第二話
翌朝、五時半頃に目がさめた。
布団から起き上がると、隣で寝てた友紀恵も目が覚めたようだ。
「おはよう。眠れた?」
「うん、少しだけ」
布団を畳むと、伽耶と友紀恵はそれぞれタオルを持って部屋を出た。部屋を出ると前日には気づかなかったお香の匂いが微かに鼻をついた。他にもすでに起きている人がいたらしく、朝の静けさに混じって人の気配を感じられた。
洗面所を探していると、前日の修験者のような男と会った。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか」
「おはようございます。おかげ様で……」
「それはよかった」
「あの、顔を洗いたいのですが」
「それなら浴場の方に洗面所がありますので」
そう言われ浴場へ向かう途中、戸が開け放たれている部屋があり、二人は思わず足をとめた。
中では十数人のグレーの作務衣を着た男女が、二列に別れて背中合わせで坐禅を組んでいた。若者から初老の者まで年代は様々だ。背中合わせになっている間を、長い棒を手に持った僧侶が静かに歩いている。
坐禅を組んでいる男女の中に、あのアルコール依存症の女性もいた。
「皆さんここで静養中の方たちです。毎日起床後と就寝前の一日に二回坐禅を組み、精神修養をしています。心を集中させ、ひたすら坐禅に専念すれば、心も身体も健康になります」
修験者のような男が横で説明する。
「ここはそうそうこれるところではありません。ですが、あなたがたみたいな人が時々迷いこんできます。これもいい機会です。あなたがたも何日か坐禅を組んでいかれませんか」
伽耶は友紀恵と顔を見合わせる。
「私たちは山登りにきただけですので……」
伽耶がそう言うと男は、そうですか、と言った。
洗面所で顔を洗って部屋に戻る。タオルをリュックにしまいながら友紀恵がぽつりと呟いた。
「ここって、ただ自然の中で自分を見つめ直して過ごすだけじゃないのね……」
「うん、私も静養所っていうくらいだから、ただ静かに過ごして病気を治すんだと思ってたわ」
朝食のあと部屋で帰るしたくをしていると友紀恵に、伽耶、と呼ばれた。
「うん? なぁに?」
「私、もう少しここにいて、坐禅をやってみようかなと思うの」
「え? どうしたの、なんで?」
「どうせ夏休みなんだし、せっかくだからやってみてもいいかなって思ったの。ねぇ、伽耶は帰りたい?」
帰りたいのは山々だったが、友紀恵を一人残して帰るなんてできなかった。
男にはもう少し滞在したい旨を伝えた。
「そうですか。坐禅をすると身も心も整い、本当の自分に出会うことができる。よくご決断されました」
「よろしくお願いします」
静養所での生活は起床時間と就寝時間が決められており、あとは決められた時間の食事、静養所内外の清掃、坐禅、これら以外は基本的に自由に過ごすことができた。
「朝は五時起床で、五時半から坐禅だって」
坐禅のあとは静養所やお寺の周りを掃き清め、七時に朝食、十二時に昼食、十七時に夕食、十九時に坐禅をして二十時就寝となっていた。
「友紀恵。暇だし、外に散歩しにいかない?」
「いいのかな」
「門から出ないならいいって言ってたわ。私たちは別に病気じゃないんだから」
「うん」
外に出て、まずは寺や静養所の周りをぐるりと歩いてみることにした。
伽耶は寺の外観や周囲の様子を一通り見渡すと、男が言っていた言葉を思い起こす。
「あの人さ、ここはそうそうこれるところではありません、て言ってたけど、地図にも載ってないというのは、多分そういうことだからということよね」
ああ、と友紀恵は顎に指を添える。
「わかんないけど、多分、ここで静養している人のために、余計な人たちが入ってこないようにわざとそうしてるのかも。私たちはどこで道を間違えたのかわからないけど、たまたま入り込んじゃったということじゃないかしら」
二人で話しながら歩いていると、グレーではなく黒い作務衣を着た一団が、寺の裏手からどこかへ歩いていく様子が目に入った。
「こんな山の中でどこにいくのかしら」
裏手の方を見つめながら、友紀恵が言う。
「ねぇ、私たちもいってみない? もし何か言われたら、すみません、て言って戻ればいいわよ」
