山中の村.5
ガラッと引き戸が引かれた。花と千代の母親だった。顔面蒼白で戻ってきた。
「早く。急いでお逃げください」
「え? 俺ですか」尋常ならざる事態みたいだが、何が起こったのか分からない。
荻窪老人が言った。
「奇兵検めか」
「はい」母親は答え、俺に言った。「あなた様が見つかっては私達まで殺されてしまいます。どうか早くお逃げください」
「わ、分かりました」
事情が理解できた。浮き足だった俺に荻窪老人は言った。
「山を下り南へ行きなさい。さすれば下関に着く。小倉屋の白石を訪ねなさい。白石は知っておろう」
知っていた。幕末の勤王商人白石正一郎。下関の小倉屋主。高杉晋作の支援者。
「急ぎなさい」
「は、はい。ありがとうございました」礼もそこそこに、俺は土間に飛び降りた。ブーツを引っかけた。紐も結ばなかった。急がなければこの人たちに難が及ぶ。引き戸を引いてふり返った。怯えている花と千代の顔が目に入った。この子たちを危険な目に遭わせたくない。
俺は荻窪家の人々に深々と頭をさげ、そして踵を返すやいなや脱兎の如く駆けだした。
道へは向かわなかった。庭から家の裏に廻りこみ、そのまま竹藪の中に飛び込んだ。急斜面を駆け上がった。ブーツの中でガポガポと足が泳ぎ、何度も脱げそうになった。
かなり駆け上がった。ここまで来ればもう俺の姿は見えないはず。そう思い、俺はブーツの紐を結ぶためいったん立ち止まった。
下関に行かなければならない。そこは米軍の勢力下にあるはず。この服を何処かで着替えて平民を装わなければ。あれこれ考えながらブーツの紐を結び終わり、再度駆け出そうと立ち上がったとき。
遠く銃声が聞こえた。
「え……」
はじめ一斉に轟き、その後散発的に。繰り返し。
「嘘だろ……」
俺は来た道を引き返した。その間も、銃声やまない。ガクガク震える足で走る俺を嘲笑うかのように何度も。やめろ、やめろ、もうやめろ、やめてくれ。
ただの威嚇射撃であってくれ、そう願ったが、それは儚すぎる、コンマ1パーセントにも満たない儚い願望。はじめ一斉に轟き、その後散発的に続く銃声。状況が手に取るように見える。一箇所に集められた住民、一斉に火を噴く銃口。その後逃げ惑う人々を、隠れ潜んでいる人を引きずり出して狩る兵隊。
竹藪が途切れ村の道が見下ろせる場所に出た。道ばたに転がっている血まみれの死体。いくつも。
「クソっ」
俺のせいなのか。俺がこの村に立ち寄ったせいで、この人たちは殺されたのか。花や千代も殺されたのか。
風に乗り聞こえてくる女の人の泣き声。「助けて」と。力ない悲鳴。
俺は必死に駆け下った。声の方へ。竹藪が途切れた。いや、途切れる手前。花の家、荻窪邸の庭が見下ろせる場所。俺は立ち止まった。足が凍り付いた。そこに広がっていた光景を目にして。
折り重なるように倒れている人々。花の母親の姿もあった。皆死んでいた。
亡骸の脇で繰り広げられていた蛮行。若い女性をレイプする兵士たち。俺は、生まれて初めて、本当の暴力がどんなものか知った。見た。足が竦んだ。体が凍りついた。涙ばかりあふれた。
力ない「助けて」という声は、助けを求めているのでない。絶望が音になり喉から漏れている。啜り泣きは殴打される度途切れる、あるいは蹴り飛ばされ途切れる。女性はもう抵抗していない。蹴り飛ばすのはふざけ半分……。
どのくらいの時間だったのか。とても長く感じたが本当のところは十秒経つか経たないか、だったと思う。涙で歪んだ景色に突如変化が訪れた。
家捜しをしていた数人の兵士が、納屋から花と千代を引きずり出してきた。呪縛が解けたように足が動いた。俺は猛然と駆けた。竹藪から飛び出した。
