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山中の村.2


 すぐに駆けられる状況ではなくなった。道を見失った。何処かで道をそれたらしい。下生えの灌木をかき分けながら進んだ。真っ暗で既に方角を見失っている。方向感覚がない。けれど進む方角は見失わない。暗闇の奥から聞こえてくる微かな泣き声。


「待ってろ。すぐに助けてやるから」歯噛みして呟いた。

 状況が分からない。大声を出すのはひかえた。ここは山奥だが、人里遠く離れた深山というわけではない。近くに道路も走っている。車でこの山に連れ込まれ乱暴されているのか。大声出して近付けば、別の場所に連れて行かれるだけだ。あるいはもっと悪い状況になるかも。再び歯噛みした。もどかしかった。


 灌木をかき分けゆるやかな斜面を登る。焦りからか、足もとがおぼつかない。落ち葉に埋もれる。一足一足とらわれる。まるで悪夢の中みたいに足が進まない。意識までくらむ。変だ。何かがおかしい。冷たい汗がにじむ。今さらながら寒気がする。山本の言葉を思いだした。これ、マジでヤバイって――。

 声は近付いている。今でははっきり聞こえる。「待ってろ。もうすぐだから」

 次の瞬間、足が宙を踏んだ。アッと思った時には遅かった。急斜面を滑落した。沢だ。まるでスローモーションだった。手を離れた懐中電灯。回転しながら周囲を照らし出す。目の前に大きな岩が迫った。手でかばったが、強烈に頭を打ちつけた。脳裏に火花が散った。意識が白んだ。俺は倒れ、立ち上がろうとしたが無理だった。最後に感じたもの。服を濡らす冷たい沢の水。声は。消えていた。




 目覚めたとき、既に陽が昇っていた。俺は水に半分体を沈めて気を失っていた。


「クソ……。あの女の子は……?」助けられなかったのか……。立ち上がると頭がクラクラした。服がびしょ濡れだった。体が冷え切っていた。


 しばらく沢の岩に腰掛けボウッとしていた。考えがまとまらない。崖を見上げた。


「これを落ちたのか……」驚いた。かなり高い崖だった。これを落ちて頭を岩に打ちつけて怪我もしてないなんて変だった。普通に死ぬと思った。それくらい切りたった高い崖だった。登るのはあきらめた。沢を下る方が賢明。沢は必ず人里へ交わる。今の状況は遭難に近い。


 思い付いてポケットからアイフォンを出すと、水に浸かったせいでチャケてた。


「クソっ」唸った。これってどうなるんだ。自損か。まだ二年経ってない。他社に移るとしても違約金払わないといけない。同じ携帯電話会社で買い換えるのとどっちが安いのかな……。


 どうにも頭がハッキリしない。沢の水を手ですくって飲んだ。顔を洗った。顔を洗うと意識がシャンとした。


「あいつら心配してるだろうな……」仲間のことを思った。多分、警察に通報しているはず。なら、あの女の子は助かったかも知れない。そう思うと少し気持ちが救われた。俺は立ち上がり歩き始めた。水が流れてゆく方へ。


 山中の細い沢。しばらく下ると切りたった崖は姿を消し、這い上れるくらいの岸になった。思いついてよじ登ってみた。思った通りだった。そこは木々の隙間に眺望開けていた。そして幸運なことに、眼下遥か下方に集落が見えた。山の木々の隙間に楔を打ち込んだように転々と連なる小さな屋根、屋根。しかし。


「なんだ……ここ……」廃村だろうか。瓦屋根は一軒も見あたらない。藁葺き屋根が数軒。他は藁葺きですらなく、石を載せた板葺き屋根。


「珍しいな……」


 廃村だとしても、民家が見えたことに安堵した。この沢沿いに進めばきっと町がある。俺は勇気づけられ沢に戻った。集落は木々に隠され見えない。けれどこの沢はあの集落に通じているはず。


 再び下りはじめて、ほどなく感じた異臭。なんの臭いか分からない。嗅いだことのない臭い。進めば進むほど強烈になる。「おえっ、なんだ」耐えられないほど強烈だった。「クソ。これってなんの臭いなんだ」腹立たしいほど強烈な悪臭。目に沁みる。


 そして。暑かった。十一月のはずなのに、まるで真夏のように。しかも蝉の声。山を覆っている。わけが分からない。

 俺はタクティカルベストを外して捨てられる装備はすべて捨てた。AK47も捨てた。今、何を優先すべきかは分かる。高価なスコープだけは外してポケットに入れた。上着のボタンをすべて外した。長袖なので脱いでしまいたいが、町に辿り着けなければ、今夜をしのがなければならない。上着はあった方が良い。


 突然木立が途切れ、岸の両脇に民家が姿を現した。集落に辿り着いた。川岸に床柱を立て、その柱と陸をまたいで乗っかっている粗末な家。作陶をやる里なんだろうか。水流を利用して動く大きな杵が、ポンと牧歌的な音を立て土を突いている。里のあちこちからその音が聞こえてくる。


