其ノ壱 舞い込んだ依頼
六月に入り、例年通り梅雨がやってきた。
ジメジメとした空気が衣替えしたばかりの肌にまとわりつく。
美術室には来たもののどうにも絵を描く気になれなかった僕は、窓にぶら下げられたてるてる坊主たちを何とはなしに眺めていた。
美術部の活動拠点である放課後の美術室には僕一人。
絵を描かない二人の部員は、まだ姿を見せない。
そして残りは籍だけ置いている幽霊部員だ。
一時廃部の危機を迎えていた美術部だが、どうにかこうにか部員数を集めることが叶い今もこうして細々と活動を継続している。結局季節が変わっても、僕は変わらず藤の絵を描き続ける日々を送っていた。
「ぶえっくしょい……!」
豪快なくしゃみが廊下から響いた。見ると、マスクをした桃花が入り口の扉にへばりつくようにして立っていた。
今回廃部の危機を回避できたのは、紛れもなく桃花の功績だった。
春奈がいなくなって僕が体調不良で欠席している間、桃花は部員集めに奔走してくれたらしい。そのお陰で美術部は何とか部活動として承認を受けることができたのだった。
「どうしたの、風邪?」
美術部存続の立役者は、大きな音をたてて鼻をかむ。
「昨日帰り際に土砂降りに遭ったのよ。それでこの有様。予報では夜まで晴れだったのに、もう信じらんない。うう、鼻が詰まってるのに鼻水が止まらないってホント意味不明だわ」
ティッシュを箱で抱えながら、桃花は赤くなった鼻をズズッと啜った。
「悪いけどあたし、しばらく部活はパスする。昼ぐらいまでは大丈夫かと思ったけど、やっぱり駄目ね。寒気もするし、完全に悪化したみたい」
「え、しばらくって……」
「試験期間が終わるまでよ。体力付けて早めに治さないと、試験に落ちたら困るもの。絵なんか描いてる場合じゃないわ」
絵なんか描いたこともないのに――とは口が裂けても言えない。
「こみやんも、ちゃんと試験勉強しなさいよ。赤点採っても知らないからね。じゃあ、そういうことだから藤にもそう伝えといて。帰りに担任に捕まってて、声掛けられなかったから」
「……了解。お大事に」
用件を伝えるだけ伝えて、桃花はさっさと美術室をあとにする。一瞬で室内に静寂が戻った。
明後日から学校は試験期間に入る。期間中の部活動は禁止され、強制的に下校時間が繰り上げられるのだ。僕と桃花はクラスも違うので、部活がなければ終日顔も合わせないことが多い。どうやら試験が終わるまで桃花とは会えない日が続きそうだ。
「……そうか」
独り言に応えるように、三体のてるてる坊主がそれぞれ頭を動かした。
このティッシュで作られた人形は、先日桃花が暇を持て余して量産した名残だ。どうやら僕らの顔を描いて吊るしたらしいが、どれが誰なのかさっぱり見分けがつかない。
「せめて今日はいて欲しかったな……」
机に突っ伏して、僕は呻いた。
別に藤と二人きりなのが嫌なわけではない。
基本的に僕は黙って絵を描いているだけだし、藤も外を眺めるか本を読んで過ごしていることが多い。会話は少ないが気まずいわけでもない。放課後は、僕にとって学校で唯一心穏やかに過ごせるひと時だ。
けれど、春奈の一件以来僕は少しだけ藤との時間が落ち着かなくなっていた。
「人ならざるもの」を人の目に映す者。
どうにもその存在が、あれから僕の心の中に魚の小骨のように小さく引っ掛かっているのだ。
藤の顔を見るたびそのことを思い出しては、尋ねてみようとして切り出せずに終わる。ここ最近はその繰り返しで、先日もてるてる坊主の制作に夢中だった桃花にですら「あんた何そんなにそわそわしてるの? 気持ち悪いわよ」と言われた。
どうして切り出せないのかは、自分自身がよく分かっていた。
