其ノ捌 放課後、美術室にて
ガラリと勢いよく開けた扉の向こうに、思い描いていた人の姿はなかった。
相変わらず淀んだ空気の美術室で、桃花は独りごちる。
「――遅いわね、藤。今日は新入生歓迎会の打ち合わせをするって言ってあるのに。どこほっつき歩いているのかしら」
担任に雑用を頼まれてただでさえ不機嫌な上に、遅れて到着した美術室が空っぽなことが桃花の機嫌を更に斜めにした。
机の上に鞄を放り投げ、勢いよく椅子に腰掛ける。そのまま机に上体を伏せて、桃花は足をばたつかせた。
「ああ、もう。イライラするわね」
遡れば、桃花の機嫌は今日の朝から悪かったのだ。
その原因にバッチリと心当たりがあるものの、敢えて桃花はそこから目を逸らしていた。
気を紛らわせるために、鞄の中を漁る。
愛用の桃色の携帯を取り出して開くと、新着メールが画面に表示されていた。
差出人は「スミレ堂」。昨年の春オープンした、最寄りの洋菓子店だ。期間限定のスペシャル苺ショートが発売開始したとのお知らせだった。
「そうよ。今のあたしに必要なのはこれよ、糖分よ!」
ガバっと身を起こし、添付された画像の、艶やかな苺のショートケーキに向かって桃花は強く頷いた。近いうちにあいつを連れて食べに行こう。桃花はそう心に決めて、携帯を閉じた。
再び机に突っ伏しながら、桃花はふっと目に浮かんだ光景をなぞる。
――これを機に、よーく反省しなさい。これ以上藤に迷惑かけたらただじゃおかないんだから。あと今度奢りなさいよ! 新しくオープンした洋菓子店『スミレ堂』のスペシャル苺ショート! いいわね!
一年前の春。
放課後の保健室でそう説教したことを思い出して、胸の奥が苦しくなった。
「……結局、藤には迷惑ばっかりかけるし、苺ショートも奢って貰えずじまい、か」
窓の外、満開だった桜は呆気なくその花びらを落とし始めていた。その下からは早くも瑞々しい若葉が覗いている。
桜が散るのなんてあっという間だ。長いと思っていた高校生活も、同じくらいあっという間に終わろうとしていた。
高校生活三回目の春が来た。
桃花は三年生になり、藤とは別のクラスになり、そして――美術部はまた廃部の危機を迎えていた。所属していた部員がひとり、いなくなったのだ。
「あ、桃花さん」
遠慮がちに開いた扉の向こう、馴染みの声が桃花を呼んだ。
「あら、中里くんじゃない。何か用?」
藤と別のクラスになった一方、今年初めてクラスメイトとなったのがこの男。半年前、ひょんなことから関わりを持って以来妙に懐かれている。
「笹木先生見ませんでした? 課題提出しそびれて」
中里はどうやら、あの一件から桃花のことをシャーマンか何かだと勘違いしているようだった。同級生なのに敬語で桃花と会話をする中里を、他のクラスメイトたちは最初不思議そうに見ていたが、桃花のお嬢様然とした態度がその違和感を早々に打ち消した。
「ここにはいないわよ」
「困ったな。今日中に出せって言われてるのに」
桃花は時々中里を連れて甘いものを食べ歩く。強引に付き合わせても文句を言わないところが便利だ。ただし、桃花が未知の力を秘めていると信じて疑わない中里は、いつだって妖怪だの、幽霊だの、宇宙人だのといった話ばかりしてくる。そういう話をしている時の中里は桃花も圧倒されるほど饒舌で、桃花はそれを苦笑いしながら聞き流すのだった。
「この時間なら、外で煙草でも吸ってるんじゃないかしら」
既に職員室は確認済みだろう。桃花は中里に先生のサボり場所を幾つか教えてやった。
礼を言って立ち去ろうとした中里を、桃花は「そうだ」と呼び止めた。
「今度、『スミレ堂』の期間限定ケーキを食べに行くわよ。予定、空けておいてちょうだい」
「はあ、良いですけど……ちょっと今忙しいんすよ。新入生歓迎会とか、体験入部の準備とかがあって」
