欠けた歯車.1
2.[欠けた歯車]
千代はわんわん泣いていた。花は心ここに在らずといった様子でずっとうつむいていた。二人とも母親の側を離れず。
千代はまだ状況が分かっていない。けれど花は充分理解している。その負った心の傷を心配した。側へ行き慰めてやりたいが、かける言葉を思い浮かばない。
奇兵の人達が亡骸をきれいに並べている。亡骸の手を胸の上で合わせて、仏様の姿勢をとらせて。米兵の死体は田に穴を掘りその中に投げ込んでいた。
笠を外した奇兵隊士達は、ほとんどが坊主頭か、いわゆるザンギリ頭で、髷を結っている人は数人しかいなかった。初代総督の高杉の影響かと思ったが、今は山中戦の只中、本当の理由はそんな処かも知れない。
今、俺の傷の手当てをしてくれている少年兵もザンギリ頭。一四・五歳。整っていると言うよりも、愛嬌のある顔。素直な目をしていた。ただ、手当と言っても出来ることはほとんどない。
「ああ。これはひどいですね。何日か食事が大変でしょうけど我慢して下さい」
奥歯が砕かれた時に裂けた頬の内側は、どうにも手当てしようがない。水をくれた。口に含むとしみた。軽く口中をゆすいで吐き出した。
「この綿花を噛んでいて下さい。折れた歯で。血が止まるまで」綿花をくれた。綿花を口に入れると、今度は軟膏を出して瞼の傷に塗ってくれた。
「ありがとう」礼を言って名前を聞こうとしたら軍監の山縣が側に来た。
「痛むか」
「大丈夫です」綿花を噛み呂律が回らない。けれど聞きたいことがあった。
「千代と花は……、この後……」
「うむ。この下の集落の庄屋屋敷にあずけてゆこうと思っている。ここの遺体の片付けと供養も、下の集落に頼まねばな」
俺はこの上の集落も襲われていたことを伝えた。山縣は知っている様子だった。驚かなかった。
「そこの遺体も」
「むろん」
「花と千代は、荻窪翠華という士分の老人のお孫さんです。もとは藩校で教えたこともある儒学者だそうです」
「なんと。ならば捜せば親族の人もいるだろう。頼めば引き取ってくれるはず。けれど僕達は先を急がなければならない。とりあえず下の集落にあずけて、親戚が見つかれば、後からむかえを遣ろう」
「先を……?」僕達、山縣のその言葉が、隊士達ではなく山縣と俺を指しているように感じた。訝しく感じたが続く言葉でその通りと知った。けれど。
「伊藤らは幕軍との戦闘に戻るが、君は僕と一緒に下関へ行く。君は重要な証人だ。証言を頼む」
「え?」
分からない様子の俺に、山縣は「なんだ。やっぱりか」と笑った。山縣には既に戦で頭を打って記憶が曖昧だと伝えてある。彼は俺が理解できるように順を追って話してくれた。
「彦島を占領した米兵は精鋭部隊だった。敵を褒めるのも癪だがな。しかし故に、軍規もしっかりしていた。が、彼らが引き上げた後、入れ違いに来た治安部隊はならず者ばかりだ。ばかりとは言わぬが、不心得者が多くいる。君もこの上の集落で、そしてここで見ただろう。山間部の集落を襲い、住民を皆殺しにし、金品を強奪し、婦女子を乱暴し殺す。高杉公が米軍本部に抗議しても証拠を出せの一点張りだった。業を煮やしていた。何しろ生き残りが一人もいないのだから。故に今回、彦島を出立した米兵の一群を尾行してこの惨劇をつきとめた。さらに幸運なことに君がいた。君はまさか証言を拒むまい? 君には高杉に同行してもらう。米提督に断固抗議する」
驚きの内容だった。俺があの高杉晋作と一緒に米軍の司令官に直談判ねじ込むという。
「俺が……。僕にできるでしょうか……?」
山縣は、後ろを目で指した。母親の側でうずくまり泣いている花と千代の姿を指して言った。「あの子らに証言させるか?」
「やります」
「うむ」満足げに頷いた山縣。
しかしここでわきおこった新たな疑問。
「尾行していたならなぜ……」なぜこの惨劇を未然に防げなかったのか。
俺の顔色から俺が何を考えているのか気付いたらしく、山縣は眉をしかめた。しかし山縣が口を開くより先に、傷の手当てをしてくれた少年兵が説明した。
「あのねえ。尾行って言っても、こんな大勢で尾行できるわけないでしょ。僕が変装して、下関からここまで尾行したんだよ。怪しまれないように、途中で他の人と入れ替わったりしながらね。で、この集落に来て人を集めはじめた時、絶対にやると思って知らせに走ったんだ。一番近くにいたこの部隊に。僕達は三つに分かれて潜んでいたんだ」
山縣が補足した。
「うむ。奴らがどの辺りで蛮行に及ぶか、予測ができなかったからな。第一銃兵隊を三つに分散してこの一帯に潜ませていた」
「そうだったのですか……」疑問が氷解した。と、同時に安堵した。俺がこの村に立ち寄ったせいで、この村が襲われたわけではないことを知り。ずっと罪悪感に責め苛まれていた。
「証言します。させて下さい」米提督に抗議したい。罵りたい。しかもあの高杉晋作に会える――。だが。
「今は戦時ですがどうやって会談を申し出るのですか?」それは、容易とは思えなかった。
「うむ。戦時と言っても、徳川政権との戦争中であり、米軍とは休戦協定を結んでいる。とはいえ彦島に行けるわけもない。白石に頼む。白石から英国の通史アーネスト氏に頼んでもらい、英提督に席をもうけてもらう」
また登場した。名前が出た。下関の豪商白石正一郎。そしてもう一人。維新史を後世に正確に伝えた英国通史、アーネストサトウ。通史とは通訳のこと。候文まで読みこなしたというこの英国人は、貴重な見聞録を後世に残している。俺も卒論の資料調べで、この人の見聞録を何度も読んだ。
山縣は笑って言った。
「では、早々に出立しよう。それから、記憶を失い、慣れないだろうから教えてやるが、奇兵隊では、自分を『僕』と言い、相手を『君』と呼ぶ。まあ、慣れてくれ。高杉公が決められたことだ。何しろ結成当初、武士も町民も農民も混在で諍いたえなかったからな。自分をさげすみ、相手を尊び、こう呼び合う。奇兵隊の習わしだ」
そうだ。今では当たり前だけれど、君と僕という呼称は長州藩士が使っていて明治以降広まったもの。
更に愉快げに眉を上げて山縣。
「ところで記憶を失い、現在の奇兵隊総督が誰かも忘れてしまっているかな?」
初代総督の高杉はある事件の責任を取り引退した。奇兵隊は民兵であるため正規軍である藩兵と仲が悪かった。襲撃事件にまで発展した。その責任を取り高杉は身を引いた。今は誰か……、歴史通りなら赤根武人か……。
「此度の長州大難にあたり、再び高杉公が総督に返り咲かれた。心して仕えたまえ。江藤君」山縣は悪戯小僧のようにニッと笑った。
ある程度書きためてと思っていましたが、なかなか書きたまりません。一話だけ更新しました。