其ノ陸 嵐のあと
どのくらい経ったのだろう。
蹲ったままの春奈の肩は依然、小刻みに震えている。
僕は瞼の裏に、ほんの短い時間だったけれど美術室でともに過ごしたあの子の姿を思い浮かべた。
あの「人ならざるもの」はとても真っ直ぐで、純真で、一途で、心の底から春奈の幸せを祈っていた。自らの命を犠牲にしてまでも、僕と春奈を引き合わせたそのひたむきな願い。
知らなかったとはいえ、僕はその気持ちを無下にしてしまった。
僕は春奈の儚い肩に手を添えることもできずに、彼女の隣で自分の無力さを噛みしめた。
今更後悔しても遅いことは百も承知だ。
だけど、少しでもその気持ちに報いることができるなら。
春奈の悲しみを和らげることができるなら。
「……あ」
そう言えば、ここで目が覚める直前に藤の声を聞いた。
――彼女の本当の願いを叶えてあげるんだ。
そうだ、確かそう言っていた。
春奈の本当の願い……?
指先が、ツンと何かに触れた。
「…………?」
いつからそこにあったのか、草むらの中にクロッキー帳と鉛筆が転がっていた。
僕が普段使っている道具だ。
何故こんなところに――そう考えかけてやめた。
ここは現実とは異なる世界。何が起きても不思議ではない。
僕はクロッキー帳を手に取って、真っ白いページを開いた。
やるべきことは、一つしかなかった。
左手に握った鉛筆を紙の上に走らせれば、芯が削れる繊細な音がたちまち響く。
変化のない空間で、クロッキー帳に描き込まれる線だけが時間の経過を教えてくれた。
「……先輩?」
目元を赤くした春奈が、こちらを見ていた。
僕はカメラのシャッターを切るようにゆっくりと瞬きして、彼女の表情を目に焼き付けた。それを、あたりをつけた紙の上に写し取っていく。
だんだんと浮かび上がってきた輪郭を見て、春奈は息を呑んだ。
「これ、もしかして……」
「そう。これは春奈だよ」
僕は完成した絵を帳面から切り離し、春奈に渡した。
「これは僕の憶測だけど――君の友達は僕に会うためだけじゃなくて、君の目に映りたくて力を使ったんじゃないかな。声だけじゃなく、こうやって、面と向かって話をしてみたかったのかもしれない」
紙の中ではにかむあの子と、それをまじまじと見つめる春奈。
鏡のようによく似ているが、まったく同じというわけでもない。そこには確かに、二人の「春奈」が存在した。
「……ありがとうございます、先輩。またこんな素敵な絵を描いてくれて。わたしたちの願いを叶えてくれて」
春奈は嬉しそうに何度も絵を眺めながら、僕に頭を下げた。
「いや……本当はもっと早くにこうしてあげれば良かったんだ。そうすればきっと、君の友達も消えなくて済んだかもしれないのに……」
春奈は一瞬泣きそうな表情を浮かべ、絵を抱き締めた。
「先輩は優しいですね。その言葉だけで十分あの子も報われたと思います」
「……そうだろうか」
「ええ、きっとそうです。だってほら、ちゃんとここで笑ってるじゃないですか」
そう言って春奈が胸に抱えた絵を見せた。
途端、視界が滲んだ。僕は言葉に詰まって、何も言えなくなった。
春奈は手の甲で涙を拭うと、力強く宣言した。
「先輩、わたし、この絵に恥じないように一生懸命頑張りますね。もっと体力つけて、手術も受けて、絶対に高校に進学します。それが何年先になるかは分からないけど、きっとやってみせます」
「うん」
「あの子が救おうとしてくれた命なのだから、わたし投げ出したりしません。もし挫けそうになったときは、この絵を見てあの子のことを思い出します」
「きっと、君なら大丈夫だよ」
「はい――先輩」
――チリン。
終わりを告げる鈴の音がした。
穏やかだった空間が、突如捻れる。草原は姿を消し、地面にぽっかりと穴が空いた。奥底の方から、一筋の光が僕を誘う。
その光に飲み込まれるようにして、僕と春奈の距離は離れていった。
春奈は白いワンピースを翻しながら、大きな声で叫んだ。
「先輩、いつかまた、どこかで会えますか……!」
吹き荒れる風に巻き込まれながら、僕は頷いた。
大丈夫。
君の友達はあの子だけじゃない。
僕らはもう――
◇ ◇
身体が酷く重たい。
誰かが呼んでいる気配がするのに、目を開けるのが億劫だ。
