ごほうびをひとつだけ
久保田様主催 クリスマス杯参加作品です。
「ふふ…いらっしゃい」
ベッドに身を横たえていた老婆は、来訪者に気付いて表情を緩めた。
老婆がゆっくりとした動作で起き上がるのに気付いて来訪者が慌てた足取りで駆けよる。
「いいのよ、大丈夫。…………ありがとう」
無言でなされようとした介助を老婆は1度断ったが、引き下がらなかった来訪者に結局甘える形で身体を起こすのを手伝ってもらった。ぺしぺしと老婆がベッドを叩き、離れようとした男をその場に引き止める。
少し間を置いた後にお礼を告げた老婆の表情に浮かんだのは苦笑で、間近で目にした男はすぐに視線を逸らしてみなかったふりをした。手を借りた事を老婆は少々気にしたのだ。
逸らした男の視線の先は下方へと向いており、ぺちりと額に小さな衝撃を受けて男は視線を上げた。
「こら。レディーの格好をまじまじと見るもんじゃないの」
男としてはそう言うつもりはなかったのだが、咎められた以上すぐにまた視線を下げるという事は出来なかった。代わりに視線は、凝視しても咎められないらしい老婆の顔に固定される。
みずみずしい肌にしわが浮かび、艶やかな黒髪から色が抜け、白く変わっても、吸い込まれそうな瞳の漆黒さは変わる事が無かった。
男の記憶にある若い頃の彼女の姿の面影はいくらも残っているが、昔と何一つ変わっていないと確信するのが瞳だった。
ただ、咄嗟に手が出る手癖の悪さは変わってくれてもいいのに、と男は内心思った。
不機嫌そうな老婆に、男は無言で着ていた上着を脱いで羽織らせる。
真っ赤な上着は老婆が羽織るには大きかったが、老婆は気にしていないようだった。寝間着が隠れた方が大切だったようで、不機嫌顔が笑顔に変わる。
昔は屈託のない笑顔だったのに、それが穏やかな笑顔に変わったのは彼女が子育てに四苦八苦し始めた頃の事で、今男に向けた笑顔も後者のものだった。
老いても女として、姿ばかり若い男を前に寝間着姿を晒すというのは矜恃に関わるらしかった。
その寝間着が卸したての真新しいものであっても、だ。もっとも、つい先ほどまで寝ていたせいでその寝間着にはシワがついていたが。
寝間着姿を面白く思っていない老婆の態度から察するに、真新しい寝間着を用意したのは家人なのだろう。
彼女が男について他者に話したのかと男は一瞬考えたが、それにしてはしているおしゃれのたかが知れていると思った。おそらく、毎年この日に彼女が普段より身を飾っている事を知っている誰かが気を効かせたのだろう。
男と老婆が対面している今は、真夜中というよりは明け方に近い。
さすがに昔のように「すっぴんで人に会うとか女としてないわ!」というこだわりを貫き通しはしないらしく。
真新しい寝間着だけが老婆唯一のおしゃれだった。
「帰ったらご褒美の一人クリスマスパーティー?」
クスクスと聞こえた笑い声に男は耽っていた思考から浮かび上がる。
「孫夫婦がひ孫連れてきたから昨夜はイブだったけどごちそうだったの。普段のクリスマスよりも豪華なくらい。残り物だけどキッチンの冷蔵庫にフライドチキンとロースビーフがあるわ。パントリーの方にもこのくらいの容器に入ったピクルスとか保存食があるから、持って行きなさい」
「家事は嫁さんに任せたんでしょ? 食べ物が無くなって、疑われて困るのはエリなのに」
男が苦笑すると、老婆――エリは澄ました声で答えた。
「構わないわ。いつも頑張って食事制限してるんだもの、咎められたらクリスマスくらいいいじゃないってふんぞり返ってやるから」
「エリを思っての食事制限なのに」
「わかってるわよ。言い訳じゃないの、言い訳」
長く病気とは無縁だった彼女も、老いた今では病院の常連となっていた。
――ちゅうしゃキライ! せんせーもかんごしさんもキライ! おくすりもダイッキライ!!
