2-25
田所と二人きりで割烹料理店のカウンターに並んで座っていることが不思議でならなかった。
あれほど用心深く距離を置いていたというのに。
「いったいどうしちゃったの?」カンナはそう聞いてみた。
「ん?なんとなくこういうのも良いかなぁと思って」
ほらっと言って田所はカンナに日本酒を勧めた。
「あまり細かいことは気にせずに、美味しいお酒を堪能してください」
そういう田所にカンナは噴出しそうになった。
「田所先生から細かいところを取れないんじゃない?」
「あれ?私は細かいですか?」
「神経質じゃなかったら弁護士さんなんて務まらないでしょ」
「それはどうかなぁ?細かかったら逆に弁護士やってられないと思う」
しみじみそう言う田所の顔をカンナは見つめてしまった。
「なんか今日はいつもと違うなぁ」そう呟くカンナに、ふふっと笑って取り合わない。
「何かあった?」と思わずため口で田所に聞いてしまった。
「何もないですよ。ようやく一つ、案件が片付いたので今日はちょっとリラックスしているだけです」
いつもの口調でそう田所は言った。
もうカンナはそれ以上なにも聞かずにお酒を一口啜った。
料理を出すタイミングが素晴らしく、小鉢を空にしながらお酒が進む。
「こんなに近いところにこういう素敵なお店があったのね」とカンナが呟いた。
「残業のときはよく抜け出してここに食べにきますよ」と田所が言って、それから近所のお店の話題が続いた。
手が空けば店主も時折口を挟んで話が弾んだ。
気がつけばお店に入ってから2時間近く他愛のない話を続けていたことになる。
カンナがお手洗いに立った隙に田所は会計を済ませており、店主に見送られながら割烹料理店をあとにした。
次に田所が案内したのは、更に歩いて数分のビルの地下にある小さなバーだった。
「今夜はもう少し強いお酒を飲みたいので付き合ってください」と言う。
カンナはほろ酔いで気分もよかったので、ためらわずに頷いた。
狭い階段を下りて茶色の木の扉の前に立つと、後ろから手が伸びて田所がドアを押した。
小さな声で「ありがとう」と言いながらカンナは一歩店内に足を踏み入れた。
扉はかなり厚さがあり、年季が入っていた。
閉まると外の気配がまったくなくなっている。
カウンター10席ほどと小さなテーブル席が3つ。
田所とバーテンダーは知り合いのようで何も言わずに手を挙げて挨拶を終えたようだった。
カンナには「いらっしゃいませ」と丁寧に声をかけ、こちらにどうぞとばかりカウンターにコースターを置かれた。
カンナが振り返って田所を見上げると頷いたので、コースターの前に座る。
田所はカンナが座るのを確認してから隣に腰を下ろした。
出されたおしぼりで手を拭きながら、薄い水割りを注文する。
田所は「いつもので」と言っているところを見ると、常連なのだろう。
「では、おなじスコッチで作りましょう」とバーデンダーは言って用意を始めた。
「ここは大丈夫だよ」と田所が言った。
カンナがゆっくりと田所のほうに顔を向けると、「同級生なんだ」とバーテンダーのほうを見ながら言う。
「腐れ縁というやつか、卒業して縁が切れるとせいせいしてたら、こんな近くにバーを始めたんだよ」
「じゃ、もう20年くらいはお友達なのね」とカンナが言うと、
「お友達って上品な関係じゃないよ」と田所が笑った。
「どうぞ」と言って水割りがカンナの前に置かれた。
「ここは一人で来ても大丈夫だから。覚えておくといい」と田所がカンナに言うと、
バーテンダーがショップカードを出して、「よろしくお願いします」とカンナに差し出した。
「小野寺カンナと言います。お言葉に甘えて一人で来るかもしれません。お見知りおきを」と簡単に挨拶した。
バーテンダーは黙って軽く頭を下げただけだった。
「遅い時間しか混まないし、こいつは滅法強いから大丈夫だよ」と田所が補足する。
カンナはグラスを持ち上げて田所のグラスに近づけながら、「それは安心だわ」と言って水割りを一口飲んだ。
バーテンダーは田所を軽く睨んだだけで、グラスを拭き始めた。
他にお客は居ない。
「こういう場所があるなんて、ちょっと安心したわ」
「どういう意味?」
「仕事ばかりしてるから心配してたのよ。
あなたの息抜きできる場所が近くにあるとわかってよかった」
「確かにここのところ忙しかったから久しぶりなんだけどね」
「申し訳ないわね。忙しくさせてしまって」
カンナが形ばかり頭を下げて謝ると、
「いえいえ、ご贔屓いただきまして」と田所が笑った。
「あれから楊さんたちとも続いているんだよ」
「え?そうなの?」
「あぁ、日本の物件に関しては少しずつ依頼してもらってる」
田所の口から楊の名前を聞くのは意外だった。
バーテンダーの存在が気になって、カンナがちらっと見ると
「あ、大丈夫。ここはそういう話をしても外には出ないから」と笑いながら田所がカンナを安心させた。
「だから今夜はそのお礼も兼ねてるんだ」
