山中の村.4
キヘイとは騎兵ではなく奇兵隊――。
「戦で強く頭を打って記憶喪……、頭がハッキリしなくて思い出せないことばかりなんだ」
俺は自分のことをそう説明した。女の子は疑わなかった。俺の服装は奇兵隊の軍服に似ている。黒いBUDの上下。勿論まったく違う物だが、この頃は見慣れない洋装をよく目にするせいだろうか、女の子は信じてくれた。
奇兵隊の装備は洋装の黒い軍服上下、黒い笠、ライフル、小刀。山道で倒れていた人は、奇兵……。あの人を殺して、そして俺を襲撃してきたのは幕兵……。
「すぐ下に私達の村があります」そう言って女の子は道の先を指差した。俺は安堵した。しかし案内してくれるものと思っていたら、女の子は指差しただけ。動かない。すぐに理由は推測できた。俺が歩き始めると、女の子は俺の後ろをついて歩いた。どうやら完全に信用してくれているわけではないようだ。
「今は」何年か聞こうとしてやめた。西暦で答えが返ってくるわけがない。幕末なら文久や慶応だろうが、年号でいわれても分からない。
「僕は江藤史音という。君たちは……」
「しおん? 変わった名前ですね」驚いた顔をした。平成では大して珍しくもない名前だが。
「どんな字を書くのですか?」
「歴史の史に音でシオンと読むんだ」この子は漢字が分かるのだろうか。様子を見れば理解したようだが。
この時代の識字率は高い。男子五〇パーセント、女子二五パーセントと言われている。それでも、この山奥の少女が二五パーの中に入っているのは意外だった。
「君たち二人は、姉妹?」
少女は頷いた。「私は花といいます。この子は妹の千代です。四歳です」
紹介された四歳の千代は姉の後ろに隠れた。
山道から抜け出た。一気に展望が開けた。息をのんだ。美しい棚田。どこまでも、眼下遥か彼方まで広がっていた。アスファルトの道も電柱もない。思わず足が止まった。
俺が今立っている場所は、幕末の長州。諸外国の文化文明に浸食される前の本当の日本の姿を、今目にしている
殺されかけたことも忘れ、起こり得ない奇異な出来事であることも忘れ、俺はこの光景を目に出来たことを、奇蹟と感じた。
棚田に臨む山際に十戸ほどの集落があり、そこが花たちの村だった。
男の人の姿はほとんどなく、女性が多かった。さっきの集落に似て登り窯もあった。けれど作陶は農閑期に糊口をしのぐためのものだろう。今は火の気がない。その中で一番大きな家へ、花は案内してくれた。
大きいが田舎の豪農の屋敷という感じではない。一言でいえば質素なたたずまい。貧乏なのではなく、どこかしら風趣。わびている。そんなたたずまいの家。こんな辺土にあり違和感を感じさせられた。その理由はこの後すぐ分かったが。
庭先にいた花と千代の母親らしき女性が、俺の姿を見咎めた。花が説明した。
「山で迷っていた奇兵の人を連れてきた」
「早く。お上がりください。父がいます。父と話を」俺に向かって言い、「私は表を確かめてくるから」口早に花に言い残して駆けていった。
屋内は暗かった。入ってすぐは薄暗い土間。釜戸のある台所に通じている。上がりかまちの奥に板張りの部屋。そこは縁側に面し明るい。部屋の印象も同じく質素。雑然とした生活臭がなく、物が少なく綺麗に片づいている。
板張りの部屋に素焼きの器を見つめている老人がいた。縁側に向かい日にかざしてしげしげと器を見つめ、こちらに背を向けて。気配で知ったのか、孫娘に「おかえり。花。千代」と言った。
花は母親に言ったのと同じ言葉を言った。
「山で迷っていた奇兵の人を連れてきた」
老人はふりかえった。俺を見て眉を曇らせたが。「お上がりなさい」と言った。
コンバットブーツを脱いで板の間に上がった。花と千代がブーツを物珍しげに見ていた。
老人は床の間を背にして文机の前に座った。全然百姓には見えない。庄屋という雰囲気でもない。服装、身のこなし、居住まい。士分の老人。そんな雰囲気だった。俺は向かい合って座った。
老人は自分のことをこう説明した。一気に合点がいった。
「私は荻窪翠華という。以前は藩校で教えていたこともある儒学者。今は所領であるこの山奥の里に隠棲し、農のかたわらロクロをひき余生を過ごしている者」
「僕は江藤史音といいます。戦で強く頭を打って思い出せないことばかりで。山で迷っていたところをお孫さんに会い、連れてきてもらいました」本当のことなど言えない。「色々と教えていただきたいのですが……」
「ふむ。何を聞きたい?」
俺は質問を考えた。こう訊くのが一番だと思われた。
「戦況を教えてください」
返ってくる答えで、今が維新のどの段階なのか、歴史がどこまで進んでいるのか、そして西暦何年なのか、分かる。俺は歴史が好きで、中でも戦国時代と幕末史が好きだ。法学部だけれどゼミは日本法制史で、卒論は維新史をテーマにしている。
「長州藩は……」老人は重々しく口を開いた。「もう終わりじゃ」
終わり……? 俺は老人の言葉を訝しく口中で反芻した。声に出さず。確かに、幕末、長州藩は何度も危機におちいっている。だけど。この深刻な口調は……。
続く老人の言葉に目を丸くした。
「萩は陥落した。毛利の殿様は山口の政治堂に籠城し、長州正規軍の勢力範囲も山口近郊のみ。それもいつまで持つか。蚕食するかの如く、幕府軍が進駐してきている。彦島は米国に奪われ」
なんなんだ、これ……。全然違うだろ……。歴史が違う……。萩が陥落? 彦島を米国に? 彦島ってあの彦島だろ……。なんでアメリカが……?
彦島は下関の南端にある島。ほとんど陸続きに近いけれど、島だ。下関とは橋で結ばれ、小倉行きのフェリーもある。その彦島をどうしてアメリカが。
「ちょ、ちょっと待ってください。彦島をなぜ米国が? 奪ったって領有したということですか?」どうしてそんな無法がまかり通る?
「なんじゃ。それも思い出せぬか」老人は意外とばかり眉を上げたが、訥々と語り出した。「攘夷決行の砲撃に憤り、外国の連合艦隊が下関を襲った」
知っている。一八六四年だ。
「和平会談がもたれ高杉公が臨まれたが、米国は彦島の占有を申し出た」
そこがおかしい。違う。賠償金を支払って済んだはずだ。
「米国の言い分はこうじゃ。海峡をゆく船舶の安全を守るため、彦島を永久租借し、自国軍を駐屯させたい。しかし彼らの思惑は彦島ひいては下関を第二の香港とすること。言語道断と高杉公は席をけり会談決裂したが、米国は彦島を武力で占領した。島民の土地を奪い、漁港を軍港に変えた」
何故? 何故こんなに歴史が違う?
「その以前に、薩摩が裏切り蛤御門の変があった。長州藩は朝敵となっていた。そして此度幕府は長州征伐を号令した。四境戦争の始まりじゃ。長州は四面楚歌、四境を敵に囲まれた」
四境戦争は……、奇兵隊が活躍して勝ったはずなんだ……。
「そして今。四境戦争に敗れ長州藩は壊滅寸前じゃ。米国から大量の武器供与を受けた幕府軍に長州は敗れた。わしの息子も戦死した。奇兵隊はじめとする諸隊が山々に籠もり徹底抗戦している……」