幼い頃、エリがまだ5歳になるかならないかの初めての出会いの時に、風邪の所為でクリスマスのごちそうが病人食になった事を泣きわめいていた姿が、男はひどく懐かしく感じた。
こっそりプレゼントを届けに来ただけなのに大泣きされ、他の人にばれないようにと必死にこっそり慰めたのは、もうずいぶんと昔の話だった。
まだ男がこの仕事を始めて間もなかった頃の話である。
手間がかかっている事は認めるが、味気ない制限食。
わざわざエリの分だけ別で作るのは嫁と言っても正しくは甥の嫁だ。亡くなった兄夫婦の代わりに女手一つで甥っ子を育てた彼女は今、不貞腐れた表情で感謝はしてるのよと本音をこぼしている。
我が子として育てた甥の結婚を誰よりも喜んだのはエリなのだ。
病気で世話をかけていると自覚しているらしいエリが何年か前に男に愚痴った食事制限の内容を思い出し、男は内心思った。
労力を厭わずにエリの面倒を見てくれるのは、エリが良好な嫁・姑関係を築いた結果なのだと。
「ごちそうは心惹かれるけど、やっぱりやめておくよ。それに帰ったら食べるよりも先に寝たいから」
エリにとっては単なる言い訳でしかない『隠れ食い』も、夜の内に他人が訪問して手土産に貰って行ったことを知らぬ甥の嫁にとってはそれが真実となる。
姑であるエリの為に手間をかけている嫁の立場からすれば、エリの言い訳は間違いなく面白いものではないだろう。
自分の為にエリが築いた関係に亀裂を入れるというのは、―――――たとえあとわずかな時間だとしてもしたくない。
「やあね。昔は数日徹夜するなんてどうってことないって言ってたくせに。外見変わらないのに、ちょっとジジ臭くなったんじゃない?」
男の言葉が余程面白かったらしく、エリは笑ったが、笑い声はすぐに咳き込む音へと変わった。
げほげほと繰り返す彼女の眦には、笑っていた時には無かった涙が浮かんでいる。
右手で口元を隠し、薬指に指輪の光る左手でぎゅっと毛布を握りしめて、苦しさに耐えようとしていたエリに、男は何も言えずに背を撫でた。ゆっくりと、優しく、労わりを込めた動作で。
男のその目は、毛布を握る彼女の左手と彼女の表情へ行ったり来たりを繰り返していた。
「弟子を、とったんだ」
「………………………………え?」
エリの咳が落ち着き、いつまでも背を撫で滑っていた男の手が止まった頃、男は呟いた。
言葉の意味を理解しかねたエリは、沈黙した後に疑問符を男に返すしかできなかった。
ぱちくりと目を見開いている間に男に左手を取られる。先程背を撫でてくれたのとは別の手で、もう一方の手は気付けばエリの腰に回されていた。
元々近かった距離が、男に引き寄せられてさらに近くなる。
「弟子をとったんだよ。これで後は弟子に任せて、晴れて引退だ」
呆けて開かれたままの瞳に、男の姿が映りこんでいた。
エリに見えているのと同じだろう男の顔。
その表情の緩み具合に男は内心笑う。
浮かれているのだ。
この上なく、この時が来た事を。
対してエリはとろとろと顔を下げた。
「そう…そうね」
どこか呆然として呟き、再び顔を上げた彼女は、くしゃりと笑った。拭ったはずの涙を眦に溜め、痛みを堪えるように空いていた右手が胸元の上着を握りしめる。
「じゃあ、もうこうやってあなたの仕事終わりに会うのはおしまいね、サンタさん」
先程、咳き込んでいた時よりも強く握りこんだ右手は白くなり、微かに震えていた。
「良い頃合いだわ。来年会えるかどうか、自信ないもの」
自分の命がもうごくわずかしか残っていない事を、エリは知っていた。
去年できた運動ともいえない運動が出来なくなったと分かっている事が一つの要因でもあったし、病院に通いだした頃に比べて何倍も増えた根治治療のための薬が、段階を経て症状を緩和する薬だけになった事も要因だった。少しずつ、けれども確実に、自分の身体が老い続けている事をエリ自身へと知らしめる。
歩いて病院へ通うなんてもはや『無謀な事』ですらなく『無理な事』だ。
足の代わりに車いすのタイヤが働いての移動は、腕力の無いエリには介助者の助けなしには5メートル移動するのももどかしくなっていた。
