無差別?転移されました
「あんた誰や。」
「いつも会ってるでしょう…善さん、籔ですよ。」
「あぁ…あぁ、籔くんね。」
本当に分かったのかどうかは謎だが、オムツを交換するために善さんをベッドに移譲させる。
「何するんや?」
「下着の交換です、はい、足上げて」
「あ、そんなとこ見ちゃいかん」
善の言うことを無視して半ば強引にズボンを下ろす。
「すぐ終わりますから…っと…ん」
オムツの中に大量の排便を確認してポケットに入れていたゴム手袋を取り出す。
「やっぱりか…なんか今日は臭ってたもんなぁ」
「嗅いだらあかん。」
「はいはい。」
この人は善さん83歳、頭の禿げ上がったじいさんだ。
大学の学費と家賃を払うため、臨時の金稼ぎに始めた訪問介護のバイトの利用者
奥さんに先立たれ認知症が悪化し、今では家事はおろか排泄までホームヘルパーに頼らなければままならない。
しかしこの善さん。足腰だけは異様に元気でおまけに手癖が悪い。
少し目を離すと財布やら携帯やらをカバンから抜き出すこともある。
「寒い。」
下半身丸裸の善さんから苦情が入る。
ため息を付きながら肛門付近を用意したぬるま湯で洗浄する。
粗方綺麗になった…?のを確認すると、善さんを転がしてオムツを差し込む。
本当は自分で下着を履くこともできるのだろうが、善さんの場合は元気すぎてヘルパーの妨害が凄まじい。
善さんがオムツを利用しているのはむしろヘルパー側の都合に他ならない。
昔は利用者の意思を尊重してあげたいと思うこともあったが、実際にこの仕事をするようになってからそんな思いは吹き飛んだ。
「おー…スッキリしとる。」
下半身に不快感があるのは感じていたのか、善さんは履き替えたオムツに満足げな表情だ。
「善さん、今日何食べたい?」
洗面所で手洗いをしながら善さんに料理のリクエストを聞く。
とはいっても実際には俺はカレーしかつくれない。
つまり善さんは俺が家に来る毎週木曜日は絶対にカレーを食べることになる。
ここに来る度に料理のレパートリーを増やさないと焦燥を感じるが、現実には他の問題が山積みすぎてそんなことに手が回らない。
家賃も2ヶ月滞納している。
「今日は…カレーやな」
「正解!」
それを知ってか知らずか…まぁ知ってるわけはないが、善さんは俺がこの質問をすると必ずカレーと答えるようになった。
ここに通うようになってからはや数ヵ月。
意思疏通は難しいながらも少しはお互いを理解できてきている気がして俺はこのやり取りが少し楽しみだったりする。
「俺は待ってるで~♪」
謎の歌でいつものように善さんはテーブルで食事が出されるのを待っている。
部屋の中は慌ただしい炊事の音と暗いニュースを並べ立てるテレビの音、そして善さんの謎の歌が合わさりちょっとした騒音状態だ。
『続いてのニュースです、全国で相次ぐ失踪事件ですが、ここ数日で更に7件の失踪者が確認され、警察は捜査人員の増員を決定しました。』
キャスターが読み上げたニュースを聞いて、思わず善さんの顔を見る。
全国の一般市民が相次いで失踪するという不気味な事件。そんなことよりもこれほど元気な善さんが失踪しないかどうかのほうが俺にとっては心配だ。しかし、何故か善さんは家を離れようとしたことは一度たりともなかった。
「俺は待ってるで~♪…ずっと待ってるで~」
善さんはそんな俺の心配も露知らず機嫌よく歌っている。
カレーを煮込む時間、手持ち無沙汰になってカバンからお気に入りのラノベ『でんぐり座敷わらし』を取り出した。
富をもたらす座敷わらしと家主が仲睦まじく日々惰性に過ごしていくだけの話だ。
一見つまらなさそうに見えるが一部の根強いファンが愛読している。
俺もその一人だ。
そうこうしてカレーをかき混ぜながら暇潰しに興じること二十分ほど…
「善さん。そろそろできますよ~…善さん?」
いつの間にか善さんの歌が聞こえなくなっていることに気付き俺はその場を勢いよく立ち上がった。
「善さん!!」
「俺は待ってるで~♪」
「二階…?」
微かにだが、たしかにあの訳のわからない歌声が聞こえてくる。
「二階にはベランダが…!」
内鍵をかけているとはいえ、善さんなら鍵を開けるくらい造作もないはずだ
二段飛ばしで階段をかけ上がっていく。
二階には左右二つに部屋がある。
右が物置部屋、左が善さんが昔趣味にしていた陶芸をするための作業部屋…
「俺は待ってるで~♪」
「右か!?」
物置のドアノブを回すが、まるでバリケードでも張られているかのようにびくともしない。
いくら善さんが元気だと言ってもこの短時間にドアを完全に封鎖してしまうなんて芸当できるはずもない。
ますます不安に掻き立てられ、息を整えて先に詫びを入れた。
「仕方ない…弁償するから!」
他に方法が思い付かず、三歩後ずさってから勢いを付けて扉を蹴破る。
ドゴン!
