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第三話

 誰もいなくなるまでどれだけの時間がたったことだろう。

 木陰に身を潜めていた伽耶(かや)友紀恵(ゆきえ)は、僧侶がいなくなってからもしばらくその場にとどまった。

 先に口を開いたのは友紀恵だった。

「……見た?」

「……うん、見た」

 目の前の草木を見つめながら頭の中を再起動させようとするが、うまくできない。

 少しも躊躇せず飛びおりたあの信者は、滝壺に吸い込まれていったあと、身体が浮かんでくることはなかった。

「滝から飛びおりたあの人はどうなったのかな」

 震える声で友紀恵が言った。

「……きっと死んだわよ」

 自分で言ってからハッとし、今言ったことをもう一度心の中で繰り返す。途端にガタガタと身体が震えてきた。

 先ほど見た光景がスローモーションのように脳内で甦る。

 これはいったいどういうことなのだろう。今いったい何が起こっているのだろう。わからない。

「……そうよ。人が飛びおりて身体が浮かんでこないのに、どうして誰も助けようとしないの。どうして何事もなかったみたいになってるの」

 今自分たちは癒されるどころか、もしかしたらとんでもなく恐ろしい場所にいるのかもしれない。

「ここの人たち何かおかしいわよ。だいたい、あんな高さから飛びおりて助かるわけないわ。見たでしょ。入信したら最後にはきっとああなるのよ……」

 伽耶は友紀恵の方へ身体ごと向き直る。

「友紀恵、ごめん。私もう帰りたい」

「伽耶」

「ここって普通のお寺じゃないわ。坐禅修行だけと思ってたのに、入信を勧められるなんて思わなかったし。私、変な宗教には関わりたくないの」

 滝行をしていた信者の尋常じゃない異様な目つきや、アルコール依存症の女性のらんらんとしたあの目を思い出す。ここにずっといたら自分もいずれあんなふうになるような気がして、一刻も早くここの敷地内から出たくなった。

「友紀恵も帰ろうよ。ここにいたら入信させられちゃうわよ」

 うん、と友紀恵は頷いた。

 二人はなに食わぬ顔で静養所に戻った。例の修験者のような男をつかまえ、翌日の朝一に静養所を出て山を下りることを伝えた。

「それに、私たちが山から帰らないのを、やっぱり誰かが心配していると思うんです」

 男は少し考え、友紀恵の方へ顔を向けた。

「あなたは?」

「私も一緒に下山したいと思います」

 フム、と男は呟き、残念そうにしながらも笑みを浮かべた。

「そうですか。残念ですが仕方ないでしょう」

 二人で部屋に戻る。戻るやいなや、張りつめていた糸が一気にゆるみ、ぐったりと畳の上に倒れこんだ。何か喋る気にもなれなかった。

 こんな時こそ何か楽しいことでも考えよう。そんなふうに気持ちを奮い立たせようとしたが、黒い作務衣が滝壺に吸い込まれていった光景がふとした瞬間に甦り、邪魔をした。

 少ししてから友紀恵が、喉がかわいた、と言って部屋を出ていき、お茶が入った二つのコップを手に戻ってきた。

「はい、伽耶の分ももらってきたわよ」

 ありがとう、と身体を起こしコップを受け取る。

 そのままお茶を喉に流しこもうとしたが、ふいにある考えがよぎり、寸前で手を止めた。コップの中のお茶が少量唇に触れた。

「どうしたの?」

 友紀恵が怪訝な顔をして尋ねてきた。

「ううん、なんでもないわ」

 ごしごしと唇を手の甲でこする。静養所で出されるどんなものでも自分の身体の中に入れたくない、という思いにかられ、飲まずにコップをテーブルに置いた。

 すでに教団には嫌悪感しかなかった。

「私飲んだけど、普通の麦茶だよ」

 友紀恵は、大丈夫だよ、と言うようにごくごくと飲んでみせる。

 それを見て、少しくらいなら、とコップを手にとり口をつけたが、二口飲んだだけで残りは結局心が受け付けなかった。




「短い間でしたが、お世話になりました」

 修験者のような男に二人で頭を下げる。

「ここでの経験は無駄にはなりません。帰りの道中、どうかお気をつけて」

「ありがとうございます。では」

 瓦屋根のついたお寺の門から出ようとしかけ、ああ、そうそう、と男に引き止められた。

「言い忘れるところでした。門を出ましたら山道を道なりにまっすぐ進み、花が咲いているところに着くまで決して後ろを振り返ってはなりません。山道から外れてもいけません」