それでもベッドから身体を起こす位は何とか頑張っていたというのに、それも先程目の前に居る友人――サンタクロースの手を借りる事となってしまった。
勿論、サンタクロースに非があるわけじゃない。
エリは分かっていた。
彼は親切にしてくれただけであるのだと。
分かっていたのだが、悲しかったのだ。手助けが必要だと彼が感じる位に自分が老いた事が。
自分一人でできる事など――もはや数えられる程しか残っていなかった。
「えっと笑ってるって事は、あなたにとって引退は良い事なのよね? おめでとう、お勤めお疲れ様でした。…どうしてかしら、刑務所から出所した人に掛ける言葉みたいな感じがするわ…………ちょ、や、なにするのよっ」
真剣に祝いの言葉を考えていたエリは、掠めるように彼女の口を自らの口で塞いだサンタクロースに抗議した。囚われていた左手の開放を願いばたつかせ、右手は寝間着を眺めた時のように相手に一撃食らわせようとしたが、あっという間に捕らえられてしまった。
捕らえられた手がサンタクロースの片手で一つにまとめられる。
こんな風にされたのは、子供だった頃に彼にイタズラを働いて以来だった。
あの時は足だった。お仕置きとして宙づりにされたのだ。あの時はそれも遊びのようで面白く、きゃっきゃとエリがはしゃいだためにすぐに中断したが。
今は足ではなく手だが、こちらに非があった幼い頃とは状況が異なっていたエリは混乱する。
悪い事などしていないのに、なぜこんな事されるのか? と。
「俺の仕事、知ってる?」
「当たり前じゃない。私どころか世界の常識だもの」
拘束されたままのエリの左の手のひらに口づけが落とされ、はめたままだった薬指の指輪が彼によって抜き取られるのを混乱した状況のまま眺めていた。
「サンタクロース。クリスマスの夜に良い子にプレゼントを渡すのが仕事でしょ。ねぇ、指輪返してちょうだい」
「どうして? 未婚で子供育てるからなめられないようにするんだって自分で用意した偽装の指輪じゃないか」
「そうだけどそれなりに愛着あるの。引退するのが嬉しくてはしゃぎたいのかもしれないけど、おばあちゃん相手にからかうのは止めてちょうだい。体力ないんだから」
「君がおばあちゃんなら俺はおじいちゃんだよ。なんせ、君が子供の頃からサンタクロースとして働いてるんだから」
「何がおじいちゃんよ。初めて会った時からずっと姿変わんないクセに。サンタクロースが白髭白髪のおじいさんなんて嘘っぱち。金髪、碧眼の美成年なんてサンタのイメージぶち壊しもいいとこだわ」
「おほめに預かり光栄です」
「褒めてないわよ、バカ!」
寝ている家族を起こさないようにと、大声を出さないでいたエリだが、バカ、と一言言い切ったところで会話を止めた。
これ以上続けると言い合いになる――そう判断したからではない。
感情が少しばかり乱れた所為で、大してしたわけでもない会話でエリの息が上がってしまったからだった。
全力疾走したわけでもないのに肩で息を繰り返して身体を落ち着かせていると、サンタクロースに「横になって休む?」と尋ねられた。
声を出す気力が無かったので首を横に振って答えると、手を拘束されたまま彼の胸元に抱き寄せられた。
横にならないならもたれていた方が楽だろうという配慮らしく、実際座った状態とはいえ起きているのは少々辛かったので、エリは甘えさせてもらう事にした。寄りかかって身体の力を抜くと、少しばかり楽になる。
「こんなおばあちゃん抱きしめたってつまらないだろうに」
「だから、君がおばあちゃんなら俺はもっとおじいちゃんなんだって」
「年齢の問題じゃないのよ。見た目と体力の問題よ」
軽口をたたく余裕ができ、彼から身体を離そうとしたエリの身体は殆ど動かなかった。相手が拘束する力にエリの力が叶わないからだ。両手を拘束されていた状態でそうだったが、おそらく両手が自由であっても抜け出す事は出来なかっただろう。
「年寄りの力じゃない」
握力どれだけあるのよ、と続けて不満を口にするエリに、サンタクロースは抱きこんだまま額を合わせ、視線をあわせてきた。