という鈍い音を立てて老朽した扉の金具は外れ、前のめりに倒れる形で物置部屋に突っ込んだ。
「善さん!」
慌てて顔を上げると、見たこともない光景が広がっていた。
部屋の中心に資料で見たブラックホールのような真っ黒い球体があり、そこを中心に部屋中の物を引きずり込もうと吸い寄せている。
とても現実味のない光景だが倒れた俺のすぐそばに居た善さんをみて我に帰った。
この明らかに現実離れした光景をまるで待ちわびていたかのようなどこか嬉しそうな様子で眺めている。
「これは?!」
半狂乱に声を上げるが、善さんは全く反応してくれず、自分達を引き寄せる黒い球体を故郷を見つめるような切ない目で見つめ…
俺にしか聞こえない小声で囁いた
「俺は待ってたで」
その言葉を耳にした瞬間、身体中の力が抜けて、首もとを捕まれた猫のように身動きできずに黒い球体に引き寄せられた。
失われていく意識のなかで最後に目にしたのはこちらに向かって歩いてくる善さん。
「逃げろ」
そう叫びたかったが脱力から声すら上げることはできなかった。
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死ぬって感覚はもっと苦しい。
そんな風に思っていた。
しかし今俺を包むのは死のイメージとはかけ離れた癒しと優しさに包まれている。
あらゆる効能が凝縮された超高濃度のぬるい温泉に浸かっているような…
ずっとここに居たいと思わされるような心地よさが俺の意識を縛り付けていた。
「俺は待ってるで~♪」
誰かの声が聞こえてくる。
誰を待ってるんだよ
心のなかで悪態を付きながら再び目を閉じる。
「君を待ってるで~♪」
俺を?
どこで待ってるんだよ。
謎の声が自分を呼ぶがそれでも目を開けて返事をする気にはならなかった。
「…したらあかん。」
徐々に声が遠退いていき、その声に対して意識を割く気すら失せていった。
だが同時に煩わしかっただけのその声がもう聞けないと思うと、胸に小さな痛みが走った。
「善さん」
どうしてこの名前が自分の喉から飛び出したのかは分からない。
そしてこの名前を口にするまでどうして彼のことを忘れていたのかも…
激流の川バケツを突っ込んだように記憶が頭に流れ込んでくる。
「俺はあの黒い球体に吸い込まれて…」
膨れ上がる記憶に頭を抱えていると、遠くからまたあの声が、善さんの声が聞こえてきた。
「あかん。こんなとこで死んだらあかん」
瞬間。膨れ上がった風船が音を立てて弾け飛ぶように頭の奥でぶちっと音を立てて何かがはち切れた。
頭を殴られたような痛みに思わず起き上がって 目を開けた。
「ってて……」
まず目に飛び込んできたのは見たこともない奇妙な形をした木だ。
風に揺られ、茹でられながらもがくタコを連想した。
「なんだここ…」
地面は湿り気を帯びていて辺り一体が薄暗い湿地のような場所だ。
空を見上げても背の高い木々が覆い被さるように茂り、辺りを見渡しても大小の木がところ狭しとひしめき合っている。
吹き抜ける生温い風が全身を撫でる度に嫌な汗が額から流れ落ちていき、まともな思考を妨げる。
「とりあえずここ何処なんだよ……」
問い掛けても誰かが答えてくれるわけではないが、人間孤独には打ち勝てない。
ましてや訳のわからないままこんな薄気味悪い場所に置き去りにされているのだ。
自分は冷静だと口に出して誉めてあげたい気分になる。
このまま立ち尽くしても埒があかない。
とりあえず進む方向を決めて少しずつでも歩きだしていこう…
先程から土と森のにおいに混じる焼け焦げたようなこの異臭…
