吉川兄弟 弐
俺の高校時代の友人に九條という男がいる。昔ながらの所謂日本男児を体現したような外見をしていて、更には無口で無愛想。ところがこの男はたまに口を開いたかと思えば、その大半がまずろくなことを言わない。しかもこの男に関しては弟とは違い、明らかにやる気でやっている節がある。
そんな男とどういうわけか妙に波長が合うところがあり、大学に入ってからも連絡を取り合う数少ない友人のうちの一人である。だが少し考えて見ればそれも当然の結果と言えるのかもしれない。何を隠そう、九條の就職先は父の会社なのだ。
父が立ち上げた会社は、会社とは言うものの社員は父と九條の二人だけである。つまり、九條が入るまでは父一人であった。それでも父は既に業界におけるネームバリューをある程度得ていたため、一人といえども特に問題はなかったようで、風景を描くのを得意とする九條が加わってからはますます好調のようである。
そして父の住んでいるマンションの一室が会社の事務所となっており、時折俺が父の家を訪ねれば大抵九條と顔を合わせることになる。そうなると高校時代とあまり変わらず、惰性でついつい何かと話してしまうのである。例えば弟関連の愚痴じみた話を。
***
―――――【お前は乃し梅担当。自腹で】
あの日の翌日にチャットのページを開いてみたところ、案の定とも言うべき内容の返答が返ってきていたが、俺は大人しくその言葉に従うことにした。乃し梅は俺も好きだ。
しかしながら、これでその辺の安い水増ししたような酒しか用意していなかったら、どうしてくれようか。こちらは取り寄せた際の送料も合わせるとそれなりの出費となった。それに見合うだけの酒でなかったならば、とりあえず請求先を九條にして八海山の大吟醸を頼んでしまおうと思う。さすがに大吟醸は未だかつて飲んだことがない。個人的な意見としては本醸造でも十二分に満足なのだが、大吟醸というものが存在する以上、一度は飲んでみたくなるものである。
「おい」
金曜の夜、これから泊まりで出かけるという弟と早めの夕食を食べた後で、九條の住むアパートを訪れた。1Kながらも室内には必要最低限のものしか置かれていないため、相変わらずどこか殺風景な部屋である。
「何だ。気に入らなかったか」
「違うから。だから片づけようとするのはやめろ」
目の前で酒を取り上げようとしている九條の手を俺は即座に叩き落とした。全く油断も隙もあったものではない。
目の前のテーブルの上に置かれているのは、緑川の清酒。八海山と並んで、俺が特に好きな酒である。やはり日本有数の米所で作られた酒は文句なしにうまい。それ故に気に入らないわけがない。俺が文句を言いたいのは酒についてではなく、その瓶にこれ見よがしに貼り付けられたメモについてである。
―――――”どんまい、おにいちゃん。父も乃し梅が食べたいです。”
「このメモは一体どういうわけでここにあるんだ?」
「『しーちゃんが青旖君にまた彼女寝取られたそうですよ』と言ったら、敏郎さんが酒ごとくれたぞ」
そう言いながら九條は瓶の蓋を開けると徳利に酒を注ぎ、既に氷の入ったステンレス製のアイスペールの中にがちゃりと差し入れた。相手の言葉も何のその、一人着々と酒を飲む準備を進める姿は何とも九條らしい。
敏郎というのは言わずもがな、俺の父のことである。父と九條は公私ともにつうかあの仲で、俺達兄弟に関する情報は大抵九條経由で父へと流出する。つまり元を辿れば、九條にあれこれと話をした俺の自業自得に他ならない。それでも本当に父にも誰にも知られたくない時には、予めその旨を伝えておけばさすがの九條も黙っていてくれる。普段が普段なだけに、そういうところがとても好ましく感じる。