伽耶が提案し、二人は見失わないように一団の後を追った。
寺の裏に下りの山道があり、注意深く歩いていく。しばらくすると、ザアザアと水が流れる音が微かに聞こえてきた。湿った空気がひんやりと辺りを漂い始める。
水の音は段々と大きくなり、一際大きな音が響いている場所に黒い作務衣の一団が集まっていた。
「滝だわ」
友紀恵が横で、うん、と小さく頷く。
滝の規模は遠くから見て高さ五、六メートルくらいはあるだろうか。
数人が作務衣を脱ぎ、ふんどし姿になった。水しぶきが漂う中、胸の前で両手を合わせて合掌しお経を唱えたあと、滝に一礼して滝壺に入っていった。滝に打たれながら合掌し、今度は力いっぱい声を出してお経を唱え始める。だがその目つきは思わずゾクッとするほど異様で、尋常ではない雰囲気を醸しだしている。
二人で食い入るようにその様子を見ていると、後ろから声がした。
「あれはうちに入信したばかりの信者です」
驚いて振り向くと、修験者のようなあの男が立っていた。
「すみません。私たち、散歩してるうちにこんなとこまできてしまったみたいで……」
伽耶は頭の隅で考えていた言い訳を言い、肩をすくめた。
「いいんです。あなたがたはうちで精神修養中の身なのですから。そんなことよりも、もっと上流の方へいってみませんか」
「上流ですか? ここからいけるんですか」
「はい。ここよりももっと大きな滝があるんですよ」
そう言われてついていった先にあった滝は、先ほどの滝とは比べ物にならないくらい雄大だった。垂直に流れ落ちる水量もたっぷりとあり、近くまでいかなくても滝の細かい水しぶきが飛んできた。
「この山にこんな立派な滝があるなんて、知らなかったわ」
かすれた声で伽耶は呟いた。
男は、そうでしょう、と満足そうに深く頷く。
「この滝はわれらの教団にとって大事な滝。いわば、ここはわが教団の聖地なのです!」
男は力強い口調で言い放ち、伽耶と友紀恵を見た。
「うちは枝分かれを繰り返し、古くから細々と続いてきた宗派です。ぜひ教団に入信しませんか」
「えっ」
「入信して修行を積めば、世の中のわずらわしい憂いは消え、安らかな気持ちになれます。大変素晴らしいことだと思いませんか。この地に迷いこんだのも、み仏のお導きによるものでしょう。ぜひ、入信なさい」
伽耶は男の勢いにおされて言葉を失くし、隣の友紀恵をちらりと見る。
「……私たちはまだ大学生ですから、そういうのはまだよくわからないです」
なんとか言葉を振り絞ると、男は残念がるでもなく不機嫌になるでもなく、その顔に清廉そうな笑みを浮かべた。
「いいんですよ、すぐ答えを出さなくても。ゆっくり考えてみてください」
その夜、一人でお手洗いにいたところをアルコール依存症の女性と会い、静養中だった二人の男性が教団に入信したことを聞いた。
「入信したら、厳しい修行が待ってるそうよ。聞いた話だとかなり辛いみたい」
やや興奮気味に話す彼女を前に、もしかしたらこの女性も教団への入信を勧められているのかもしれない、と伽耶は思った。
「今日、信者の人たちが滝に打たれてお経を唱えてるところを、たまたま友紀恵と二人で見れたんですよ」
「滝行ね。素晴らしいわ。実は、私も少し前から入信を考えているのよ。でもこれは一生に関わることだから、まだ決心はできてないのだけど」
「……家には帰らないんですか?」
「帰ってもね」
彼女は目を伏せた。
「夫とは離婚して子供もあっちに取られちゃったし、親はろくでもない人たちだし、いろいろあって。アルコール依存症になったのはそのせいなの。ここでの静養生活のおかげでだいぶ良くなったけど。でも、帰ったあとのことを考えると迷ってるわ」
顔を上げて、それに、と彼女は言葉を続けた。彼女の目がどこか遠くを見つめ、異様な妖しさに塗られていく。
「お酒を飲まなくても修行を積むことで嫌な思いを断ち切ることができるなら、こんないいことはないと最近思うようになってきたのよ……」
彼女のらんらんと輝きだした目を見て、伽耶は思わず黙りこむ。
なぜかゾクッと背筋が冷たくなった。
「そういえば、奥の方にもう一つ大きい滝があるのは知ってる?」
瞬く間に彼女の様子は平常に戻り、何事もなかったかのような口調で言った。
