其ノ弐 小さな足跡
「どう考えても、意図的に避けられているとしか思えない……」
僕は若干の苛立ちを覚えながら、廊下を踏みしめた。
あの絵を押し付けられてから数日、僕は休み時間のたびに中里のもとを訪れたが何故か彼と会うことはできなかった。クラスメイトに話を聞くと、何かと理由をつけて授業が終わると同時に教室を出て行ってしまうらしい。
確かに事情が事情だけに、絵の修復ができないと困るのはよく分かる。だが、その手段があまりにも強引すぎやしないか。
中里がそのつもりなら、こちらも最終手段をとるしかない。あの絵を直接、彼の教室のロッカーに返してしまうのだ。本人に会えない以上、これしかもう方法はなかった。
放課後、僕は絵を保管している美術室に向かった。試験期間中で部活動がないせいか、校内をうろつく生徒の姿はまばらだ。
窓の外では分厚い雲が途切れることなく雨を垂れ流していて、梅雨が明ける兆しはない。
この時期特有の湿気も相まって、美術室周辺の廊下は一層陰気臭い雰囲気を醸し出していた。
――なるべく早く引き取って貰った方が良い。その絵は多分――本物だ。
不意に藤の意味深な言葉が脳裏に蘇る。
途端に廊下の突き当たりや背後がやけに気になり、僕は半ば駆け足になりながら美術室に入った。
ロッカーの鍵を開け、仕舞ってあった絵を取り出す。結び目が緩かったのか、解けた包みから絵の一部が露出していた。
できれば中身を見ないまま返したかったが、この状態で持ち歩くわけにもいかない。僕は仕方なく絵を机の上に移動させ、一度包みを開いた。
市松模様の古びた風呂敷を綺麗に広げなおし、その真ん中に絵を置く。
「……ん?」
小さな違和感を覚え、布を持つ手が止まった。
中里に見せられた時と何かが違うような気がしたのだ。
「何か……」
全体的な構図は全く変わらない。何の変哲もない風景画だ。中心部に描かれた七色の虹を横切るように、大きな黒い汚れがついているのも同じだ。
だが、目を凝らして気付いた。
虹の上に、黒い小さな――足跡、足跡、足跡、足跡。
僕は悲鳴を上げて後ずさった。
「何だ、これ……」
呼吸を整えてから、恐る恐るもう一度絵を見下ろしてみた。見間違いかと思ったが、やはり元からあった汚れとは別に、黒い小さな足跡が浮かんでいる。それは二足歩行の「何か」が少しずつ歩を進めているかのように、一定の間隔で虹の上に点々と跡を残している。そして、付着している大きな汚れの手前で、整然と並んでいた足跡が突如列を乱している。
まるで通行を阻まれて立ち往生しているかのように。
悪寒が走り、僕は思わず両腕を抱いた。
この絵には「何か」がいる――
一刻も早く絵を返さなければ。
募る焦りに手元が狂い、風呂敷ごと掴もうとした絵を取り落とした。
瞬間、強い眩暈に襲われて視界が暗転する。
それはほんの一瞬のことだった。
だが、そろりと目を開けて僕は絶句した。
いつの間にか、僕の手には筆が握られていた。
机の上には、汚れたパレット。散乱した絵の具の数々。
「――――」
呆然と正面に目を向けると、そこには先程取り落としたと思った虹の絵が何事もなかったかのように鎮座していた。その上、絵に付着していたはずの汚れが三分の一ほどが綺麗に塗り潰されている。
――ああ、これは。
筆を放り投げ、僕は堪らず口元を押さえた。絵の具の匂いが吐き気を助長する。
「……っ」
――去年の文化祭と同じだ。
机に手をついて、目をギュッと瞑った。
シンと静まり返った美術室に響くのは、相変わらずの雨音と僕のひ弱な呼吸音。
また、とり憑かれてしまったのだろうか。
薄っすらと感じる「人ならざるもの」の気配に、僕の不安は膨れ上がった。
今ここにいるのは僕一人。
桃花は試験が終わるまで美術室には来ない。
そして藤は――
「……駄目だ」
藤には言えない。
机についた手を、強く握り締めた。
彼女はちゃんと忠告してくれたのに。これ以上迷惑は掛けられない。
だからその前に、早く。
早く絵を――
◇ ◇
大きな虹がかかった。
土砂降りの後、すっきりと澄んだ空に光る七色。
僕は虹のこちら側にいて、「向こう」から誰かがやってくるのをジッと待っていた。
数えきれないぐらいの流れる雲を見送った頃、ようやく「向こう」から誰かが近づいてくる気配がした。
