16話 その時は唐突に
「じゃあ気を取り直してー……何の話をする?」
ルカ王子は、どう言って私を招き入れたか、すっかり忘れてしまっているようである。彼らしいと言えば彼らしいが、なぜこの短時間で忘れたりするのだろう。脳の構造が、非常に謎である。
「何でもいいですよ、もう」
もはや怒る気にもならない。どうにでもなれ、といった気分である。
「じゃあフェリスさんの魅力的なところについて話す?」
「ちょ、何ですかそれ」
「どうしても嫌なら止めるけど……」
色々おかしいとは思うが、彼には突っ込むだけ無駄だ。ちょっとおかしいことがあっても、放っておくしかない。
「べつに構いませんよ、それでも」
「ホント! じゃあまずはねー」
ルカ王子は嬉しそうに目をぱちぱちさせた後、私のことについて話し始めた。
好きなところとか、可愛いと思うところだとか、そういうことを面と向かって言われるのは恥ずかしい。本当は少し嬉しかったりもするわけなのだけれど、今は、恥じらいの方が大きかった。誰も聞いていないにしても、こんな直球で褒められると、恥ずかしさを感じずにはいられない。
それからしばらく、ルカ王子の私に関する話は続いた。
途中何度か、口に含んだお茶を吹きそうになったりしたのは、私の中でだけの秘密だ。
そんな風に寛いでいた時、ふいに窓の外へ目をやると、雨が降っているのが見えた。それも、本格的な降雨だ。ザーザーという音も聞こえてくる。
「雨ですね」
「え、そうなんだ。気づいていなかったよ」
私は椅子から立ち上がると、窓際まで歩く。そして、窓から外を眺めてみる。すると、黒い空に白い線がくっきりと見えた。やはり、結構な本降りだ。
「見て下さい、王子。結構降っていますよ」
「そうなの?」
ルカ王子も椅子から立ち上がり、窓の方へと歩いてくる。
彼の性格を表したような、ゆったりとした足取りで。
「わぁ! 凄い降ってるね」
窓から雨降りの外を見て、ルカ王子は驚きの声を発した。
その瞳は子どものように輝いている。
「雨は久々な感じがするね」
「はい。私がここへ来てから、あまり雨を見た記憶がありません」
「数回しかなかったんじゃないかな?」
「恐らく」
私とルカ王子は、そんなたわいない会話をしながら、雨降りの夜空を眺めた。
空は黒い雨雲に覆われていて、星は一つも見当たらない。黒い絵の具で塗り潰したような夜空だ。お世辞にもロマンチックとは言い難い空である。だがそれでも、ルカ王子と並んで見つめていると、特別な空を見ているように感じてくるから不思議だ。
「フェリスさん、空は好き?」
「……考えてみたことがありませんでした」
ルカ王子の問いに、私はそっと答えた。
実際、私は、空が好きかどうかなんて考えてみたことはない。空を見上げて楽しむなんて余裕はなかったからである。私のすべては戦いだった。強くあり、生き残る。それしか頭になかったのだ。
「けれど……嫌いではありません」
ここへ来てから、世界はいろんな美しさに満ちているのだと知った。血や死などというものだけで構成されているのではないのだと学んだ。それは、私に多くのものをもたらしてくれたと思う。
「星空が見えたら、もっと美しいでしょうね。今日は曇っていますけ——え?」
そんな時だった。
突如、ルカ王子の唇が私のそれと重なったのだ。
何の予告もない口づけに、私は、ただ唖然とすることしかできない。
どう対応すれば良いのか分からないし、どのような言葉を発するべきかもすぐには判断できなかった。
室内に静寂が訪れる。
まるで時が止まったようだと思った。
——それからだいぶ時間が経って、ルカ王子はようやく唇を離す。
「い、いきなり何を……」
「これが僕のフェリスさんへの気持ちだよ」
はっきりと言われたが、私には微塵も理解ができない。
だって、私と彼は、王子と護衛。親しくしていたとしても、そういう関係になっていくことはあり得ないはずなのだ。なのに彼は、そういう関係になることを望むような行動をした。
純粋な彼のことだ、私が翻弄される光景を楽しみたくてこんなことをしたりはしないだろう。彼がそんな性格でないことは知っている。
だからこそ、彼の行動の理由が分からないのだ。
「いきなりこんなことをして、ごめん。でも、伝えたくて。フェリスさんはまだよく分かっていないかもしれないけど、僕は君を本当に好きなんだ」
ルカ王子は真面目な顔でそう言う。
しかし、今の彼の言葉は、私には到底受け入れられないものだった。
「すぐに分かってくれとは言わないよ。でも、僕が本気だってことは分かってほしいな」
そんなことを言われても——そんな思いだけが、胸の内を満たす。