傷
その情報を帝都に報告したのは、フォロブロンの名代としてトルトエン副伯軍を率いて偵察や陽動を行っていたヨーレントだった。ゲルペソル会戦でクーデル三世を追い詰めたこと、突然現れたニークリット公国軍に背後を衝かれてナインバッフ・グライス軍が崩壊し、ケルヴァーロが討ち死にしたことなど、二月五日の時点で知り得ることが詳細につづられていた。
当然、ロレンフスは激怒した。ロレンフスが幼少の頃から仕えているゼルクロトファでさえも見たことがないほどの激しさであった。
枢機侯が他の枢機侯を攻め滅ぼすなど、新帝国黎明期以来の事態である。しかも敵国と戦っている味方を背後から討つなど、許し難い暴挙であった。
ロレンフスは拳を机にたたきつけて、歯をくいしばった。口を開いたら馬鹿げたことを叫びかねない。それは皇帝にあるまじき醜態だ。怒りが落ち着くまで、目を固く閉ざして深呼吸した。
「陛下……」
「分かっている! まずは事実確認だ。それまでは安易な決定は早計というものだ」
ゼルクロトファが言いたいことなど言われなくても分かっている。
「ダウポロス副伯とプルテワイト副伯をカルテマイセーに派遣しろ。そこを帝国の前哨拠点とする」
カルテマイセーはナインバッフ公国まで二日ほどの距離にある帝国都市である。ロレンフスの決裁を得るまでもないことは、カルテマイセーに置いたロレンフスの二人の家老がその場で判断して指示を出す。これによって戦争指導を効率化するのが目的だった。
無論、ニークリット公国にもこの情報について説明させねばなるまい。
取りあえずは無難な命令を下した。だが、フォロブロンの家臣がニークリット公を貶める理由などあるとは思えない。ロレンフスは、ヨーレントの報告を事実であるとほぼ認めていた。ソルドマイエ二世が背き、ケルヴァーロが死んだ。ソルドマイエ二世は一体何がしたいのか。頼りになる年長者であるケルヴァーロはもういないのか。
考えるほどに、一度収まった怒りが再び込み上げてきた。やり場のない怒りの矛先を向けるのは……人であってはならない。それがアートルザース三世からたたき込まれてきた帝王学だった。誰も傷つかない対象……。ロレンフスは机に再び拳を振り下ろした。これならば、痛むのは机と自分の拳だけだ。
「陛下、お手が!」
ロレンフスの拳を、エルエンゾの手のひらが受け止めた。代わりに、エルエンゾの手が机にたたきつけられた。
「エルエンゾ! 済まぬ」
ロレンフスはエルエンゾの手を取って詫びた。臣下を傷つけるなど、君主として愚劣極まりない行為をしてしまった。恐らくエルエンゾの左手は骨折しているだろう。
「陛下、ご自分を傷つけるのはどうかおやめください」
エルエンゾは苦痛に顔を歪めながら、懇願した。ロレンフスの拳を傷ついた手で包み込んで、跪いた。
「エルエンゾ、まずはその手の手当が先だ」
他の侍従に医者を呼びに行かせてから、ロレンフスは執務椅子に倒れ込んだ。
怒りに我を忘れて力の制御もできず、エルエンゾを負傷させてしまった。自責の念にさいなまれて叫び出したくなる。一体、自分は何をやっているのか。
ロレンフスは、改めて己の弱さに絶望した。今の彼に、帝位はあまりにも重過ぎた。




