41.暴風雨
イル・ソーレ宮殿の一室に、ヴァイオリンの音色が響いていた。さして上手くはないが、聞いていたくなるような柔らかな音色を響かせている。
「ずいぶんうまくなりましたね、ルーチェ姉上」
ルクレツィアがいる窓辺に近づいてきながら、ジェレミアが言った。今、この部屋にはルクレツィアの家族全員が勢ぞろいしていた。理由は簡単で、今日は外に出られないからだ。
ありえないほどの暴風雨だった。
強い、と言うより凶暴な風。風が強すぎて、窓枠どころか建物自体がギシギシ言っている。雨が窓にたたきつけられ、ガラスが割れてしまいそうだ。
そんな日に出かけるわけにもいかず、予定していた公務はすべて取りやめたらしい。結果、時間のできた王や王妃、王太子などもこのリビングに集まってきたのだ。
ルクレツィアはヴァイオリンの練習中だが、王妃をはじめそのほか姉妹たちは刺繍をしている。
「まあ、毎日弾き続けたら、多少はうまくなるわ」
ルクレツィアの苦笑気味の言葉に笑い、ジェレミアは窓に近づいた。
「すごい雨ですね……」
「雨と言うか、風もすごいけどね」
ヴァイオリンを置いて、ルクレツィアもジェレミアの隣に立って外を見た。雨風が強すぎであまり外が見えない。
並ぶと、ルクレツィアとジェレミアは同じくらいの背丈だった。ジェレミアが成長途中なのと、ルクレツィアが女性にしては背が高いせいだ。
「宮殿が、壊れたりしませんよね」
末っ子らしい心配に、ルクレツィアはくすっと笑った。
「大丈夫だよ。そもそも、王都は結界で護られているし、この宮殿はさらに強力な結界で護られてる」
実は、ラ・ルーナ城の方が強力な結界を施してあるのだが、それは彼の城の性質上、仕方のない話なのだ。
「それに、この宮殿はわたくしの魔法でもおおわれているから、めったなことでは壊れないわよ」
「え、ルーチェお姉様、そんなこともなされているのですか!?」
驚きをあらわにする可憐なその声は、セリフの後に「痛っ」と声をあげた。どうやら、刺繍用の針で指を刺してしまったらしい。王妃エミリアーナがあらあら、とフランチェスカの手を取る。
「血が出てきたわね。消毒しましょうか」
「ごめんなさい……」
フランチェスカがしょんぼりと言った。ルクレツィアは苦笑しながら、傷に消毒をされているフランチェスカに近づく。
「手を出して、フラン」
ルクレツィアは差し出された手を取り、治癒術をかけた。ルクレツィアはあまり治癒魔法は得意ではないのだが、いざと言う時のために覚えてはいる。
あっという間に治った傷を見て、フランチェスカが驚いたように目をしばたたかせた。しばらく自分の手を眺めてから言う。
「ありがとうございます」
ルクレツィアは妹を見て微笑んだ。今日もフランチェスカは愛らしい。
「魔法って便利ねぇ」
そして、そうのたまったオルテンシアは、今日も麗しい。しみじみとした口調で言う姉に、ルクレツィアは苦笑した。
「使い方を誤れば、とんでもないことになりますけど」
そう言って、ルクレツィアは窓の外を眺めているジェレミアの側に戻った。
「今日だけならいいけど、雨風がずっと続くと、不安定になるかもしれないわね」
「不安定? 何がですか?」
「何がって言われても困るけど、大気中の魔力とか」
「……私には理解できない分野ですね……」
「そうかもね」
ふふっと笑って、ルクレツィアはヴァイオリンを手に取った。しかし、それで音楽を奏でる前に、本を読んでいたアウグストに話しかけられる。
「実際の所、どうなのかな。これ以上雨が降り続けると、まずいと思う?」
「早急に手をうった方がいいか?」
アウグストに続き、家族の様子を見ながら書類を整理していた国王クレシェンツィオまで話に入ってきた。二人に問われたルクレツィアは少し困った表情になる。
「わたくし、魔法研究家ではないのですけど」
「でも、君は空間認識能力に優れているはずだろう?」
アウグストにそう言われ、ルクレツィアはむっと唇をひん曲げた。その通りだ。
「そうですね……すでに、水路から水もあふれていますし、このままでは洪水になるのでは? あと、いくつかの家はこの強風で一部が崩れてしまうかと」
もちろん、イル・ソーレ宮殿が壊れることはない。古くから張られている結界と、ルクレツィアの魔法、二重に護られているのだから。
「……そう言う物理的なことではなく、魔法的なことだ」
「……」
クレシェンツィオに容赦なく突っ込まれ、ルクレツィアは沈黙した。はぐらかされなかったか……。ルクレツィアはようよう口を開く。
「まずい、と思います。雨が降り続けば、水の気が強くなります。そうすると、対応するはずの火の気が弱くなる。魔力のバランスが崩れて、闇の力が濃くなるかと」
この世界は、バランスが保たれることによって存在できている。光と闇。陰と陽。水と火。風と土もそう。
