生々流転
――ちょろちょろ、ちょろちょろ。したたる、ね。
この何を意味しているのかも取れない文章を、私――神先奈恵は絶対に忘れないだろう。
この文章は、私が学校の図書館で目に留まったある小説の書き出しである。何を意味しているのか、何を伝えたいのか。それすらも一切不明な謎の擬音であった――否、擬音かどうかすらも怪しい――。
内容はありきたりのホラーのようで、ただその書き出しだけが妙に頭に残っていた。
思うに、その本を開いたのがいけなかったのだろう。その日私は――
交通事故に遭い、命を落とした。
その瞬間も、頭の中で再生された、あの擬音。
――ちょろちょろ、ちょろちょろ。したたる、ね。
この何を意味しているのかも取れない文章を、私――デメイリー・スケラゴルトは絶対に忘れないだろう。
この文章は、私が屋敷の書斎で目に留まったある小説の書き出しである。何を意味しているのか、なにをつたえたいのか。それすらも一切不明な謎の擬音であった――否、これは擬音ではない――。
内容はありきたりの社会は小説のようで、ただその書き出しだけが妙に頭に残っていた。
思うに、その本を開いたのがいけなかったのだろう。その日私は――
執事の裏切りにあい、命を落とした。
その瞬間も、頭の中で再生された、あの擬音もどき。
――ちょろちょろ、ちょろちょろ。したたる、ね。
「がっ……アッあぁ!」
私――神先奈恵は、強烈な頭痛で目を覚ました。時刻は午前二時。丑三つ時ということもあり、あたりはしん、と静まり返っていた。
夢を、見ていた。
見ていた夢の内容は、はっきりとは覚えていない。だが――不快な夢であったに違いない。
「……ッ、最悪。……寝よ」
もう一度、深く深く、深い夢の中へ潜る様に――私は目を閉じてしまった。
目を閉じたところで、ある夢の形は〝不快〟しか無かったはずなのに。
結局、私は朝まで、あの夢と闘い続けた。
……夢の内容は、覚えていない。
そんなことを二限になってもなお考え続けていた。季節は夏。アイスクリームも溶けてしまって、いずれ気化してしまう様な、暑い、夏。
雲がちらほらと浮かぶ青空は、まるで伽藍堂の今の私の様だ。
青春の夏というのは代え難いもの――そんなことをどこかで聞いた様な気がするが、私にはどうだっていい。なぜならば、性癖として、私は全てに感情移入ができないからだ。
物心ついた時から一歩下がって――あるいは一段上から物事を見ていた様な気がする。自分には関係ない、とあくまで他人事として全てを片付けていた気がする。
誰が喜ぼうが、私には関係ない。
誰が怒ろうが、私には関係ない。
誰が哀しもうが、私には関係ない。
誰が楽しもうが、私には関係ない。
誰が傷つこうが、誰が泣こうが、誰が死に掛けようが私には――――一切合切、金輪際、関係ない。そんな風に全てを認識していた様な気がする。
しうしうしう。
蝉の鳴く声が聞こえる。
蒼い
夏。
ぐるん。
赫い――地?
「うわああああああああああああッ!」
刹那、私の絶叫が、アスファルトに反射する。それはすぐに、蝉の声をかき消した。
今、私の目の前が、真っ赤に染まった。地面も、空も、地平線さえ、全て。
その時は聞き取れなかったが、実は、バンッという音が響いていたらしい。私は、前から走ってきた軽トラに気づかずに轢かれ――首を折られてしまった。
その瞬間、再生された、ある文章。
――――ちょろちょろ、ちょろちょろ。したたる、ね。
「――はッ!」
私は、はーっ、はーっと荒い息を吐きながら飛び起きた。……そこは、いつも眠っている硬いマットレスの上ではない。
天蓋付きの、ファンタジー作品の中でしか見たことがないベッドの上だった。
「ここは……一体?」
見慣れない景色に困惑しつつも、私は何か手がかりがないかと探る。すると――
鏡に、見知らぬ人物が映っている。
「ヒッ」
私は咄嗟に飛び退いてしまい、その拍子に机の角に頭をぶつけてしまった。
頭蓋を割るような鋭い痛みが、そのまま脳へ届き――私が知らない記憶を、再生する。
「グッ――――あ――!」
頭痛が、眩暈が、私を襲う。
その痛みと不快感をよそに、頭の中のスクリーンには様々な映像が映し出される。
私が、神先奈恵であること。
私が、デメイリー・スケアゴルトという人物であること。
私が――この二つの人生を行き来していること。
「まさか――無限にこんなことを繰り返していたの?」
最悪な結論に辿り着き、私は憔悴しきった表情で、額に冷や汗を浮かばせながらベッドへと向かう。
見知らぬ天井。
されど何度も見た天井。
見慣れぬ天蓋。
されどもう慣れてしまった天蓋。
その二つの異なる事実が同時に存在することに奇妙さを抱きながら、全てを忘れるかのように瞳を閉じる。
すると、そのタイミングを見計らうかのように――扉が蹴破られた。
「デメイリー・スケアゴルト、貴様を殺す」
「……ダンダリオン=ジョセフナー・フォン・サルマエロ……! 何故?」
蹴破って入ってきたのは私の執事――ダンダリオンだった。見た記憶の中ではそんなに酷い仕打ちをしていないように思えたが。
