基礎魔法と実情
「みんなぁ~いっしょに基本の魔法をマスターしていきましょうねぇ~? えいえい、おぅ~ですよぉ~?」
教壇に立った若い女教師がブルンブルンと大きな胸を揺らしてそう言った。
実技演習の授業を終えた俺は現在、ルドルフと別れて待ちに待った基礎魔法の講義を受けていた。
いたのだが……。
「ふふふん? 先生ねぇ。今日はお化粧の乗りがすっごくよかったのぉ~。だからみんなもぉ、今日はきっと魔法が上手くいくよぅ?」
お、おう……。
なんというか、ケツがむず痒くなる喋り方をする教員だな。
ゆったりとした服を着ているのにその大きさが尋常でないことがはっきりわかるバスト、ケツがデカいくせにぎゅっと締まったウエスト。
これが人間の世界で信仰の対象になっている『ないすばでぃ』ってやつか。
彼女の金髪は手入れが行き届いているのが一目でわかる艶を放っており、毛先は丹念に巻かれて細部までばっちりセットされている。
化粧発言といい、彼女は身だしなみに相当気を遣っているようだ。
女教師は胸部の膨らみを強調するような前傾姿勢で人差し指を立てると、
「じゃあ~みんなぁ? 教科書の14ページを開いてねぇ? うふふぅ~」
キランッ☆とウィンクをしてきた。
……まあ、なんでもいいさ。
魔法の呪文を教えてくれるなら。
だけど、俺はちょっとだけ、ちょっとだけなのか?
とにかく、先行きを不安に感じた。
そしてそれは現実のものとなる。
基礎魔法の授業は本校舎の僻地、地下の用具室と並んだ廊下の一室にあった。
教室の床は掃除がされていないのか、埃がところどころに積もっており、室内には古そうな箒や杖、長らく使われてなさそうな魔道具の類が転がっていた。
ひょっとして、ここは物置部屋をちょっと整理して机を置いただけではないのか?
間違いなくそうだろう。
……どうなってんだこれは。
――チュウチュウッ!
あ、ネズミが壁の穴から出てった!
錬金術師学の教室とエライ差があるな、オイ。
「じゃ~あぁ? 今から、せんせぇがぁ? 黒板に魔法の呪文を書いていくからねぇ? みんな、頑張って書き写していこぉ~!」
若い女教師はそう言って黒板の方を向いた。
そして、片手を腰に当てケツを左右にブリブリ激しく揺らしながら板書を始めた。
……な、なんだあのグネグネした動作は!?
あれは魔法の起動に必要な儀式なのかッ!?
「ふふぅん♪ ふうぅふうん~ははんっ~んん~♪ んふふぅん~っ☆」
鼻歌を歌い、とっ散らかった間隔で黒板に呪文を書き連ねていく女教師。
揺れるケツ。不規則な音程で奏でられる鼻歌。
なんだか不安になるミミズが這ったような字。
眩暈がしそうだった。
耐えられねえよ……。
だが、俺は頑張ってノートに呪文を書き写していった。
何を捨て置いてでも逃げ出したい心境に駆られたが、それではエルフ里の二の舞だ。
今度は真面目に勉強するんだと自分に言い聞かせて必死で机にしがみついた。
まあ、他人に金を出させてるわけだしな……。
黒板の左半分を埋めるくらいまで呪文を書いた頃だろうか。
女教師が突然、ピタリと板書の手を止めた。
そして、
「あぁ~! 間違えたぁ~」
ザサァー。
長らく時間をかけて書いた黒板の文字は、初めの三分の一を残してすべて消された。
…………!?
一瞬、俺は何が起きたのかわからなかった。
「ううんと? ここから違うのねぇ~? ふふぅん? ふうぅん! うふん♪ はぅん~♪」
女教師は何事もなかったように続きを書き始める。
再び鼻歌を歌いながら……。
――なんだと?
俺は唖然とした。
手に僅かな筋肉の痛みを覚えながら細々書き込んだノートの文字。
これは果たしてなんだったのだ?
「な、なあ。あの教師は大丈夫なのか?」
不安になった俺は隣に座っていた茶髪の男子生徒に小声で訊ねた。
男子生徒は俺から話しかけられたことに驚いた感じを見せたが、すぐに表情を改め、
「うん、大丈夫じゃないよ」
当然のようにそう言った。
まるで『それがどうしたの?』と、ばかりに落ち着いた態度である。
…………!?
こいつは賢者なのか?
里にいる数千年生きた長寿エルフと同等の達観ぶりだぞ。
周りを見渡してみると、教室にいる俺を除いた十数人の生徒たちは特に動揺した様子もなく新しいページに呪文を書き直していた。
俺が異端なのか?