僕は立ち上がって、手を振る。
遠く、遠くに見える影は、僕に気付いて手を振り返す。
確かにその影はゆっくりと時間を掛けてこちらへ向かっているのに、待てど暮らせど距離が縮まる様子はない。
僕はとうとう待ちきれずに、「向こう」へと走り出そうとした。
それを、誰かが制止した。
――「向こう」に行ったら危ないよ。
誰かはそう言う。
「どうして?」
僕は問い掛ける。
――「向こう」は世界が異なるから。
「世界……?」
――だから「向こう」に行ったら最後、こちら側には戻ってこられないよ。
「でも……」
僕は首を捻った。
虹の「向こう」からやってくる影の方を振り返り、その誰かに尋ねた。
「じゃあ何で、あの子はこちら側に向かって来てるの?」
――それはね、
「――おーい、小宮。試験中に居眠りするなー」
頭を叩かれた衝撃と、周囲の笑いさざめく声で目が覚めた。
試験監督をしていた担任が丸めた教科書を片手に仁王立ちしている。
「まだ半分も問いてないじゃないか。分からなくても、時間までは頑張って考えろ」
「……すみません」
空欄の目立つ解答用紙を肘の下に隠し、僕は恥ずかしさのあまり身を縮めて俯いた。
何か夢を見ていた気がするが、今ので全て吹き飛んでしまった。
「……はあ」
担任が巡回に戻るのを確認してから僕はそっと溜息を吐いた。眠気は飛んだはずなのに、どうにも頭の中がすっきりしない。
他の生徒たちは既に問題を解くのに戻っていて、静かな空間に鉛筆を走らせる音だけが響く。解答時間はまだあと半分もあった。
また居眠りするわけにもいかないので渋々問題に目を通してみるが、一文字も頭に入ってこない。昨日ちゃんと勉強したはずなのに何一つ思い出せないのだ。
問題を解いている振りをしながら、僕はぼんやりと物思いに耽った。
早いもので、試験の日程も今日を入れてあと二日。明日の放課後からは部活動も再開される。きっと桃花の風邪も治っているだろうから、明日になればあの美術室にはいつもの顔ぶれが揃うはずだ。
――でも、できればあと少し待って欲しい。
あと少しであの絵の修復は完了する。
そうしたら、虹の「向こう」からあれがやって来られる――
――チリン。
「――――」
幻聴だろうか。
お守りの鈴の音にふと意識が引き戻されて、僕は目を瞬いた。
僕は今、一体何を考えていたのだろう。
◇ ◇
放課後の誰もいない教室は、整然と机と椅子が並び人の息遣いを感じさせない。
雑音のない静寂に満ちたこの空間を、藤は気に入っていた。
耳に入ってくるのは単調な雨の音と、「人ならざるもの」の囁くような話し声のみ。最近彼らのことが視えなかったり、声が届かなかったりすることが時々あったが、今日は調子が良い。
目を瞑ると更に鮮明に届く彼らの目下の話題は、どうやらあの絵の噂らしかった。
――虹の絵を紛失した者が、絵の在処を探している。
彼らの会話に耳を傾けていた藤は、目を開けて窓の外を見下ろした。
三階建て校舎の二階部分、中庭に面した窓からは、向かいの校舎の様子がよく見える。
外廊下で繋がれた向かいの校舎は「特別棟」と呼ばれ、職員室や文化部の部室、音楽室などの特別教室が集まっている。その一階の片隅に位置する美術室には、試験期間中だというのに連日煌々と明かりが灯っていた。
誰が何をやっているのかなど、問わなくても察しが付いた。
きっとお人好しの彼が、あの絵を救おうとしているのだろう。
ならば、自分のやるべきことは一つしかない。
不意に、雨脚が強くなった。窓に打ち付けられた雨粒が、ガラスを伝って滴り落ちていく。
ガラス越しに雫の跡を指で追いながら、藤は滲んだ灰色の景色を眺めた。
いつの時代も、天が流した涙を人は恵みだといって有難がる。
誰かの悲しみが巡り巡って他の誰かの救いになるならば、誰かを救うということが他の誰かを悲しませることにもなるだろう。
この世界はいつだって綺麗に歪んでいるのだから。
だが、もしそうだとしても。
いつか他の誰かを悲しませることになっても。
自分が救うべき相手は、見誤らないでいたい。
「……なんてね」
藤は自嘲して窓から離れ、鞄を持って教室をあとにした。
「――さて、あの絵の持ち主を探しに行こうか」