 伽耶と友紀恵は顔を見合わせる。

「いいですね、忠告しましたよ」

 男は初めて会った時と同じ清廉そうな笑みを浮かべて言った。

 だが今の伽耶には、それが逆に不気味にしか思えない。その清廉そうな笑みの裏にはどんな顔が隠れているのか。

 伽耶は口元にだけ笑みの形を作った。

「はぁ、ご親切にありがとうございます」

 男に見送られ、二人は門を出た。

 二人ともしばらく無言で歩く。山道の脇に据えられている何体かの石像を通りすぎ、最後の石像の前を通りすぎた時、伽耶はやっと口を開いた。

「花が咲いているところまで決して振り返るな、だって。変なの。まるで振り返ったら帰れなくなるみたい」

 友紀恵はクスッと笑い、横目で伽耶を見る。

「でも、そんなこと言われるとちょっと怖くない? 本当に帰れなくなったらどうする?」

「そんなことあるわけないじゃない。きた時と同じ道を戻ればいいだけなのに」

「それもそっか」

 二人でクスクスと笑い合う。

 山道はずっと先まで続いている。今は朝だが空はだいぶ明るい。白い空は両脇を木の葉に遮られており、どこからか鳥のさえずりが聞こえてきた。

「花って高山植物のことかしら。だとしたら、多分まだまだかなり距離があるけど」

 伽耶はきた時の記憶を辿りながら言った。

 ふふ、と友紀恵は笑う。

「やっぱりちょっとは気にしてるんだ」

「まあね。あんなこと言われちゃうとね」

 あの男が何もなくてわざわざ怖がらせるようなことを言うとは思えない。かと言って、そんなことを言った理由も伽耶にはわからない。

「ねぇ、友紀恵」

「ん?」

「帰ったら警察いこう」

「え」

 友紀恵は驚いたように目を見開き、伽耶を見たまま立ち止まった。伽耶もそれに合わせて立ち止まる。

「だって、もしかしたら何人もあそこで人が死んでるかもしれないのよ」

「……あ、そっか、そうね」

 前を向き再び歩きだす。

「ほんと、無事にあそこを出れてよかったわよ」

「うん」

 一時間ほど歩き、変わりばえのしない景色に飽きてきた頃休憩をとった。二人はその場でしゃがみこむ。

 伽耶はリュックからタオルを出して顔をふいた。

「ああ、こういう気を抜いた時につい振り返っちゃいそう」

「あはは。めちゃくちゃ気にしてる」

「ふふ。そういう友紀恵だって」

 タオルをしまったあとペットボトルを取り出し、軽く水分を取った。

 リュックに入れてたペットボトルに、静養所で水を詰めて持ってきたのだ。本当は静養所の水を飲むのも嫌だったが、飲み水を持たずに山の中を歩くのもどうかと思ったのだ。

 友紀恵もリュックから水が入ったペットボトルを取り出した。すると、同時に何かが飛び出てきた。それは友紀恵の足元にごろりと転がった。

「何か落ちたわよ」

 伽耶が手をのばして拾いあげる。

「これって……」

 友紀恵のリュックの中から落ちたのは、手のひらに乗る大きさの金属製の仏像だった。よく見るとなかなかの精巧な造りで、ずしりとした重さがある。

 友紀恵を見ると、仏像から目を逸らし、ペットボトルを握りしめたまま固まっている。

「これ、どうしたの?」

 伽耶は詰問口調にならないように注意しながら尋ねた。なぜなら友紀恵はそんなものを持ち歩く趣味はないはずだし、それはどう見てもついさっきまで自分たちがいたお寺にあったものだろうからだ。

「……まさか、入信しちゃったの?」

 友紀恵は下を向き、首を横に振る。彼女が今どんな表情をしているのかよく見えない。

「じゃあ、どうして――」

「静養所でちょっと貸してもらったの。返そうと思ってたんだけど、忘れてたわ」

 伽耶の言葉を遮って急に喋りだした友紀恵を、伽耶はじっと見つめた。

「私ったら、最近忘れっぽいのよ。自分でも嫌になっちゃう」

 友紀恵は、あはは、と笑いペットボトルの水をぐいっと飲む。飲んで、大きく息を吐いた。

「――なぁんて、こんな言い訳やっぱり苦しいわよね」

「友紀恵……」

「つい、手が出ちゃったの」

 友紀恵は目の前に自分の右手を広げてじっと見つめる。

「どうしても我慢できなくて……手が動いちゃった……」

 伽耶は何も言えなくなる。

「知ってるでしょ。私の窃盗癖(せっとうへき)

 友紀恵の言うとおり、伽耶は知っていた。

 彼女は万引きでよく補導されていた過去がある。つい先月も万引きで警察沙汰になっており、家に引きこもっていたのを伽耶が山登りに誘ったのだ。

「先月お世話になった警察の人がいい人でね。カウンセリングを勧めてくれたの。まだカウンセリングにはいってないけど」

 なぜ友紀恵が坐禅修行をやってみたいと言いだしたのか、ここでやっと正しく理解できたように思えた。

「衝動を抑えられなくなるのはコンビニやスーパーだけじゃないのよね。衝動を抑えようとしても、どうしても手が勝手に動いちゃうの。だから、あの静養所にいればこのどうしようもない窃盗癖も治せるんじゃないかと思ったのよ」