もし、火を扱っているのならば、そこに人間がいる可能性がある。
「行ってみるか…」
震える両足を擦って、焦げ臭い臭いが漂う方向に恐る恐る向かっていく。
次第に焦げた臭いに混じって肉の焼ける臭いが混じってくるのに気付く。
口を服の裾で覆いながらしばらく歩くと、森を抜けて集落のような場所に出た。
そこで焼け焦げた肉の臭いの正体を目の当たりにした。
「何だよこれ…」
木組みでできた家は無惨に破壊し尽くされ、角が生えた犬や二股の尾を持つ猫の死体が辺りに散乱している。
そして人間の死体も……
「……」
不快感に顔をしかめるが、いつも他人の便を処理していたこともあり、その場で内容物を吐き出すようなことはなかった。
「なんだこの動物…見たこともないな」
落ちていた猫の死体を持ち上げて観察する。
長い耳は腰辺りまで伸び、額の真ん中には水晶のような石が埋め込まれている。
犬のほうは額から角が伸び鋭利に尖っている。
むき出しになった牙からは何本か抜け落ちている箇所があるが、噛みつかれたら骨ごと持っていかれそうだ。
隣に倒れていた人間の死体は、自分の背丈ほどある長い杖を握りしめたまま倒れていた。
この出で立ち…まるで…
「魔法使いみたいだな…」
空を見上げると今にも雨が降りだしそうな雲が頭上をゆったりと流れてきている。
「この状態で雨に打たれんのは最悪だ…」
上を見上げた瞬間にポツポツと雨粒が振りだしてきた。
「最悪だ…」
そう呟いた途端に今度は凄まじい勢いで大量の雨が降り始めた。
「おかしいだろ!なんだよこのピンポイントな嫌がらせは!?」
焼け石に水だが両手で頭を覆いながら近くにあった焼け残りの家屋で豪雨を凌ぐ。
「なんだよこの急な大雨…日本じゃないのか?ここ…」
降り注ぐ雨粒に打たれ、上下に揺れる見慣れない木々達はまるで俺の問いに頷いているようで、より一層孤独を感じた。
数十秒そんな気持ちで雨雲を眺めていると、あれだけ凄かった豪雨が今度は何事もなかったかのように晴れ晴れとした空に変わっていった。
「どうなってんだよ…」
雲を割って差し込む日差しには安堵どころか異常気象に対する疑心しか生まれない。
ともあれ、こんな廃集落に取り残されるという最悪の状況は何とか回避できたらしい…。
「善さんもこの辺りに飛ばされてんのか…?」
森の仲よりは幾分見晴らしがよくなり丁度空模様もよくなったので改めて周りを見渡す。
どこもかしこも崩壊していて酷い有り様だ。
人影はどこにもない。
しばらく辺りを見回していると前方から複数の足音が聞こえてきた。
それを聞いて慌てて近くの茂みに姿を隠す。
現在の疲弊しきった精神状態ではこの世界で起こる全ての事に猜疑心の塊をぶつけてしまう。
こんな訳のわからない場所に来てから不幸続きだ。
素性の知れない人間のいきなり話しかけるなんて危なっかしくてできやしない。
足音は真っ直ぐこちらに向かってきて、やがて話し声が聞こえる距離に入ってきた。
「どうやら火の手は収まったみたいだな…さすがはエルエスだ」
「いえいえ…ですが、今ので魔力を使い果たしてしまったので…」
「大丈夫だ、魔物の残党は俺達に任せてゆっくり休んでろ。」
剣を携えた屈強そうな男二人にいかにもひ弱な女の子が杖を付きながら後ろを追随している…
こんな山奥で何を……なんて常識的な疑問はすでに浮かんでこなかった。
「魔力…魔物…?」
聞き慣れない単語を拾って小声で反芻する。
銃刀法違反待った無しの男二人は剣を抜き放ち辺りを散策し始めた。
「遅かったか……生き残りはいないみたいだ。」
「ガルフとレイフィに襲われたんだな…こんな小さな集落じゃ成す術が無かったんだろう。」