それから”しーちゃん”というのは、既にお察しの通り俺のことである。高校生の時、九條は自己紹介を済ませたばかりの初対面の俺に対して「なるほど。シズカちゃんか」と何の臆面もなく言い、俺を含めた周囲を一時凍りつかせた。その後誰よりも先に我に返った俺は怒りも露わに発言の撤回を迫ったのだが、結局「シズカちゃんは不満か。それならしーちゃんでどうだ」と何の反省の色も見せずにしれっと言う九條に周囲が悪乗りし、以降三年もの間男女問わず多くの人たちからしーちゃんと呼ばれる羽目になった。当然、元凶たる九條が高校を卒業したからといってその呼び名を変えるはずもない。言わせてもらえば、日本男児たる外見をした九條の口からしーちゃんなどという言葉が発せられるのは、傍から見るとなかなかに気味が悪い。
「……なるほど。道理で九條にしてはまともすぎる酒が用意してあるわけだ」
「この前の酒も悪くなかっただろう」
「それはあのハブが丸々一匹入った酒のことを言っているのか? あれはキツすぎる」
先日底無しの酒飲みである九條に沖縄在住の知人からハブ酒と各種珍味セットが送られてきたといって呼び出されたものの、俺は一口飲んだ時点で早々に離脱した。高いアルコール度数ももちろんだが、セロリや山菜といった独特の香りが強い食べ物を苦手とする俺は、ハブ酒に含まれている香草や薬草に対しても強い拒絶反応が出てしまった。一方で九條はといえば、相変わらずまるで水でも飲んでいるかのようにいくらハブ酒を飲んでも顔色一つ変えず、目の前で呆然とする俺にこれでも食っておけと無言で豚肉のスモークを差し出すものだから本当に恐ろしい。
***
九條という人間も芸術に携わる人間の性なのか、少し変わっている。彼が得意とする風景画について言えば、彼は実物を見ながら描くということはあまりしない。だからといってその風景をとりわけ熱心に見つめるということもしない。それにもかかわらず彼は異なる時、異なる場所において、真っ白なキャンバス上にその風景をありありと浮かび上がらせる。
近くで見ると明確な輪郭の無い、細かな点の集まりのようなぼんやりとした絵が、少し遠くから見た途端にまるで本物の風景を切り取ったかのようなリアリティーを帯びるのが本当に不思議でならない。けれどもその風景は現実のようであって現実では無い、言わば記憶の中の現実とでも言うのだろうか。多くの人間にとっては見たことも無い風景であるにもかかわらず、何故か心を動かされる。その点からして風景画というよりは情景画という方が正しいのかもしれない。
彼の記憶力は恐るべきものである。さすがに見たもの全てとまではいかないものの、一度彼が心の中に収めた風景はその後何年経とうと色褪せない。その根拠は何かと言えば、彼が時折手慰みに描く落書きである。それはどれもこれも身に覚えのある高校時代の一場面であった。しかもその多くが俺にとって忘れてしまいたいものであることから、間接的な俺への嫌がらせであることは間違いない。けれどもどうしてか、そんな絵を見る度に感じるのは怒りや羞恥よりも、何とも言いようの無い切なさにも似た懐かしさである。
『よくもこんなことまで覚えているね。一体どうしたらここまでこと細かに記憶していられるんだ?』
一度呆れ混じりにそう九條に聞いたことがある。すると珍しく九條がまともな返答をしてきた。
『色や形以外にも匂いや音も一緒に記憶している』
『へぇ、面白い。でも九條って人に関してはあまり記憶力が良くないよね』
『人の印象はすぐに変わる。……お前はあんまり変わらないかもしれないな』
『そうなの?』
『あぁ。いつも曇天だ』
俺はすぐさまこれは絶対に良い意味ではない、と感じ取った。そのため何か言い返してやろうと瞬時に頭を働かせた。
『……それなら九條は常緑樹だ。周りは落葉樹ばっかりの中に一本だけ混じった常緑樹、それがお前だ』
