず、対立し、批判しあうということが常であるということ。そんな当たり前のことに気がついたのだった。
私は、「仏法真理」、会で説かれている霊的価値観を日本中に、否、世界中に広めることで、必ずすべての人が幸福になれると信じていた。告白すると、私にとって、「誰もが必ず幸福になれる」仏法真理を受け入れられない世界が実に不思議に見えて仕方なかった。今考えると世界を一つの思想に塗りつぶさなければならないという非常に暴力的な思想である。
当たり前のように「正しい」と信じていた教団や教えに対して山ほどの批判があり、私の心に突き刺ささりショックだったものも多くあった。後年、私が彼らの心を突き刺す立場になるのだから、全くの皮肉としか言いようがない。
「みんなが信じて幸福になればそれでいいんじゃないの?それでなにか間違っているの?」
と何も考えず思っていた私にとって、分からないことばかりだった。知らないことばかりだった。
批判は、単なる根拠のない中傷や嫌がらせだけではなく、「コウフクノカガク」の教義や組織や信仰の在り方に真っ向から論理的に批判を述べているものもあった。それだった。私の心を揺るがせたのは。
世の中は単純でない。
知らなければいけない。
難しく考えなきゃならない。
語ることができなくちゃならない。
そのころから、難しい「哲学」の思考方法を独学で学ぶようになっていった。
大川隆法も「霊言集」を通して、古今東西のさまざまな思想家、宗教家を出して語らせている。書籍にもところどころ、学のない人から見たら、難しそうな過去の思想や文化の背景が語られることがある。そういった裏付けがあるため、なにか説得力があるように見えるのだ。
教養を蓄え、語り、議論することができないと土俵にすら立てない。何も意味がないということを私は感じ取ったのだった。「難しく考えて」、その上で仏法真理が正しいことを証明する必要性がある、と私は思っていた。
後に、私はそれが興じて哲学の道を叩き、読書に興じるのだが、根本的に問いたいことは、ネット上での「知」の活用の在り方は、いったいどこに向かっているかということだ。
果たして議論によって「真理」を得ることができるのか。ネット上に意見を発表して、常に他人を意識することで、自分固有の根源は開かれるのか、ということだ。相手を論破するためのパワーゲームのなかで泥沼にはまっていき、本当に大切にすべきものを見失ってしまっていることが往々にしてあると強く思わされている。多くのことを語っているようで、本当は何一つ大切なものを掴んでいないというようなことがないだろうか。
ソクラテスは、ポリス社会が成熟し、市民が人間社会において弁論を駆使するようになったアテナイの街において、「汝自身を知れ」という主張を掲げている。私は、この標語はあらゆる「知」の原点であると考えている。「知らないことは知らない」と勇気を持って言えることが本当の知なのである。「信仰」と「思いこみ」は異なるものだ。
といっても、いくら「まっさらな自分の心に訊いてみろ」と言われても、あらゆる情報から遮断された「自分の本心」というのはありえない。「何が真実なのだろう」と、難しく一人で考えすぎると泥沼にはまってしまい、私のように人生を空回りして無駄にしかねない。答えなど決して出るわけがないのだ。はまると病む人間が出てくる場合もある。
ソクラテスは、同様に、語ったことよりも、実際に行ったことを重要視した。
大層なことは本当に考えなくてよい。論理や議論の上で絶対的な正しさを見つけようとするのではない。実践と行為の中で小さな、これと思える幸せの法則や、確かなものを身につけていったほうがはるかに為になる。
「コウフクノカガク」の話から外れてしまったが、これはネット社会と現実の関係に万事当てはまる。悩んでいるときは、画面に没頭して、頭だけで考えるようになってはいないだろうか。聖書に、「文字は殺し、霊は生かす」という言葉がある。私たちは、「文字」に殺されていないだろうか。
現在はそういう考えだが、「コウフクノカガク」については、迷いが何年間も続いた。
いろんなことを考えはじめると何が正しくて何が正しくないのか分からなくなるのである。
同時に、今自分が抱えている悩みを解決したい気持ちもあれば、自分に相談してきてくれている子を救いたい気持ちも大きい。論理的な問題よりも、実際の生活とか情緒的な面での救いを求めるほうが大きかった。いちばん大きな力を与えてくれる可能性があるのは「コウフクノカガク」だけである。
「信者」の私の想い。私がどう「信仰」の側を選んだがということを、告白するとこのような感じになる。
インターネットを通じていろんな意見を見る。会に批判的な意見の人を見ると心臓がバクバクして血の気が引いたようになる。
会が正しいっていう人を見るとホッとする。
批判している人たちは本当に見方や考え方が冷たくて幸せにはなれない。
会の人たちはやっぱり暖かい。
そんな対立のさなかで会に惹かれる想い。
会を守ろうとする想いが大きくなってゆく。
「信仰が試されている」と思い迷いながら、どうしても信仰を選びとろうとした。
大川は信仰こそ人間にとって一番大切なものと教えている。
信仰は魂の命綱である。
信仰を捨てることは仏と自分の関係を絶ってしまうこと、魂の死だ。
苦しいと思って、手放したら最後堕ちるのは地面などではない。
永遠の闇、奈落の底が待っている。
信仰を手放す痛みくらいなら、肉体がノコギリでバラバラにされる痛みのほうがまだマシだ、と。
また、信仰は百パーセントでなければいけない。
九十九パーセントの信仰は信仰ではない。
地上に肉体を持った仏陀に対しては百パーセントの帰依をしなければ、ことごとく間違いの淵に投げ込まれる。
私は会を信じたかった。正直なことを言えば、会に対する批判はみんななくなって欲しかったのだ。
なぜ、みんな素直に仏法真理を信じて幸せになることが出来ないのだろう。
なんでこんなに素晴らしい教えなのにその良さが分からないのだろう。
なんでそんな屁理屈を付けて、粗を探そうと必死なのだろう。
みんなわざわざ仏陀に相まみえるために、自分から選んで高い競争率のなか地上に生まれてきたのだろう。
気付けよ。
もうこんなチャンスは幾転生しても二度と巡ってこないのだ。
お前達の行為は二千年前にイエスを救世主と分からず、脇腹を槍で突いたことと同じだ。
それでも分からないことはたくさんあった。
必死に信じようとした。
考えた。
考えに考えた。
いろんな本も読んだ。
だけどはっきりしたことは分からない。
会が正しいのか、間違っているのか。
いろんな考え方が世間にはあるけれども、
会の考え方は他のどんな考え方よりも優れているし、真に人を幸福にする考え方だ。
東大卒で、勉強家の総裁先生は視野も広く、話すことも一般受けのよい、それでいて決してレベルの低くない意見を易しく述べる。
たとえば、S会のIなどは、ほとんどが「ゴーストライター説」と言われているが、
それとはまったく違い、総裁先生は、原稿も持たずこんなに卓越した考え方を、しかも一度も同じ話などせず、次々と述べ、それをもとに出版された本はすべてベストセラーになっている。(本当は違うということをあとで知ったのだが。)
もちろん会員が一人何十冊も買って配っているのは事実だが、実際に内容は批判のしようもない実に優れたものだろう。
はっきり言って、そこらの大学教授じゃいくらあがいても敵わない。
まさに一人で大きな会を立ち上げ、引っ張ってここまでの仕事ができるというのは天才に他ならない。
それほどの仕事をするにはやはりそれを裏付ける強烈な使命感があるということ以外に考えられない。
この人が嘘をついているようには想えない
この人は本物の仏陀かもしれない。
…いや、
仏陀に他ならない!
仏陀の他にこんな素晴らしい法を説かれる方がいるだろうか?
ひょっとしたら、書籍に書かれてあることはすべて正しいのではないか。
自分のこざかしい小さな頭で考えたところで一体何が分かる!?
ちっぽけな自分を捨てろ。
偉大なる仏陀の懐に飛び込んですべてを任せるのだ!
ああ
暖かい…
光に包まれている。
これが幸福か
これが信仰の素晴らしさなのか
何も分かっていない世の中の人が何と言おうと自分は仏陀を信じる。
ああ
仏陀よ
幾転生の末巡りあった魂の喜び!
永遠に私はあなたと共にいます。
師弟の絆は永遠です。
昔書いたものを見返すと、やはりこのように書いていたらしい。改めて見返してみると、完全なマインドコントロールにほかならない。一度嵌った世界観を脱却して自由になるのは本当に骨が折れる作業だ。私に不幸や苦難があるほど、心は「信仰」を求める。
こればかりは一人で画面と向かいあったり、知識を集めるだけではどうしようもない。本当に難しい。知識や説得という「北風」をいくら吹きつけても、信念というコートは決して脱がすことはできないのだ。それは、あくまで自分の向いている方向の「後押し」以上にはならない。
熱心な会員は、アンチに対して、「エル・カンターレの光や素晴らしさが分からず、自分の能力が低いことや成長できないことの正当化のために信仰を棄てて、教団に責任転嫁している醜い心根を持った人たち。」というようなことを述べることが多い。おそらく、内心「許されるべきでない悪魔」として見ているに違いない。
この価値観に一度マインドコントロールされてしまうと、そこから離れるのですら恐ろしくて仕方がない。批判などは論外であり、わずかな疑問も「魔」が入っていることの証なのである。徒党を組んで教祖や教団を批判しているというのは、見方によっては確かに言い訳そのものである。
私には、信者、アンチ、両方の言い分が痛いほど分かる。だからこそ、後に2009年の総選挙を機にネット上で自分の態度を表明して、仏法真理に牙をむいてとことんまで戦い抜いた。
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「コウフクノカガク」の魅力と暴力―言葉だけの宗教
脅されて入る信者はほとんどと言っていいほど皆無だろう。やはり、精神的に向上心のある人たちが「これぞ」と感じ、何か魅力を感じて門を叩くのだ。その動機は様々かもしれない。主婦であれば、家庭の調和やあの世のこと。ビジネスマンであれば、「本当の成功」。病人であれば、病気治し。宗教者であれば、人生の真実かもしれない。
「コウフクノカガク」は、既存の宗教とは違い、「この世とあの世を貫く幸福」を掲げる。
私は当時、将来の進路として「コウフクノカガク」の職員という道まで考えていた。そこまで入れこんでいたのである。「心の教え」を説ける人間にあこがれていた。「主の大いなる理想」のために仏の透明な手足として、この人生をかけて働いてみるのが夢だった。本尊に向かって礼をし、経典を読誦・奉納する姿。研修などでは、たまに冗談も交えながら、仏の尊い教えを伝え、私たちの魂に深い感動と光を与えてくれたのである。痺れた。そのような、「仏」に支えることができる素晴らしい仕事をぜひやりたいと思っていたようだ。
なぜ、私はこの宗教に執着したのだろうか。上祐史浩氏は『オウム事件 十七年目の告白』(扶桑社)で、カルト問題を親子関係から考察している。大乗仏教の伝統の教えの中には、仏の慈悲の見本を親に見るものがあるというが、オウム信者はそれを麻原に見てしまったという。また、麻原の不幸な生い立ちと親に捨てられた経緯などもよく知られているところだ。
私も、いわゆる「アダルト・チルドレン」といわれる種類の人間である。親の十分な愛情を受けられず、子どもらしく生きられなかったため、成長してからも自分に自信がなくいつも不安な状態の人間の一人だった。ほかの人間のように、何にでも生き生きと取り組むことができず、常に自分を責めて、なんとか自分を励まそうとしていた。しかし、どうしても生き生きとできない。「仏法真理」の書籍に答えを求めて読み漁っていた。しかし、いくら本を読んでも「幸せになった気」はするけれど、苦しみは一向になくならないのである。
「こういうときはこうすればいいですよ」ということは網のように体系化されて、どこかに引っかかってくれる。それで表面だけは救われた気はする。でも、痒いところに届かないなにかがある。理屈だけのきれいごとじゃないか、と文句を言いたくなるが、仏法誹謗は罪である。こんなことを心のなかで考えていたら魔が寄って来ているのだろうか。しかし、好きで考えているわけじゃない。本当はもっとポジティブに考えていきたいのだ。だけど思っているだけじゃどうにもならない現実がある。暗い言葉を発しちゃいけないというが、どうしろというのだろう。我慢するのに疲れていた。本当に「自分が未熟で、修行や努力が足りない」と思っていた。そして、裁かれることを恐れていた。
きっと、信仰という名の執着だったのだろう。
ほかの会員の姿はどうだったか。
今の会員はどうか分からない。一度、東京の施設で話しかけた会員は、完全に守銭奴であり、「金儲け=幸福」の話で、心を磨くといった宗教さのかけらもなかった。
私が高校生、大学生初期のころからの限られた信者像を述べよう。
