一日目
私の名前は三沢樹。今年大学を卒業し、四月から介護士として田舎の祖父母の家から程近い介護施設で働き始める。
私はどこにでもいる、ごく普通の人間だ。
けれど、かつて私はここで不思議な出会いと体験をした。
それは、高校二年の夏休み。田舎の祖父母の家に泊まった時のことだ。それはたったひと夏の、ほんの一月と少しの短い時間。けれど今でも鮮明に思い出せる、不可思議な出来事。
本当はここに帰ってくるつもりなどなかった。あの夏の体験は決していい思い出ばかりとは言えないからだ。それでもここに帰ってきたのは、きっとまだ何も解決していないから。
私は、この町に私が私であるために決着を付けに来たのである。
今日から暮らすこの部屋は、かつて私が一月と少し、暮らしていた祖父母の家の八畳の部屋。昔は母が使っていたらしいのだが、母はこの小さな田舎町を嫌っていて帰っては来ない。職場はここから歩いて五分だし、一人暮らしをするようなアパートなど、こんな小さな町にありはしないのだ。
私は荷物を置くと、押し入れから引っ張り出してきた、当時の日記を読み返す。
高校生の頃この町に来たのは……そうだ、あの夏、一番の暑さの日だった。
※※※※※※※※※
一日目
暑い。
それ以外に言うべきことがない。
私は、今日田舎の祖父母の家に泊まりに来た。
母の実家である祖父母の家は、日本で一番人口が少ない県の、更に人口が少ない町にある。はっきりいって、ただの田舎だ。かろうじて電車やバスは通っているが、買い物をする場所といえば歩いていける距離に小さいスーパーとコンビニが一つ。買い物するにも不便で仕方がない。本屋もないし、特に外食するところがあるわけでもない。
山だからと祖父母はよく言うが、山のわりには暑い。そう言うと、「上のほうの集落は少し気温も低いけど、ここは盆地だからねえ」と笑っていった。冗談じゃない!山なのに暑いとか詐欺だ。
まあ、いい。とにかく、私は夏休みの最初の日である今日、この田舎にやって来た。そして日々、日記を書かないといけないのだ。それが母との約束だから。
私は気管支が弱く、今年の夏休み一杯は、祖父母の家で養生しなくてはならないのだ。私が暮らしている街は都会で、交通量も多く、車の排気ガスのせいでしょっちゅう咳や熱が出るからだ。体の為に、と母と父が祖父母に私を託したのである。母は私がこの町に来ることをひどく嫌がっていたが、父の実家はさらに都会にあるし、ここしか当てがなかったのだから仕方がない。とにかく、体調を崩しがちな夏の間だけでも静養させようという父に説得されて母もしぶしぶ納得したのである。ただし、毎日日記はつけるようにと心配性の母には約束させられたのだ。
にしても、こんな田舎町での楽しみなんて、夏祭りくらいだ。日記に毎日書くことなんて「特に変わりなし」くらいしかないような気がする。
夏祭りだけは、近隣でも割りと有名で、県の内外からも結構人が集まる。ここ七年ほどは、私は来ることもなかったが、今年は久しぶりということもあって、少し楽しみだ。……他に楽しみが全くないというのもあるだろうが。
祖父母の家に着いた私は、荷物の整理をすると、夕方までごろごろ昼寝をし、日がかげって少し涼しくなってきた頃に、ちょっとだけ、散歩に出ることにしたのだった。
家の近くに、少し変わった木がある。季節ごとに色が変わり、一年間で七色に変わるのだ。といって、年間を通していたことがないので、実は全部見たことがないのだが。
ともあれ、せっかくなので散歩がてら見に行ってみる。
「く、運動不足がたたるわ」
はっきり言おう。私は運動は苦手だ!
いや、別に出来ないわけではないよ?あえてしようと思わないだけで。……出来ない言い訳ではないですよ?