男の一人が犬と猫の死体を一瞥して呟いた。
「……でも、どうしてこんな外れにある集落がガルフとレイフィの大群に…」
「魔物の考えなんて俺達には見当もつかん。起こったものは仕方ない、俺たちは死者を弔ってやろう。」
会話の内容から、どうやら悪い人間ではないようだが……見ず知らずの自分に味方してくれるかどうかは怪しいものだ…
「お爺さん、大丈夫ですか?」
「ん?大丈夫じゃない。」
ちょっと待て…よく見たら女の子の後ろに見覚えのある奴がいるぞ……
あの禿げあげた頭…
「善さん!!!」
「うわっ!何だお前!」
茂みから突然飛び出した俺に驚いたのか手前に居た男は飛び退いて剣を抜きこちらを威嚇するように睨み付ける。
さすがに出方を間違えたかと焦ったが、出てしまったものは仕方無い。
「あ~違うんだよ、俺はその爺さんの…なんつーか…家族みたいな?」
「この御老人は先程森で遭難された所を我々が保護した…お前は家族をほったらかして何をしていたんだ!」
後ろにいた男も女の子と善を庇うように前に出てこちらを切り裂くような視線で睨め付けてくる。
「だから俺も探してたんだって!」
今にも切り合い…というよりも一方的に俺が切りつけられる雰囲気に狼狽した女の子は二人の間に割って入る。
「ちょっと待ってよ!二人とも落ち着いて!」
「下がれエルエス!」
男が強引に少女を押し退けようとするが、少女は引き下がらない。
「この人もきっと『遭難者』です…この服装…」
少女はこちらを指差す。
男達もこちらに視線を向けて言葉を詰まらせる。
「また…か、もう何人目だ?」
「今月に入って6人目だな。」
三人はこちらを吟味するように這うような目付きで俺を眺めている。
「あんた…出身は?」
剣を収めた男は納得のいかないという面持ちで尋ねる
「大阪だ」
「オーサカ…?なんだそりゃ?」
「日本だよ。ニッポン!」
繰り返し説明しても三人の表情が晴れることはなかった。
「遭難者は訳のわからない場所から来たって言うのはお決まりみたいだな…」
「善さん…そこの爺さんはどこから来たって?」
「お祭り横丁ってとこから来たらしいぞ。」
「それは俺もわからないわ…」
話が噛み合わないのは認知症のせいだと説明したいが、ここで認知症という言葉が存在するかどうかすら怪しいのでその辺は追々処理していくことにした。
「俺はヴォイツェフ。こっちがバフーンだそっちがエルエスだ」
手前に居たヴォイツェフと名乗るリーダー格の男はとりあえずと、簡潔な自己紹介をしてくれた。
短髪切れ目の男がヴォイツェフ、長髪切れ目の男がバフーン…
こいつら髪の長さぐらいしか違いがないくらいそっくりだな
「ヴォイツェフ、エルエス、馬糞だな…よし、覚えた。」
「バとフの間をしっかり伸ばせ、獣の排泄物みたいに呼ぶな」
ちょっとした悪ふざけのつもりだったがこの世界にも馬糞は存在するということが判明した。
つまり馬をはじめとする普通の動物もいるということだ。
「すまんすまん。俺はヤブ、そっちの爺さんは善」
「…ひとまず、こんなとこでは…アレですし、一旦私たちが滞在してる街までご一緒しませんか?もしかしたら知り合いに会えるかもしれませんし。」
エルエスは散乱した集落を見回して苦笑いを浮かべた。
たしかにこんな場所では落ち着いて話もできないし、街には是非とも行かせていただきたい。
「出会ったのが魔物じゃなく俺達でよかったな、街までは案内してやるから安心して付いてこい!」
ヴォイツェフは胸を叩いて自信ありげに言い放った。
こいつ、序盤で死ぬタイプだな。