「……この仏像を盗んでどうする気だったの?」

「別にどうする気もなかったわ。ただ、盗りたい衝動をどうしても抑えられなかっただけ。そんなの欲しかったわけでもないのに。だからさっき伽耶が突然、警察へいこう、なんて言ったからびっくりしちゃった」

 そう言い、口元に微かな笑みを浮かべる。その笑みが心持ち哀しそうに見えた。

 伽耶は自分の手にある仏像を見つめる。

「呆れた?」

 友紀恵の問いに、首を横に振る。友紀恵に仏像を返した。

「とりあえず、今は下山して帰ることを考えよう」

 伽耶はそう言い、立ち上がる。

 友紀恵は、うん、と頷き、仏像をリュックに入れて立ち上がった。

 黙々と山道を歩く。伽耶の頭の中で警察と教団と友紀恵がぐるぐると回っている。

 どうしてこんなことになったのか。自分は家に引きこもっている友達をただ元気づけたかっただけなのに。

「伽耶」

 友紀恵に呼ばれ、うん? と彼女を見る。

「伽耶が悩む必要はないわ。全部見なかった、聞かなかったことにすればいいわよ」

 そう言われて、わかった、と言えるほど薄情な人間ではない。

「帰ったらさ、カウンセリングにいこうね。もしいきづらかったら、私がいっしょについていってあげる」

 一瞬の間を置いて、友紀恵は笑みを浮かべた。

「うん、ありがと……」

 それとね、と友紀恵は言葉を続けた。

 彼女の深刻そうな表情に、伽耶はつい身構える。

「なぁに?」

「実はね、私、お寺の門を出てすぐのところでもう振り返っちゃたの」

「え、えー?」

「ごめん、気づいてるかなと思ってたんだけど、気づいてなかったのね」

 唖然とした顔で友紀恵を見る。だが深刻そうな彼女がなぜだか可笑しく思え、ぷっ、と我慢できず笑いがこぼれた。

「あっはっはっ。そうだったんだ。なぁんだすぐ言ってくれればよかったのに」

「言いづらくて、つい」

「そっか。振り返ってどう? 何か変なことある?」

「ううん、ないと思う」

「えー。じゃあ、あの人なんであんなこと言ったのかなぁ。まぁいいわ。早く帰りましょ」

 それから二人は友紀恵の窃盗癖のことなんか忘れたかのように、とりとめのないことを喋った。

 都合の悪いことは全部頭の淵に寄せて。時折鳥のさえずりに耳を傾けながら。リュックのポケットに入ってた飴玉やキャラメルを口の中で転がして。二人は喋って、歩いた。

 高山植物が咲いてる花畑に着いたのは、だいぶ日が昇ってからだった。

 今日も二人の目の前で、高山植物はピンクの花や白い花をいちずに咲かせている。高山植物に歓声をあげてたのはつい数日前なのに、もう一月もたったかのように遠い日のことのように思える。

 伽耶は花畑の向こうを見つめ、笑みを浮かべた。

「ああ、やっとここまできたわ。ここまできたら頂上までそんなにかからないわ」

「結局何もなかったわね」

「ほんと。あの人の言ったことはなんだったのかしら」

「私のせいで伽耶に何かあったらどうしようと思ってたけど、何もなくて本当によかった」

「ふふ、さぁあともう少しよ」

 両脇を高山植物に挟まれ、丸太で整備されている登山道を登る。

「そういえば、駐車場にずっと車停めっぱなしだけど大丈夫かしら」

 停めてるのは車の運転免許をとったお祝いに、親から買ってもらった中古の軽自動車だ。

「二、三日くらいじゃレッカーされないと思うけど、もしされてたら面倒だなぁ」

 そう言い、伽耶は隣を見た。

 隣は友紀恵ではなく、知らない女性だった。伽耶に話しかけられた女性はびっくりした顔で伽耶を見ている。

「あっ、スミマセン、人違いです……」

 女性は何人かのグループできているらしく、そのまま登山道を登っていった。

 知らないうちに他人がいたことに驚き、そういえば友紀恵は、と辺りをキョロキョロと見回すが見あたらない。

「友紀恵?」

 すぐ隣にいたはずなのにどこへいったのだろう。

 驚かせようと、どこかに隠れているのか。だが身を隠せそうな岩も太い樹木も、今いる場所にはない。だからそんなはずはないのに、どこを見ても友紀恵はいない。

 まさか――――

 サァッと血の気が引いていく音が聞こえるような感覚におちいる。同時にあの男の声が甦った。

 ――花が咲いてるところに着くまで決して後ろを振り返ってはなりません。

 すぐそばの高山植物にゆっくりと目を向ける。

 高山植物のピンクや白が、なぜか伽耶の目には不吉なものに映ったのだった。


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