気付いたとき、泣き喚く千代の首をつかんでいた米兵から千代を奪い取り、花を捉えていた米兵三人をはねのけて、集団の只中に転がり込んでいた。花を背後にかばい、千代を抱きかかえ。
取り囲む十数人の白人兵。はじめ驚いた顔をしたが、すぐにニヤニヤと笑った。一人が汚いスラングで、訛りがひどい言葉で何か喋り、下卑た笑いが起こった。
俺は叫んだ。「うおおおおお、おおおおおおお」言葉にならなかった。腰が抜けていた。ガクガクと。立ち上がれない。ただ、獣のように吼えた。人語失っていた。こんなこと、人間の言葉に置き換えれない。こんな子供をレイプさせてたまるか――。
一人がニヤニヤ笑いながら近付いて来て、ライフルの台尻で俺の顔を横殴りに打った。奥歯が砕けた。口の中にぬるりとあふれた感触。こめかみめがけ、もう一度振り下ろされた凶器が、俺の目を掠めた。瞼が切れ血が流れ込み、左目が見えなくなった。
二撃目の痛みはほとんど感じなかった。一発目の歯を砕く一撃に火花が散り、俺の意識は一瞬、ほんの一瞬途切れた。
気付いたとき地を舐めていた。衝撃に、痛みに、目がくらんでいる。血が流れ込んで左目が見えない。大きく裂けた頬の内側。ぬるぬると口中にあふれる血。ジャリと泥を噛む感触。
なぜ、この時、米兵が俺を撃ち殺さなかったのか。分からない。いや、逆だ。分かる。見抜いたんだ。俺が、奴らに殺戮の悪鬼を見たと同様、俺が、生まれてこのかた一度も人を殺したことのない、どころか本気の殴り合いさえしたことのないチキン野郎だと、見抜いたんだ。
頭をもたげると、荻窪家の縁側が見えた。荻窪老人が、柱を背に座っていた。頭を撃ち抜かれて死んでいた。カッと見開かれた目は、庭を、その先の棚田を、自身の所領を、自身の領民の血を吸った大地を睨み据えていた。
泣き喚く千代の声、妹の名を叫ぶ花。別世界の音のように聞こえる。
俺は血と砕けた奥歯の破片を吐き出してよろよろと立ち上がった。目の前に、米兵の脱ぎ捨てたベルトが転がっていた。ホルスターにはリボルバーが挿さっていた。
誰でもいい。誰か言えるものなら言ってみてくれ。この状況を前にしても、それでも人を殺すのは良くないことだと、俺に言えるものなら言ってみてくれ。俺は迷わなかった。
リボルバーを抜き取り叫んだ。ほとばしり出た咆吼。
「Warcrime!(戦争犯罪だっ)Noncombatant!(非戦闘員だぞっ)」
俺は、英語なんて高校このかた欠点以上取ったためしがない。発音なんて出鱈目だったと思う。けれど通じた。そしてこの一言が奴らに戸惑いを生んだ。
未開の地。下等人種。そう思い込んでいた国の山奥で、殺そうとした若い兵士が母国語で叫び、この行為が戦争犯罪であることを指摘した。
千代の首を締め上げていた兵士を撃ち殺しても、奴らはまだ躊躇っていた。キョドって顔を見合わせている者もいた。いち早くライフルを取り上げた兵士を撃ち殺し、花を捉えていた兵士を次々撃ち殺した。
かまえ。サイティング。引き金を弾く。撃鉄を起こし、再びかまえ、サイティング。慣れたアクション。手の中の衝撃は、いつも思い描いていた、実銃を撃つ感覚、それ以上ではない。むしろそれ以下。狙い通りの場所を、銃弾は撃ち抜いた。
けれど弾が切れた。残弾は四発だった。
俺は空になったリボルバーを米兵に向かって投げつけると、千代に駆け寄り抱きかかえた。逃れてきた花の体を抱きかばい、竹藪に向かって駆け出したが、間に合わないと感じた。背中で感じた。すべての銃口がすでに俺たちを捉えている。その場に転がり、伏せた。二人を体でかばって。奴らのライフルは単発式。最初の一斉射撃、俺を盾にする。