しかし、私が出入りをしていた当時の法友は、なかなか個性的でいて気さくな人たちが多く、一緒に話をしていて、明るい気持ちになれたのを覚えていたりする。みなさんが、ネットや本で聞くようなイメージとは違うなあというのが私の目から見た世間のズレかもしれない。彼らの多くは至ってどこにでもいる善良な市民だ。あなたの隣の人が「コウフクノカガク」ですなどと言われても決して驚かないだろう。そして、信仰の世界と俗世間の世界の間で彼らの心は揺れ動いているというのが話していて多かった。
そして、何よりも日常では話せない心の世界の話や悩みなどを本音で話せる場所というのが、「コウフクノカガク」以外に皆無だった。
かれらは、なかなか、明るかったり、ユーモアのセンスがあったり、笑顔が素敵だったり、勤勉だったり、情熱的だったり、天然ボケだったりと普通に人間的に見て「きらっと」した要素をもつ人が多数を占めていた。しかし、そんな「普通の人たち」は今やほとんど「コウフクノカガク」から足は遠のいている。
いや、私がある種真面目な信者でありすぎたため、学生部の中でも浮いた存在であったのかもしれない。いや、そのような少数の信仰者こそが大学卒業後、職員となって教団の歯車、きれいな言葉でいえば、「主エル・カンターレの透明な手足となって」働いているのだろう。
そう、今では知名度が上がって「カルト」のレッテルを張られがちなのだが、「私たち」はちっともそうは思っていなかった。「怪しく」見られることを恐れつつ葛藤しながら、それでも「縁あって幸せを掴んでもらいたい」と活動している学生も多数だった。
「世間との宥和」があるうちは私たちも安心していられる。しかし、軋轢が生じてくると、「何を選びとるか」という自分との戦いになってくる。カルトを選びとる人だって、世間の目との葛藤はあったかもしれない。彼らには見下されるように傷つけられることが多すぎたので正直、教団に風向きが悪くなると「いい気味だ」と思うのだが、私自身彼らと同じになっていた可能性も存分にあり得たと思うと、遠ざけ、恨むだけでなく、しっかり正面から向き合い乗り越えていかなければならないとも考える。
「霊界が百パーセント存在するという事実」はいい意味でも悪い意味でも私たちの心のあり方を支配する。
「仏法真理」から見たら、私たちの人生の目的はこの世で魂の修行を積み、魂の「次元」を高めることだ。常に「実在界」からの視点を気にして行動、心に去来する想いを確かめるようになる。「誰から見られても恥ずかしくないガラス張りの心」ということが説かれる。心にやましいことがあると、嘘はつけない。自分から進んで地獄に行かなければならないのだ。私はそれが怖かった。
今考えると、人に「秘密がある」ということはとても重要なことで、安心できることにも繋がる。いつも誰かに心をのぞかれている、という状態はれっきとした病気である。しかし、もし、「コウフクノカガク」でなくても、神に対してやましい心があって裁かれるのを恐れている人がいれば、「どうぞ安心してください」と言いたい。完璧に心が清い人なんて聖人以外いません。
愛の発展段階説についてはすでに説明したと思うが、信者は、自分の愛が「与える愛」よりも「生かす愛」、それよりも「許す愛」と高まることを目指している。そして、おそらく同時に自分が「より高い愛を持った霊格である」と「思いたい」。明るい心でいれば天使が共にあり暗い心でいれば悪霊が取り付く。だから、できるだけ暗い想念を出さず、明るい想念を出していかなければならない。そうして自分の魂の光の量が増していく。
しかし、人間とはそんなに単純なものでもない。
どこかで暗い気持ちを出すことを恐れてはいないだろうか。それを我慢して、押し込めてなんとか自分の心を明るく見せようとしていることはないか。とにかく、何かに追い立てられているように、何かを我慢しているのではないかと思う。たしかに、そうではない人間もいるだろう。しかし、自分の負の側面を抑圧している人間もいるのではないか。
私の場合、特に自分の悪を押さえ付けることは不可能だった。当時を振り返ると、常に自分の中では罪の意識と、自分の悪をぶちまけたい意識が自分を苦しめていたようだ。
内面の世界を扱う宗教とは、他の誰かにそれを説明して救いを得にくい世界でもある。
こうして私はひとりで一層自分を何も見えない闇へと追い込んでいく。そのうち何が問題なのかすら分からなくなってくる。どうしてよいのか分からない。他に信じるものが見つからない孤独。とにかく不安と息の詰まるような苦しみ
自分で作ってしまった自分の殻から抜け出せないのだ。
うすうす感じていたこの感覚についてだが、種村修氏に話を伺うと、「やはり」と思った。
「コウフクノカガク」には素朴な暖かい心を引き出すものがない。そして、苦しんでいる人、悩んでいる人を抱きしめるという発想が皆無なのである。ユング心理学をもとに、種村氏は対話の中で教祖の「影の対決」というキーワードをしきりに挙げていた。教祖が四十代後半以降に潜在意識に出てくる「影」、すなわち押し込めていた欲望と戦わなければならないのだが、彼は確実にその影に負けたというのだ。そして、そのことは彼自身が証明した。彼には仏陀ならざる思いがあったという。これ以上は極秘と言われたので述べないが、種村氏らが教祖の潜在意識とコンタクトしたところ、「なぜこんなものが」といわれるようなものが一緒についてきていたという。
私たちにとって大切なのは、自分のなかの光も影も等身大の自分をそのまま愛して受け入れることなのではないかと思う。
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「コウフクノカガク」から一歩離れる―本当の世界宗教との違い
以下は、私がどうやって「コウフクノカガク」を離れるにいたったかの道のりである。
話を学生生活に戻そう。
さて、私の通っていた高校は中高一貫のカトリックの学校であった。いわゆる宗教色などはほとんどない学校であったものの、厳しい規律や変わった慣習などがあったが、昼休みに「カトリック研究会」といい、学年ごとに希望者が小部屋で聖書を読む会というのもあり、それに中学生のはじめのころは弁当を持ち寄りながら出ていた。二千年にも渡って残った聖書で語られていることに、哲学的な部分など違う刺激を見出していたものの、「仏法真理」を学んでいた私にとって、もっぱら興味は聖書に登場する神が本当は何者かということなどであった。しかし、心が落ち着く場所ではなく、昼休みなどは図書館で漫画でも読んでいたほうがためになるということで自然と離反していった。
のちに高校生になった私はもう一度新しい「カトリック研究会」に参加する。そしてそれが私の人生を大きく変えてしまった。
宗教・倫理を担当する大御所の先生が主催する集まりだ。「人生探検部」。略して「じんたん」と私たちは呼んでいた。
そこでいろいろなビデオなどを題材に話し合いをしたのを覚えている。イラクやイスラエルの問題とか、カルロス・ゴーン氏の話だとか、日本が戦争に突入していった無謀さだとか。本当に題材は様々で、自分の興味を引き付けてやまなかった。
私がいまだに尊敬してやまない「夜回り先生」や「尾崎豊」もそこで出会ったものだ。
やはり私には、会同様に何かを追い求める姿勢があったように思う。
高校一年の頃だ。
教団の方から伝道用のための映画(『黄金の法』)を上映していた時期で、その年は同時に初めて会の全国学生部が発足し、夏に一斉に合宿をした年でもあった。私はそれに奮って参加した。同じ「仏法真理」を語れる仲間が出来ると思うと嬉しくて仕方がなかった。五人ほど学校以外での楽しい仲間ができた。夜通し語り合った。
思い出すと、楽しかったことばかりで胸が苦しくて仕方がない。まるで、初恋の思い出にも似ている。
会の素晴らしさを受け入れつつも、すんなりと幸福になれないことに対して、あれこれと悩み初めていた時期に、合宿に参加したことは、改めて大きな感動だった。
「やはりコウフクノカガクは素晴らしい。決しておかしい宗教なんかじゃない!」と胸を張って思えるようになり、学校でも「伝道」を初めるようになった。
まずは、ターゲットは先生から。宗教の学校だったので「きっと素晴らしさを分かってくれるだろう」と思い、「宗教」担当の先生や、「じんたん」の先生に、本や映画のチケットを渡したこともあった。「こんないい先生なのだから、ぜひ会の教えに触れて、本当のことを知っていただきたい」という気持ちだった。勇気が要った。
学生が中心となって伝道活動を広げていく「学生部」などでは、中心は大学生である。
高校生の私は、誰に言われるでもなく、「ひとりの信仰者」として、ひとりの会員として、伝道活動を行っていたのだ。
こんなエピソードもある。
図書館に「コウフクノカガク」の書籍を入れるよう希望を出した。
返事の紙には、「新興宗教。自分で買ってください。」と返事が来て、張り出されている。
「これはどういうことか。新興宗教だから入れないというのは、差別じゃないのか?《書教分離》だ。それに会の誹謗中傷の本はあるのになぜ会の本はダメなのか?おかしい!」
と抗議したこともある。
今から思えば本当に痛い。穴があったら入りたいくらいだ。
しかし、私をそこまで動かしてしまう「総裁先生」の仏法真理の書籍はそれほどまでに尊く価値のあるものだった。とにかく、この素晴らしい教えを読んで受け入れて欲しかった。人生が変わるから。
なけなしのお年玉まで大川隆法の書籍を買うのに充てた。それを「じんたん」の先生に「献本」するために。自分を犠牲にする愛ほど功徳がある。天上界に宝を積む。
その「功徳」は思わぬ形で私に跳ね返ってきた。
「先生、よかったらこれ、差し上げますので是非読んでください。」と、『幸福の法』を手渡した。
結果、その時のショッキングな話が私の考え方を大きく変えることになった。
私は「分かってくれるだろう。認めてくれるだろう」と期待していた。
しかし、「じんたん」の先生からは一言。
「あんまりハマりすぎないほうがいいよ」
と。
ドキリとした。
その先生の話を聞きながら私は心の中で思っていた。
《まさか、認めてくれていないのか…。なぜ?すごくいい教えじゃないか。なんで分からないのだろう…。それに会は決しておかしい宗教じゃない》
さらに続けて
「あのね、宗教の恐ろしさは周りがやめとけって言っても本人は完全にいいと思い込んでしまっているから危ないんだ。」
《他のカルトはどうか知らないけれどウチの宗教は違う…多分。一緒にしないでほしい。》
「みんな教祖が『あっちむけ』って言ったら揃って同じ方向向くだろ。
キリスト教だと違うよ。確かに教皇は尊敬しているが、教皇が『あっちむけ』って言ってもみんなそれぞれ違う方向向くんだ。」
《う~ん、確かに…それはあるかも。でもウチの教祖は「仏陀」「救世主」だからなぁ。
キリスト教徒がイエスに対して信仰を持つのと基本変わらないスタンスなんだが…どうなんだろう…》
「それに宗教を信じるきっかけが『病気が治った』とか『家庭問題が解決した』とかそんな小さな個人的なことで『一生ついていきます!』じゃん。
倫理的な「奪うのを止めて与えましょう」みたいなのはどこの宗教でも似たようなもの。
例えば現実に起こっているイラクやパレスチナとかいう世界の問題に対してどういうスタンスで考えているかといえば適当な綺麗事でしょ」
《確かに、ウチの宗教にはそういう病気や家庭の問題を持った人も多いし、月刊誌でも体験はもっぱら『信仰によって病気や家庭問題が治り真実の人生を歩みはじめました』というのが多い。
しかし、だからといって世界の問題に目を向けていない訳ではないが、確かにそういう話題はない。(注:当時)
だけど、総裁先生が悠久の昔より人類を導いてこられた主であり、様々な文明に現れた宗教の開祖もみんな同じ光の如来なんだよ、ということを認識すれば世界は一つになるとも教えられている。
でも確かに世界の問題に目を向ける大きな視点がないのは事実だ。》
「信仰宗教の多くは自分で考えさせない。その宗教にとって都合の悪いことはみんな見せない。
キリスト教では聖書というのは常に批判的な分析が行われていて、その上で聖書の本当に言いたかったことを見出す姿勢を取っている。」
《これはひょっとしたら大いに当てはまるかもしれない。会は正反対の態度を取っている。
会の根本書籍は旧版と新版でかなり都合よく書き換えられているし、
元職員の批判の本(『虚業教団』)は『事実無根の誹謗中傷』として絶対に手に取ったり読んではいけないことになっているな。
だけどこれらはみんな真理の光を守るための戦いだったのだ…》
「そして結局は教祖と教団がすべて、あとは金だよ。
マザー・テレサにとってキリスト教とかそういうことは関係なく活動をした。自分も共産党の考え方には割合賛成するんだよ。だけど、根底にやらしい部分がある。
宗教があって人があるんじゃない。宗教のための人じゃないんだ。
目的は人なんだ。」
《う~ん、確かに仏陀と僧団は尊いもので大切にしなきゃいけないのだけれど。どこかで教祖に帰結しちゃっている部分があるかも。
金…確かに会の用具や一部の研修、祈願はたくさん取るけど、それは強制でなく任意だし、金を大っぴらに要求するような宗教でない…という印象なのだが。
あと、会では金は必ずしも汚いものではない「愛の経済学」みたいなことも言われているし。
