1・第一階層――最下層の楽園― 海洋楽園艦クラウドナイン最深部 共同生活部屋
サイレンの音で目を覚ますと、きっちり朝がはじまる。
一晩寝れば身体が軋むほどの硬い床にもようやく慣れてきたせいか、自然な動作で身体を起こすことができた。他の同世代の少女たちも一斉に起きはじめる。各々「おはよう」などと挨拶を交わしているが、私に声をかけてくれる者は誰ひとりとしていない。私も誰にも声をかけるつもりはない。代わりに心の中で「おはよう」と、自分に呟いた。
窓のない部屋は暗澹としている。ここに連れてこられて一週間が過ぎるけれど、そのときからずっと太陽の光を浴びていない。ここは巨大な船の底らしいから、窓があったとしても見ることができるのは暗闇だけなのだろうけれど。
廊下から漏れるかすかな光だけでは大勢の少女たちが寝泊まりしている大部屋の隅っこまでは照らせない。私は目を凝らして、懐に隠すように抱いていた所持品を確認する。
切りっぱなしのワンピースに付けた右のポケットには支給品の鉛筆に粗末な紙切れとボロボロの小さな辞書。文字を覚えたいからとお願いして支給してもらったものだ。今朝も無事に持っている。
紙切れに包んで忍ばせておいた昨日のライ麦パンの残りを気がつかれないように頬張った。朝ご飯までのこれからの時間が最も体力的にも精神的にもきついから、少しでも楽になるようにと覚えた、ちょっとした工夫だ。
私はさらに左のポケットにしまってある櫛に手を伸ばした。水浴びの日はまだ三日先だけれど一応毎日髪の毛には気を遣っている。肩まで伸びた髪の毛を手で撫でて、毛先の絡まりを櫛でとかす。
そうしている間に、部屋と廊下を繋ぐ扉が開いた。
「朝の訓練をはじめる。訓練所まで、五分後、開始だ。遅れないように」
中年男の事務的な声が、部屋にただならぬ緊張を伝える。
私は左手の甲を見つめた。幾何学模様の魔法痕が刻み込まれている。
戦争で発展した化学は戦争末期には人々を兵器に変えることができたという。
感情を具現化し力に変えて相手を駆逐する能力を与えてくれるもの。
それが、魔法痕。私たち少女に与えられた痕は――兵器の証。
私たちは幻燈少女と呼ばれる、大人たちの玩具だ。
ここは、大人たちが毎晩、少女の遊戯に熱狂する、海洋楽園艦クラウドナイン。
ここは、私たちの楽園ではない。大人たちの楽園だ。
私はここで、飢えを満たさなければならない。
×
私が経験した戦争は、第三次世界大戦と呼ばれる、ずいぶん規模の大きなものだった。
過去に二度大きな戦争があって、その次の戦争だから、第三次世界大戦。
一度目、二度目、三度目、と戦争の規模は肥大していき、今回の戦争が最も甚大な被害を被ったとされている。過去二度の戦争は北半球が戦場だったけれど、今回は南半球も含まれる。私の故郷の南半球に浮かぶ小さな島国は特に激戦地域だった。私が故郷を去ったときには、もう他に生存者はいなかったのではないだろうか。
地形を変え、青い海を血で染め、小さな島を沈め、気候を掻き乱し、世界を混沌に導いた第三次世界大戦は、もちろん人間なんていう簡単に壊れてしまうもののその半数の姿を消し去り、残されたのは勝者のいない疲弊しきった各国家と、人間を化物に変えてしまう技術――通称、魔法痕。それから、戦争の主役だったアメリア合衆国の所持していた決戦兵器・大陸級戦艦クラウドナインをはじめとする兵器の数々だけだった。
あえて言うならば、皮肉を込めて言うならば、勝者はそのクラウドナインだった。
私は今、そのクラウドナインにいる。
海洋楽園艦クラウドナイン。
戦後、この船は名称を変えた。
全長30キロメートルにも及ぶクラウドナインはまるでひとつの都市だ。上層部は交通機関が発展し、高層建築群が林立し、船上員の食糧をまかなうだけの第一次産業も盛んで、豊かな生活圏になっている。海岸線の都市に寄港した際にはその都市の最先端の流行が流れ込んでくるため、常に新しく刺激的な文化が築かれている。地上の都市と変わらぬ、いいや、それ以上に魅力的な生活をこの船の上で送ることができる。
まるで動く島、動く国家。
あの日、連れてこられた場所が、この船だった。
ここで、私は労働している。
いつか、飢えを満たすために。
騙されたとわかったときにはもうすでに引き返せないところにいた。けれど、はじめから騙されているとわかっていても、私はここに来ることを選んでいただろう。そうしなければ、私は死んでしまっていただろうから。
クラウドナインは九階層に分かれている。
九階層はクラウドナインの艦長が鎮座する、〈天上の御席〉。
八階層~六階層は地上の客を招き入れる上層都市部、〈ティル・ナ・ノーグ〉。
五階層は船上員が生活する下層都市部。ここまでが日の当たる華やかな生活圏だ。地上の一般市民も知っている表向きの顔だ。
四階層から下は私たちが暮らす日の当たらない階層で、〈マグ・メル〉と呼ばれている。ケルト神話に登場する死後の楽園を意味する言葉だ。死んだものが到着する場所なのかどうかは私の教養のなさではわからずじまいだったけれど、もしもそうなら私にピッタリだと思う。私は一度、戦争に殺されたようなものだから。
私たちはここに閉じ込められ、毎晩、上層都市部〈ティル・ナ・ノーグ〉でおこなわれる幻燈少女対戦に参加しなければならない。幻燈少女対戦は〈ティル・ナ・ノーグ〉にあるコロシアム〈テレーム〉で行なわれる、幻燈少女同士の殺し合いだ。
かつて古代ローマでおこなわれていた剣奴同士の殺し合いのように。
戦争の終わった今も、人々は少女に己の殺戮衝動を重ね合わせて、熱狂する。
私たちは、だから、戦わなければならない。
多くの人々が、求めているから。
そして。
それが、最低限の飢えを満たしてくれる最低限度の生活を保障してくれる条件だから。
――与えられたければ、結果を示せ。
――多くの観衆を熱狂させろ。
――さすれば、もう一度、日の当たる世界で生きることを許されるだろう。
幻燈少女対戦を勝ち抜き〈マグ・メル〉の頂点に立つことができれば、幻燈少女から解放されて、望むものすべてが与えられると約束されている。
身寄りのない私には他の方法で生きていく術がない。他にどうすることもできない。
私はここで生きていかなければならないのだ。