「何よ。使えないわねえ」
意外というと失礼だが、オカルト研究部はそこそこ繁盛しているらしい。部員が減って、今年も廃部危機を迎えている美術部とは雲泥の差だ。
不服そうに頬を膨らませる桃花に、中里は思い出したように言った。
「そういえば、中庭で藤さんを見かけましたよ」
「…………」
「俺より藤さん誘えば良いじゃないですか」
「……そうね」
溜息のように、桃花はそう呟いた。
この半年の間、桃花は藤を遊びに誘うことはなかった。きっと藤は、誘えば断らずに着いて来るのだろう。だけど、桃花にはそうできない理由があった。
やっぱり三人じゃなきゃ駄目なのだ。
高校生活の思い出として記憶に留めておく時、どうしたってそこには、自分と藤とあともう一人が必要だった。
「桃花さん……?」
「何でもないわ。ほら、さっさと行きなさい。サボり中の笹木先生を捕まえるのは難儀よ」
中里は覇気の無い桃花を気に掛ける素振りを見せたが、桃花は有無を言わせず中里を追い払った。
室内に再び静寂が訪れると、自分の心の騒めきが際立って落ち着かなくなった。
桃花には、今日一日授業に身が入らなかった理由も、今自分がどうしてこんなにそわそわしているのかも、そして、藤が中庭に何をしに行っているのかも、全部全部分かっていた。
あの日から半年が過ぎた。
失ったものは、大きかった。それでも桃花は胸に誓った。
「……絶対に、笑って迎えてやるんだから」
◇ ◇
ざあぁ……
春の風が、音を立てて頭上を吹き抜けていく。
砂埃とともにどこからともなくやってきた桜の花びらが、中庭でひらりと舞い踊った。
空はいつになく快晴だ。風に揺れる枝葉が地面に落とす影も、普段よりコントラストが効いている。
清々しい中庭の風景が、枯れかけていた創作意欲をほんの少しだけ刺激した。
校舎と外廊下で囲まれた小さな中庭。その真ん中に聳え立つ古い大きな木の下が、僕のお気に入りの場所だ。
木の根元に、ゆっくりと腰掛ける。それだけの動作なのに、衰えた身体には随分と堪えた。
周囲に人影はない。とても静かだ。
僕は久しぶりに訪れた中庭の景色をぼんやりと眺めた。
肩から羽織った学生服が、風に靡く。それを右手で押さえながら、もう片方の三角巾で吊られた左腕を見下ろした。
今の僕には目の前の景色を写しとる紙も、鉛筆も――自由に動かせる左手もなかった。
半年前、「人ならざるもの」にかけられた呪いによって、僕は昏睡状態に陥った。
次に目を覚ました時、既に季節は巡っていて、病室の窓の外は真っ白な雪が積もっていた。
幸い桔梗が封印されたことで、呪いの効力は徐々に消滅した。
けれど、一番酷く呪いを受けた左手には、後遺症が残った。
手首より先の感覚はいまだにない。
とうとう僕は絵を描けなくなってしまった。
◇ ◇
放課後の緩んだ空気感に包まれ、少し微睡みかけていた。
グラウンドの方から聞こえる部活動の掛け声が、心地良いリズムで眠りに誘う。うつらうつらと舟を漕いでいると、不意に中庭の草を踏みしめる音がした。
足音は真っ直ぐこちらへ近づいてきて、僕の少し手前でやんだ。
しばしの沈黙。
そして――
「――小宮」
吹き抜ける風の音に負けない強さで響いた。
久しぶりの再会にも関わらず、僕の名前を呼ぶことに一切の抵抗も躊躇いもない声。
込み上げる懐かしさに、僕は瞼を震わせて覚醒した。
少し傾いた、春の陽光。
新しい生命が芽吹く、四月の中庭。
風景画のような景色の中に、その人がいた。
藤がいた。
「――久しぶりだな」
藤は口の端をほんの少しだけ持ち上げて、控えめな微笑みを浮かべた。
「思ったより元気そうで、安心した」
嫌でも目に入る吊り下げられた左手のせいで、言葉とは裏腹に彼女の表情に憂いが残る。それを紛らわせようと、僕は無理に笑ってみせた。
