0 プロローグ
戦時下の貧困街で育った私は、誰よりも飢えていた。
学と呼べる教養もない。ならば朝から晩まで労働に課せられるかと思えば廃墟も同然の街として機能していない故郷にはまともな仕事などなく、多くの人々が理性的な判断を忘れて、文化的な生活を忘れて、隣人を愛することを忘れて、退廃的な生活を送っていた。
私もその中のひとりだった。
その中でひとりだった。
それでもこの世界を高いところからずっと彼方を見渡したとき、私は確かに幸福側の住人だった。
なぜなら、私は盗みをしたことがない、という自慢が今でもできるから。
くだらない自慢だ。偽善的だ。
そうとも思えるけれど、思い出すたびに心がすっと軽くなる。
それはもしかしたら、男子を知らない女子の、いわゆる面倒くささを武器に正義を語れる、正しいことを正しいと言い切れる、そんな世間知らずさや無垢さを持っていただけ――無知を知覚していなかっただけ、と言い換えられてしまうかもしれないけれど。
だからといって、今ここであのときまで幸福だったかどうかを確かめる術はない。
だから、私は言い切らなければならない――幸福だった、と。
それは、ひとりぼっちになった私にでもできる、最もさえた死者への手向けだから。
私には、日の出から日没まで精根尽きるまで働く父親と、一日三食与えてくれる母親がいた。わがままを言える姉がいた。
彼らは、もういない。呆気なく人が死んでいく。それが戦争というもの。
私は、見つめることのできる大きな背中と、見つめてくれる優しい眼差しと、わがままを受け入れてくれる懐を失った。遅すぎるけれど、失って幸せだったと知った。
戦争が終わったとき、私はあらゆる意味において、ひとりぼっちになった。
あとは、死を待つだけだった。
けれど――。
「名は――?」
「……、ロコ」
道端で倒れ込んでいた私は、朦朧とする意識の中で、最後の力を絞り出すようにして答えた。
見上げると、ぼやけた視界の真ん中に、スリーピースでかちっと決めた紳士が佇んでいた。年齢やその他すべてが定かではない。不定形が洋装しているようだ。紳士には見えるけれど、男か女かもわからない。中空に指を滑らせている。拡張現実を操作し、私の名前を書き込んだらしい。文字の読めない私でも唯一知っている文字がある――空中に浮かぶ半透明の架空電版の裏側に映り込んだ反転した文字でもわかるそれは、父と母から貰った私の名前だった。久しぶりにその名前を呼ばれて、身体の芯が痺れた。
「ロコ、君はこの世界の非情さを恨むかね」
私は反射的に首を縦に振っていた。
意識化でも無意識下でも私は世界を恨んでいたから。
この世界が憎い。
もしも私が元気だったならば、聞き分けのないわがままを、赤の他人である目の前の誰かにぶつけていた。
「君にはこの非情で無情な世界を変革する力がある」
本当だろうか。それともこれは私の見ている幻覚、聞いている幻聴かもしれない。いよいよ私はもう駄目かもしれない。私は死んでいくだけの存在。特別な力などない。
「信じられない、と言った顔をしているな。それも無理はない。正確に言えば、世界を変えるのではない。君が変わるのだよ、ロコ」
「……私が……?」
「そう、君は飢えに飢えている。服はすり切れ、髪は焦げつき、肋は浮き、今にも絶命してしまいそうじゃないか、可哀想に。しかし、それは空腹だけが原因か?」
そうだ。他に何があるというのだ。
「――いいや、違う。それは違う。君の飢えの原因は他にある。君は、君自身以外のすべてを奪われた。だから、君は飢えているのだ。我々ならばその失ったものをすべて満たしてやれるだろう。満たすための場と機会を提供してやれるだろう。我々にはその用意がある」
――だから、あとは君が変わるだけだ。
最後にそう付け足し、右手を差し出してきた。
「……また、幸せになれるの?」
「なれるとも。君の力が強大になればなるほど幸福度は大きくなる。君次第、単純明快な理屈で、それはとても簡単なことさ。そしてそれは君にできる最後の手段だ」
最後の手段。
確かにその通りなのだろう。
死を選ぶか、目の前の誰かを選ぶか。二つに一つだ。
疑問も疑念も振り払ってしまうような、確かな衝動が、私の身体に力をもたらした。
私が変われば満たされるという言葉は私を奮い立たせた。
この不条理な世界でも私さえ変われば、幸せになれるのだと言うなら、やってみる価値はある。世界を変えるよりも自分を変える方がよっぽど簡単に聞こえるから。
「死にたくなければ、この手をとるがいい」
私は、死にたくなかった。
私は、もう一度、飢えを満たしたかった。
目の前の誰かは膝をつき、私の左手を優しく握りしめ、左手の甲にキスをした。
「ロコ、我々は君を歓迎しよう。ようこそ、海洋楽園艦クラウドナインへ――」