僕は怖いのだ。
僕の知らない世界を藤が知っているということが。
傲慢だと思う。
どんなに親しい間柄でも、お互いの全てを知り尽くしていることなんてまずない。
それなのに僕は、藤が「人ならざるもの」について熟知していればいるほど、僕との距離が離れていくような気がして不安になる。
僕は、僕の知っているままの藤でいて欲しいのだ。
僕の知っている藤など、彼女の中の一パーセントにも満たないだろうに。
そういうわけで、藤なのか「人ならざるもの」なのか、はたまた自分自身に対するものなのか最早よく分からなくなったごちゃ混ぜの感情が、ここのところ藤との時間を気まずく感じさせる要因となっていた。
そして、もう一つ。
特別今日は二人きりを避けたかった理由。
それは、これから僕は藤に隠し事をしなければならないからだった。
◇ ◇
「頼むよ小宮、このとおり!」
そう言って両手を合わせ僕に頭を下げてきたのは、隣のクラスの中里という男子生徒だった。
中里が僕を呼び出したのは、今日の昼休みのこと。
僕は彼と面識がなく、呼び出された理由は全く思い当たらなかった。危機意識が無いと散々桃花に言われた僕だが、さすがにこの面会には警戒心を持った。
中里は僕より少し背が高く、僕が言うのもなんだが文化部の匂いがする男子だった。廊下の少し離れた場所からこちらを盗み見ている二人組が気になったが、どうやら彼の友人のようだった。
「突然呼び出して悪いな」
申し訳なさそうに謝る中里に、僕は曖昧に笑った。そんなことより、彼が抱えている四角くて薄い荷物に、僕は嫌な予感を抱いていた。
中里がたっぷり時間を掛けて話した内容は、次のようなことだった。
中里には美大に通う兄がいるらしく、ここ数ヶ月の間次の展覧会に出展する絵の制作に取り組んでいた。兄は自宅のガレージをアトリエ代わりにしていて、制作期間中はいつも他の家族に出入り禁止を言い渡していた。
しかし昨日の夜、どうしても用事があってガレージに入った中里は、不注意で完成したばかりの絵を汚してしまった。絵が展覧会に出せないどころか、勝手にアトリエに入ったことが兄に知れたらとんでもなく怒られてしまう――そこで、美術部員の僕にどうにか絵の修復をしてもらえないかと話をつけにきたとのことだった。
「――このことがバレたら兄貴に何されるか分からないんだ。兄貴、この展覧会にかなり賭けてたみたいだから……」
項垂れる中里に、僕は溜息を吐いた。
「あのさ。悪いんだけど、美大生の描いた絵を修復するなんて技術、僕にはないよ。他をあたってくれるかな」
絵の修復なんて、専門的な知識と技術が必要だ。一介の高校生にできることではない。
僕はさっさと話を切り上げようとしたが、中里に腕を掴まれて立ち止まる。
「ま、待ってくれ。修復って言っても、汚れたところの上からちょこちょこっと色を被せて分からなくしてくれればそれでいいんだ。取り敢えず、絵を見てくれないか」
中里は抱えていた包みを床に置き、古びた柄の風呂敷を慎重に広げる。
「この絵なんだけど……」
通行人の邪魔になっていることも気にせず、中里は絵を僕に見せてきた。
展覧会の出展作品だというが、思ったよりサイズは小さい。両手に収まるキャンバスに描かれているのは、どうやら風景画のようだった。グラデーションの効いた空色の真ん中に七色の虹が大きく描かれている。水彩ほど淡くはないが、どこか儚げな印象を受けた。
そして、そんな絵の全てを台無しにしているのが、虹の中心部に付着している大きな黒い汚れ。
「……これは酷いな」
眉を顰めると、中里は頻りに頷いた。