誰にともなく言い訳している間に、到着した。……が、うん、田んぼしかない。
いや、別に何を期待していたわけではないよ?でも、廃校になった小学校と田んぼと山と例の木……。
「ん?」
いつまでも眺めていても仕方がないので、来た道をもどろうとしたとき、なにかが視界の隅を通りすぎた。
「なんだろ、うさぎ、とか?」
気になって、もう一度辺りを見回す。
さっと、視界の隅をやはりなにかが通りすぎた。が、速くてよくわからなかった。小動物っぽかった気はするが。
なんとなく畦道を通り、七色に変化するという木の元にたどり着いた。
「草ぼうぼうだなあ」
足元が悪いにもほどがある。この町で他にたいした売りなんてないんだからせめてもう少しきれいにして人が見に来やすいようにすればいいのに。木が好きな人とか来るかもしれないよ?……いるかな、そんな人。
とはいえ、まるで、衣を着替えるように、纏う色を変える木。着飾って、恋人を待つ女性のようだと思う。これが風流ってやつか。
見上げれば、赤い色を纏った木。これが今の色、ということらしい。
「赤なんだ」
なんだか少し怖い。なぜそんなことを思ったのかよくわからない。が、なんとなく、逃げたいようなもっと見ていたいような不思議な気分。
「なに考えてんだろ、帰ろ」
変な考えを振り切るように首をふり、家に帰るために振り向いたその時、私はソレに出会った。
今まで生きてきたなかで、一度も見たことも聞いたこともない、不思議な生き物。
ソレは私を見上げて驚いた顔をしたあと、ニヤリと笑って言った。
「はじめまして、だな。かつての約束を果たすときがきたのだな、樹」
厳かに、けれど口調に似合わぬ甲高い声でそう言ったソレは一見すると、大きなビー玉に見えた。
透き通った赤く美しいビー玉。だが、よくよく見ると、細い手足が生えている。細すぎてビー玉的胴体が支えきれないのか、足はあるのに立っているわけではない。
「って、気持ち悪!」
「失礼だな、樹」
一体どうやって私のことを認識しているのか。目とか口とか耳とかあるようには見えないんだけど。あとなんで私の名前知ってるのかな。これが妖怪ってやつか。気持ち悪いにもほどがある。
「ふふふふふふふ、この可愛い外見に惑わされてボクを侮ったら痛い目見るよ?」
いきなり口調が変わった。甲高い声に見合う、子どものような喋り口調。挨拶の時の厳かな口調は何だったんだ?
「もちろん初めての挨拶だからちょっと気張ってみたのさ。今の方が話しやすいし、それにかわいいだろ」
「いやいや、可愛くないから。むしろ気持ち悪いから。存在すること自体どうかと思うね」
これはちょっと生物学的にどうかと思うよね。でも妖怪って生物なのか?解剖してみたいような気も……。
「な、なんか変なこと考えてるだろ」
鋭い。ビー玉のくせに。
「気のせいだよ。で、なんなの、あんた。ようかい?お化け?ただのしゃべるビー玉?」
用がないなら帰るわ、と踵を返すと、待って待ってと引き留める声が。待つのはいやだが、このまま帰って呪われでもしたら困るなあ。なんせ相手は妖怪もどき。何があるか全く予想がつかないところがすごく嫌。
「ええ~それはそれで酷くない?」
呪ったりはしないよう、と言われたが分かるものか。
「酷くない。で、もう一度聞くけどなんなの、あんた」
あんまり聞きたくはなかったが、仕方なく聞いてみる。謎生物?を謎のままにしておくのは、気持ち悪いし。……またもや先ほどと同じ疑問が脳裏をよぎる。そもそも生き物なのか、これ。ぐるぐる思考が堂々巡りをしていると、ビー玉が足元に転がってきた。移動手段が転がることって、足ある意味なくないか?