人のための宗教…これは心に留めておこう》
「自分の属している宗教に対していろいろと批判的であれるというのが自分の宗教に対する誇りでもあるし、またそうやって常に批判に晒されつつ残った宗教だからこそ世界宗教として現在ある。批判といっても批判のための批判じゃなくて、よりよいものを作りあげていくための吟味なんだ。」
といったことで一時間ほど延々と新興宗教と世界宗教というものについて語っていただいた。興味深い話だったので、メモを取りながら聞いたが大まかはそのような感じだった。
最初はハンマーで殴られたような衝撃で頭が真っ白だった。しかし、聞いているうちに
「ああなるほど。そう言われてみればウチの宗教はそういうところに考えが至っていないかもしれないな」
と頷いた。
この点は会に問題提起をする必要があると強く感じていた。
この話を聞いて、私の会に対するスタンスは少し一歩離れた視点からとなったのであった。会の見方とキリスト教の見方ではずいぶん視点が違うのだなということを感じた。
「コウフクノカガク」は世界宗教を標傍していた。それは現在もだが。私もそれを信じていた。しかし、この話からすると、教団は世界宗教などではなく、新興宗教の要素も存分に抱えたままの宗教でもあるように思えて仕方がなかった。
私はまだまだ会をよくしたいと思っていた。もっと意識の脱却をはかって欲しいと思った。
その頃から、私はメーリングリストなどを使って自分の考え方を全国の学生部の仲間に発信していくようになる。
それを通じて、実際に会った人からは「信仰心の強い人だねぇ」とよく言われたのだが。
あれから十年も経っていない。しかしいまや、「コウフクノカガク」の体質はあの先生が挙げた通りそのままに腐りきってしまっている。
7 最終更新日 : 2019-02-22 11:57:11 このページを編集する
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心の教えの実践がなかった「コウフクノカガク」―度重なる裏切りの果てに
その話を聞いてもなお、私は会そして学生部を愛していた。仲間たちと日本の将来や夢、希望などを語り合いたかった。メーリングリストでよく、仏法真理の書籍の学習の仕方や、考え、思ったことを発信していました。法友のなかには未だにそのメールが印象に残っているといってくれる人も。
しかし、少し寂しかったことがあった。流れてくる「イイシラセ」が「伝道成功しました」ということばかりなのだ。
合宿前には「〇〇地区から何人来ることが確定しました!」が次々と流れるばかり。
数を増やすのが目的なのか、と哀しい気持ちになった。マザー・テレサの述べるように人は数ではない。しかし、その「数増やし」によって自分も尊い出会いを得たといえば元も子もないのだが、素直にバンザイ出来なかった。心の交流を求めていたのだがそれは叶わなかった。
「こんなの結局『教団がすべて、教祖が目的』の宗教じゃないか」という想いが心の片隅に浮かんだが、すぐに打ち消した。
「…違うよね。信じたい。」
私にとって、次第にこの宗教の訳が分からなくなってきた。
そして、ついに裏切られる日がやってくる。
今までの人生で一二を争う最もつらい時期のことを話そう。思い出すのも辛い。
高校三年生への進級を控えたある冬のことだ。
受験など控えていたため本当に辛い毎日を送っていたのだろうが何とか自分を騙し騙し奮い立たせて生活していた。
ところが、限界がきた。
昔から漫画を描くのが好きだった自分は「これが高校で最後の機会だ」と、校誌に四十ページほどに渡る漫画を描いて載せる企画を立てた。本格的に漫画を描く作業というものは実に骨が折れる。初めての大作を仕上げるので本当に時間がない。〆切を間に合わせるため、新学期早々三日連続で学校に行く振りをして、途中の駅で降り、喫茶店や図書館の机でひたすら漫画を描いていた。夜も睡眠は三時間以内に抑えて部屋で原稿と向き合っていた。
そんなある夜のこと、唐突に部屋のドアを大きな音で蹴られ、猛烈な勢いで「開けろ!」という怒鳴り声が響いた。母親からである。
学校を休んでいたことが知れたのだ。
その日は夜中じゅうドアを閉め切って、耐えきったのだが、いつか外に出なければいけない。そろそろ学校に行かなければならない。
朝になり、できるだけ顔を合わせようとせずに外に出ようとするのだが、出くわした母親からは、何を怒鳴られたのか分からない。
「お前誰のおかげで食わしてもらっとるとおもってんのや」「学校やめたら」「親の金を無駄にしやがって」
そして、さんざん叩かれた。
そして最後に「あんた何か死ねばいいのよ」「生まなきゃよかった」。泣かれながらだった。
家を出た。自分の中には腹立たしいとか、哀しいとか、もはやそういう感情すらなくて、ただただ、気が狂いそうだった。
いつも自分に対して思う。「なぜ殴り返さないのか」「他人に相談しないのか」「家出をしないのか」ということを。
これがいじめや不登校のケースだったら私は確実に何か事件を起こしていたに違いない。
心が真っ白なまま、なんとか漫画を描き〆切に間に合わせたものの何も感慨は残らなかった。ただ深い心の傷が残りました。手元に残ったのは報酬の五百円の図書券だけ。
とにかく心は沈みながらも何とかして毎日学校に通ったような気がする。
見るからに暗い雰囲気だったのかもしれない。誰とも関わりたくなかった。そんなある日、クラスの人間に「お前友達いねえじゃん。」と言われた。冗談だったのかもしれないが、その一言で、何かが崩れるには十分だった。いや、やっと崩れてくれたといったほうが正解だっただろうか。
次の日、再び漫画を描いていたころと同じように、学校に行くのを止めた。いつも降りる駅を通り越して、行ける所まで行った。いつもと違う街だったが、通勤中のサラリーマン、学生たち・・・風景はどこまで行っても変わらなかった。
途中下車して制服のまま図書館でひたすら時間を潰していた。おかしく思われてもお構いなしである。
そんなとき、ちょうど「アダルト・チルドレン」に関する本と出合った。
「アダルト・チルドレン(AC)」とはもともと、アルコール依存症の父親のもとで育ち成人した大人を指していたが、近年では「幼少時代から親から正当な愛情を受けられず、身体的・精神・心理的虐待または過保護、過干渉を受け続けて成人し、社会生活に対する違和感があったり子供時代の心的ダメージに悩み、苦しみをもつ人々」のことを広く総称して言われる。
そういった、限界の状態にどう接するかでその人、教えの本性が見えてくるものである。「コウフクノカガク」はどうだったか。
「自分はACです。親からひどい仕打ちをうけて育ってきた。しんどい毎日を送っている。」といった相談の内容を会の学生部メーリスで回した。
一通だけ暖かいメッセージが届いた。それが今でも交流を続けている唯一の信頼できる「職員」の女性との出会いである。その先輩であった彼女も、小学生の時親を亡くし、継母から虐待を受けていたのだそうだが、仏法真理を学んで、和解したという。そして、現在笑顔で歌い続け、映画の主題歌や学生部ソングを作ったという話を聞いた。
でも、ほかのすべての人は全くの無反応。数日すれば「伝道成功しました」メールが何事もなかったかのように流れていく。
また、学生部の合宿で出会ったある先輩ともやり取りをしたことがある。
親とうまくいっていなくて苦しいことを相談した。
すると彼は、「素直に親に感謝してみ、そして自分の悪いところを仏に詫びてみろ」と。
《…この人、自分のこと見ているのかな》
自分が哲学や思想に興味があるといえば、彼は馬鹿にしたように、
「学ぶのはいいけれども、頭でっかちにならないか。俺は仏法真理を学んで人生の疑問の九割がたは分かったと思っている。あとの一割は仏の心を自分の心として生きること、みたいな。哲学なんて人生の悩みを深めるだけじゃないのか。」と。
「哲学とはそんなもんじゃない」と反論すれば、「お前先輩に向かって失礼じゃないのか」と返ってくる。
(確かに五年以上やってみてつくづく感じることは哲学は役に立たないということですが、何も知らない素人に言われたくはない。)
それにつけても思うことは、真面目に仏法真理を学ぶ人間ほど、思考能力が麻痺し、真面目におかしくなっていくということだ。そういうことを見るにつけ、なんだか次第に会に対して持っていた憧れや期待が音もなく薄れていくのを感じた。
信仰のやり場も見失った。情熱のやり場はもはや見つからない。あれほど燃え上っていたものは幻想だったのだろうか。
追い打ちをかけて、決定打となる事件が起こった。
親と揉めて、学校を休んでいた頃の傷も癒えてきたところのことだ。
高校三年生を迎えた春のころ。自分の学校に「夜回り先生」として有名な水谷修氏がやってきた。当時はマスコミにも引っ張りだこで大騒ぎだ。私は一番前で夜回り先生の講演を聞き、掃除監督が終わったや否や、裸足のままダッシュで質疑応答の部屋に向かった。
私の人生観は大きく変わった。
本やテレビを通じてしか見ていなかった実物の水谷先生は生徒の目を輝かせるのが本当にうまかった。語るのも実に楽しそうにしている。ものすごく生き生きとした目で話し、生徒を褒めていく。この人にみんな相談したがるわけだと思った。
「こんな大人、こんな教師もいるんだ」と。この人なら信用できる。
私は手を挙げて、質問した。
「先生、自分のメル友がリストカットで苦しんでいます。どうすればいいですか。」
「コウフクノカガク」の職員にたくさん相談してきたのと同じ質問だった。
先生は準備してきたかのようにすぐさまこう答えた。
「『俺が助けてやろう』なんて思わないこと。すぐに、僕のところに連絡するか、周りの大人の助けを借りること。」
先生は、何か自分のことを見抜いていたようだった。
その後数日間はずっと心が暖かくてすがすがしかった。何より優しくなれた。手塚治虫の『ブッダ』を読んだ時、マザー・テレサの話を聞いた時。本物の宗教者に触れるといつも感じるような神聖さがある。「夜回り先生」もそうだった。折に触れてそういったものの中に身をおいて清くて優しい心を取り戻したいと思う。
事件とは次のことである。
こんな素晴らしい人が「コウフクノカガク」の外にもいる。是非みんなにも伝えたい。
学生部のメーリスで、水谷先生のこと、そしてリストカットで苦しむメル友のことも流した。
彼女がどういったことで苦しんでいるのかということを打ち明けた。いじめの話、家庭内不和の話、家出や男性を求めているという話・・・。
しかし、その晩のこと。会から家に電話がかかってきた。
メーリスのことだという。
親は怒っていた。
電話の向こうで職員さんが言う。
「あれは駄目だよ。考えたら分かる。考えたら分かるからね。」
《・・・いくら考えても分からない。言うべきことがあるならはっきりいってくれたほうがいい。まさか、「お前は悪霊をまき散らかしている」とでも言いたいのか。
でも、自分は、あれが間違っているとは思っていなかった。
これが自分の聞いた現実の姿。いじめも、自傷行為も、援助交際も。あんたらはそんな世界の現実に目をそらさず見ているのか?》
しかし、それも一方的に「それはいけないよ。考えたら分かるからね」で、切られた。話を聞こうともしない。寄り添おうともしない。
《自分たちの苦しみ、訴えはどうなるんだ?
所詮この宗教も、人の心なんて二の次、体面を保つことが一番なのだ。
何が「全人類救済」だ?会が正しいことを証明したいだけの内輪の綺麗事じゃないか。》
ここに至ってわずかでも信じようとしていた自分が馬鹿らしく思えた。
「悩みがあったら言ってごらん。聞くよ。」
やっと、助け船を出してくれた、と思ったのもつかの間。
「…やる気が出なくて勉強がどうしても出来ないんですけれど…」
その職員はどう言ったか。
「それは甘えだよ。うん甘えだよ。」
《なんで甘えだってこちらの話を聞かずに一方的にそう決めつけるんだ?こっちの家の事情とかさ…突っ込んで聞いて欲しかったのに。何が職員だ…ダメ教師と変わらないじゃないか。》
すべてが金メッキでコーティングされた嘘のように思えた。ついに、「コウフクノカガク」に対する信用、信頼、信仰は音を立てて切れてしまった。
会が作った学園から信者向けに子どもたちが学園生活を元気いっぱいのビデオが送られてきますが、告発によると独房のようなものもあるということ。どんな偏った教育が行われているのか想像するしかないです。
結局、そのメーリスは私のせいで停止することになってしまった。私がコウフクノカガク学生部のメーリングリストを停止させた。なんだか訳が分からなかった。
とにかく自分は「コウフクノカガク」の、まずは信者獲得、伝道、とにかく教祖様万歳的なドグマティックな信仰に合わせることが出来なくなったのだ。そして、心を開くことができなくなった。一番信頼していた会の信仰を持った人たちなのに。
そして、自分は今までの「信仰」といえるものを失った。強い心の支えを失ってしまったのだ。
しかし脳裏にはやはり、霊界の価値観、「主の下生」というビジョンが焼き付いて離れなかった。そういったものが消え去ることはなく、時折それは私を迷わせた。
《自分が悪いのか?自分はひょっとしたら悪魔なのか?自分は裁かれるのか?