「だ、だろ? こんなの兄貴に見せられなくて」
「だけどこの絵……本当に昨日完成した絵なのか?」
「あ、ああ。そうだよ」
「…………」
それにしては絵の具の色がくすんでいる。キャンバスが埃っぽいうえ、汚れのこびりつき具合も古そうだ。全体的に嫌な感じがした。
「どうだ? 何とかなりそうか?」
絵を見ながら黙り込んだ僕に、中里は恐る恐る声を掛けてきた。僕はじわりと染み込んできた気分の悪さを飲み込んで、首を横に振った。
「やっぱり無理そうだ。僕の手には余る」
――多分、色んな意味で。
「そう言わずにさあ。やってくれたらお礼は何でもするから!」
「いや、ほんと。役に立てなくて悪いな」
僕は中里に絵を押し返し、背を向けようとした。しかし、中里は簡単には帰してくれない。
「頼むよ小宮、このとおり!」
両手を合わせて頭を下げながらも、彼は僕の前に立ちはだかる。僕は退路を絶たれ、廊下の壁に背を付けた。
「いや、だから……」
口ごもっていると、五時間目の予鈴が鳴った。
中里はこれ好機とばかりに抱えていた絵を風呂敷ごと僕に押し付け、「じゃ、よろしくな!」とだけ残して自分の教室まで走り去っていったのだ。
思わず絵を受け取ってしまった僕は、呆然と廊下に立ち尽くした。
「……どうするんだ、この絵」
その後、ホームルームが終わるや否や僕は絵を携えて隣のクラスに行ったのだが、そこは既にもぬけの殻だった。
こうして僕は、仕方なく得体の知れない絵を抱えて美術室にやってきたのだった。
◇ ◇
「小宮……」
肩を揺すられて、目が覚める。
いつの間に寝ていたのだろう。目を擦って身体を起こすと、鞄を肩にかけたままの藤がいた。
「ごめん……寝てた」
寝起きの声は酷く枯れていて、僕は何度か咳払いをした。
「桃花は来ているのか? 今日は体調が悪そうだったけど」
「……風邪引いたからしばらく休むって言って帰ったよ」
「そうか。小宮もこんなところでうたた寝してたら風邪を引くよ」
「……そうだね。気を付けるよ」
荷物を降ろしながら、藤は外に目をやった。ガラスの向こう、鈍色の空から雨粒が断続的に降り注いでいる。
「……雨、やみそうにないね」
「……うん」
会話が途切れる。
藤がいつも通り窓際の席に腰掛けたので、僕もクロッキー帳を鞄から取り出そうとしたその時。
「――あの絵」
「……え?」
不意に掛けられた声に、手を止めた。
「あの絵、どこで手に入れた?」
藤は教室背面にあるロッカーに視線を送りながら言った。
「…………えっと」
ギクリとした表情を取り繕う暇はなかった。
藤は明らかに、扉の向こうに隠されているはずの虹の絵を見ている。
「し、知り合いの絵だよ。ちょっと事情があるみたいで、少しの間美術室に置かせてくれって言われて預かってきたんだ」
「……そう」
咄嗟に出た言い訳は我ながら上出来だと思ったが、残念ながら藤はそれほど納得した様子ではなかった。にもかかわらず、「……駄目、かな」とお伺いを立てれば、意外にも「いや、問題ないよ」との答えが返って来た。
「え……あ、本当?」
拍子抜けした。
昼休みの時は何だか不穏な気配を感じたが、藤が問題ないというなら案外普通の絵なのかもしれない。
ホッと胸を撫で下ろし、少し湿っぽくなったクロッキー帳を広げた。だが――
「――ただ置いておくだけなら、ね」
時間差で紡がれた言葉に、僕は危うく鉛筆を取り落としかけた。
「え……?」
「一時的に保管しておくだけなら、それほど問題はない。だけど、なるべく早く引き取って貰った方が良い。その絵は多分――」
――本物だ。
思わず顔が引き攣る。
どう言う意味かと問い掛けることは、できなかった。