 少し気持ちが和んだ。救われたという思いと共に。

 廃村じゃない。昔風の家屋なのは観光客向けとか、そんなトコなのだろう。けど、門司にこんな所あったっけ。

 訝しく感じたその時。強烈な臭いの正体を見た。それは川岸に転がっていた。川の流れになかば浸かり。


「う、う、うわあああ」


 俺は川の中に尻餅をついた。後ずさった。はじめはそれが何だか分からなかった。生まれてこのかた見たことがない物だった。あるはずのない物だった。まじまじと、目を凝らして見てしまった。目に焼き付いた。それの姿が。必死に立ち上がり、半狂乱の態で岸をよじ登った。助けを求めて。


 だが。そこに広がっていた光景。「ひっ」喉が引き攣り声が出なかった。膝がカクカクと震えた。


 そこは、川沿いに九戸ほどの民家が並ぶ小さな集落だった。炭焼きの窯や陶芸の登り窯があった。のどかな山里。牧歌的なその光景にそぐわない物が、家々の庭先に、道ばたに転がっている。粗末な着物をまとい。


「う、う、うわあああああ、ああああああ」

 叫んだ。凍り付いていた体が呪縛から解かれたように、叫ぶことで動いた。俺は逃げ出した。どっちに逃げたら良いのか分からない。集落の道はそれだらけだ。それが転がる民家の軒先を横切り山の中へ飛び込んだ。


「うわああ」声を嗄らして逃げながら、途中何度も立ち止まり吐いた。吐いて、吐いて、また駆ける。けれどやがて限界が来た。もう走れない。息が切れ、むせ返り吐瀉物が喉につまり、咳き込み、嘔吐。苦しい。立ち止まりたくない。けれど走れない。胃の中が空っぽになり吐く物がなくなってもこみ上げてくる。もう集落からかなり離れているとも思う。動転してどのくらい走ったか憶えていない。もう、あの臭いはしない。けれど鼻孔の中に微かに残る臭いの記憶、思い出すだけで嘔吐感に襲われ、えずいた。


 そっくりな光景を写真で見たことがある。『カンボジア大虐殺』。クメールルージュにより皆殺しにされた村の写真。膨れあがり真っ黒になった腐乱死体。けれど写真は白黒だったし、写真では到底伝わらない凄まじい恐怖が現実リアルには在った。目に焼き付いた。思い出さないようにすると逆に蘇る。鮮烈に。


 ジリジリと照りつける太陽の下、無言で横たわる亡骸。膨れあがり、皮膚が裂け、裂け目に蛆があふれ、こぼれ落ち、蠅が群れなして飛び交い……。


 暑い日差し。草いきれ。川のせせらぎ。のどかな槌の音。飛び回る蠅の羽音。息ができない悪臭。何故か知らぬ道を行進していた蛆の大軍。沈黙。静かな亡骸。優しい川の音も槌の音も、わんわん響く蝉の鳴き声も上回る恐ろしい沈黙。どんな悪夢がこの人々を襲ったのか。人に為せる業ではなかった。遺体に突き刺さった棒切れまで、写真と同じだった。人間の尊厳を冒涜する、悪意に満ちた幼稚な悪ふざけ。


「くそ」何かが沸点に達し、閃光のように走った。腐乱死体に遭遇した恐怖より、殺戮者に対する憎しみが勝った瞬間だった。けれどその時はまだ、自分の中のそんな変化に気付いていなかった。ただ混乱、混乱が俺を蹂躙していた。


 逃げなきゃ。けれどどっちへ逃げたらいいのか。どう進めば逃げられるのか。何から逃げるのか。思考は思考の態をなしていない。状況が分からなければ考えることができない。状況は分かりようがない。あり得ない。出鱈目過ぎる。

 何度も同じ言葉が繰り返し脳裏に浮かんでくる。何度打ち消しても。タイムスリップ。俺は内戦時代のベトナム・カンボジアにタイムスリップしたのか。こんなの日本であるわけがなかった。


 死体のまとっていた粗末な衣服は、とても日本の物とは思えなかった。昔の日本の着物に近かった。前あわせで腰の所を細帯で結ぶ。着物よりずっと丈が短くて、膝くらいまでの丈。血に染まり真っ黒に変色していた。


 顔を上げ辺りを見廻して気付いた。木々の隙間から山道が見えていた。

 迷わず林を下り、山道へ出ることを選んだ。

 細い道で幅二メートルくらい。赤土がむき出しになった山道。所々雑草が顔を出している。人が踏みしめて出来た道、少し勇気が出た。殺戮者でない誰か、人間に出会えることを期待して、俺は道を歩き始めた。


 ほどなく俺の願いは叶えられた。けれどその人が口を開くことはなかった。その人もまた、生きていなかった。



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