三宝帰依の体制に従えず、そしてそれに反対する自分は仏に逆らうことになるのか?
…でも、やはり納得できないものは納得できない…。》
心は完全に信仰を捨てたがっていたが、やはり自問自答していた。怖かった。できるだけ、会のことを忘れようとした。
ひょっとしたら会員の言うことに「自分を責めないで」というものもあったかもしれない。
しかし、それは何か「会の絶対的な正しさ」を前提としたうえでの救済の試みのように思えて仕方がない。
もし、「人探」での宗教の話、メーリスでの事件がなく、私が会で何事もなく幸せを作っていけたらどうなっていたのだろうかと時々考える。ひょっとしたら会員として学生部に入り浸り伝道に励んでいたのか。そして、「出家」して職員として世間から叩かれながら教団を支えていたのか。歴史に「もし」はないことは承知だが。
猛烈な痛みを伴いながらの「コウフクノカガク」へのつまずきで、そして決別だった。
しかし、このつまずきは大変尊いものであったと思う。
本当の自分に向き合うことができた。自分の頭で徹底的に考えさせられたのだから。
私の中の大きなものが、仏陀と教団への信頼があっけなく遠ざかっていった。
きっと会は、「信じろ」と必死に説得してくるでしょう。説得の言葉のバリエーションはだいたい分かります。
「もったいない」とか「誤解だ」「そこで信仰が試されていたのだ」という風に。彼らはあれこれと手を変え品を変え、言葉を使ってくる。しかし、そのような態度がとても恐ろしいものに思える。
彼らがいちばん大切にしたいのは一人の人間としての人の心じゃない。
いや、確かに人の心を大切にする。しかしそれ以上に、自分たちの属している団体とその教義がいかにすごいかを認めたい。結局はそれに尽きるのだ。
会の教えは確かに人を幸福にしうる素晴らしいものだろう。しかし、根本にそのような「エゴイズムの摩り替え」が生じているのではないだろうか。すなわち、「自分だけがよかれ」というエゴの気持ちを捨てたつもりが本当は「自分の属している教団がよかれ」という気持ちに移行しただけなのかもしれない。
やっと分かった。
《ここの教団もその本質はやっぱり「じんたん」で先生の言っていた通りの宗教なのかな》
ジョン・レノンがこう歌っている。
「神なんて、自分たちの苦しみを測るためのモノサシにすぎない。」
人生に苦しみが多ければ多いほど私たちは人生の指針を探し求める。そして深くその教えを説く教団に従うようになる。ついに「ここの教えこそ最高」と頭が信じこんで固まってしまい、他の人の考えをみんなつまらないものとみなすようになるのだ。自分だけは正しいと堅くなに信じて固まってしまう。
実際に会の教えはそれだけ強烈な非常にポジティブなものといえる。私たちの普通の毎日の生活では決して得られないものがあることは確かだ。種村修氏は、日本に上陸してきたスピリチュアリズムを体系化した業績は確かにすごいと語ってくれた。それに私たちは騙されやすい。
「コウフクノカガク」は「寛容の精神があります」と喧伝して様々な宗教の教えを受け入れて一つの解釈に統一している。しかし、「うちの宗教は寛容ですから正しいですよ。そしてそれゆえ一番優れたものであるともいえる。」というある種の自己叙述的な免罪符になっているようにも思われる。
さて、私は小さな自分の頭で考えることを始めた。コウフクノカガクに言わせるなら、まさに「小さな蟻が、太陽について講釈を垂れる」作業である。しかし、信じるものがないという不安は時折自分を不安に陥れずにはいられない。信仰とはそれまで三次元の暗闇を照らす光であったのだ。
「伝道」なんてもはや頭の中にあるわけがない。自分のなかにある、「エゴの摩り替え」にも気が付いていた。
「他人にこの教えに出会って幸福になって欲しい」という気持ちは確かに強くあるだろう。
しかし、同時に、自分たちの宗教の力を示したいという、どこかで自分たちに帰結する部分もあるのだ。
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「コウフクノカガク」を越えて―本当の宗教
時は大学受験を控えた高校三年。
生きる指針は何も宗教だけではなかったのだ。受験の重圧のなかしっかりと生き、考え、様々な糧を得ようとあがいて来たという自信はある。
信仰し崇拝し仕えるべき宗教は失った。
けれども、カトリック教育を行っていた学校には様々な私の魂を成長させてくれる機会に恵まれていた。教会で歌ったり説教を聞いたりするというのは、みなさんのイメージと違い実はほとんど私の学校ではなかった。むしろ毎日の学校生活の要所要所がひとつの黙想の場でもあった。
最後の一年の生活のなかで自分の内面を見つめることが、自分なかに確かな「宗教性」を育んでいったのではないだろうか。それは、会での「成功哲学」的、「道徳論」的な宗教性よりもはるかに深くて、確かなものだった。
しかし、受験勉強も秋を越えたあたりにまったく勉強が手につかなくなるということがあった。
人生そのものに疲れきってしまっていた。将来の進路も明確にないまま勉強にも意欲的に取り組めない。他の受験生たちが目標目指して勉強を頑張って上の大学を目指している中、焦燥感と劣等感と虚しさは募るばかり。勉強すらやる気にならない状態が長く続き成績も学力も伸び悩む一方。客観的に見て、はっきり言ってどこの大学にも受らない。どんなにあがいても何も変わらない。大学に進学すること自体真剣に諦めようとまで考えていた。
そして自分の人生これを機にこのまま転落していくとまで絶望的に思っていた。どん底である。
ところがセンター試験も近くなったある日のこと。ふと気が変わった。
《自分はこの大学のこの学科にいくのが運命なのだ。》
と確かに感じた。
その大学の学科の偏差値を見てみると、私立のなかでもトップクラスのレベルである。勉強を全くしない現状から見ても、もはや周りからは笑われるほど冗談にも近い高望みだった。
そんな自分が弱気に負けず追いつくための勉強をしながら、常々自分に言いかけていたことがある。
「すでにこの大学のこの学科に合格した。ありがとうございます。」
実はこの考えは、「生長の家」にあった教え。そして、西田文郎の『No.1理論』という本に基づく。実際に試した。
毎日、勉強前、寝る前、朝、その「神想観」という生長の家の瞑想的な祈りを欠かさずやった。
そんなことで実質「受験勉強」をしたのはセンター試験前から二月六日の入試のほんの一ヶ月ちょっとである。
それでも受ける前から「すでに受かった!」と確信してワクワクしながら本番に臨んだ。思い描いた通り、その第一志望の学科だけ見事に受かってしまった。
他にも滑り止めとして、それより簡単な入試を六つ程受けたが「受かった」イメージを抱いていなかったので、みんな見事に落ちたのであった。
奇蹟が実際に自分の身に起こった経験者として、断言できることは「やはり神といわれるものは必ず自分を導いている。」ということ。そ宗教の「信じる」こと「ビジョンを描く」ことの力、「感謝する」ことの美徳を改めて「いのち」の根本にあるものだと本当に実体験として感じさせられた。
この出来事を通して、私は本当の「信じること」に一歩近づいた、いや導かれたように感じている。
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私の見た「コウフクノカガク」の正体―カルトの狂気
大学に入学し上京した私は、もはや信仰を取り戻すことはなかったが、なにかしらさびしくて、「コウフクノカガク」の学生部に呼ばれては顔を出していた。新しい友人が欲しかったのだろう。本当に未練がましいと言われたらその通りかもしれない。
居座っていたのは本当に入学して一年未満だが、学生部の暖かな思い出がいくつかある。
東京大学などの文化祭では、「宗教」ということを表に出さず「教祖の著作の研究会」ということで「心のエステ」という催しをしているが、私も手伝いをしていたことがある。
お客さんに心理テストをやってもらって、「仏法真理」からみて「愛」とか「夢」とかいろんな角度から悩みとか興味のあることを上手いことしてなんとか楽しく話し合っていく。
ほかのメンバーはどうだったか分からない。自分の場合は、別に、「宗教を伝えたい」とか他意はなくて、純粋にお客さんが目を輝かせて興味をもっていろんなことを一緒に話し合えるのがとても楽しかった。むしろ、自分の伝えている宗教に対しては自分の頭で考えて批判して欲しいと思っていた。
最初は緊張した。でも、来てもらう前と来てもらった後で少しでもその人が幸せになってくれれば僕たちもとても嬉しかった。
「できたじゃん!ありがとうね」と言ってくれたある先輩の笑顔が忘れられない。
渋谷や新宿の街でカラオケやファミレスでオールして話し合ったことも。その中の半分以上が現在職員として務め、何人かは選挙に立候補するようにもなった。
学生部合宿の夜、徹夜でいろんな仲間と語り合った思い出もある。
キャンプファイアーの前で自分の体験を涙ながらに本気で語ってくれた仲間たち。ある不良学生が、仲間の信仰に触れて、みんなの前で「俺は真面目に生きようと思った」と語ってくれて「やらせじゃないよな」とまで思った。
みんなで手をつないで歌を歌った。そうして新しく仲良くなった全国の法友同士、メルアドを交換して「離れていても一緒に頑張ろうな」「必ず、主の願われるゴールデン・エイジを実現させよう」と。
参加した多くの人が、この会にたいする「どうせ宗教だろう」という見方を変える。
「宗教って本当に素晴らしい!」と、純粋に他の大切な仲間にも信仰の素晴らしさを伝えたくなるのだ。
名実ともに立派なアンチになってしまった私なのだが、でも決して、彼らをいやみに言うことのできる良心は持ち合わせていない。
純粋な人たちがいる。だから、本当に教祖と教団は彼らを食い物にしないでほしいと祈るように願う。彼らが祈っている対象は明らかに偽物だ。でも、祈っている彼らの心は本物なのだから。しかし、だからこそ大切にしている友人のために勇気を振り絞って真実を語らなければいけないと思う。
全国のアンチのみなさん。教団を潰すだけじゃない。傍観者になっているだけじゃない。彼らの受け皿になって。もう一回彼らに夢を与えて、共に社会を良くしていく努力が出来たらと願う。
いい面はわずかにそんなものでしかない。
しかし、「組織」の奥に触れるたびにこの教団のカルト臭さがますます浮き彫りにされていく。
ある日、白金の教祖殿の近くに足を運んだ。一帯が、ORマークのついた職員の施設。そして、まるでお城のような宮殿。周りには鉄の柵と防犯カメラが張り巡らされている。一世一代でこんなにも財産を蓄えることができるのかと、ぽかんとしていたがやはりなにか心の中には虚しさがあった。
親に無理やり宇都宮にある総本山に研修に連れて行かれたときのことだ。すべての罪を許す祈願だとか、人生が起死回生する祈願だとかが、総本山限定で勧められていた。出来るだけ誰とも関わりあわないようにブラブラ過ごしていた。
その時、講師の方から呼び出された。
「ちょっといいですか…?」と、一対一。
「この祈願なんだけれどね・・・。今までの自分の作ってきた殻を破って今世の魂修行が十倍にも成果が上がるんで。昨日受けた祈願は…あまりピンと来なかったということを聞いたけれど・・・時間が長かったからね~。
でも、この祈願は普段の祈願の百倍もの効果がある。今の若い時期に受けとくとまた全然違ってくるから。
受けてみない?」
私「絶対嫌です!」
…とは言えずに、
「………………」
「じゃあまた明日の朝、気持ちが固まったらぜひとも。」
ちなみに、祈願は二つとも「奉納目安」十万円とかというぼったくりに近い金額だ。まるで、祈願の営業、セールスマンである。
また、会員専用のSNSがあったが、その中の会話の内容が本当に怖かった。
そこで、私は信者達の異常性を目の当たりにした。彼らは、大川隆法の世界観に合わないもの、自分の頭で考えようとする輩、あるいは暗い心を持った人間を徹底的に排除しようとするのである。
「エル・カンターレ信仰が立っていない」と。人の苦しみに寄り添うことをしようとしない。「ごく一部の人」だけかと思っていた。いや、違った。「多くの人たちが」!まさしく、そこは狂気の世界だった。本来大切に説かれてきた「心の教え」がなくなっていました。
伝道、組織の拡大、信仰・・・盲信を深めること。「おかしい」と思うことにおかしいと言えない雰囲気だった。
悩んでいるときに、さらにその傷口を抉られるような言葉を多くかけられた。心に土足で入り込まれるような経験も幾度となくされ、話を聞くふりをして、エル・カンターレ信仰を押し付けるような真似をされるということが普通。合宿に来ることを強要されたりもした。まだあの狂気のSNSは現存しているのだろうか。
私はついに呼ばれた合宿に参加することなく、静かに学生部から離れた。「愚かにも本当に長く執着しすぎた。もうそろそろ潮時だろう。」今までの思い出や仲間たちの顔が浮かんではとても切ない気持ちになった。
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「コウフクノカガク」との決着―対話と論争のその先に
二〇〇九年。教団はついに政党を立ち上げた。
私はいよいよついに「アンチ」としてネット上に自分の意見を表明した。当時のネットではいわゆる教団批判については玉石混合で本当に苦しんでいる人のニーズにあったものがまだまだ少なかったと言える。本当に世の中は全くといっていいほど「コウフクノカガク」について理解がなかった。誰も、誠心誠意をもって本当のことを表明しようとしなかった。だから、私は意を決し、「コウフクノカガク」に戦いを挑んだ。
当時私は、大学の隣のカトリックの教会学校でリーダーを務めており、ゆくゆくはカトリックに改宗しようと考えていた。「教会」は宗教というよりもそこに根付いた文化として穏やかな時が流れていた。宗教の汚れを知らない子どもたちとただ何も考えずに遊ぶというのは本当に平和なものだ。一方自分のいた世界は・・・。
大きく息を吸い込んで、キーボードを叩き始め、「対話編」を創作した。
以下それを読みやすいように編集して記載する。
「ある宗教」について子どもと語る
◆登場人物:
・教会の子ども
・アンチKKの先生(元信者、私の意見)
・KK信者(信者の特徴を抽出)
1.
