さっさと逃げろ
パネルのようなものに向かってメルさんは立つと、何か詠唱をはじめた。
言葉はわからない。
距離があるのもそうだけど、もともと見知らぬ外国語なんだろう。
そんなことを考えつつ、ふとアイリスを見たら。
「……どうしたアイリス?」
「シッ」
アイリスはそういうと、人差し指で「静かに」のジェスチャーをした。
ああ、もしかしてあの詠唱を記録しているのか?
ならば邪魔はすまい。
しばらくして詠唱が止まり、オルガたちはパネルをあれこれ操作しはじめた。
「ごめん、ありがとうパパ」
「おう、ちゃんと録れたか?」
「どうかな?送るは送ったけど」
「ん?確認してないのか?」
「んー、グランドマスターの指示は、そのまま送れだから。
それに、グランドマスターがどこに興味をもつかは、アイリスにもよくわからないよ」
「そうなのか?だっておまえもドラゴンの眷属なんだろ?」
「それはそうだけど、ヒトガタをとっている時点で思考も違うから」
「ほう……そういうもんなのか」
「うん」
へえ。
アイリスは、ドラゴン氏の作った情報収集用ドローンみたいなもんらしい。
あ、もちろん地球のドローンとアイリスは全然別の存在だぞ?
アイリスはちゃんと人格を持っている。自分で見て聞いて、考えてる。
この点を俺は疑問に思い、ドラゴン氏に質問してみたんだけど。
ドラゴン氏によると、アイリスはそうでなくちゃいけないんだそうだ。
俺という人間のそばで旅に同行し、共に感じたり助けたり。
そういう生活の中でアイリスが人格として感じたこと、成長そのものも、その全てがドラゴン氏には興味深いデータなんだと。
だからこそアイリスはただの操り人形でなく、ちゃんと一個の人格でなくちゃならない……というのはドラゴン氏の弁だ。
まぁなんというか、マニアックな話ではある。
だけど俺としては、たしかにありがたいことだ。
アイリスは出会った頃のシステム的な優秀さはそのままに、素の子供としての顔もしばしばむき出しにする。
たとえばだ。
オルガという同行者がいるのなら、いつまでもお花摘みさせずにトイレをって考えまでは合理的で正しい。
だけど。
そこでわざわざ「おまる」を再利用し、しかも、わざわざ俺の前で楽しそうに使ってみせる。
そのあたりの行動原理に、ものすごく子供らしさを感じるんだ。
あ、なんか尾籠な話でごめんな。
でも、ちょっとだけ我慢して聞いてほしい。
機械のように合理的な行動しかとらないのなら、アイリスは何か適当な理由をつけて簡易トイレを提言すればよかったんだよ。
でもアイリスは、わざと「おまる」を使う選択肢をとった。
いや、たしかにあの「おまる」はすごいけどさ。
オルガによって魔法陣が刻まれた「おまる」は携帯式の水洗トイレというべき存在になってて、出したものを自動的に始末してくれるという、地球にもない最強の携帯トイレなのはわかるけども。
けど、視覚的には「アヒルのおまる」なんだよ。
アイリスが使うのだって本来は視覚的にNGなのに、おもしろがってオルガまで使うもんだからさ。
……つい目が吸い寄せられるじゃねーか、ばかやろう。
あーうん、こほん。
もしアイリスの人格が今も、機械に『子供らしい言葉使い』というオブラートをかけただけにすぎないのなら、そんな真似する必要はどこにもないってのはわかってもらえたと思う。
なのに、わざわざ不合理な行動をとる。
その行為全体に感じるのは、子供の悪ふざけだと俺は思ってる。
わがままを言い、いたずらをするのは子供の本質だもんな。
アイリスはマシンとして優秀であるがゆえに、普通の子供とは行動の根っこが異なっているけど、どちらにしろ悪ふざけ、いたずらである点は変わらないように見える。
なんでもできるパートナーに見えても、やはりアイリスはまだ幼子という事なんだろう。
俺は子育ての経験などないが、幸いにも彼女の場合、知能だけは高い。つまり、ブン殴らなくても叱れば通じるのだ。
だったら、俺にできる事も見えてくる。
アイリスのことは尊重しつつ、ダメなことはダメと教えればいいんだ。
未熟なうちはアイリスも俺のことを全部、素のまま受け止めて……ちゃんと人格が成長したら、今度は自分なりに判断して動くようになるのだろう。
さてと、話をそろそろ戻そうか。
アイリスよりも今は目の前の光景だからな。
よくわからない記号や光の羅列が出たり消えたり走ったり。
その不思議な風景を見物していると、操作していたオルガとメルさんは突然に手を止め、ウンウンとうなずいた。
む、終わったのかな?