彼らにとって頑張って書いたノートの手間や労力は取るに足らないことなのか?
強すぎる……。これが勉強をするということ……なんと恐ろしい……。
俺は体の震えが止まらなくなった。
――ふぅん~ふぅん♪
女教師の下手くそな鼻歌。
――カリカリカリ……
無表情の生徒たちが板書を書き写すペンの音。
「ああっ、ここからまた違ってたぁ~!? うへへぇ? みんなごめぇん?」
ザサァー。
――カリカリカリ……
これは狂気だ……。
狂気の祭典だ。
俺はとんでもない魔境に入り込んでしまったのだ……。
授業終了の鐘が鳴った。
それは俺にとって福音だった。
やっと救われた……。
「じゃあ、みんなぁ~? 今日ノートにとった呪文とやり方でぇ、自分なりによく分析してぇ、いろいろ試してみてねぇ? わからないことがあったらぁ、いつでも講師室まで質問にきていいからねぇ~?」
大旋風超音波を撒き散らし、若い女教師は教室を出て行った。
「ふっ……」
俺は真っ白になっていた。
腰かけた椅子に深くもたれかかり、虚ろな目をして天井を見上げる。
「大丈夫かい?」
授業中、隣に座っていた茶髪の男子生徒が心配そうに声をかけてきた。
彼はなぜこんなに平然としていられるんだ……。
他の生徒たちも次々と別の教室へ向かう準備を進めている。
こいつら最強かよ。
「なあ、この授業はいつもあんなサイコ……いや、あんな感じなのか?」
「そうだよ。基礎魔法の授業は普段からこんな感じだよ」
俺がたまらず訊いてみると、男子生徒はあっさりそう答えた。
「それで魔法は覚えられるのか?」
正直、途中から意識を保っているので精一杯だったんだけど……。
「まあ、覚えられる人はすぐに覚えてこの教室を出て行くよ。いつまでも基本を習得できない僕らが落ちこぼれなだけなのさ……」
男子生徒が諦観の入り混じった言葉を吐くと――
「ちょっと、ポーン! 何言ってんのよ! あんな授業で魔法が使えるようになるわけないじゃない! あのクソ女ったら『がんばれぇ?』とか、『次はできるよぅ!』とか、そんなことしか言わないのよ!? 板書はぐちゃぐちゃで見にくいし! あれでどうしろってのよ!」
教室に残っていたツインテールの少女が怒鳴り声を上げた。
「そもそも出てったやつなんて去年は二人しかいなかったじゃない! あいつらはたまたま魔力の使い方のコツを掴めただけで、あの女が何か教えたわけじゃないでしょ!?」
魔力の使い方のコツ……? 彼女は何の話をしているんだ?
「ええと、魔法って呪文を覚えれば使えるようになるんじゃないのか? 一体、何の話をしているんだ?」
俺が言うと、教室の温度がガクっと下がった。
「エルフはそうかもしれないね。だけど人間はそうはいかないんだよ」
「どういうことだ? ここに入学してるなら、魔力はあったんだろ? なんで呪文を覚えてもダメなんだ?」
茶髪の男子生徒……ポーンとか呼ばれていたか? が陰りのある表情で答えた。
「確かに僕らには魔力はあるよ。けど、それをどうやって使えばいいのかわからないんだ。魔力を身体に流して魔法に変換する練習は小さい頃からやらなくちゃいけないらしくてね。そのほうが身につきやすいっていうんだけど……田舎の農村で育ってきた僕らはそんな教育を受けてるわけがない。だから、こうやって基礎魔法の授業で遅れを取り戻そうとしてるんだ」
へえ、人間が魔法を使うには魔力だけではなく、それを使うための訓練も必要だったのか。
知らなかった。
「貴族や金持ちの子供はすでにその訓練を終えた状態で入学してくる。生徒のほとんどは貴族だし、授業のカリキュラムはそいつらに合わせて組まれてるから、僕らみたいに学園でイチから学ぼうとする平民は普通にやってたらついていけないんだ」
ポーン曰く、それについていけるよう指導するのが基礎魔法の授業だった。
しかし――
「実際に授業を担当するのはあんな感じのどうしようもない教師ばかりなんだよ。まともな教師は平民しかとらない授業なんか引き受けないのさ。あの人たちは自分の研究の合間に授業をやってるだけだから」
うわぁ……。
「自分の研究に関係がないうえ、貴族や金持ちと繋がりが持てない基礎魔法なんて時間の無駄としか考えてない。だから基礎魔法に回されるのは新人か、ろくでもない窓際の教師だけ。学園では魔法を基礎から教えてくれるって聞いてたのに実情は大違いだったよ……」
そういやテックアート家でも似たような話を聞いた気がする。
あれは人種差別についてだったか?