このままもう一度、眠りの海に沈んでしまおうか――そう思った時。
「小宮……!」
凛とした彼女の声に引き寄せられるようにして、一気に意識が浮上した。
「……っ!」
そのままの勢いで上体を跳ね起こした僕は、唐突な運動によって引き起こされた眩暈に抗えず呆気なくベッドに逆戻りした。
「……うう」
天井がぐるぐると回り、口から他人事のような呻き声が漏れる。
「馬鹿ねえ、目が覚めて急に動いたら駄目でしょう!」
「大丈夫か?」
「……何、とか」
しばらく波に耐えたあと、今度は慎重に目を開けて声のする方を見上げる。
まず、真正面から藤と目が合った。
相変わらず絵画のように綺麗な顔が、僕を心配そうに覗き込んでいる。隣の桃花は、珍しく神妙な面持ちだ。
「……ここは?」
「学校の保健室だ」
白い天井、薄暗い蛍光灯、薬品棚――確かに見慣れた景色だ。
――戻って来られたのか。
ようやく実感し、安堵の息を吐いた。
あのままあの世界から出られずに彷徨い続けていたらどうなっていたのだろう。
「あんた、美術室で倒れてたのよ。覚えてる?」
「……ええと」
そう言われて記憶を順に辿る。
確か放課後の美術室で僕は春奈と出くわした。彼女は僕の絵を盗み、僕を強制的に「人ならざるもの」の世界へと招き入れた。そしてそこで、僕は本物の春奈に出会った――
「そうだ、僕の絵は……!」
あの「人ならざるもの」が盗もうとしていた僕の絵はどうなったのだろうか。
「心配しなくていい。多少持っていかれたものもあったが、白紙に戻りきった絵は一枚もなかった。少し修正すれば元に戻る。あの『人ならざるもの』には、もう絵を食べきる力もなかったみたいだ」
「……そっか」
安心して気が抜けた途端、忘れかけていた疲労感が舞い戻ってきた。背筋に悪寒が走り、鈍い手つきで薄い毛布を手繰り寄せる。「人ならざるもの」にあてられた時と同じで、そのうち熱が出そうな予感がした。
「まだ安静にしていた方が良い。向こうの世界にいる間、随分と力を消耗しているだろうから」
「向こう……」
あそこは不思議な空間だった。
見渡す限りの草原はとても穏やかで、静謐で、ただ少し――寂しいところだなと思った。
春奈はあの後、ちゃんと夢から覚めただろうか。
僕は彼女の――彼女たちの願いに応えられたのだろうか。
「……ねえ、藤」
不安に押し潰されそうになり、救いを求めるように藤に視線を送った。
「僕は……間違ってないかな」
突拍子もない言葉に藤は少し驚いたように目を見張った。が、何かを察したようで余計なことを訊かずにただ頷いてくれた。
「大丈夫。間違ってないよ」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
「でも僕は……」
胸の内を駆け巡る様々な感情。
その中に見つけた罪悪感を言葉にするべきか迷い、口を噤む。
――君、これからは私の絵だけを描きなさい。
一年前に交わした約束を、僕はまた破ってしまった。
それを知ったら藤は、どんな顔をするだろう。
悲しませてしまうだろうか。それとも怒らせてしまうだろうか。
あるいは失望して、もう二度と僕には絵を描かせてくれなくなるだろうか。
「――小宮」
堰を切ったように溢れ出す僕の卑屈な感情を優しく掬い上げるように、藤は言った。
「あまり思いつめるな。何も考えなくていい。何も気にしなくていい。とにかく今は、疲れを癒すためにゆっくり休むことだ」
「…………」
「大丈夫。小宮は何も、間違ってないよ」
「……ありがとう」
藤がそう言うのなら、それで良いのだろう。
わざわざ余計なことを伝える必要もない。あの世界での出来事は、僕の中だけに仕舞っておこう。
「――さて、こみやん。あたしからも一言いいかしら」
藤の隣で沈黙を守っていた桃花が、ここぞとばかりに口火を切った。
「ど、どうぞ……?」
普段は一分たりとも黙っていられない彼女がここまで待ったということは、今から怒涛の説教タイムが始まるに違いない。桃花は大仰に腕を組み、これでもかと僕を睨めつけた。
