ニレロティス出陣
二月一四日、カーリルン公の宮殿があるフロンリオンにレンテレテスによる戦況報告が到着した。それを一読したニレロティスは険しい表情になり、政務を終えたアルリフィーアらがくつろいでいる談話室を訪ねた。
アルリフィーアは膝の上にフェルティスを乗せて、帝都から取り寄せた写本を読み聞かせているところだった。
「姫、お慕いしておりました。今宵こそ、思いを遂げん。いざ」
「ああゾルトレント様、かようなこと、いけませぬ、いけませぬ」
「明日は戦地に旅立つ身。さあ私のものになってくだされ」
「あれ、ゾルトレント様~」
幼児相手に何を聞かせているのだ……。ニレロティスは頭を抱えた。フェルティスは、理解不能な内容に関心を失い、アルリフィーアの鼻をつまんだり彼女の口の中に手を突っ込んだりしている。
「ごれへルゲヘフ、はははくひにてふぉいへるへななひ」
写本を持っているので自分ではどうすることもできないらしい。茶を入れる途中だったエメレネアがフェルティスの手を引き抜くまで、アルリフィーアはもごもごと抗議するのみだった。
ようやく自由になったアルリフィーアは、真面目な顔で「フェルティスよ、人の口の中に手を入れてはならぬ」と諭したが、フェルティスは母の鼻の穴を指で広げてゲラゲラと笑った。
母子の交流を邪魔するのも無粋極まりないが、ニレロティスにはアルリフィーアに伝えるべきことがある。軽く咳払いをして存在を主張した。
「おおニレロティス卿、いかがした。眉間に皺を寄せると取れなくなるぞ? せっかくの男前が台無しではないか」
「それは私が公爵にいつも申し上げていることでございますね」
とエメレネアがつぶやいた。
「左様。いつか誰かに言ってやろうと思って、機会を虎視眈々と狙っていたのじゃ。まさに千載一遇の機会じゃ」
アルリフィーアは満足そうに胸を反らせた。鼻の穴が広がっている。
「鼻の穴が広がっていらっしゃいますよ」
「む、それはいかん」
ニレロティスはアルリフィーアとエメレネアのやりとりを黙って聞いていたが、ここで割って入ることにした。
「本題に入ってもよろしいですか、公爵。オルドナ伯領の戦況に関するお話なのですが」
途端にアルリフィーアの表情が硬くなった。
「ウィンに何かあったのか?」
「ラフェルス伯は今のところ……二月六日時点ではご健在のようです」
前線の情報がフロンリオンに届くまで、一〇日はかかる。今この瞬間の様子を知ることはできない。
「じゃが、良くない知らせなのであろう?」
ニレロティスの表情を見れば、吉報でないことは分かる。わざわざ知らせに来たということは、純軍事的な話ではないということでもある。
「ナインバッフ公が討ち死になさいました」
「何と!」
「しかも、ナインバッフ公を討ったのはヌヴァロークノ軍にあらず。ニークリット公国軍とのことです」
「ニークリット公国軍じゃと!? 枢機侯が枢機侯を攻め滅ぼしたというのか」
「ニークリット公の目的は現時点では不明ですが、そのようです。これによってナインバッフ・グライス軍は壊滅。ナインバッフ公と戦っていたヌヴァロークノ軍はオルドナ伯領の大半を支配下に置いたままになっているようです」
「すると、ウィンは……我が軍はどうなるのじゃ」
「ラフェルス伯らはトローフェイルという街を包囲していたのですが、ミラロールに撤退してヌヴァロークノ軍本隊との戦闘に備えるとレンテレテス卿は報告しております。約一万五〇〇〇の我が軍に対して、ヌヴァロークノ軍本隊は推定三万以上」
「二倍以上の敵と戦うというのか……」
ニレロティスは無言で頷いた。
軍事に明るくないアルリフィーアとエメレネアにも、これがいかに不利な状態であるかは十分に理解できる。
「ニレロティス卿に命じる。全軍を率いて前線に赴き、我が軍を支援せよ。前線での行動については貴公に一任する」
「御意」
二月九日の時点で後詰めの指示は受けていたので、出陣の態勢は整いつつある。二〇日には出陣できるだろう。
ニレロティスとしてはフロンリオンの守備に一抹の不安がないわけではないが、より差し迫った状態にある前線の方が問題だった。そしてその不安よりも、自分もようやく戦場に出られることへの高揚感が勝った。
二月二〇日、ニレロティスはカーリルン公軍騎兵一〇〇〇、歩兵一万を率いてオルドナ伯領に向かって出陣した。カーリルン公領には、フロンリオンの守備隊としてわずかな兵が残るのみとなった……。