子ども:「ところで、ねぇ、先生。この前、『友達とケンカした』って言ってたじゃん。誰とケンカしたの?なんでケンカしたの?先生でもケンカすることあるの?」
先生:「この国の未来のこと・・・それについての考え方の違い。あと・・・神さまについての、考え方の違いかな。」
子ども:「なんだか、この前習ったイスラエルとパレスチナの問題みたいだね」
先生:「ある神さまを、信じている人たちがいて、その人たちが、日本を、世界を変えようと思って、この国に働きかけはじめたんだ。」
子ども:「へぇ、なんだかいいことだね。それ。どんな神さま?」
先生:「その人たちが信じているのは、イエス様が『お父様』と呼んだ神さま。」
子ども:「じゃあ、それはキリスト教と一緒なの?イエス様より偉いの?」
先生:「そして、お釈迦様の生まれ変わり。」
子ども:「え?じゃあ、仏教?」
先生:「あたらしい教えだね。この世界を一つにまとめる、と彼らは言っている。」
子ども:「どこにいるの、その神さまは?」
先生:「『自分がその神だ』って、ある人が自分で言っているんだ。そして、彼らはそれを信じて、『奇跡の時代だ』と歓喜している。」
子ども:「でも、『神さまはいつも自分の心の中にいる』って、教わったよ」
先生:「その心の中にいる神さまが木の枝だとしたら、その幹や根にあたる神さまだ・・・とその人は自分で言っている。地上を浄化するために、この世に肉体を持って生れてきた、と。」
子ども:「なんか、信じられないし、うさんくさい話の気がして仕方ないけれど、
でも、もしそれが本当だったら・・・」
先生:「・・・そうだよね、大変なことだよね。でも、本当のことは僕たちには分かるすべがない。」
子ども:「じゃあ、その人たちは何で信じることができるの?証拠はあるの?証明はできるの?」
先生:「君は、作文を書いたことがある?」
子ども:「うん・・・200文字原稿用紙があって・・・1週間かかって、2枚できたよ」
先生:「その神さまはどれくらい書いて自分の教えを伝えていると思う?」
子ども:「聖書が・・・辞書みたいに分厚くて、たくさん書きこまれている本、で、イエス様の教えはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4冊だから・・・
10冊くらいかな?多い?」
先生:「今、七〇〇冊を超えている。それも、たった二十年間で。」
子ども:「嘘?それみんなその人一人で書いたの?みんなで集まって書き上げたとかじゃない?」
先生:「みんなその人一人で話して、書いて、本になっている。こういうことができるのは、その人が並大抵の人間でないことを証明しているんだ。」
子ども:「でも、本をいっぱい書く人は少ないにしろ、必ずいると思うよ。
それだけじゃその人が神様ってことにはならないじゃないか。」
先生:「それを信じる人が多いのは、その本の一冊一冊を読むたび、人生が変わっていくという体験をした人が後をたたないからなんだ。そういった経験を通して、この教えは本物だ!という確信を深めていったんだろうね。」
子ども:「どんな本で、どんなことが書いてあるの?なんで、それらの本は人々をひきつけたの?」
先生:「それは人によって、さまざまだと思うけれども、一番にあるのは、『あの世の段階や構造、生まれ変わりの仕組みをありありと語っていること』『あの世の段階の一番上にいて、今回地上に降りたのが自分だと語っていること』なんじゃないかな。」
子ども:「う~ん、それくらいだったらそこら辺の宗教も似たようなことを言ってない?よくわからないけれど。」
先生:「そして、おそらく宗教が語ったとは思えない、政治や経済、仕事の方法や、健康維持といった多岐にわたる分野にわたって、現代人の必要に合わせたことも語られている。
もちろん、人生いかに生きるべきかといったことも語られているけれどもね。」
子ども:「へぇ~。それだったら怪しい宗教には思えないや。」
先生:「実際に集まっている人は、ごく普通の人たち。部活に打ち込んでいたりとか、カラオケにいったりボウリングにいったり、喫茶店で話に花を咲かせたりと、なんら変わることはないんだ。まあ、彼らは天上界ということが常識の世界観だから、天使の世界と自分の心を合わせるために、お祈りをしたりだとか、本を読んだりとかが習慣になっているのだけれどもね。そして、正直な話、尊敬できる、心のきれいな人も多くいることは事実なんだ。」
子ども:「聞けば聞くほど、先生が彼らを評価しているような気もするけれど。で、先生はそれを信じているの?」
先生:「でも、先生はその人たちが嫌いだ。反対している。」
子ども:「え?なんで?・・・なんか、少し先生が心を閉ざした嫌な人間のような気がしてきたよ・・・。」
先生:「まぁ、そのこと自体に対してとやかく言うつもりはないんだ。まぁ、聞いておくれ・・・。」
2.
子ども:「『その人たち』が嫌いって・・・先生、それはどういうことなの?」
先生:「・・・う~ん、どう言ったらいいんだろう。・・・正直な話ね、言うのが怖いんだ。」
子ども:「なんで?思っていることがあるんだったら正直に言えばいいじゃん。」
先生:「自分が今まで人に言えず隠し続けてきた自分の心・・・。それが、醜いことだ、罪だ、人に見せてはいけない、尊いものを冒涜することだ、人の美しい心を穢す・・・。そうどこかで、思ってきた。それに、自分が差別され、傷つけられるということが怖かった。
苦しんでいても、自分が正しいのか正しくないのか分からないから、それを言うことができなかったんだ。」
子ども:「先生が、そこまで怖がることってなんなの?『その人たち』はそんなことをさせているの?」
先生:「ちょっと落ち着いて、話してみるよ。」
・・・ガチャリ
あ、人が入ってきた。
「ひさしぶりね。元気してた?」
子ども:「ねぇ、誰?」
先生:「『その人たち』の一人だよ。
お久しぶり。そちらこそ元気だった?」
「さっきまでの話・・・聞いていたわ。私も、ちょっとショックだったかな・・・。詳しく聞かせてみなさいよ。」
(以下、「信者」とする。)
先生:「(あぁ、話しづらくなったなぁ・・・)
先のお話で、彼らの信じている神さまが、今、地上に肉体をもっている地球で一番偉い神さま、と信じられている、ということは話したよね。」
子ども:「うん。」
先生:「その神様が、『あっちの方向を向くのが正しいからみんなあっち向きなさい』と言ったらどうする?」
信者:「『法』ね。すばらしいことだわ。全人類を真実の幸福の方向へ導く救済の白き手、人生の急流にとっての竿だわ。だから、すべての人は、この教えに素直に従って、地球規模のユートピアの建設に取り組むこと。実践してみると、幸福になれることがますます実感をもって分かるわ!そして、それを実現しようと立ち上がった主のために生きること、それが私たちの使命なの。」
先生:「僕は、嫌だな。」
信者:「・・・どうしてそんなことを言うのか分からないけれども、あなたは、主がどれだけ本気の情熱をもって、この世界をユートピア化しようとしているのか知っていてそんなことが言えるの?」
子ども:「信者さん、すごい情熱だね。こんな輝いている人初めて見たよ。う~ん、聞いていると、先生がひねくれた感じに見えるけれど。」
先生:「僕はね、人間にとって、大切なことは自分の頭でしっかりと物事を見て、考え、決めることだと思うんだ。」
信者:「ええ、たしかに、自分の頭で考えるってことはとても大切だと思うわ。でも、それ以上に大切なのは信仰心。あの世を信じ、仏を信じる心。その心なくして、地上だけの物差しで物事をはかることは、小さな蟻が、大きな象をああだこうだと講釈しているような愚かなことなんじゃないかしら。だから、自分を透明にして、仏の心にお任せするのが真実の生き方じゃない?」
先生:「それが、ある人は幸福にするけれども、ある人を追い詰め、傷つけ、居場所をなくしてしまうようなものであったら?」
信者:「それは、ありえないわ!だって主はすべての人々の幸福を願っておられるもの。」
先生:「・・・口だけだよ、それは。」
信者:「確かに、人間は不完全だから間違いもおかすわ。辛いのは私たち・・・『新興宗教』というだけで、『怪しい』とばかりいわれて誤解や偏見で見られる。でも、主の願いを果たしたいから、みんなに幸福になってほしいから、いつも自分と戦って伝道しているんじゃない。あなたこそ、何もしないで文句ばっかり言って・・・あなたこそ口だけじゃない?」
先生:「そう言われると、本当に言葉に詰まるよ。ただ、一点目。なぜ、僕が『君たち』が怖いか。本当は、変えられない他人の心を、『君たち』は変えようとして必死だ。そして、価値の尺度というのがただひとつなんだ。教えも絶対化されている。それに対して、自分の頭で考えて、反対することは許されない。
・・・危険だと思わないかい?」
信者:「危険なのはあなたの方じゃない?あなたは、ちっぽけな自我にしがみついて、仏も信じないで、それを本物の自分だと思って離していないだけよ。哀れな人!そういう唯物論の思想がどれだけ人を道具扱いして殺してきたか。
反対することを許してないわけじゃないわ・・・。ただ、仏の目からみたらあなたなんて、ちっぽけな世界で生きている鉢の中の金魚よりも容易く見えるわ。そんな鉢の中の金魚が宇宙についてあれこれ文句を出している、そんな滑稽な姿に見えるのよね。」
先生:「・・・という風に押しくるめられるんだなぁ」
子ども:「先生・・・いいかげん素直になったらどう?」
3.