「藤も元気そうで何よりだよ」
彼女と会うのは、あの日、全てが終わった神社の境内で顔を合わせて以来だ。
僕の目には、藤は以前と何も変わらないように映った。
だけどあの日、十六年間藤にとり憑いていた「人ならざるもの」は藤から離れて桔梗とともに眠りについた。それはきっと、藤にとっても大きな変化だったに違いない。
もしそのせいで「人ならざるもの」が視えなくなってしまったのだとしたら、藤はそれを悲しいと、寂しいと思っているのだろうか。それとも「普通」になったと、安堵しているのだろうか。
僕はずっと、彼女にそれを尋ねたかった。
絵を描くことができなくなった僕に、「人ならざるもの」たちは見向きもしなくなった。あれ以来、僕の周辺に彼らの気配を感じたことは一度もない。
それに対して、僕はいまだに自分がどういう感情を抱いているのか、自分自身でも整理がつかないままだった。それを悲しいと、寂しいと思っているのだろうか。それとも「普通」になったと、安堵しているのだろうか。
僕は無意識に、藤の態度に僕の求める答えを探していた。
「――あのね、小宮」
藤はスカートの裾を払いながら、僕の正面に腰を落としてしゃがんだ。
目線が重なる。切れ長の瞳が一瞬、揺らいだ。
「私はね――『人ならざるもの』が視えなくなったよ」
僕はその告白に息を呑んだ。
何も変わらないはずがない。藤はただ、変わっていないように振る舞っていただけなのだ。
「もう、何も視えないし、何も聞こえない。誰かが私を呼ぶ声にも、私に触れようとする手にも、もう気付いてやることはできない。今まで視ていた世界の半分が、まるで初めからなかったかのように消えてしまった」
言葉が出ない。
どんな慰めも、気の利いた台詞も、今はどれも無意味な気がした。
「正直こんな日が来るとは思ってもみなかった。私はずっと彼らとともに生きていくつもりだったし、それが私の生き方なんだと、そう信じていた。だけど、結局そうはいかなかった。永遠なんてものは、やはりどこにも無いんだね」
藤は長い髪を耳に掛けると、少し目を伏せて薄く微笑んだ。
「――悲しいとか、寂しいとか、きっと心の中ではそう感じているはずなんだが、どうにもまだ実感が湧かなくて、うまく言葉にできないんだ。多分、整理をつけるには、長い時間が必要なんだろう。だけど、現実は立ち止まる暇を与えてはくれない。無理矢理にでも、前に進まなければならない。目の前には否応なしに世界が広がっていて、私はどうしたってそこで生きていかなければならないんだ」
藤の一言一言が、まるで僕自身に向けられているように思えてならない。
心の中に沁み渡っていく藤の言葉に、僕は縋るように耳を傾けた。
「私はね、小宮。これまでずっと、『人ならざるもの』を通してこの世界と接していた。この世界は、私にとってガラス一枚隔てた向こう側だった。だからいつも、目の前の出来事をどこか他人事のように眺めていたんだ……だけど、その境界線が無くなって、急に目の前に飛び込んできた現実世界と向き合わざるを得なくなって、あれからずっと戸惑いを感じていた。『人ならざるもの』を抜きに他人と関係を築く方法を、私は知らないまま生きてきたから」
伏せた長い睫毛が微かに震える。
普段は寡黙な藤が、心の内をこんなに曝け出したのは初めてだった。
「……そんな話をね、桃花にもしたんだ。そしたら桃花は、そんなのは簡単だと、自分に正直になれば良いだけだと教えてくれた。他人のことなんて気にせず、自分がして欲しいこと、してあげたいことを素直に伝えれば良いと。だから私は、考えてみたんだ。自分が今、何を求めているのか、何がしたいのか。そして、行き着いた答えが――これだった」
――チリン。