「今季で引退だから、この姿はすぐに見納めになるよ。プレゼントを配らないサンタクロースに若者の体力は必要ない。金髪碧眼の『美成年』はもうおしまい。最後、記念に見とく? ご要望なら脱ごうか?」
「いらないわよ、バカ。上着返すから着なさい」
脱ごうかといわれて、エリはサンタクロースから上着を借りたままであったことを思い出した。彼はサンタクロースの象徴である赤い上着の下にも長袖の服を着ていたが、エリが寄りかかって気付いたそれは、薄地の防寒機能に乏しいものだった。基礎体温が高いからか、相手の身体が冷たいとは思わなかったし、毎年サンタクロースが来るおおよその時間を把握しているエリの室内は、タイマー設定されたエアコンが今も働いているためさほど寒いわけでは無いのだが。
「だーめ。まだ少し話があるから着てる。良いね?」
「話? って、なに?」
「引退するサンタへの褒賞について」
「褒賞…ってご褒美ってこと? 無報酬のボランティアじゃなかったの?」
エリは、目の前の美成年がサンタクロースである事。その仕事と、仕事ではあるのだが無給、そしてサンタクロースは神様とは違って人間である事を知っていた。目の前に居るサンタクロースが、長い年月の中で、少しだけ教えてくれた情報だった。
ただ、無給である事は本人は明かしたくない事だったようだったが。
少々特殊な経緯を経た人間がなれる職業で、賃金はないものの生活は保障されている。
人間ではあるものの、普通とは少々異なっており、その最たるものが不老だった。
足腰立たなくなった老人がプレゼントを配り歩くなど現実には無理がある。1年かけて少しずつ配り歩くというのならまだしも、日付指定で全世界同時配送と言うのだって若さでどうにかなるものではなく、地区を分けて幾人ものサンタが分担して行っているのである。
「特殊な経緯って?」
サンタ多人数説よりもエリが気になったのはその事だった。
目の前の男はエリの言葉に声を出さずに笑ったが、同時に泣きそうにも見えた。確かめようとする前に相手が顔をエリの首元へと寄せる。
ふわりと抱え上げられた感覚に悲鳴を上げ、いつの間にか解放されていたらしい両手を伸ばし、咄嗟に衣服をつかんだ。
サンタクロースの手から転がり落ちたらしいエリの指輪が、ベッドの上にころりと転がって止まる。
甥っ子を養子に迎える時に彼女自ら買った指輪は、特別高価なものではなかった。飾りも何もない銀色の輪っかは、それでも甥っ子と親子になった記念のもので、大切にしていたものだった。
手を伸ばして指輪を回収し、ホッと息を吐く。肌身離さずつけていた指輪は、エリにとって身体の一部といっても過言ではなかった。
「引退する時、サンタクロースは神様から一つだけ褒賞がもらえるんだ。勤続年数が増せば増すほどにより豪華な褒賞を願う事が出来る」
「勤続年数に応じてもらえる退職金が違うのと同じね」
そこから税金をがっぽり引かれるところが退職金は違うけど、とエリがこぼすと、首元に寄り添う熱が微かに震えた。
一笑いとれたようだ。
「サンタクロースは正しく言えば無報酬じゃないんだ。先払いで貰うからサンタクロースになれるんだよ。褒賞は餞別………ねぇ、エリ?」
ぴたりと首元にくっついていた熱源が離れた。温かいはずの室内の空気を、ひんやりと冷たく感じる。
「普通のサンタクロースの勤続年数って10年を超えないんだよ?」
「え?」
エリが一桁の年の頃から面識あったサンタクロースは、死期を間近にした老婆のエリを前にさらりと言葉を告げた。
「普通の人じゃなくなったサンタクロースは、引退した後そう長くは生きられない。貰える褒賞は来世への確約なんだ」
次の人生はもっと幸せになりたい。
どんなふうに幸せになりたいか、選べるのならば選びたいに決まっている。
―見目良く。
―賢く。
―地位や権力や財力を持ち。
―多才で。
―こことは違う世界を選択する事も。
勿論限度はある。
それでも、20年も働けば、特典とも呼ばれる選択肢のほぼ一通りを選べるのだ。
それなのに、実際にサンタクロースとなる者で、その勤続年数を超える者は極々僅かだった。
理由は―――サンタクロースとなった者は生きていても、社会的には死者であるからだった。