今冷静になって振り返ると、我ながら何を言っているんだとかなり恥ずかしい。あんなことを言い出したのは、間違いなく気持ちが高ぶったまま口を開いたせいだ。あとはその日に大学で植物生態学の授業を受けていたことも関係しているかもしれない。ともあれ俺が羞恥を感じている以上、当然この時の様子も九條によって既に描かれている。しかも面倒くさいという理由から、仕事以外では気に入ったもの以外なかなか色を付けない九條がわざわざ丁寧に色まで付けた。本当に一体何がそこまで彼を俺弄りへと突き動かしているのか。
『冬が近づくにつれてどんどん葉が落ちていくのを感じて、落葉樹の俺が何となく落ち込んでいるところに隣で青々とした九條がしれっと言うんだよ。またハゲになるだけだろう、って』
俺の言葉に対して九條は何を言うわけでもなく、ちらと見たその顔は気のせいか珍しく少し笑っていた。
***
「お前も結局、他人への興味が低いんだろうな」
乃し梅だけでは酒のつまみに困ると思い、家から持ってきた8種類のナッツが入ったミックスナッツを二人でぽりぽりとつまみつつ、九條に先日彼女と別れるに至った経緯等を話していると、九條が不意にそう言った。
「所詮彼女とは言っても、お前にとっては即座に切って捨てられる程度の存在でしかなかったというわけだ」
「……これだけ落ち込んでいる俺を前によくそんなことを言うね」
「事実だからな。直後に弟のフォローをしてるのが良い証拠だ。イカれてる」
九條の言葉には遠慮というものが無い。けれどもその言葉はいかなる時であろうと揺るぎ無く、真っ直ぐである。
イカれてるとまで言われるとさすがに少しムッとするが、九條の言うことは理解できるし、その自覚もある。思えば中学生の頃、友人を自分の家に遊びに連れてくれば、その友人が帰った後でいつも父から何かしらの行為について窘められていた。だから俺は友人と一緒にゲームを楽しむ半面、今日は一体何を怒られるのだろうといつも少し憂鬱だった。つまり当時の俺は、父が怒るような自分の行為について全く思い当たる節が無かったわけである。
父は昔から性格に多少の難有りといえども、基本的には温厚そのものである。その父が毎回注意をするのであるから、よっぽど見過ごせないものであると感じたのだろう。あるいは父もまた息子のそういった様子に対して身に覚えがあったせいなのかもしれない。社会性や対人スキルに関する脳の未発達や、その他普段の行動に見られるちょっとした特徴等を当てはめてみた時、どう考えてもこの遺伝子は母ではなく父由来のものであると断言できる。
母は息子たちが時折見せる風変わりな行動をいつも理解しきれずに困惑していた。注意をする時も「相手の気持ちになって考えてみなさい」だとか行為それ自体を叱るばかりで、肝心の“答え”は決して教えてはくれなかった。つまり“相手の気持ちは一体どんな風であるのか”、と。一方で父は母とは異なり、とにかく全てを理解出来るまで懇切丁寧に説明した上で、自ら反省することを促した。恐らくこれが今の俺と青旖とのズレに繋がっているものと思われる。
一卵性双生児である以上、素材は同じ。けれども中学校、高校と一番の思春期における環境の違いによって俺と青旖との間で学習量の差が生じ、その結果が今に現れているのだ。
「好き、だったんだけどな」
「恋愛は脳を馬鹿にする。お前はまだその馬鹿さ加減が足りない」
お猪口と呼ぶには少し大きすぎる杯をハイピッチで空にする様を横目に、俺は竹皮をめくって透明感ある琥珀色の乃し梅を口に運んだ。随分と久し振りに食べたが、やはり美味しい。
友人と酒と乃し梅と。既に身近にこんな幸せがあるから現状に満足してしまって、新たな可能性を開こうという意思が脆弱すぎるのかもしれない。
―――――誰かを本気で好きになる。
いつか俺にもそんな日が来るのだろうか。