「ったく、あんたはどうしてこう面倒ごとにばかり巻き込まれるのかしら。去年のことといい、今回といい、これじゃあ命がいくつあっても足りやしないじゃない。あんたにはね、危機意識ってものがまるで無いのよ。分かる? いっつもぼんやりしてるからこうやって簡単に付け込まれて危ない橋を渡る羽目になるのよ」
上手く言い返す気力もなく、僕は曖昧に笑った。それが気に入らなかったのか、桃花は僕の額に容赦なく拳骨を落とした。せっかく覚醒した意識がまた飛んで行きそうになった。
「へらへら笑ってんじゃないわよ、馬鹿。美術室で倒れてるあんたを見て、こっちは心臓が止まるかと思ったんだからね。このまま目が覚めなかったらどうしようって、本気で心配したんだから」
現実と僕がいたあの空間とでは、時間の流れが違う。
桃花は僕が感じていたよりも長い時間、僕が戻って来るのを待っていたのかもしれない。
「……ごめん、桃花」
素直にそう口にすると、桃花は溜息を吐いて「ごめんで済むと思ったら大間違いよ」と言った。
「これを機に、よーく反省しなさい。これ以上藤に迷惑かけたらただじゃおかないんだから。あと今度奢りなさいよ! 新しくオープンした洋菓子店『スミレ堂』のスペシャル苺ショート! いいわね!」
マシンガンのようにまくし立てると、桃花は肩を怒らせながら保健室を出ていった。その背中を見送ると藤はやれやれといった笑みを浮かべ、丸椅子をベッドのそばに引いて腰かけた。
「あれは桃花なりに心配してるんだよ。分かりにくいけどね」
「……一応、手加減はしてくれたみたいだ」
それでも痛む額をさすった指先が、じんわりと熱を拾った。先程まで背中につきまとっていた悪寒はいつの間にか消え去り、被った毛布が暑く感じだす。
だんだんと目を開けているのが億劫になり、僕はうつらうつらとしながら耳を澄ませた。
閉め切られた窓の外、グラウンドで活動する運動部の掛け声。
空調の無機質な稼働音。
遠くで鳴く、カラスの声。
時計の針の振動。
全く関係のないそれぞれの音が幾重にも重なり合ってこの世界を作っている。
何の繋がりもないと思っていても、全ては必ずどこかで結びついているものだ。
だからきっといつか、僕は春奈とまた会えるだろう。
今度はこの、少し五月蠅いけれど退屈とは程遠い世界のどこかで。
それから、いつかどこかで出会う予感がしているのがもう一人。
「人ならざるもの」を人の目に映す者。春奈の友達を誑かしてその寿命を奪い取った奴。
そいつのことを思い返すと妙に胸騒ぎがした。
半分以上ぼやけた視界の端に、藤の姿を捉える。
組んだ足の上に頬杖を付きながら窓の外を眺めていた彼女は、身じろぎした僕に気付いてこちらを見下ろした。
「どうかしたか?」
長い睫毛に縁どられた宝石のように透き通った瞳が、静かに僕の発言を待っている。
「…………」
ひょっとすると藤はそいつのことを知っているかもしれない。そう思ったが、その完璧な美しさに気圧されて僕は口を開いたまま何も言えなかった。
例えばその話を藤にしたとして、僕は彼女に何と答えて欲しいのだろう。
そいつを「知っている」と言って欲しいのか、それとも「知らない」と聞いて安心したいのか。自分でもよく分からなかった。
「桃花が荷物をまとめて来るだろうから、それまでもうひと眠りしたらいい。今日はとても疲れただろう」
優しく言い含められ、僕は諦めて思考を投げ出した。どうせ熱を帯びた頭ではまともな答えも出ない。
――ああ、そういえば。
ゆらゆらと押し寄せる睡魔の波に身を委ねようとして、また肝心なことを思い出す。
藤のくれたお守りと助言のおかげで僕はちゃんとここに戻って来られたのに、そのお礼をまだ言えていなかった。
だがそれを口に出そうとしても、既に身体は深い海に沈んで動かない。
もう、何も考えられなかった。
とにかく今は、ただ藤がそばにいてくれるだけで安心した。
だからまだ、もう少しだけこのままでいたい。
もう少しだけ――
◇ ◇
「……ただいま、ふじ」
しばらく眠気に抗うようにしていた小宮が、半分寝言のように呟いて寝息を立て始めた。
藤は頬杖をついたまま、切れ長の目を細めてその顔を眺めた。
やがてゆっくりと手を伸ばし、壊れ物を扱うように小宮の頭に触れる。
サラリと枕に流れる細い髪を撫で、吐息のように囁いた。
「……ああ。おかえり、小宮」
第壱章 完