先生:「僕はね、人間の信仰というものは、完全に自由でなければ無意味だと思っているんだ。自由を圧迫するような宗教は、本物の宗教ではない。たとえ、それがどんなに幸福になるようなものであっても、それを押しつけたり、強制した時点で、それは信仰じゃない。腐った宗教だ。これだけははっきり言っておくよ。」
信者:「そう・・・さっきはちょっと厳しめに言いすぎたかも。ごめん。でも、私が信じていることは真実だと強く思っているの。この真実に触れないまま人生を終わっていく人がいると思うと・・・つい。キリスト教の人にも、仏教の人にも、イスラム教の人にも、すべての人類に知ってほしいの。世界をひとつにまとめる『ワールド・ティーチャー』が今この地上に生まれてきているという事実を。」
先生:「まぁ、『みんな』が君みたいに『ごめん』と言えたら、いいんだけれども・・・。
てか、それじゃあ、あなたの役割がなくなるや・・・。
とにかく、僕は『君たち』の、言葉だけで、形容しがたいどこか精神的に『閉じている』雰囲気に危なっかしいものを覚えるんだ。君たちの信じることが、すべての人にとって当てはまるかい?君たちはすべてを取り込もうとしている。そして、自分のいいようにしている。目的は、ひとりひとりの幸せよりも、『主のため』『組織を大きくするため』にどこかでなっていないか?そういう意識がどこかであるから、『君たち』の内部や『君たち』に触れる人で苦しむ人がどうしても出てくる。自分の心に素直になれないんだ。」
子ども:「先生、話がちょっと難しい・・・。」
先生:「う~ん、分かりやすい話はないかなぁ。
君のママが、君に『一切遊ぶのは禁止。勉強だけしなさい』『あなたは、あの友達と付き合っちゃだめ。』『学校は、ママの言うとおりのところを選びなさい』って命令したらどう?」
子ども:「う~ん、ちょっとやだな。いや、絶対やだな!」
先生:「でも、『嫌なのは分かる。でも、今は分からないけれどあとで幸せになるよ。だから、素直にママの言うことを聞きなさい。ママは、あなたのことを愛している。あなたのためを思って言ってるのよ』って言われたら?」
子ども:「え・・・?わかんないや。どうしたらいいか。ママは、僕よりずっとかしこくてたくさん生きてきてるからさ。
でも、その幸せって何?友達と遊ぶのをやめたりしてそこまで得られる幸せってなんなの?」
先生:「そっか、わかんないか・・・。そりゃ、そうだよね。
じゃあ、たとえば、ママの言いつけを素直に守った。そしてクラスのなかで『頭がいい人』って先生に褒められた、嬉しかった。ママの言っていたことは本当なんだと思った。
でもね、同時に、君がママの言いつけを我慢して我慢して守って、我慢しきれなかったらどうする。でも、さらにママは『辛いけど守って』って言う。そしたらどうなるだろう。」
子ども:「おかしくなっちゃう。こわれちゃう。」
先生:「そうだよね。こわれちゃう。こわれたら、どうする?」
子ども:「ママに『やめて!』って言うか、先生に『つらい』って言う。」
先生:「でも、ママは『今がふんばりどきよ!くじけちゃダメ!弱音を吐いてちゃダメ。それはダメな子よ』と君を叩く。そして、先生に言っても『みんな同じだよ。同じことで悩んでいる。君一人じゃないよ。頑張れ。ほら、他の子を見てごらん、みんな辛いことがあっても楽しく笑顔で頑張っているよ。辛いことは外に出したら、他の人も辛くなるから、いけないことなんだよ。』
どこにも、自分の辛さを言えない。むしろ、辛さを言うのがいけないことになってしまった。どうする?」
子ども:「・・・頑張る・・・。でも、頑張れないなぁ。
どうしたらいいんだろ。頭がおかしくなっちゃいそうだよ。何もできず、ただ耐えるだけしかないのかなぁ」
先生:「いいかい。それと同じ状況になっているのが、『その人たち』の一部なんだ。
いや、少し広い目で見たら今の日本自体がそうなっているかもしれないね。」
信者:「じゃあ、もしお母さんと、子どももそれを分かって、協力して一生懸命勉強したら?それは明るい未来へつながる幸せなことじゃない?だから、そんな誰も救えない日本、いや世界を本当の幸福で満たそうと運動しているのが私たちなんじゃないの!
いい?人にはね、地上にいるときにはひとりひとり誰にでも魂の兄弟である『守護霊さま』っていうのがついていてね、見えないけれども私たちのために祈っていて、私たちが嬉しい時には一緒に喜んで、悲しい時には一緒に悲しんでいてくださるのよ。それが、私たちの愛のあり方だと思わない?
『愛は風のごとく』私が一番好きな言葉。見返りを求めない透明な風のように、人が気がつこうが、気付かまいが、さわやかに頬を撫でていく。」
先生:「『そんなの理想だね。具体的にはどうやって打開すんだよ。精神論だけじゃ何にもならないんだよ。』
信者:「・・・」
先生:「・・・と言いたいところだけど、僕は、好きです。そういう考え方。そういう素敵な理想を語れる人がもっともっとこの国に増えたら、確実に世界は変わる。」
信者:「じゃあ、『私たち』のところに戻ってきてくれるのね!?」
先生:「いや、そういうわけじゃない。僕が心配しているのは、現実的に『君たち』のなかでそうやって苦しんでいる人が後を絶たないということ。そして、人の集まりが大きくなっていけばいくほどそのなかで、さらに追い詰められる人が行き場所をなくしていく。」
信者:「それは資本主義社会では仕方のないことだわ。本当に必要なものだけが生き残る。悲劇は確かにおこるでしょうけれど、社会全体の発展としてはいいことなのよ。主は、すべての人の幸福を願っておられるわ。その人たちを救うための法も説かれている。」
先生:「僕は、資本主義が悪いとか、共産主義を見直そうとか、そういうことをいうことはないけれど、
・・・えーと、そういうことじゃなくて、
『ママ』が、自分の信じる幸せの形を『子ども』に押し付けている。両方がそれを分かっていればいいけれども、本当は人には幸せの形っていろいろあるはずなんだ。それをいつの間にか『6次元』『7次元』『地獄』だとか、魂のあり方にまでヒエラルキーを勝手に作り上げて人間を評価して、裁いている!」
信者:「子どもが、井戸に落ちそうになったら、力づくでも助けようとするのが人として為すべきことでしょう!天国地獄は人がなんと言おうとも昔のおとぎ話なんかではなく、厳然として存在するわ!現代人の半数が地獄に堕ちているというこの時代に動かない方がどうかしているわ!」
先生:「誰が決めたんだ!そんなこと!
『その人』が一人で語っていることだろ。その物差しにみんな乗っかろうとして必死なんだ。そのために『信仰』の手綱を掴んで離さない。『信仰』の深さを証明するために、その度合いとか、どういう業績を社会のためはもちろん、『その人』のためにしたかで霊格が決まるんだ。誰が地獄に落ちるか、この人の霊格はどれくらいだとか、噂して裁こうとしている。」
子ども:「?????????
眠たくなってきちゃった・・・。」
4.
子ども:「二人ともケンカはやめなよ。ケンカして嫌な気持ちになるんだったらそのために信じるものなんていらないよ。そんなの神さまが喜ぶと思う?」
信者:「先生、あなたは理屈ばっかりだけれど、結局のところ雰囲気に光がかんじられないわ。」
先生:「否定はしない。『君たち』はみんな心がきれいで、明るくて積極的な考え方を持った人が多い。僕は正直、君たちを見ると自分が後ろめたい気持ちになる。僕はこういう純粋な人たちを批判しなければならないんだ、とね。」
信者:「それは、みんなが強い主への信仰を持っているから。それが根底にあるの。
いい教えを説いているというだけじゃ、みんなバラバラ。そこまで力は生まれない。」
先生:「でもね、いいかい、どんなに優れた集まりであっても、所詮は人間の集まりなんだ。かならず、かたちにとらわれすぎるあまり間違いを犯す。それを完璧なものであると信じ込んで離さないところからさらなる間違いが起こる。大切なのは、常に批判的な目をもって、自分自身しっかりとした考え方を持つことなんだ。ヨーロッパでも中世で、信仰と理性に関する学問が確立された。理性は信仰を支えるもので、最後まで目をあけて考え続けるのが本当の宗教なんだ。」
信者:「それは、救世主が地上にいない時代だったらいいかもしれない。でも、今は永遠の仏陀が地上に降りられて全世界ユートピアを実現しようとしている。だからその時はひたすら自分を捨ててそれに従うのが当然のことよ。私たちは世界中の宗教の争いをすべてなくすつもりの覚悟で活動しているわ。それができるもっと高いレベルの宗教が私たちなのよ。」
先生:「あんたたちは、自分の頭で考えることを放棄して、無批判に『その人』の語ることを百パーセントの真実だとして受け入れている!」
信者:「それは、その通りよ。『自分中心のこざかしい考え方を捨てなさい』と主も説かれているわ。『疑って疑いきれないものを信じる』という考え方は、自我の強い『裏側』系統の仙人的な信仰だわ。『非合理なればこそ我信じる』とも主は説かれているわ。そこにこそ宗教の本質があるんじゃないの?だから、ひたすら信じる。信仰は魂の命綱。離したが最後、待っているのは地面ではなく、無限の奈落、闇の底なの。命と信仰をどっちを取るかと聞かれたら迷わず信仰を取ります!」
先生:「それがまさに洗脳、マインド・コントロールなんだよ!
疑わずに、ただ信じなさいというのはオウムの麻原が言ってたことと全く同じだ。」
信者:「地獄霊に振り回されたあんな集団と一緒に見ないで!彼らと私たちが違うのは教えをみたら一目瞭然だわ。それに、私たちは事件が起こる前から彼らを問題視して、救済活動を進めていたわ。だから、違うの。洗脳としか見えないあなたは目が曇ってるわね。
むしろあなたの方こそ、戦後の日本教育の唯物思想に洗脳されているとしか思えない。
教えの分かり具合に合わせて『上根』『中根』『下根』という風に説かれているけれども、いくら言っても分からないあなたの場合は下根かしら。主の書籍をあなたは何冊くらい読んだの?」
先生:「100冊以上読み込みましたよ。
でもね、結局のところ本当に幸福にはなれなかった・・・。無理やり自分の心を騙し騙し、明るい雰囲気を演じようとした。
いちばん、恐れていたのが、自分の心境が地獄に通じるものでないか、自分の考えは悪魔に支配されていないかという恐れ。自分の心が、自分で支配できない、変えることのできないということが怖かったんだ。いつも何かに責められるような気がしていた。
そして、『君たち』はどうだったか!?一人の人間と正面から向き合うより、『伝道』して自分たちの大きさを増すほうが大切、『主』を讃えることのほうが大切だったんじゃないか?
僕は、どうせなら、それを見ないようにするより、自分の闇と正面から向き合うべきなんじゃないか、と思い始めた。『君たち』にとって闇の心をもつことはすなわち悪徳で、向き合うことも許されないんだ。そして、さらに居場所を僕は失っていった。」
信者:「今わかったわ・・・。あなたは、結局信仰を貫けなかったのね。退転してしまったのよ。結局、銀貨10枚に負けてイエスを救世主と信じられず売ったユダと同じ罪を犯しているの。自分の醜いエゴが傷つけられたのに対して、うまいこと理屈をつけて『私たち』に向けて発しているだけ。それで、自分の魂をさらに穢してしまっている。本当は何もかも自分のせいじゃないの!!主はなにも悪くないわ。いずれ、『私たち』の正しさが分かるわ。本当に幸福になるためには、まず、主に対する信仰を確立することですね。」
先生:「そういう偽善ぶった押し付けの態度が嫌なんだよ!結局、あんたも自分のところに俺を取り込みたいだけだ。変えられない人の心を変えようと、人の心のなかに土足で入りこんで、あれこれ指示を出す。見下しているんだよ。それがいやらしく感じられる。そうなってしまった時点で、真正な宗教とはいえない。
いいかい、人の心っていうものは、疲れたときには疲れ、悲しい時には悲しい、傷ついたときには傷つく、怒るときには怒るんだ。それは人間として当たり前のことなんだ。
それを、『悪想念を発してはならない』で、無理やり押し込めることは不自然なことで、危ないことなんだよ。闇と正面から向き合わない偽善・・・それがさらに人間を偽善に仕立て上げていく。そして、それを他人にまで強制するだろう。あんたたちは何様のつもりだ!?」
信者:「あなたこそ何様のつもり?
だれしも、心に闇を抱えているわ!あなた一人だけじゃない!うぬぼれないで!
あなたは自分で運命を変えていく努力を放棄して、幸福になれない原因を周りの環境のせいばかりにしているだけだわ。だから、『奪う愛』から『与える愛』に切り替えていくことが大切なんでしょう。」
先生:「・・・。・・・いや、・・・そりゃあ、間違ってないよ。確かに。
何年間も自分っていう枠のことばかりに捉われて苦しんでいたけれど、僕は人のために生きることで自分の心に光を見つけた・・・。奪う愛ではなくて、与える愛・・・それは真理だ。同意する。正しい。
だがな、あんたらの思想がどれだけ多くの人を傷つけているか、知ってるか?」
信者:「そりゃあ、私たちはみんな仏の子だけれども、不完全。当然間違うこともある。もし、そうなってしまった場合は反省の教えに従うわ。でも、法が人を傷つけるなんてことは絶対にありえないわ。主が説かれることは、永遠の真理、光の根源だもの。」
先生:「そうか、知らないのか。だったら、実際に見せるよ。」
子ども:「(なんだか、どんどんヒートアップしてきて入れなかったや。
信仰って何かなぁ?えらい人の言うことに従うことかなあ。それを信じて疑わないことかなあ。見えない世界のことについてふたりともたくさん語っている。でも良く分からないや。話せば話すほど、心は大切なものから遠ざかってなんだか虚しくなっていくみたいだ。
それが信仰かなぁ。ぼくは違うと思う。静かな心の中でひとつひとつ神さまに問いかけをしていくこと。そして、心の耳を傾けることなんじゃないかなぁ・・・
二人に言っても何か言われそうで怖いからだまっとこ・・・。
二人とも、僕のこと見てくれてるのかなぁ・・・?