そして、小走りになって戻ってきた。
「終わったぞハチ!」
「すぐ出してください!」
「わかった乗れ!」
開けたままだった後部スライドドアからふたりが乗り込んだ。
もちろんパワースライドじゃないから、オルガがハンドルを掴んで前にグイと押す。
ガラガラ、バタンと昭和的な軽い音をたててドアは閉じた。
「ふたりとも何かに掴まって!」
「いいぞ!」
「発進!」
俺はキャリバン号を出口に向けて走らせたんだけど。
「おい、もう動き出してないか?」
「オー早いねえ」
「おー、じゃねえっ!」
巨大なオブジェの群れのようにフリーズしていた巨大ムカデたちが、もぞもぞ、ゴキゴキと不気味な音をたてて動き始めていた。
重量級のせいか、まだ動きが鈍いのが幸いか。
けど。
「っ!」
いきなりゾッとしてアクセルを踏みつけた。
加速をはじめた次の瞬間、ボディの後ろを方をガリッとかすめるような音がして。
「お、かじりつかれたな」
「ちょっとぉぉぉっ!」
昔、古いボロアパートに住んでて夜中にムカデに噛まれた事を思い出した。
彼らは人間の皮膚をもりもり齧る事はあまりしない。
でも俺は子供の頃に大怪我した傷跡が膝にあって、その傷跡が柔らかくて美味しそうだったようだ。
そのあたりの痛覚が鈍いもので、なんか鈍い痛みで目覚めたら、膝にムカデが食いついてたってわけ。
え、そのムカデはどうしたって?
玄関にたたきつけて踏んだ後、瞬間湯沸かし器の熱湯かけたよ。
いやはや、あれは忘れられない経験だった。
って、そんな事言ってる場合じゃねえええっ!
「パパ右っ!」
「!」
アイリスの警告に、ほとんど反射的に手が動いた。
そのすぐあと、ボディサイドのぎりぎりを何かがかすめ、ゴリッと音をたてた。
「左!」
「!」
やはり反射的に動いた。
いくら軽四のフットワークがいいといっても、そりゃ自動車基準の話だ。
対生物という点でいうなら、4つの車輪に動きが制限される自動車の機動力なんて知れたものであり、即座に左右に回避するなんて技は、満員まで人の乗っている軽四ワゴンにできる芸当ではない。
ではどうして回避できるのかなんて、この時はわからなかった。アイリスにあとで聞いても「知らない」と困った顔をされただけだった。
まぁたぶん、ドラゴン氏がこっそり助けてくれてたんだろうな。
うん。
あとでお礼言っとこう。
まぁ理屈はともかく、ギリギリのところでキャリバン号は逃げ続けた。
しまいには左右のミラーがなくなり、フロントガラスに割れが入ったりもしたが、それでもなんとか出口までたどり着いた。
「そのまま出て!」
「おう!」
開いたままの出口から飛び出し、即座にハンドルを左に切った。
だが穴から出た時点で速度が出すぎている。
当然、曲がりきれない。
「くそぉっ!!!」
正面衝突こそ避けたが、反対側の壁に斜めから接触してしまった。
「っ!」
けたたましい擦過音をたててキャリバン号は滑っていく。
「オルガさん!」
「もうやってる──よし、閉鎖したぞ」
ドン、ドン、と何かが壁にぶつかる音が聞こえているが。
その音が止まる前にキャリバン号は無事、停止した。
「……ふう」
俺はためいきをついた。