「すぐに立ち上がり死ぬ気で竹藪まで走れ」花の耳元で言った。竹藪まで約二メートル。頼む。助かれ。
一斉に轟いた銃声。痛みは感じなかった。死ぬ瞬間なんてこんなものなのかも知れないと思った。けれど違っていた。
混乱して泣きじゃくりながら立ち上がろうとした花の体を押さえた。「まて。動くな。動いちゃダメだ」。泣き喚いている千代に囁いた。「もう大丈夫だ。大丈夫だから」
それでも二人の頭を押さえ、低い姿勢を保つよう注意をはらった。
流れ弾が当たらないよう注意をはらい、俺が二人を抱きかばって後ろ目に見たのは。
高い戦闘能力を持つ訓練された兵士。銃歩兵隊。揃いの黒い軍服、黒い笠、腰に小刀挿したライフル歩兵。長州、奇兵隊。
「もう、助かったから……」泣き止まない千代にそう囁いた。無駄だったけれど。花も泣いている。
瞬く間に米兵十余人を皆殺した。遮蔽物を巧みに利用して、洗練された戦術を繰り広げて。彼らに比べて米兵は指揮がとれてなかった。おそらくこの行為は作戦活動とは無関係。指揮官不在。
一人の隊士が駆け寄ってきて俺に言った。
「よくぞ守った。君は二人助けた。よくやった。ひどい怪我をしてるな。すぐに手当てしてやる。君はどこの隊の者だ?」
俺は立ち上がり、花と千代をその人に預けると、あの女性を捜した。「おい、君。待ちたまえ」と言うその人に背を向け答えず。
すぐに女性は見つかった。死んでいた。血まみれの胸に銃創がいくつも。
その人の前にひざまずいた。
「ごめん……。ごめんよ……」
助けてあげれなかった。体が動かなかった。怖かった。ごめん。君が僕を呼んだんだよね。あの時聞こえていた声は君の声だった。なのに、僕は足が竦んで助けてあげられなかった……。ごめん……。本当にごめんね……。
時空を越え。俺に届いた声。なのに俺は助けることが出来なかった。臆して体凍り付き。ふがいない。
何度も拳で目をぬぐう。こみあげてくる。涙はぬぐえても目の前の現実はぬぐえない。俺の怯えが生んだ結末。ぬぐい去れない。
「おい、君」
後ろから声をかけられた。ふり返ると、指揮官らしき二人の男が立っていた。
「見ていたぞ。凄い早撃ちだな。君は一体どこの隊の者だ?」
隣の男も言った。
「瞬く間に敵を却けた。鮮やかだった。君はどこの隊に属している?」
「いえ……、俺は……、どこにも」
男二人は驚いた様子で顔を見合わせた。しかし得たりと笑い。俺に向きなおり言った。
「ならば。我らの隊に入れ。我らは奇兵隊。その銃歩兵隊だ。一口に諸隊と言っても数多あり、村落単位で結成されているものまで含めれば数え切れないほどだ。しかし此度の長州大難にあたり、今あるすべての諸隊は我ら奇兵隊の指揮下に組織された。僕は奇兵隊軍監の山縣小輔だ」
「僕は伊藤俊介だ」
俺の前に立っていたのは維新の偉人二人。山縣有朋と伊藤博文。まだ若い。俺より年上だが、二人ともまだ二十代。けれどこれだけ歴史が違えば、この二人もどうなるか分からない。いや、そんな事は今どうでもいい。
俺は二人の前に膝をついた。両の拳を大地につけて頭をさげた。ポトポトと落ちた涙を土は吸い込んだ。嗚咽噛み、喉から絞り出した。
「奇兵隊に、俺を、入れて下さい……」
奇兵隊に入れてもらったとしても、俺はきっと役に立たない。平和な平成で育った俺は、あまりにも非力だった。けれど。
奥歯食いしばり思った。
護りたい。その為ならば命惜しまない。護りたい。この国の未来を。在るべき平和を。