悪夢
帝国歴二二七年二月六日。トローフェイルの包囲は三日目に入っていた。
西隣のファッテン伯が協力的で、ファッテン伯領からトローフェイルまでの補給線は確立されている。おかげで補給についてはあまり心配する必要がなくなった。
攻囲も、勝利条件は「敵軍を封じ込めるだけ」という、比較的容易なものだった。ただ、単に包囲しているだけでは軍紀が緩む。そこで攻囲用の陣地構築も念入りに行った。
城壁の上から打ち下ろされる矢を木の板で防ぎながら、城門の前に逆茂木を設営した。防御・攻撃効果はさほどない、半ば嫌がらせのような施策だ。それでも、城門を開いて打って出ようとする籠城兵の勢いをそぐという効果は期待できる。
攻囲陣の背後には堀をうがち土塁を盛り上げ、木柵を立てた。
木柵の強度を確かめながら、カーリルン公軍を率いるヴァル・レンテレテス・バロエンは
「ザロントムを攻囲したときを思い出すな」
とつぶやいた。あのときも敵軍を街から出さないようにすることが勝利条件だった。
傭兵隊長のベルウェン・ストルムは何も言わず、ぶどう酒入りの革袋をレンテレテスに差し出した。ベルウェンもザロントム攻囲に援軍として参加していた。レンテレテスは軽くほほ笑んで革袋を受け取ると、ぶどう酒を胃に流し込んだ。二月初旬の北国は寒い。酒精で体の中から温めなければやっていられない。
「俺はあんとき何もしてねぇから、いまひとつ達成感がねえんですよ」
傭兵のラゲルス・ユーストはぼやきながら自分の革袋をあおった。ラゲルスも援軍としてザロントムに行ったが、ラゲルスらが到着したところで攻囲戦は終わってしまった。援軍を見た敵軍が戦意を喪失した結果なのでラゲルスの働きは無駄ではなかったのだが、ラゲルスには空振り感が残った。
「そう言うな、ラゲルス。貴公に助けられたのは事実だ」
レンテレテスは心からそう思う。あの戦いは本当に紙一重の勝利だったのだ。ラゲルスの到着が一日遅かったらザロントム攻囲が失敗に終わったどころか、カーリルン公の命すら危うかったのだ。
「ところでラフェルス伯は?」
「ああ、大将ならお昼寝中ですよ」
「なるほど」と言って、レンテレテスは苦笑した。
攻囲陣の天幕の中で、ウィンはうなされていた。
ウィンは泣いていた。泣きじゃくっていた。何だか視点が低い……。ああ、「背が低い」のか。
「どして? どしてなの母上。どしてアデンを……」
目の前に、大人の女性が居る。彼女は直立していて、ウィンを見下ろしていた。ウィンは彼女を見上げながら泣いていた。顔は……よく見えない。だが、ひどく恐ろしい表情をしているように感じた。
視線を下げると、自分の足元に小さな手が見えた。子供が倒れている。「死んでいる」と思った。見ただけで分かるはずはないのだが、ウィンは彼が死んでいることを「知っていた」。
そうか……。徐々に思考が追い付いてきた。これはかつて経験したことの記憶だ。すっかり忘れ去っていた記憶だ。自分が子供のときに見た景色だ。
嫌だ。この先は嫌だ。覚えていないが、この後よくないことが起こるような気がした。見てはいけない。知ってはいけない。思い出してはいけない。
「大丈夫じゃ」
恐怖に押しつぶされそうになった瞬間、暖かいものに体が包まれたような気がした。真夏の木漏れ日のような笑顔がウィンを見つめ、抱き締めるのを感じた。
目を開けると、天幕が見えた。
ひどく嫌な夢を見たような気がする。寝汗で下着が濡れていた。
アデンが去ってから、悪夢をよく見るようになった。だが、目が覚めると内容を思い出せない。何か大切なことを忘れているような気がする。夢だけではない。ウィンは幼い頃のことをほとんど覚えていない。以前、カーリルン公領で記憶喪失になったことがあるが、実のところそれ以前から記憶に問題があったのだ。
「忘れっぽい体質なのかもしれない」
ウィンはわははと笑った。
「ラフェルス伯、起きているか」
皇帝軍の指揮官でアレス副伯のヴァル・フォロブロン・アンスフィルが天幕に入ってきた。
「来てくれ。騎兵たちが南から接近している」
ヌヴァロークノ軍に騎兵という兵科はない。騎乗した貴族がいるだけだ。とするとナインバッフ・グライス軍だろうか。この時期にトローフェイルにやって来るとしたら、理由は何か。ウィンは一瞬顔をしかめたが、すぐに表情を消してフォロブロンに続いた。考えても無駄だ。
現れたのは、一〇騎の騎兵を連れたヴァル・ヨーレント・イガレンスだった。フォロブロンの家臣で、今はフォロブロンが持つもう一つの領地トルトエン副伯領の城代としてグライス軍にトルトエン副伯軍を提供し、偵察任務を担っていた。
ヨーレントはウィンとフォロブロンの前に跪き、恐るべき事態を報告した。
「ナインバッフ公、討ち死に!」