もし、どちらかが正しかったとしても、僕たちのことを思ってくれなかったらそんなの無意味だと思うや。)」
5.
子ども:「ねぇ・・・先生は自分の頭で考えることが大切っていったけれど、
二人のやりとりをみていると、本当に大切なものがなんなのか分からなくなってきそうだよ・・・。何を安心して信じていいのか分からなくて、苦しい。」
先生:「いいかい、大切なのは何を信じ、従うかじゃないと思うんだ。
一度、頭をからっぽにしてごらん。本当に求めるべきものは『僕』がどう生きるか。どこに心の安らぎがあるか。どこに心をワクワクさせてくれるものがあるか。どこに、深い自分と巡り合える静けさがあるか。本当は、集まりとか、何に従うとか・・・そんなの関係ないって思いたい。でも、人とのつながりは大切だけれどもね・・・。」
信者:「みんな、『私たち』のなかにあるわ!いや、『私たち』以外のどこにもない最高のもの。私も、本当は迷ったり、疑ったりしたときはあった。でもね、やっぱりどう考えても、この教えは本物だ、って。本当か、本当かでないかは分からないわ。でも、『あの人』のすごさや、本物の情熱を見ていると、もう信じるしかない、って。」
子ども:「それじゃあさ、先生、もう関わらなければいいだけの話じゃない?なんでそんなにこだわるの?」
先生:「その通りだよ。今までずっと、自分の心を隠しながら、誰にも話さず『それでいいかな』と思いながら生きてきた。関わるたびにケンカして傷つくんだ。考え方の違いでね。
もうまっぴらだと思った。文句を言いたいことは本当はたくさんあるんだけれども、大切なのは自分自身がしっかり生きること。何の信仰も関係ない・・・一人の人間として、あがきながら生きてきた。でも、僕はそれでいいと思っている。それよりも、ひとりの人として、平凡な周りとの関わりや友情を大切にしたかった。それで幸せだった。」
信者:「せっかく、主が降誕された時代に、もったいないっていう気持ちでいっぱいだけれど、そこまで言うなら仕方ないわ・・・。いつか戻ってきて、正しいって分かる日が来ると信じている。」
先生:「(結局、自分たちが正しいことが前提で俺を見下してんじゃねえか。でもまあいいや。もう無駄な戦いはしたくない。お互いに自分の信じる道を平和に歩んでいければそれが一番いいんだ。)
・・・多くの人たちが、何かを批判するときに、あらさがしばかりしかせずに、本当に大切なものに対する問いかけをほとんどしていないように感じる。僕は・・・文句ではなくて、いつも、『本当に大切なものは何か』『あれ?それ、本当なのかな』という批判の姿勢を忘れたくないなぁ。」
信者:「いいことを聞いたわ。それは私たちにも言えることだと思う。ありがとう。」
子ども:「なんかまるくおさまったみたいでよかったね。平和が一番だよ。」
先生:「・・・でも!」
信者:「!?」
子ども:「まだ何かあるの?」
先生:「僕は戦わなければならないんだ。これは、神父さんも、僧侶も、大学の教授も、ジャーナリストも、学校の先生も、親しい友人も誰もできない!
なぜなら、誰ひとりとして、僕たちの目線を知らず、その目線に立って物事を語れないからだ。
だから、僕が戦うしかない。
これが、終わったら、僕はまた普通の一人の人に戻るよ。そして、自分の人生についてウンウンうなったり、周りの友達を大切にしたりするよ。
いいかい、大切なのは思想や集まりでなくて人間、ひとりの人間なんだ。レッテルを貼って見て差別しちゃいけない。それを繰り返し、繰り返し言いたいんだな、僕は。」
信者:「で、結局何が言いたいの?」
先生:「『君たち』の起こした精神的な被害についてだ。」
信者:「だから、法をしっかり学んでいたらそんなの絶対にありえないって!もし、そんな人がいたとしても、それは主の教えとは違うことだわ。」
先生:「事実だ!信者さん、これをあなたたちはどう受け止める?正当化するか?それとも反省するのか?『君たち』の教えに従って。これらに対する『君たち』の反応をみて、『君たち』は危ない、と強く感じている。」
信者:「仏法僧への三宝への帰依は絶対よ・・・。現生の仏陀に従い、正しい教えに従い、正しい心のあり方を探究する人々の中に入り込み、これを乱そうとするものにどんな理由があっても許されるものではないわ。でも、主は裁きの神ではなく愛の神・・・いちど過ちを犯した人でも謝れば許してくれる。」
子ども:「なんか、怖い・・・。」
信者:「正しいことを強く守り抜くためには、そこまでの厳しさも必要なのよ・・・。」
先生:「ひとつめ、いこうか。
『君たち』の集まり始めたころのある幹部が、自分の良心に忠実に従った結果、『その人』を信じることをやめて、集まりから離れた。
そして、ひとつの本を書いた。『虚業教団』というタイトルだ。それに対して『君たち』はどういう反応を取ったと思う?」
子ども:「自分の良心に忠実に動いた・・・いいことだね。」
先生:「彼らはね、『完全にサタンの憑依を受けた人間の書いた本で、その名前を出すだけでも気分が悪くなる。完全に事実無根の本である。手にとっても絶対に読むな。』と言ったんだ。」
子ども:「え・・・ひどい。そんなにひどい本だったの?みんな嘘だったの?」
先生:「でも、裁判でその本にあったことはすべてが事実であったと立証されたんだ。本の著者は勝訴した。」
信者:「そんなことがあったなんて、知らなかった・・・でも20年近くも前の話でしょ。今とは全然違うわ。集まりもとても大きくなってきているし。組織が大きくなれば、それに合わない人が切られるのは当然のこと。自我が強すぎると、主のお仕事の邪魔になる。」
先生:「『自分たちにとって都合の悪い本は見せない、読ませない』。カルトの条件の一つだ。」
信者:「嘘よ、嘘!私の周りにいる人たちを見ていてとてもそんな風には思えない!
・・・悪魔は一部は正しいことを言って、信仰を揺らがせようとつけ込んでくるって言ってたわ。私は、智慧の力であなたの誘惑をはねのけてみせる!」
先生:「もうふたつめ。・・・こういうことはキリがないんだけれどもね。
ある『君たち』の一部の人が、子どもを癌で亡くした親に対して『自己責任だ』と言い放っている。唯物論の現代医学を否定して、薬や、医者は信用できないと言っている、そういう教えがはっきりあるんだ。それが、真実であろうとなかろうとどれだけその人を傷つけていることになると思う?」
子ども:「ひど・・・」
先生:「あとは、精神障害者の方に対する差別だね。
もし、耳元で誰かがささやいている声が聞こえたり、考えがまとまらなかったり、すごく悲観的な考えが止まらなかったりしたらどう見る?」
子ども:「心のバランスが崩れちゃったんだね。心の病気かも。」
信者:「間違いなく百パーセントそれは悪霊の憑依だわ。脳の一部がどうのこうのとか言ってるけれど、医者は何も分かっていない。悪霊が作用しているのよ。でも、悪霊のせいにばかりしていてはだめで、波長同通の法則。悪霊は、その人の暗い悪想念にひかれてやってくる。いままでの自分の行いや想いを反省して、間違ったところを改め、仏に罪を詫びるよう祈れば光が差し込んできて回復するわ。それでも治らなければ、祈願を受けるとかすれば必ず主の光が通って完治するはず。」
先生:「・・・という風にね、なんでも『悪霊』のせいにしてしまう。最も、僕自身は精神医学も真っ向から疑っていて投薬治療には否定的だけど。それも問題だけれど、同じように、あたかも散歩にでも行くかのように霊界があるということは常識になっているから。
『そんなデタラメな。わからないことでもない、ひょっとしたら真実はそうかもしれない。
いや、真実を信じなかった生き方をしてきたからこうなったのかもしれない。』という風に苦しんでいる人は考えてしまう。」
信者:「真実よ!」
先生:「どうやって証明できるんだ!?」
信者:「証明できないものしか信じないという考え方は唯物主義だわ。死後行きつくところは自分が死んだかも分からない無間地獄よ。」
先生:「・・・という風に、『あの世』を出せばなんでもまかり通ってしまう・・・。」
子ども:「どうしたらいいんだろ・・・」
先生:「被害にあった人がそれを口に出せる場所がない。なぜなら、『その人が悪かった』で片付けられてしまうから。いや、そんなレベルじゃない。被害に遭って苦しんでいる人は『自分は悪霊の憑依を受けている』『こんな奪う愛の精神状態じゃ、悪いのは自分だ』と、自分を罰してしまうこともあるんだね。そして、もし彼らに傷つけられ、批判などしようものなら、彼らから白い目でみられ、挙げ足ばかりとられ、粗さがしばかりされる。そして、単なる被害妄想だ。自分の仏性を信じなさい、といったことでたしなめられる。
誰も、勇気を持って『あんな考えは間違っている!』とは言えない。『真理を穢す人なんだから、苦しむのも仕方ないか。』と思ってしまうんだ。そして、『信仰の深い』と言われて褒められている人ほど、苦しんでいる人をさらに追い詰めるような言葉を平気で口にできる。そして、組織にとって都合の悪いことはさっきの本のようにどんどん隠していく。
『人』が大切じゃないんだ。自分たちの信じるものの権威のほうが大切なんだ。」
子ども:「それって、いじめと同じ構造じゃない?」
先生:「いいことに気がついた。その通りだと思う。」
信者:「待って、私たちは今いじめ撲滅キャンペーンをやっている。いじめは悪だ、絶対に許さないという気概で戦っているわ。」
先生:「そのいじめ対策マニュアルを、『君たち』に対して講じたらどうなるだろうね。『はだかの王様』というお話を思い出すね。あれはあれで単なる笑い話だからいいけれども。
実験だ。足し算はもう習ったよね。」
子ども:「うん。」
先生:「7+9は?」
子ども:「え~と、16かな?違うかな。」
先生:「周りを見てごらん。他の子は一人残らず、15って答えているよ。」
子ども:「あ、じゃあ、違うのかな?