しかし、私はそんな疑問を抱く前に死への恐怖を抱いた。「何故?」と口にしたあと、私の体は蛇に睨まれた蛙のようにぴくりとも動かなくなってしまったのである。
動くのは、何をしようとするでもなく震える眼球だけ。
「何故……面白いことを聞くな。それは――我が神の思し召しなれば! そうだ、我が神は貴様の死を夢見ている! ならばここで、殺すしかない!」
「待ッ――――」
銃声が鳴り響く。
激鉄が耳をつんざくような音を立てて、薬莢に詰まった火薬が一気に起爆する。特徴的な匂いを漂わせ、その鉄の塊は私へと歩を進める。
その弾丸は――私の左目を貫き、脳へと一瞬にして達した。
ゴンッ、とベッドから転げ落ちる。
その時に頭の中で流れたものは、ある文章。
――――――――――ちょろちょろ、ちょろちょろ。したたる、ね。
「――――はっ! ぐっうぅ……」
苦痛に顔を歪ませて、私は起き上がった。そこは見慣れた天井。神先奈恵としての部屋だった。
――異常だ。この事態は異常だ。
あれは夢なんか、幻なんかでもない。ただの、もう一つの現実なんだ。
その事実に気づき、私は耐えきれなくなってそのことをネットに書いた。
すると、見知らぬ人から返信が来る。
『それについて、少しわかることがあります。会って話ができないでしょうか』
小さなカフェの住所とともに送られてきたその文章は、どこか怪しげで。
けど、他に頼るあてもないので行くことにした。
約束の日。
私はその指定されたカフェに来ていた。窓際のテラス席だからだろうか、日が差し込み、その眩しさに目を細める。
数分待っていると、ある女性が姿を現した。ドアを禍乱からん、と音を立てて開け、近づいてくる。
「こんにちは……その、この前SNSで呟いていた人、ですよね?」
「あ、はい。はじめまして。神先奈恵と言います」
「私は実解 明里と言います。同じような経験があるので、少しばかりお手伝いさせていただければと」
そう言って女性――明里さんは座る。
「あ、あの――」
「はい。なんでしょう?」
「――この現象って、何なんですか」
私の突然の質問に戸惑ったそぶりを見せつつも、明里さんは答えを紡ぐ。
「そうですね……科学では解明できない現象、というのは大前提として。これはですね、神様の仕業なんですよ」
「……は?」
「戸惑うのも無理はありません。つい一年ほど前に私もその事実を知ったときには同じような反応をしましたから」
そうして、明里さんは語り始めた。
「世界には、神様が遊ぶためのおもちゃとなる人がいるんです。神様と言っても、普通の神様ではありません。もっと意地の悪い、悪霊のような神様がいるんです。
そして、その神様は人の苦しみに歪む顔が大好きなんだそうです。――私たちみたいな、おもちゃを使って。
凄惨な死に方をしませんでしたか? 酷い殺され方をしませんでしたか? そして――世界が、移り変わったり自分じゃない人になったりませんでしたか? それが、神様の遊びです」
指が、震える。
背筋が、凍る。
恐ろしくて、理不尽極まりなくて、やるせなくて――――喉がカラカラに乾く。
注文していたアイスコーヒーを食道にぶちまけると、私は必死に言葉を繋いだ。
「そ、それから、逃れる方法は……?」
「あります」
「それはどんな方法なんですか?!」
明里さんは、にっこりと微笑んで言う。
「神様に飽きられることです。けど神様は結構物を大事にされるので――――あと千回ぐらいは、繰り返されると思いますよ?」
その言葉で、私は、張り詰めていた糸が切れた。
「い、いやああああああああああああああああああ!」
恐ろしくなってその場から逃げる。すると走っていった先は――――
間の悪いことに、赤信号。
そこに大型トラックが突っ込んでくる。
「ひっ! やああああああああああああああああ!」
私は抵抗すら許されず、その場に倒れた。しかしそれでもトラックは迫ってくる。
ごりごり。
骨が砕ける。
ばりばり。
肉が破れる。
ぶちぶち。
内臓が潰れる。
今まで他人事だと思って気にも留めなかった事項が、こんあところになって返ってくるなんて。
痛みのあまり叫び声すら出せなかった私は、最期に頭を潰された。
集まってきた群衆の中に、明里さんの姿が見える。
その顔は、歪なまでに笑顔だった。
最期の思考。走馬灯のようにこれまでの記憶が呼び起こされる。
――――そうだ。もとはと言えば、あの本を開いたのがまずかったんじゃないか。
図書室で見つけた、あの擬音から始まる小説。題名は――そうだ。
『生々流転』
私は願う。次にこの本を読む人が、私と同じ道を歩みますように。私よりも――――幸福な人生を送りませんように。
私の顔は、ひどく歪んでいたと思う。
頭の血管から血が流れ出て、道路へ大きな水たまりを形成していく時、ふと気づく。
そうか。血が流れる音。これこそが――――――
――ちょろちょろ、ちょろちょろ。したたる、ね。
少し裏設定をば。
主人公 神先奈恵の名前の由来は「神の先に出される贄」です。
また、転生した先のデメイリー・スケアゴルトは「スケープゴート」をもじったものです。
最後に真実を伝えた実解明里の名前の由来は「真実を明かす」からきています。