「そうだったんだ。ちっとも知らなかったわ。じゃ今夜は遠慮なくご馳走になっていいのね?」
「任せてくれよ」
田所はタメ口になっている。すっかりリラックスしているようだ。
「だったら二杯目はうんと上等なお酒にしようかな」と言うと、
すかさず田所が「おいおい、お手柔らかにお願いしますよ。ここはとんでもない高いお酒もあるんだ」と返した。
バーテンダーがカンナのグラスを見たので、「これ美味しいから、同じものをストレートでいただけますか?」と注文した。
「はい」とだけ言って、新しいグラスを出しスコッチを注ぐ。
カンナが一口飲むのを、田所とバーテンダーが見ていた。
舐めるように味を確かめたカンナは、「美味しいけど、私には強すぎるからお水入れてください」と言うとふたりともほっとしたようだ。
「氷はどうされますか?」
「氷無しで、お水は同量でお願いします」
バーテンダーは少し口の端を持ち上げて頷いた。
どうやら合格の様子だ。
隣で田所が「洒落た飲み方知ってるね」とつぶやいた。
カンナの前にツァイスアップのスコッチが置かれた。
グラスを少し回し立ち昇る香りを嗅いだ後、ゆっくりと口に含んで転がしてみる。
ややスモーキーなモルトの香りがカンナの舌を優しく撫でてから喉を通って落ちた。
「別のグラスに氷水をいただけますか?」
カンナは礼儀正しく注文して、スコッチのグラスを自分の正面に置く。
出された水のグラスはそのやや右後方に置いた。
あるべき位置にすべてが収まったような気がしてカンナは気持ちが落ち着いてきた。
今夜はたっぷり飲めそうだ。
「あなたには本当に驚かされる」
田所が隣で呟いた。
「料理できることにもかなり驚いたが、モルトの飲み方まで知ってるとは」
「私は飲みたい方法で飲むだけよ」カンナは軽く微笑んだ。
「じゃ、今度は僕のことも知ってもらおうかな」
カンナが驚いて田所を見ると、
「次の週末、葉山に行こうかと思うんだ。ヨットの季節だしなぁ」とニヤリとしながらカンナに言った。
「え?ヨット?ん~~、大きいヨットなの?」
「大きいほうがいいのか?」
「小さいと揺れるから怖くて・・・」
「そこそこ大きいヨットもあるけど、僕を知ってもらうならセーリングにしたい」
「ヨットのことは全然わからないんだけど、もしかしたら船酔いするかも」
とカンナは控えめに断った。
「お前も来いよ。久しぶりだろ?」田所はバーテンダーも誘った。
カンナは慌てて、「もしかしたら週末は仕事が入っているかも、私・・・」
と言ったが、田所はまったく取り合わなかった。
「いや、仕事入ってないよ。秘書に確認済み」
「え~~っ・・・そんなこと」
「悪いけど、朝早いぞ」
「お天気は・・?雨かもしれないし」
「予報では高気圧で晴れだった。日焼けに注意だな」
「こんな強引な人だとは思わなかったわ」カンナは諦めてため息をついた。
「何かの罰ゲームなの?それともお仕置き・・?」答えを求めているわけでなく、ついつい恨み言が出てくる。
「最近乗ってないからな。僕も参加させていただくとしよう」
それまで黙っていたバーテンダーがダメ押しのように言った。
カンナが諦めたのを確認して、二人はその日のことを相談し始めた。
ウイスキーを喉に流し込みながら、ぼんやりと二人の会話を聞いていた。
「え?ちょっと、ちょっと、日帰りじゃないの?」
泊まりはどうするという会話が聞こえて、カンナは慌てた。
「朝早くから準備がある。でもこいつは夜の仕事だから、閉店後そのまま葉山に行って泊まったほうがいいだろう?
僕たちも金曜日の仕事が終わったら葉山に行ったほうが、翌日が楽なんだ」
「うぅ、泊まりになるとは・・・」
「君は食事担当だ。欲しい食材があったら事前に知らせてくれるか?用意はさせておく」
「ワインはあるでしょうね?」カンナが睨みながら田所に聞くと、
「あぁ、ワインは美味しいのがあったはずだ。ソムリエも居るし・・・」
と笑いながらバーテンダーを見た。
そういうことかとカンナは納得した。
要するに宴会なのだ。
「食材は適当でいいわ。あるもので賄うから」ため息をつきながらカンナはそう応えた。
その時、カンナの携帯電話が震えた。
見ると琢磨の名前が出ている。何度か着信履歴がある。
カンナは二人に断って携帯を持って店を出た。
「あ、俺だけど」
「何か用だった?」
「気になって何度か電話したんだよ」
「今着信に気がついたわ。地下のお店に居たから」
挨拶もなしでそんなやり取りをしている頃、バーテンダーは田所に興味ありげに
「めずらしいな。お前が執着してるとは」と言っていた。
「あぁ、大事な女性だ」と田所は短く答えた。
「ほぉ。報われるのか?」
「いや、たぶんこのままだな」
「それでいいのか?」
「仕方ないんだ」
「そっか」
「あぁ。それにあの女性にはこれから辛いことが待ってる。
葉山はその前の慰めだ」
田所はグラスを一気に空けた。