2話 ことの始まりは、一週間前
ことの始まりは、一週間前。
私の家に一通の手紙が届いた。その手紙の差出人はモノハシカ国王。わけが分からず戸惑いながら開くと、「第一王子の護衛をお願いしたい」というような趣旨の文章が書かれていた。そして、「その前に一度顔を合わせたい」とも。
すぐには理解できなかった。
なんせ私は、それまで、剣を握って戦うことしかしていなかったのだから。
国王の名を名乗るなんて悪質ないたずらね、くらいにしか捉えなかった。
しかしそれから数日が経った時、私の家に、城から遣いの人が来て。それによって、手紙がいたずらではなかったのだと、初めて分かった。
あまり気は進まなかったけれど、せっかくの依頼だからと思って国王と会い、そこから話がみるみる進んで、今に至る。かなり大雑把な説明になってしまったけれど、そんなところだ。
「フェリスさん、今ちょっといいかなー?」
お茶の時間を楽しむべく、数十分も前からお湯と格闘していたルカ王子が、声をかけてきた。部屋に入ってすぐの位置に待機していた私は、呼び出しに応じ、彼のもとへ急行する。今日はドレスではないため、動きやすい。
「どうしました?」
「お湯が溢れちゃったんだ」
ルカ王子が指差した方へ視線を向ける。
火にかけていた小さめの鍋から、お湯が溢れ、周囲にこぼれてしまっていた。おかげで辺りは水浸し。とんでもない状態だ。
何をどうすれば、こんなことになるのだろう。
「ルカ王子は火を消しておいてくれますか?」
「うん、消す消すー」
「私は布を取ってきます」
鍋からこぼれたお湯を拭く布を取りに行こうと歩き出す直前、ルカ王子が「待って!」と言ってきた。
何事かと思い、足を止める。そして振り返ると、彼は、柔らかく微笑んでいた。不自然と感じそうになるほど純粋な笑みだ。拍子抜けである。
「それなら侍女を呼べばいいよ」
「え? でも、私が取りに行った方が早いと思いますけど」
自慢じゃないが、鍛えた脚には自信がある。
「そうかもしれないけど、それはフェリスさんのお仕事じゃないよ」
それもそうだ。ルカ王子が言っていることも、間違いではない。私の仕事はあくまで護衛である。ただ、私が行った方が早いだろうし、侍女にわざわざ来てもらうのも申し訳ない。
「ですがルカ王子。このくらいで侍女の方を呼ぶのは、侍女の方々に申し訳ないです」
ついうっかり、いつもの感じで、意見をはっきり言ってしまった。無礼と怒られるだろうか、と一瞬不安がよぎる。
しかしルカ王子には、怒るの『お』の字もなかった。
それどころか、突然抱き締めてくる。
「ちょっ……!」
ルカ王子の急な行動に、脳が、ぐちゃぐちゃに掻き乱される。
戦場での危機には慣れているから、少々危機的状況でも冷静でいられる。だが、こういったことには耐性がない。そのため、何をどうすればいいか、分からない。
腕による拘束を解くことは、やろうと思えば容易くできる。
しかし、相手はルカ王子。
誤って怪我などさせてしまった日には、何もなくは済まないだろう。それを考えると、乱暴な手段に出るのは止めておく方が良さそうだ。
「フェリスさんはストイックだね。僕も見習わなくちゃいけないな」
「離して下さい」
「侍女を呼ぶなら、離すよー」
うっ……。
さりげなく条件をつけてくる辺り、ちゃっかりしている。
だが、ルカ王子がここまでするということは、よほど私を行かせたくないのだろう。その理由は知らないが、彼が「行かせたくない」と思っているのに、無理矢理行くこともない。だから私は、彼が出した条件を飲んだ。
「分かりました。それで構わないので、離して下さい」
「本当ー? 離した瞬間走り去ったりしない?」
「しませんよ、そんな狡いこと。とにかく腕を離して下さい」
ルカ王子を護るのが任務の私が、走り去るわけがないではないか。さすがに、そこまで無責任ではない。
「うん。ならいいよ」
少ししてルカ王子は、私の体に絡めていた両腕を、ぱっと離した。
体と体の距離が遠ざかる刹那。彼の銀髪がさらりと流れるのが、視界の隅に入った。本当に綺麗な髪だ。
「これからも、フェリスさんは護衛だけでいいからね。雑用は侍女任せで大丈夫だよ」
「そんなことを言われても困ります」
「え。どうして?」
「いえ、もういいです……」
話が通じなさそうなので、ここまでにしておくことにした。
何事も引くタイミングが肝心だ。
その後、ルカ王子の望み通りに侍女を呼び、びしょびしょの床を拭いてもらった。侍女は慣れた手つきで拭いてくれ、床の掃除はすぐに終わった。
その様を眺めながら、私は少し、申し訳ない気持ちになったのだった。