耳を掠めたのは、もう幻となってしまったあの儚い音。
藤がポケットから取り出したそれに、僕は目を見開いた。
「私はもう一度、君に絵を描いて欲しい――今度は『人ならざるもの』のためじゃない、正真正銘私だけのために。それが私の、一番の望みだ」
「――――」
藤の手の上で、新しい鈴が僕の返事を待っていた。紫の紐で括りつけられた、美術室のロッカーの鍵とともに。
僕はその小さな鈴を見た後、視線を下げて包帯が巻かれた左手を見下ろした。
左手のリハビリも、右手を使う練習も、何もかもが始まったばかりだ。
普通の生活すら取り戻すのにどれぐらいかかるのか分からないのに、また以前のように絵を描くことができるようになるなんて夢のまた夢だ。
何年かかるか分からない。もしかしたら一生治らないかもしれない。
そんな不確定な望みに、藤を付き合わせてはいけないと思った。
「……駄目だよ、藤。だって、僕はもう」
それ以上続きが言えなくて、僕は鈴を押し返すように右手を突き出した。その右手を、藤が強く掴んで引き寄せる。
「どれだけかかっても構わない。何年でも、何十年でも、私はずっと待っている。私は小宮がもう一度、絵を描けるようになると信じている。だから、どうか――もう一度、私の絵を描いてくれ」
酷く真剣な眼差しに圧倒されて、僕は口を開いたまま藤を見つめた。
「藤……」
不思議だった。どうして藤は、僕以上に僕の欲しい言葉が分かるのだろう。
ずっと僕は不安だったのだ。
絵を描くことしか取り柄が無い人間から、その唯一の価値を取り上げたら何が残るだろう。絵が描けなくなった僕は、きっと皆から見捨てられる。きっと藤に見捨てられる。
そんなくだらない不安に僕は雁字搦めになっていた。
僕が一番信じられなかったのだ。もう一度絵を描けるようになるはずだと。
だけど、僕以上に藤が、真っ直ぐに、そう信じてくれた。
それだけで、充分だった。
前を向ける気がした。
無意識に強ばっていた身体から力を抜くと、藤は僕の右手を掴んでいた手を離した。
僕はまだぎこちない動きでその右手を伸ばし、鈴のついた鍵を手に取った。
「――ありがとう、藤」
真新しい鈴は、光を反射して眩しい。僕は決意を込めてそれをギュッと握り締めた。
「何年先になるか分からないけど――それでも、僕は絶対に、もう一度君の絵を描くよ。だからその時まで、待っていてくれる?」
「――ああ、約束しよう。それがどれだけ先の未来だったとしても、私はずっと待っているよ」
藤はそう言って、僕を安心させるように笑った。
僕は今この瞬間、もう一度絵を描きたいと思えた。
藤の絵を描きたいと思った。
その気持ちを忘れないように、僕は頷いた。
「うん――約束だ」
春風が僕らの間を通り過ぎ、一枚、また一枚と桜の花びらを攫って行く。
「――さて、そろそろ戻ろうか。きっと桃花も待ちくたびれているだろう。今日は新入生歓迎会の打ち合わせをすると言っていたから」
実は幽霊部員がひとり辞めたせいで今年も美術部は廃部の危機なのだと、藤はそう言いながら立ち上がり、僕に左手を差し出した。僕は鈴をポケットにしまってから、その手を取る。藤に引っ張り上げられて、僕はようやく地に足がついた。
あの春の日、僕らはここで初めて出会った。
あれから幾つもの季節を超えて、僕らは再びここにいる。
そして僕らは、二度目の約束をした。
一度目と同じ、桜の舞う中庭で。
あれから随分と、僕らを取り巻く環境は変わった。
僕らの関係もきっと変わっていくだろうけど、多分、大丈夫だ。
この先もずっと。
この約束がある限り。
「――さ、行こうか」
藤の手が離れる。少し名残惜しい気持ちがしたのは、心の内に留めておいた。
「そうだね、行こう」
隣に並んで僕らは歩き出した。
僕らの大切な場所へ。
藤小宮物語 完




