30話 距離は少し縮むのかもしれない
野犬の一件が落ち着いたところで、私は改めて、ルカ王子の方へと向き直る。そして、再び手を差し出す。するとルカ王子は、ふうっと息を吐き出しながら、私の手を取った。
「さすがだね、フェリスさん! 凄いや!」
ルカ王子は瞳を輝かせながら、そんなことを言ってくれた。
こうやって、躊躇いなく他人を誉められるところは、ルカ王子の美点だ。私はそう思う。
この世の誰もが彼のようになれば、世界は真に平和になるのかもしれない——なんて一瞬思ったのだが、そんなことになったら別の意味で大変なことになりそうである。前言撤回。
「では戻りましょうか」
「うん!」
ルカ王子はすっかり笑顔。先ほどまでの号泣が嘘のようだ。
木々に覆われた薄暗い森の中、私と彼は手を繋ぎ、歩く。時折風が木の葉を不気味に揺らすけど、恐怖感を覚えることはもうなかった。
今はただ、物騒なこの辺りから一刻も早く離れるために、ひたすら足を動かすのみである。
ひとまず塔まで戻り、ひと休みしていると、ルカ王子が唐突に言う。
「じゃあ改めて」
彼は再び、鞄から箱を取り出した。高級そうな濃紺の生地で覆われた、立派な雰囲気を漂わせる小さな箱だ。
「フェリスさん、お付き合いして下さい」
小さな箱を私に向けて差し出すと、ルカ王子はほんの少し微笑んで言う。今彼は、春の日差しのように穏やかな顔をしていた。
「……ありがとうございます」
勇気を出して、そう答える。
今までの私なら、恥ずかしさに負けて、きっと礼など言えなかっただろう。
しかし、今は言えるのだ。もう引けないという事実が、背中を押してくれるから。
「……よろしく、お願いします」
私はこういったことに関する知識が乏しい。もちろん経験も。それゆえ、こんな対応で良いのだろうか、という不安はかなり大きい。なんせよく分かっていないのである。
「……で、こんな感じで良いのでしょうか?」
「うん! もちろん!」
ルカ王子はその紅の瞳を私へ向け、明るい声で答えてくれた。
「じゃあ、これで晴れて、お付き合いしてくれるんだね!?」
「……はい。二言はありません」
付き合う、と言ったのは私だ。今さら逃げる気などない。
するとルカ王子は、濃紺の小さな箱を、一方的に私へ手渡してくる。戸惑う私をよそに、半ば強制的に渡された。私は状況を飲み込めぬまま、その小さな箱を受け取り、両手で持つ。
——直後。
「……っ!?」
突如、私の視界をルカ王子の体が遮った。いきなりだったため、一瞬何事かと思ってしまったのだが、どうやら、彼が私を抱き締めたということのようだ。
「わぁい!」
抱き締めた次の瞬間、ルカ王子は子どものように叫んだ。至近距離にいるせいかもしれないが、かなり大きな声に聞こえる。周囲の状況などまったく気にせず大声を発する辺りが、子ども的だ。
「お、王子?」
「これでもうずっと一緒にいられるんだねー!」
「……そうですね」
「嬉しいよー!」
喜びの感情をはっきりと表すルカ王子とは対照的に、私は、喜びを上手く表現することができなかった。恥じらいが邪魔するせいである。
けれども、正直に言うなら、嬉しくないことはなかった。
ルカ王子は私に新しい世界を教えてくれた人。それに、彼はいつも、私の心を和ませてくれる。いや、もちろん苛立つことだってないわけではないが、それでも彼と一緒に過ごす時間は楽しい。だから、そんな時間をこれからも続けていくことができるのだと実感できて、嬉しいのだ。
結婚、ということに関しては、まだよく分からないけれど。
「私も……嬉しいです」
「えっ! 本当!?」
「ルカ王子といると退屈しないので、嫌いではありません」
素直に「好き」と言えばいいのに、「嫌いではない」なんて言い方をしてしまった。自分で言ってしまえばそれまでだが、私のこういうところは、少し面倒臭いと思ったりする。
「やったぁ!」
「あまり騒がないでいただけますか? 近くで大声を出されると、耳が痛くなるので」
「うぅ……フェリスさんは厳しいなぁ……」
「嫌いになりました?」
「ううん。厳しさも含めて好きだよー」
それにしても……何の躊躇いもなく「好き」なんて言えるルカ王子は凄いわ。私には絶対無理。いくら頑張っても、そんな正直な人間にはなれっこないわ。
心の中で、そんな風にぼやいたりしていたことは、秘密。
しばらくしてルカ王子は、私の体に絡めていた両腕を解いた。それから、色々あって乱れ気味の銀髪を軽く整え、改めて私を見つめてくる。夕焼けのような瞳には、私の姿がくっきりと映り込んでいた。
「ありがとう、フェリスさん。これからもよろしくね」
私はルカ王子の護衛。
それ自体に変わりはないけれど、もしかしたら、距離は少し縮むのかもしれない。