「あ、ああ、聞きました。教団にとって大事な滝だとか……」
「ここにあんな迫力満点の滝があったなんて、最初は驚いたわ」
同意して伽耶は大きく頷く。ふと思いつき、尋ねた。
「どうして教団にとってあの滝が大事なんでしょうか?」
「さぁ、わからないわ。私も最初はあの滝の裏にでも仏像が隠されていたりするのかも、とか思ったりしたけど」
翌日の午後。
散歩にいく、と言い、伽耶と友紀恵は外に出た。寺の裏へまわり、前日と同じ山道をたどる。
「伽耶ってほんと、アウトドア派よね」
友紀恵が後ろから話しかけてきた。
「うーん、でもそこまで本格的ではないわよ。ただ汗を流して、気軽に楽しみたいだけ」
滝行がおこなわれていた滝を通りすぎ、ザアザアと流れる水の音を聞きながら上流の方へと山道をいく。しだいに、ドドドド、と地響きのような滝の音が聞こえ、前日の大きな滝が見える場所に着いた。
滝壺から舞い上がる水しぶきを見て、二人の顔に笑みが浮かぶ。
「すごいわねー」
友紀恵が感嘆の声を上げた。
伽耶は大きく深呼吸をする。
「ここにいて、ここの空気を吸ってるだけで癒される気がするわ」
伽耶の言葉に友紀恵がこちらを振り向く。
「……坐禅より?」
「坐禅もいいけど、正直坐禅よりもこういうところにきてパワーをもらったり、山登りしたりして身体を動かす方がよっぽど心も身体も健康になれると思うわ」
「そっか……。うん、そうね」
もう少しここにいることにして、適当な岩に腰かけた。二人で話していると、下流の方から人がくる様子がちらりと見えた。
「誰かくるわ。ねぇ、ちょっとあっちに隠れない?」
「なんで?」
「また入信勧められたら面倒だしさ」
二人は大きな木の陰に隠れた。木陰から様子をうかがう。
黒っぽい法衣を着た僧侶が下流の方からぞろぞろと現れ、ざっと見て二十人ほどの僧侶が滝壺が見える場所に集まった。
これほどの僧侶が集まるとそれなりに迫力がある。
この中に一人だけいた黒い作務衣の信者らしき男と数人の僧侶がそこから別れ、滝の上の方へと登っていった。
これから何がおこなわれるのだろう、とこのただならぬ雰囲気に、伽耶と友紀恵は息を殺し固唾を呑んで見守る。
滝の上に登っていった信者と僧侶の姿が見えなくなった。しばらくたち、滝の上の方からホラ貝を吹く音が滝の音に混じって聞こえてきた。
それが合図のように、滝の下に残っていた僧侶たちはその中の一番の高僧と思われる僧侶を先頭に滝の方へ近づいていき、水のそばで立ち止まった。
再びホラ貝を吹く音が聞こえ、先頭の僧侶がお経を唱え始めたようだ。滝の音にかき消されながらも、切れぎれにお経を読む声が聞こえてきた。お経が終わる。だがすぐにまたお経が始まり、今度は他の僧侶たちも一斉にお経を唱え始めた。
これだけの人数だと、伽耶や友紀恵がいる方までお経を読む重低音が響いてくる。
まさか、本当にこの滝の裏に仏像が――――
アルコール依存症の女性が言っていたのをふと思い出し、伽耶は何か見えないものかと滝の流れ落ちる水の奥を注視した。だがやはり水に遮られてわからない。
お経はまだ続いている。独特の抑揚をつけながら、かつテンポを上げていき、お経の速度が速くなった。
息をするのも忘れるような異様な雰囲気に指先すら動かせなくなる。今のこの空気を壊してはならない。そんな気持ちにさせられてくる。
流れ落ちる滝の方を無言で見ていると、横で友紀恵が、あっ、と小さく声を上げた。
友紀恵は滝の上の方を見て目を見開いていた。
伽耶も同じ方向に目を向け、そこにある光景に驚愕した。
黒い作務衣の信者が滝の上にいた。滝の上で合掌し、お経を唱えている。
しかし彼は今、流れる水の中にいるのだ。あと数歩で断崖絶壁というところで、水の流れに耐えながらお経を唱えているのだ。
これも修行なのだろうか。
やがて彼は合掌しながら滝に向かって一礼した。どこからか銅鑼のような音が、ボワァァン、と聞こえ、伽耶は思わずビクッと身を震わせた。すると、下で僧侶のお経を唱える重低音が一層大きくなった、その時だった。
滝の上にいた彼は合掌しながら勢いよく宙に飛びおり、瞬く間に彼の黒い作務衣は滝に呑まれて水しぶきに消えていった。