「今何か失礼なこと考えてた?」
さっきもそうだが意外と鋭いな、ビー玉。もしやこれが妖怪の……。
「気のせいだよ」
「……そうかな~。あ、ボクの名前はハンだよ!三人兄弟の真ん中さ!兄貴はタマ、弟はアラタっていうんだ。近いうちに紹介するよ」
突っ込みどころが多過ぎてどこから突っ込んでいいのかわからない。どうしよう。
選択肢その一、見なかったふりをして無視して帰る
選択肢その二、写真を撮って新聞社に送ってみる
選択肢その三、捕まえてサーカスに売ってみる
選択肢その四、友達になる
どれが一番ベストな選択だろうか?
とりあえず、四は無しだな、と思った私の考えが読めたかのようなタイミングで、ビー玉、もといハンが「友達になってよ」と言ってきた。
一番始めに消した選択肢デスヨ。嫌です。
いやいや、考えてもみてほしい。夏休み初日に出来た友達一号がビー玉とかどう?ペットでもちょっとやだ。
というわけで、丁重にお断りさせていただきます。
その夜、私は部屋の座卓に向かってノートを開き、頭を悩ませていた。
まだ、この町について1日目なのに、日記に書くことが多過ぎてどうしよう。腱鞘炎になりそうだ。三日坊主どころか、1日目にしてくじけそうである。
散歩に出ただけなのに、どっと疲れた私は家に帰ってくるなり、部屋にとじ込もってごろごろしていたのだが、母との約束を思い出して仕方がなく座卓に向かったのである。だが妖怪と出会ったとか、書きづらいなあ。
「ついてきたし」
その自室の隅にビー玉もどき。まさかの謎生物(?)との同居。さらにどうしよう。
「あ、そうだ!」
私は部屋を出て、祖父母の元へ向かった。
「どうした、樹」
勢いよく障子を開けて入ってきた私に、祖父母が目をまるくしているが、気にしない。
「ちょっと聞きたいことがあるの」
「なんだい?」
お婆ちゃんが座布団に座りな、といいながら優しく聞いてくれる。
「あのね、この辺りにお祓いのできる神社ってないかな?」
「お祓い?」
突然お祓いとか言い出した孫に戸惑っているのが、手に取るようにわかる。
「えっと、ほら。私気管支弱くて今年の夏はここで過ごすことになったでしょ?去年まではそこまで酷くなかったし。去年と今年で何が違うのかな~、って。それでものはためしにお祓いでもどうかと思ったんだけど」
立て板に水の如く、適当なことを並べてみる。いや、まさか言えないでしょ。ビー玉もどきの謎生物にとりつかれたからお祓いしてもらいたいとか。いい思いつきだと思ったんだけど、焦って理由まで考えるの忘れてたわ。
「そうだな。まあ、お祓い出来るかどうかはわからんが、一度行ってみるのはええことだ。神さんも詣られて嫌な気はせんじゃろ」
「そうねえ。だったらおじいさん、ほら、町の神社がいいんじゃないかしら」
「おお、そうだな。あそこには大きくて見事な樹もある。行ってみる価値はあるぞ。向かいにはお寺もあるからな。ついでにそっちにも顔を出して来るといい」
「神社の向かいにお寺?」
変な立地。首を傾げた私はしかし、お祓いどころではなくなることを、当然この時はまだ、知るよしもない。
電車で一駅。町といっても、この小さな町の中の一番大きな集落というだけ。それでも、町で一番栄えている場所には違いない。
明日行くところも決まったし、私はその夜、適当に物語仕立てにして日記を書くと清々しい気分で眠りについたのだった。
小さなこの町には、数えきれないほどの秘密が眠っていたことに、私は1日目で気付けるはずもなく。ビー玉もどきを退治することで頭が一杯だった私は、けれどこの夏、更に厄介かつ謎の事態に直面するハメになるのだった。
夏はまだ、始まったばかりである。