勿論、実際に死んだわけでは無い。
無いのだが、残してきた家族や友人・知人の記憶がサンタクロースとなった人間を死者として書き換えられるからである。そう言った間柄の人間には、サンタクロースとなった者の姿は二度と見えなくなる。
残された身内が悲しむ姿を目にして、この世に留まる事に堪えられなくなる者は意外と多かった。
そしてサンタクロース業が長続きしない理由の2つ目。
どれほど働いて特典を得ても、その恩恵を受けるのは自分自身ではないからだった。
そしてトドメ。
サンタクロースとなると衣食住は保障されるが、それはあくまで必要最低限という事である。賃金のもらえない生活は思いの外退屈だ。
サンタクロースになったからと言って聖人君子になるわけでは無く、趣味や嗜好は変わらない。お金のかからない趣味ならば暇も潰せるだろうが、そうでなければ年一の仕事以外する事もなく時間を潰さねばならない。
感覚として、自分が得をするわけでもないものなのに自己犠牲感がばかりが強い。
最初はサンタクロース業にやる気を持っていた者も、そう感じるようになるとあっさりと辞めていってしまうのだった。
神様は辞していくサンタクロースに後任がいてくれれば無理に引き止める事もしない。
「君が子供の頃に俺が好きだと言ったのは、まだ有効だったりするのかな?」
「………………ひ、人の黒歴史をこの期に及んで掘り起こすのっ」
じっと見つめるサンタクロースの前で、エリはしばらく固まった後、みるみる顔を赤らめていった。
今日彼が見た中で、一番血色の良い表情だった。
腿の上でもがきだしたエリを、拘束する力を強めて黙らせることはまだた易い。
それにしても黒歴史とは失礼な……などと内心思いながら、サンタクロースはエリを黙らせる行動を実行した。
今のエリの重さは子供の頃より少し重い位だった。
子供の頃は同じくらいの重さでも全体的にぷにぷにと肉がついていたというのに、今はどこもかしこも細くて、硬かった。浮き出た骨が当たる所為なのだろうが、硬い感触だからと言って多少強引にしようとは思えない。うっかり力を加え過ぎたら、脆くなった骨がぽっきり折れてしまいそうな気がして彼は恐ろしく感じた。
動けないせいですっかり落ちた筋肉も、そのせいで余って垂れた皮膚も、みずみずしさを失い、僅かな刺激でも傷ついてしまう脆い肌も、本来の色を失いつつある髪も、変わらない輝きを持っている瞳ですら、本当は老眼の所為で裸眼では遠くが見えづらくても。
サンタクロース―――男にとって、芽生えた思いは今なお変わらなかった。
男は分かっていた。
自分の後任となるサンタクロースを据えたことで、己の命が1年と持たない事を。
サンタクロースというものは、人であって、しかしやはり人でない。
大抵のサンタクロースは知らずに辞めてしまうのだが、過去に縁があった人々と会う事が叶わないのと同様に、同類以外の者を、新たに求めてはいけないという決まりもあったのだ。
いたずらに他人をこちらへとまきこんではならないという神様の定めた決まりによって。
クリスマスプレゼントを毎年届けるたびに、少しずつ大人になり、綺麗になっていく彼女を、男は過去、諦めたのだ。プレゼントを届ける年齢で無くなってしまっても、顔を見て、僅かばかりでも会話できる事だけを、その年に一度の逢瀬を楽しみにして、男は生きてきたのである。
転生した方が余程楽しい事にあふれていたに違いない。
だが、そこに間違いなく彼女はいないのだ。
転生した男の魂が彼女の事を覚えていなくなることも、男にとっては堪えられなかった。
「本物の指輪を貰うような相手をエリが探さなかったのは、俺が原因だと思っていい?」
「う………っ……………」
言葉を返さずに俯く彼女の手のひらに、男はもう一度口づけを落とした。
容姿の所為だろう。彼女は幼い頃から男の事を外国人だと信じていて、男の母国ではこのくらいが普通のスキンシップだと認識している節があった。
実際の所、男の外見は確かにこの国民の特徴を欠片も有していなかったが、育ちは彼女と同じ国である。この国の国民性からすれば多少スキンシップの多い家庭だった事は否定しないが、我が家の普通が世の中の常識とはずれている場合が多いらしいという自覚をしっかり持って育った男である。