・・・自分ひとりだけ間違っちゃった・・・恥ずかしい。直さなくちゃ。」
先生:「いや、正解は16であってるんだけれどもね。」
子ども:「なんだ~」
先生:「計算問題なら、まだいいかもしれない。周りの人が、みんなみんな、ある人をあがめて『素晴らしい、素晴らしい』って言っていたら?自分だけひとり、それをやらないことはできるかな?」
子ども:「仲間外れになりそう・・・。形だけでもやっちゃうかな。」
先生:「さらに、それをやらなかったら、みんなから白い目で見られることが分かっている、としたら?」
子ども:「特にやりたくない理由もないし、我慢してそうしちゃうかな。」
先生:「うん、普通はそうだよ。でも、どんどんどんどんそのレベルが上がっていく。そして、違和感もなく、自分というものは変わっていってしまうんだ。そして、思う、『今までの自分は間違っていた』と。」
子ども:「・・・・なんだか、怖くなってきたよ。これから、なんでもかんでも疑いの目で見なければならないの?」
先生:「僕は、目に見えないけれど、信じられるもの・・・いっぱいあるよ、そう言いたい。
手をつないだときの暖かさ、平和な心、子どもを抱きしめるときのやわらかさ・・・そして、人が人を支えること、助け合うこと。信じるって本当は大きなものではなくて、そういう人と人の間にある素朴なものでいいのかもしれないのかな。
それは、どこにでもある。『彼ら』ももちろんたくさん見つけている。同じだ。だから、つながっている。
でも、頭で考えることの違いで、それは人を生かしもするし、傷つけもする。
ただ、僕はそれだけを心配しているんだ。だから、絶対に平和のないところにはなびかないし、従いもしない。
ひとつになんかまとまんなくていい。誰にも無理して心を従わせなせなくていい。僕は、僕。君は君だ。
どんなにちっぽけでも、人が生きていることのなかには意味がある、そう信じている。それはどういう場所でかなのかは分からない。
でも、誰かの考えることによってその都合で決定されたりするものではない、自然に任せたら、きっとうまいところにいく。
また、僕はひとりの人に戻ります。
最後に祈らせてください。
じゃあね、おやすみ。」
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ビクビクしながら、反応をこわがりつつ率直に考えたことを書きました。
自分の伝えたいことが、どれだけ伝わったかは分かりません。
ひょっとしたら偏っていたかもしれないし、「それは違う」という人もいれば、「その通りだ」と頷かれる人もあるかもしれません。煮え切らなくて当たり前だと思っています。
ただ、僕の伝えたかったことは、「偏見で見ず、何が根本的な問題なのか。自分の目で見てしっかり考えて」ということです。主張とか主義とか、その前にまず、「いちばん大切にすべきものは何なんだろう」ということを考えていました。
3人の違う立場の人を出してしゃべらせることで、自分としてもある程度客観的な見方を理解しつつ、物事を捉えることができたのではないかと思います。
ただ、「子ども」の素直な心がなければ、もっともっと嫌になるような言葉が飛び交っていたかもしれません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
対話編はここまでだ。
これをミクシィ上にアップして、なんと三ヶ月以上も信者たちとの論争が続いた。対話編で予想していた通りの公式に見事に信者たちは反応してくれた。最後に相手が吐き捨てた言葉は「あなたの心は地獄の方に向かっています」ということだった。やはり相手がカルトだとわかっていても、人格批判をされるのはさすがに気持ち悪さがあるというか、こたえるもので、しばらくは吐き気と戦っていた。
本当にネット上の論争など無駄と愚かしさしか生まないことを自覚していたから、こんな馬鹿なことはこれで終わりにしようと思っていた。
それでも、感謝することも多くあった。
「自分も幸福の科学、幸福実現党はどうかと思う」というような人が、たくさん僕の意見に共鳴してくれて、僕を支えてくれたのだ。 単に叩くことを楽しんでいる類のアンチではなく。
今まで、人に言えず一人で悶々と悩んでいた問題に、正面から立ち向かう勇気をもらった。
そして、生きていく上で大切なこと、様々なことを考えながら前に進むことができました。
大切にしたいポイントは次の三点。
・他者に救いを求めない、他者が自分に何かしてくれるとか期待をかけてはいけない。
自分を立たせることができるのは自分だけ。
救いを求めるならば、自分もまたその救いに対して能動的であらねばならない。
・周りが何を言おうが、自分の幸福を大切にすること。自分の心の声に忠実であること。
・相手を裁かない。他人の心を変えようとしない。それほど不幸なことはない。
そんなことを答えとして出していたらある職員さんのかたから個人的にメッセージが来た。そう、2009年の総選挙が終わりあの政党が世間の失笑を買いながら泡沫政党として惨敗したころである。
その人には覚えがある。高校生のとき、メーリングリストでただ一人だけ私に励ましと相談のメールをくれたあの先輩だ。よく、個人的にライブを開いていていつもボーカルとして笑顔で歌っていた。東京ではいつもライブがあるたび行って素敵な歌声を聞いていた。
メッセージは個人的なものなのでここには載せられないが、私の数カ月の記事に感動してくれた、納得してくれたということだった。そして、新しい歩みへの祝福だった。本当の幸せとか、成功とか、心の在り方について、しみじみとメッセージをやりとりした。涙が出るほど嬉しかったのを覚えている。
それに、何人かの学生時代の友人は、「ありがとう」と「ごめんね」のメールをくれた。
自分は心から彼女らの幸せを願って手を合わせた。
まるで、心に映った風景は、岩や木が転がっているものの、嵐の後の洗い流されたすがすがしい世界だった。そして私は新しい一歩を踏み出すことができた。
後に、私はカトリックの洗礼を受ける。カルトに限らず伝統宗教にも様々な「病んだ」人は集まっており、宗教を嵩にかざしてお互いを裁きあうことが多いのだと悟るようになる。
世界や人間は、そこまで素晴らしいものでないかもしれない。でも、きっとそこまで悪いものでもない。灰色の世の中を清濁併せのんで、肯定して笑顔で生きていけたらとよく思う。
人は不器用にぶつかり合いを重ねながら、きっと時間をかけて何かを得ていく。
その後、実際に大川隆法をごくごく近くで見て、説法を聞く機会があったのだが、「事業家」「知の体系」としての巨大さは感じたが、それっきりだった。
それでも、人が愛しくて、静かにみんなが幸せでありますようにと思ったりもした。
11 最終更新日 : 2019-02-22 11:57:11 このページを編集する
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「コウフクノカガク」の乗り越え方―私の方法
ひょっとしたら、過去の宗教やカルトのしがらみに縛られている人も多くいるかもしれない。乗り越えるのは決して一朝一夕、簡単なものではない。方法などは、専門書やネットなどで優れたものが数多く出ているので参考にしてもらいたいが、私が現在も試行錯誤しながら「コウフクノカガク」の代わりに生きる力としている方法を紹介したい。より詳しく触れてみたい方は拙著『いきることば』などを参照されたし。本当に当たり前のことなのですが。
とにかく情報を集める
これがなければ話にならない。幸いなことに、現在では豊富な内部告発が溢れているため、自分の認識の手助けになってくれるだろう。オウム脱会信者にも、「カナリアの会」というものがあり心の葛藤を話し合う集まりがあったようだが、私の場合もネットで同じような経験をしてきた人と交流をして励まし合ったことが、「一人でない」という安心感を生んだ。カルト問題についてほとんどの人が「外部」と捉えているので、いつも、「この人は何も分かってないんだな」と思うことがほとんどである。しかし、多くの脱会信者がブログを立ち上げるようになって、救われるきっかけも増えたに違いない。
サイトや本などについて、「見ない方がいい」「魔が入る」などというような信者がいれば、その時点でカルトなので、安心しよう。
少し、距離を置いてみる
教団の内部の論理でいくら考えても、必ず教団の中に自分の心は取りこまれてしまい苦しい思いをする。真っ向から対立しようとすると、本当に心が消耗してしまう。教団はあらゆる思想を自分の掌中に収め、乗り越えた、包括したように語っているが、なにかしらそこにある種のいやらしさを感じて仕方がない。
違うパラダイムで世界を考えてみるのがいい。本当にもっとこの教団に対して専門家のメスが入ることを願っている。ほとんど耳にしないのがもどかしい次第である。
問題はそこから、どう自分の心を取り戻していくかだ。
すべてのことに感謝をすること。
ひかりの輪の上祐氏は、自分と他人は一体であると観じ、万物に生かされて、感謝することで、オウムを乗り越えたという。
カルトを恨んでいる人もいるし、それは私もそうだった。気持ちは痛いほど分かる。そして、何年間もある程度自問自答して迷う充分な時間は必要だし不可欠だ。しかし、どこかで「この世で経験するすべてのことは自分を成長させるための糧だった」と思え、手を合わせることができる。そしてそれは、思わぬところで驚くべきほどの前に進む力を与えてくれる。感謝の量が多ければ多いほど成功する。感謝すべきことは「いいこと」だけでない。「不遇なこと」にも感謝出来たら、それは達人の域であり、きっと心は光で満たされているに違いない。感謝の達人を目指したい。すべてを感謝に変えていこう。本当に素敵な生き方だ。
人のために生きること。
大川きょう子氏は現在東北で被災地の復興のために動いているという。人間の中にある宗教性は決して特別なものではない。いわば、人を幸せにする生き方のモデル、先人の知恵だ。感謝に加え、利他の心をもって、毎日を生きたい。私は、暇があればよく教会のボランティアでワイワイ言いながらホームレスの人たちにおにぎりを配っていた。私たちの多くは聖人でもなく大いに利己的だと思うので、立派なことはできないかもしれない。面倒くさいこともあるかもしれない。けれども、やはりボランティアや家事などなんでもいいので利他の行いを負担の内範囲で実践していきたい。職場で優しい笑顔や励ましの言葉を投げかけるのも、「布施」の一つと言われる。なにより損得なしでやる行いは暖かい。
コウフクノカガク以外の「良書」にたくさん触れる。
会員はもっぱら大量に発刊される大川隆法の本しか読まないので頭がそれしか受け付けなくなる傾向があるが、それ以外にももちろん良書は山ほどある。私の受験期のスランプを救ったのが、西田文郎先生の本だったし、大学入学後も一三〇〇冊近くの本を読破した。成功者と言われる人々の特徴を見ているとある共通のことが分かってくる。様々な出会いが自分のかたくなだった心を少しづつとかしてくれた。
信じられる人はたくさんいる。
すべての人間がいい人というわけでもないが、すべての人間が悪い人間というわけでもない。その当たり前のことに気がつくのに時間がかかった。裏切られることも他人が信じられないことも確かに何度もあるかもしれない。しかし、人との出会いをあきらめてはいけない。私の場合、すぐに考え込んで悩むので、何かあるとよく相談し話を聞いてもらっていたのが教会の神父やシスターだった。そうしていると、なんだか悩みが小さく軽くなっていくのだ。少しずつ支えられながら前に進んでいけばいい。
孤独について
自分を支えられるのはやはり自分自身しかいない。自分の心をすべて見通して救ってくれる他人はいない、ということを受け入れるしかない。他人に依存しては決して幸せになれない。自分しか自分を幸せにできないということを肝に銘じて、「自分の機嫌」を良くすることを考えたい。逆説的であるが、すべてのものに感謝し、人のために生きるためには、ある種の孤独と付き合っていくことが不可欠なのだ。
伝統宗教を見直す
私は、教会や神社仏閣が好きで、見かけたらかならず手を合わせて心を落ち着けている。また、時折座禅などに取り組んだりもしている。ある種の、理論ではない「祈りの習慣」が、人の心の栄養になっているところはあるのかもしれない。
しかし、日本では伝統宗教が廃れて救済能力を失っているため、多くの信仰宗教がその役割を奪っている。創価学会の連帯の強さに驚いたりもしたのだが、もっと、伝統宗教が心の問題や人生について考えるだけでなく、人の居場所になればと常々思っている。
ゆるく生きる
深刻に真面目に考え抜いた先に答えが出る事はあまりない。悩んでいる時ほど、ユーモアを忘れた人が多い。むしろ、苦難のある人生に対してユーモアも携えつつ歩んでいくことが人間らしさと言えるだろう。心の底から大笑いできる面白いことを探そう。常々、自分が真面目になりすぎていないか注意しよう。バカになるくらいがいいのかもしれない。笑いは免疫力を高めるとの報告もなされている。
自分の中の「本物」を常に生きる
自分に誠実でないものは他人に対しても誠実ではない。優れたように見える他人にも自分の舵を渡すな、ということは原則である。稚拙に思える考えでも、自分の意見や心の声をとことん大切にしよう。世の中はどの方向に流れていっているが、自分はどう考えて責任を持って選びとるかということを常に考えたい。孤独のときというものを大切にしよう。今は認められなくても、胸を張って真剣に生きていれば必ず光を見る日が来る
。
本当に、幸せになることに躊躇していてはいけない。
本当の復讐は、自分が心から幸せになること、笑えること。そして、忘れてしまえること。時間が経つにつれ、自然としがらみは消えてゆき、自然な自分を安心して生きることができる。
おそらく、自分が心から楽しんで満足して生きていたら誰も何も言えなくなる。
これを読んでいるみなさんが、安心して自分らしさを取り戻せますように。
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編集後記
ここに書かれたものは、自分でももはや過去のことでしたが、いつか書籍として個人的に重要な体験談として上梓したいと考えて書きためて保存していた昔の文章でした。原稿を編集しながら、当時の青春時代の風景が感情とともによみがえってきました。とても一言では言い表せない感慨がありました。読み返してつくづく思うことが、本当に長い間自分のトンネルの中から抜け出せずに苦しんでいたのだなということ。そして、信じるということを極端に恐れ続けていました。信じることができないというのは本当に辛いことです。
でも、みなさんに言いたいことは、必ず乗り越えられるということです。
いつの間にか、私は彼らに対して本当に興味の対象ですらなくなってしまい、慌ただしい充実した毎日を送っていました。
この内容はのちに、この教祖や教団になにかあったとき重要な体験談として提出できると確信していますが、ほとんど書いた後埃を被っていたものです。
ある日、臼井正己氏とツイッターで「幸福の科学について共著を出す」ような、出さないような話がありましたが、先日臼井さんが本を上梓されるというお話を聞き、それに乗っかろうとしたところ、「無印本命」誌に投稿してみてはどうかと勧められ、内容を送信したら、「これはおもしろいですが、ヤバいので一部しか載せられませんね。電子書籍で出してみては」と紹介され、今回その機会を得ることが出来ました。
種村修氏、大川きょう子氏、上祐史浩氏とアポを取ってくださったことも含め、改めて臼井氏に多大な感謝の意を申し上げます。
そして、「コウフクノカガク」を乗り越えた今、この原稿を描く材料を提供して下さった、幸福の科学という出会い、家族に心からの感謝をささげます。
2013年2月末日 色野そら