まあ、建前と現実が違うってのは一緒だな。
「基礎を覚えないと他の授業でもついていけないから仕方なく受けてるけど、正直、基礎魔法を取ってるだけでこの学園じゃいい笑い者なんだ。いつまでも魔法が使えない落ちこぼれだってね……」
「それじゃ平民から入学してきた生徒は誰も魔法を覚えられないのか?」
話を聞いてると、どうもそういうふうに感じられる。
しかし、ポーンは首を横に振った。
「いや、さっきも言ったけど、自分で魔力の使い方を覚えてこの授業を卒業していく人も僅かだけどいるよ。だからこそ、僕らが余計に出来損ない扱いされるんだけど」
「アタシだって、本当はこんな授業出たくないわよ! なによ、あのクソビッチ! 化粧塗りたくって! 香水臭いのよ!」
ツインテの少女が怒りを爆発させて怒鳴った。
「ええ、そうかなぁ。あの先生、美人だし、いい匂いすると思うけど……」
小太りの男子生徒が空気を読まずに言う。
「はぁっ!? ざけんなこのデブ!」
「ごめんなさい! 嘘です!」
――ともかく。
この学園では平民が打ち上がるのは相当難易度が高いことらしい。
「ここで基礎を覚えないと他の授業の単位も満足に取れないし、いつか芽が出るかしれないと思って耐えるしかないんだ」
それでもほとんどの平民出身者は最後まで魔法の扱いを覚えられず、志半ばで学校を去っていくらしい。
基礎魔法が使えるようになっても前途は多難だという。
卒業後を見据えるなら貴族に取り入って顔と名前を覚えてもらい、仕官先を融通してもらうか、その必要がないくらい学業面で優秀な結果を出さなくてはならないのだ。
基礎魔法を取っている生徒の多くは地元のカンパで莫大な学費を捻出しているそうで、大抵の平民はそれぞれの故郷で希望の星として送り出されて学園に来ているという。
貴族なら卒業資格だけで十分な箔になるが、実利を出す必要がある平民は違う。
魔道士はその才能の希少性から当たればデカい職業で、上手くいけば平民出身ではありえない出世も夢じゃない。
だが魔法を扱えず、途中で退学すればまったくの無意味。
高額なそれまでの学費をドブに捨てただけで終わる。
魔法を使えるようになり、普通に卒業できれば食うには困らないが、それだけだと学費に見合った費用対効果とは言えない。
そりゃ亡霊みたいな表情で勉強に打ち込むわけだ。
絶対に成功して帰らないと周りに合わせる顔がないもんな。
あのげっそりとしながら本を持ち歩いていた連中はそういうことだったのか。
「モフッ……ホフッ……ねえ、君ってエルフでしょ? クチャ……どうしてこんな授業に出てるの? そもそも……クチャァ。なんで人間の学校に通ってんの?」
小太りの男子が懐から出したバナナを食べながら訊いてきた。
咀嚼音が汚ねえよ。
「俺は基本的な呪文を覚えてないから改めて学ぼうと思ってな。里にはしきたりでしばらく帰れないし、知り合いの伝手もあったからちょうどいいかなって」
「そっか……単純に呪文を覚えてないだけならおれたちとは違うんだね……。ムチャムチャ……おれたちは呪文を覚えてても使えないからさ……ゴクン」
小太りの男子生徒の咀嚼音が悲しく響く。
彼らの表情を見て俺も引きずられて気分が沈んだ。
なんと声をかけてやればいいのかわからず、そのまま微妙な空気で俺たちは解散した。
故郷の期待を背負って学園の門を叩いても満足に学ぶ機会すら得られない。
能力に差があるのは仕方ないかもしれないが、努力することもできない環境というのは如何なものだろう?
なあ、ディオス氏。それは果たして『美しい』と言えるのか?