友愛程度の気持ちを抱いて行っている行為ではなかった。
口づける場所がキスの格言に基づいている事も、エリは気付いてないだろうが。
男が、1つ決意をしてこの場に来た事も。
それによって、少なからず彼女から恨まれるだろうと男が思っている事も。
「こっ、困らせたって分かったから無かった事にしたのに!」
「困ったのは確かだけど、無かった事にされるのは…もっと困るよ。ねぇ、エリ。俺はもう、神様に褒賞を願い出てきたんだ。もう少し渋られるか説教されるかと思ったけど、拍子抜けするくらいあっさりした承諾してもらえたよ」
エリがこの男に告白をしたのは、子供と大人の丁度境目の時だった。
子供にプレゼントを贈るのが仕事のサンタクロースは子供のいない家には立ち入らない。
だからもう会えなくなる。
それを引き止める為にした告白だった。
エリにとっては一世一代の告白だったが、男はエリが初対面で大泣きした時と同じ表情を浮かべただけだったけれども。
好きとも嫌いとも言葉はもらえず、自分の告白はただ相手を困らせるだけだったらしいという事をエリは学んだ。
同時に、サンタクロースはもう来ないのだろうと理解していた。
だったのに、なぜか翌年のクリスマスも、仕事上がりの格好で男は会いに来た。
交わした会話は当たり障りのないものばかりで、でも確実に、一年前の事には触れなかった。
男が、サンタクロースになってから同業でさえも殆ど友達が居ないと呟いた事をエリは思い出して、察した。
男はエリを友達としてなら付き合ってくれるらしい、と。
だからエリは無かった事にしたのだ。
もうずっとずっと前の事だった。
それを今更掘り返すとは、男は随分と意地が悪い。
それなのに――
「恨まれる覚悟はしてきた。何が何でも、俺の転生にエリを連れてく」
出会った頃と変わらぬ若々しい姿を保つ男は、しわくちゃになり、今にも命の炎が消えてしまいそうな老婆に口づけてからはっきりと告げた。
「サンタクロースである限り、しがらみの所為でエリと一緒になる事は無理なんだ」
なぜそれを、彼は今更言うのだろう? と、老婆はぼんやりとそんな事を思った。
「思うだけじゃダメだったの?」
ため息をこぼした男に囁かれた結果、エリの顔はみるみる赤くなった。
血色が良いと片付けるには赤すぎて、羞恥からきているのが明らかなのだが、老婆である事を考えるとあんまり安心できない。
興奮して、そのままぽっくり逝ってしまいそうだと男が思うくらいだった。
「恨んでくれていいよ。でも、どうあっても俺は君を連れて行く。神様に承諾された以上、もう取り消しは不可だ」
――今までは満足に会う事も出来なかったから、今度はうんざりするくらい一緒に居よう。
日が昇り、晴れてサンタクロースでなくなった男の願いを神様はとても仕事が早かった。
くらりとめまいがして、意識がどこか遠くへと落ちていく。
座り込んでいたベッドに倒れ込んだのはエリも男も同時だったが、エリの瞳がまだ瞬きできる間に、男の身体は光に包まれて、消えた。
逝ったのだ、と分かった。そして自分もまた逝くのだ、と。
男の話を聞いたせいだろう、
迎える死を、怖いとは思わなかった。
男は消えてしまったのに、エリの身には彼から着せられた上着がまだ残っていた。その生地を、エリはただきゅっと握りしめる。最後の最後まで、男が傍に居てくれるような、そんな感じがした。
ねぇ、置いていかないで。――
「――――……」
微かに動いた唇は教わったばかりの男の名前を確かに紡ぎ、エリは穏やかな表情で神様から死を賜ったのだった。
キスの格言――――オーストリアの劇作家フランツ・グリルパルツァーの『接吻』の台詞です。
手の上なら尊敬のキス
額の上なら友情のキス
頬の上なら満足感のキス
唇の上なら愛情のキス
閉じた目の上なら憧憬のキス
掌の上なら懇願のキス
腕と首なら欲望のキス
さてそのほかは、みな狂気の沙汰
というものです。割とメジャーだと思うのですが参考までに。
閲覧ありがとうございました。