一方が過ぎれば、一方が弱くなる。それは当然のこと。そうなると、バランスが悪くなる。天秤と同じだ。釣り合いが取れているのが望ましいのである。
思えば、炎の魔女であるヴェロニカが倒れたのは、この予兆だったのかもしれない。水の気が強くなりすぎて、ヴェロニカの体が負荷に耐えられなくなったのかもしれない。実際にはどうかわからないけど。
「雨は、自然に降ってきたものかな」
「たぶん……」
アウグストの問いに、ルクレツィアは自信なさげに答えた。
その時、窓の外で雷が落ちるのが見えた。間をおかずに轟音が鳴り響き、建物自体が少し揺れた。
「っと。だいぶ近くに落ちたね」
アウグストが冷静に言った。フランチェスカは怖かったのか涙ぐみ、エミリアーナにしがみついていた。オルテンシアも蒼ざめ、ジェレミアは窓の側から離れた。クレシェンツィオが立ち上がり、フランチェスカを慰めに行く。
「近くと言うか、宮殿の敷地内に落ちましたね」
「敷地内!? どこに落ちた」
「あ、いえ。結界にはじかれました」
あわてて立ち上がったクレシェンツィオはほっとして座り直した。ルクレツィアの言い方では、宮殿の敷地のどこかに落雷したかのような言いざまだった。実際には、宮殿の上に落ちたが、結界に阻まれて建物には到達しなかったのだ。
その後も、稲光が見られた。ルクレツィアは少し顔をしかめた。
「……気になるのは、この雷が自然発生的なものではないかもしれないと言うことです」
左手を腰に当て、右手び指で顎をつかみ、ルクレツィアは目を細めて窓の外を睨んだ。
ノックがあった。クレシェンツィオが「入れ」と声をかける。「失礼します」と頭を下げたのはカルメンだった。
「どうしたの?」
ルクレツィアがカルメンの方に歩いて行きながら尋ねる。カルメンはルクレツィアを見上げ、少し困った表情になる。
「それが……『夜明けの騎士団』の方から連絡がありまして。何やら、半狂乱の魔術師が暴れまわっているらしいのですが」
「わかった。今行くと伝えて」
もしかして、やけに大きな雷は、その半狂乱だと言う魔術師が落としたものなのだろうか。テレパシー能力を持つカルメンはこくりとうなずいた。
「そんなわけで、ちょっと行ってきます。あ、ヴァイオリンはわたくしの部屋に届けてくれると助かります」
では失礼します、とルクレツィアは微笑んでカルメンとともに出て行こうとしたが、またもアウグストの声がかかる。
「私も行こうか?」
「……」
ルクレツィアはまじまじとアウグストを見た。いや、彼は実際に優秀な魔法剣士であるのだ。だから、彼の発言は決して的外れなものではない。
だが、考えてほしいのだ。自分の立場を。
「……さすがのアルバ・ローザクローチェも、王太子を連れて行くことはできませんね」
そう切り返すと、アウグストは「それは残念」と肩をすくめた。半笑いのルクレツィアは、「がんばってくださいね!」というフランチェスカとジェレミアの声を背に受けながら、リビングを出たのだった。
速足で部屋に戻り、着替えながら状況を確認する。
「そんなに強い魔術師なの?」
「というか、今、暴風雨ですので、単純に人手が足りていないようです」
カルメンがそう答えると、リンダが顔をしかめた。
「姫様が出るまでもありませんのに。わたくしたちでも対処できると思いますわ」
リンダの言いように、ルクレツィアは苦笑した。ルクレツィアの侍女たちは、全員何らかの魔法を行使できる魔術師だ。しかし、それは戦闘向きではない。唯一戦闘系魔法を持っているのはこのリンダであるが、ルクレツィアは彼女を放り出すつもりはなかった。
「私が行くよ。リンダは何かあった時のために宮殿に残ってね」
「……仰せのままに」
憮然としながらもリンダは了承した。彼女の主君はルクレツィアだ。彼女の言うことには逆らえないのである。
カルメンに髪を編んでもらいながら、ヴェロニカが元気だったら、ルクレツィアが出ることにはならなかったのだろうか、とふと思う。そして、いや、と思う。それはない。
何故なら、ヴェロニカは炎の魔女。雨が降っているこの状況では、強い魔力を持つヴェロニカでも、力が半減してしまうだろう。ならば、最初からルクレツィアが出ることは決まっていたようなものだ。
髪を編んでもらい、結い上げてピンでとめる。風が強いので、髪が煽られないようにするためだ。マントもあおられるので羽織らない。
着替え終えたルクレツィアは、隠し通路を通って宮殿の外に出た。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ルクレツィアの魔法の効果範囲はかなり広いです。調べたことがないので不明と言うことにしていますが、王都を丸々呑み込めるほどの効果範囲を想定しています。
宮殿ひとつくらい、ちょろいですね。