そこはかとなく疑問に思った。
すべての授業が終わり、夕方。
俺は寮に帰った。
俺は授業初日で感じたことをメイドさんに話していた。
「貴族や富裕層の学生たちは入学金の他に莫大な寄付金も納めていますからね……。生徒の割合的にもカリキュラムを彼らに合わせことになるのは仕方ないと思います。教師たちも研究で結果を出せなければ自分の進退に関わりますし、負担を増やすような安請け合いはできないのでしょう」
メイドさんは難しそうに言葉を選び、そう言った。
基礎魔法が必要な生徒は全校のなかでは極少数。
そこに合わせて授業の進行レベルを落とすのは確かに道理が通らない。
けど、教師のレベルくらいどうにかしてやってもいいんじゃないかと思うんだが。
あれはさすがに酷すぎんだろ。
あの女教師の不安になる鼻歌が脳内で今も反響している。
けど、教師たちにも生活があるってのを持ち出されると強くは言えんし……。
「ところでリュキアは?」
いろんな意味で頭が痛くなってきたので幼女を話題に出して気分転換。
姿が見えないがどこにいったのだろう。
「リュキアさんなら、友達を探しに行くと言って出かけていきましたよ」
「へえ、あいつ王都に知り合いがいたのか」
「一人にして大丈夫でしょうか? ……さすがに止める勇気はなかったので」
「まあ、俺と会うまでは一人でブラブラしてたみたいだし、問題ないだろ」
「ええ、そういうことじゃ……。いえ、なんでもないです」
中途半端に言い淀むメイドさん。
変なの。
翌日。
この日は午前中で授業が終わりだったので、俺は学園の敷地にある人気の少ない場所で来週の魔法実技に備えていた。
俺にはやるべきことがある。
だが、まずは行動しやすい環境を作ることも大事だろう
「フゥ――フ――ッ!」
腕立て伏せ、腹筋背筋。
それぞれいくつかのバリエーションを交えて五十回ずつ、五セットこなす。
俺がやるのは主に上半身のトレーニングだ。
下半身は特典のおかげで鍛えなくとも強靭だったからな。
「久しぶりだとちょっときついか……」
額の汗を拭いながら一呼吸。
ここまでできるように鍛えるのも、それなりに大変だったんだぜ?
けど、誰かを乗せるのに必要だったから頑張った。
誰も乗せることができないトラックはトラックじゃないからな。
発表では、下半身トレーニングも織り交ぜるか?
あのモヤシどもが悲鳴を上げるようなメニューをチョイスしてやろう。
真偽を確かめるために実践するやつらもいるかもしれないし。
フフフ、そいつらはきっとその過程でいい汗をたっぷり掻くだろう。
そうすることで体に溜まった膿を吐き出し、あの気取った笑みを止めるようになるはず。
そうだ、これは革命だ。
筋トレを普及させることで精神の健全化を図り、学園に蔓延する閉塞的な空気を打ち払う。
この改革は俺にしかできない。
ひょっとして俺はそのために学園に来たんじゃないか?
どうにもそんな気がしてならない。
俺は確信めいた何かを感じた。
……どれだけそれっぽい感じでスピーチできるかが肝だな。
「君はこんなところで何をしているのだよ?」
あまり実践してこなかった下半身のトレーニングに取り掛かろうとしたとき、後ろから突然声をかけられた。
振り向くと、そこにはピンクブロンドの少女が立っていた。
癖が強いのか、彼女の髪はそこまで長くないのに激しくうねって鳥の巣のようになっていた。
瓶底の眼鏡をかけ、サイズの合っていないダボダボしたローブを身に着けている。
うわ、袖の長さが余りまくって手が隠れてるじゃねえか……。
これは格好に関しては触れちゃいけない感じだな。
「ああ、来週の魔法実技で発表する内容を考えていたんだ」
俺が言うと、少女は訝しそうに眼鏡をくいっと上下させた。
「見たところ、身体を鍛えていたようにしか見えなかったのだよ?」
「それが俺の発表することだからな」
「……身体を鍛えることと、魔法がどう関係するというのだよ?」
「筋肉を万遍なく鍛えることで身体全体の代謝が促進され、同時に魔力の総量と魔法の出力を相対的に上昇させることが可能になる……そんな新発見の理論だ!」
なんとなく頭の中にまとめていた、なんちゃって理論を自信ありげに語る。
どうだっ? 信じたかコノヤロー!
とりあえずこの子で試してみよう。
「どうだ? 驚いたか?」
わくわくしながら訊いてみる。だが、少女の様子がどこかおかしい。
「なんとッ……! なるほど……そうか……! 筋肉か……! そっちのアプローチは考えたことがなかった! だがそうすれば……」
……え? なんかめっちゃブツブツ早口で言ってるんだけど、この子。やだ怖い。
「――ッ!?」
それは一瞬だった。
「君がとっている魔法実技は何曜日の何限目なのだよ!?」
まるで反応ができないほどの速度で彼女は俺に詰め寄ってきて、そう訊いてきた。
背がちっちゃいから胸のあたりで見上げるような感じなのに鼻息が顔に当たるすさまじさ。
どれだけ興奮してんだよ。
「え、えーと確か、火の曜日? とかの二時限目だったかな……」
「そうか……火の曜日の二時限目か! ううん、その理論! ぜひ楽しみに聞かせて頂こう……なのだよ?」
俺の回答を引き出すと彼女は満足そうに笑って俺の肩を叩き、すぐそばに建つ塔のなかに入り去って行った。
なんだったんだ……。
塔? なんか覚えがあるような?
うーん、思い出せないし気のせいか。




