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藤小宮物語  作者: トウコ
最終章 結んだ縁と切れた糸(後編)
41/42

其ノ漆 決して忘れぬもの

 それはあまりにも突然のことだった。


 いきなり桔梗が、苦悶の声をあげ始めたのだ。

 首を絞めていた手が離れ、僕は地面に落下して咳き込んだ。


「馬鹿な……! 何故、封印が……!」


 桔梗は髪が乱れるのも構わず、両手で頭を掻き毟りながら叫んでいる。

 異変が起きたのは、あっという間だった。

 ずっと上空の同じ位置にあった月が、あらぬスピードで沈み始めたのだ。急速に空が白んでいく。同時に、参列者として桔梗に操られていた「人ならざるもの」たちがひとり、またひとりと消えて行った。


「……一体、何が」


 人の形をしていた影が淡い光の粒となって空に昇って行くのを、呆然と見送りながら呟く。

 その時、制服姿の少女の輪郭が煌めいた。彼女は少しだけ目を見開いたが、それから安堵したように微笑んだ。


「大丈夫です、先輩。どうやらあれを封じる力が戻って来たようです。これでようやくわたしたちは、解放される……あの子の生きる世界を守れる……ありがとうございます、先輩」


「春、奈……」


「心配しないで……もうすぐ、藤、先輩、も……」


「春奈……!」


 伸ばした手は、何も掴めなかった。

 キラキラと儚い光が舞い落ちて、地に届く前に消えた。ほんの一瞬の出来事だった。


「……っ!」


 僕は上を向いて涙を堪えた。

 どういう訳かは分からないが、桔梗の力が急速に衰えているのは確かだ。変化のなかった閉じきった空間に、明らかにヒビが入り始めている。

 予期せぬ舞台の崩壊に、桔梗はあからさまに動揺していた。

 これが最後のチャンスだった。


 僕は力の入らない身体に鞭打って、這いつくばったまま桔梗の足首を掴んだ。


「貴様、何をする! 離せ……!」


 桔梗の力が弱まったせいか、紋様の術も左半身を占拠した呪いも、先程までとは打って変わって勢いを失くしている。強い力で振り払われそうになるが、僕は必死で右手に力を注いだ。


「絶対に離さない……!」


「やめろ、離せ!」


「嫌だ!」


 羽織の裾を振り乱しながら、桔梗は拝殿の方を振り返って怒鳴った。


「藤! 早く、早く盃を……!」


 既に参列者はひとりもいない。

 拝殿には白無垢姿の藤と、その隣に身体の透けた巫女がひとり。そして、少し離れた石畳の上には、膠着状態の僕と桔梗のみ。

 桔梗の指示で、巫女が機械仕掛けの人形のように動き出す。巫女は藤に差し出した小さな赤い盃に金色の銚子で神酒を注いだ。


「早く……!」


 あれだけ煌々と輝いていた月は跡形もなく消え、反対に太陽光が世界を覆い始める。拝殿へ向かおうと焦る桔梗に、僕は全身全霊で食らいついた。

 きっとあれは、三献(さんこん)の儀だ。新郎新婦が互いに盃を交わすことで、夫婦の契りを結ぶ儀式。

 あの盃を飲んだら、藤は二度とここには戻って来られなくなる。


「飲んだら駄目だ!」


「五月蠅い! ええい、離せ!」


 藤は盃をゆっくりと口元に近づける。

 俯き加減の藤の横顔は綿帽子が影になって、表情がよく見えない。


「さっさと飲まんか!」


 桔梗が叫びながら、走り出そうとする。そのあまりの力に、とうとう僕は彼から手を離してしまった。勢いよく振り払われた僕に、桔梗の後を追い駆けるだけの体力はもう残っていない。

 僕はありったけの声で叫んだ。




「駄目だ! 飲むな! 藤――!」




 おもむろに藤が面を上げた。

 藤はゆっくり身体を回転させて、正面から僕らと向かい合った。

 そして、指先で支えていた小さな盃を、唇を通り越して頭上に高く掲げ――


 そのまま彼女は盃を()()()()()()()


 床にまき散らされた神酒に桔梗は一瞬唖然としたが、すぐに我に返って藤を問い詰めた。


「な、何をしている……! その盃は、夫婦の契りを交わすための大事な――」


「――残念ながら、私には必要がない」


 彼女は盃を投げ捨て、鋭い口調で桔梗を牽制した。

 先程まで中身のない人形のようだった藤は、今や凛とした空気を纏って冷ややかに桔梗を見下ろしている。

 その姿に、僕は確信した。紛れもなく、彼女は僕の知っている藤だ。

 ようやく藤が、戻って来たのだ。


「お前――器の方か! ならば私の藤をどこにやった! 私の許嫁をどこに……!」


 事態を察した桔梗は、烈火の如く怒りを露わにした。

 拝殿前の石段を駆けのぼり藤に掴みかかろうとする桔梗。その肩口に、フワリと何かが舞い降りた。


『私はここにおります、桔梗様』


 そう言って姿を現したのは、もう一人の花嫁。

 虹の上で出会った、藤のご先祖様だ。

 桔梗は困惑した顔で、二人の藤を見比べる。


「何故……()()()は一体……」


 藤と同じく白無垢姿の少女は、桔梗の隣に立つと静かに微笑んだ。


『この身体は、あの者が()()()私に与えてくれたのです』


 そう言って彼女は僕の方を指さした。


 あの虹の世界で見つけた、藤も世界も救う方法。

 それは、藤以外の新たな器を生み出す――つまり、ご先祖様のために絵を描くということだった。

 新たな器を自らの依り代とすれば、藤の身体を介さなくても再び世界に顕現できるかもしれないと、彼女は僕の提案に乗ってくれた。藤を犠牲にしなくて済む方法があるのなら、それに越したことは無い、と。

 そして僕は、彼女と一つ、約束を交わした。


『遅くなって済まない。あの絵を依り代とする儀式に随分と手間取った――だが、約束は果たしたぞ』


 新たな器を与える代わりに、藤を虹の「向こう」から連れて帰る。

 その約束通り、彼女は藤をここへ連れ戻してくれたのだ。

 僕は感謝の念を込めて、強く頷いてみせた。


「一体何の真似だ、藤……そなたもしや、この男とともに私を謀っているのではあるまいな」


 僕らのやり取りに疑いを深める桔梗を、その人は『いいえ、決してそのようなことはございません』ときっぱり否定した。


『桔梗様、どうか、お心を鎮めて私の言葉をお聞きくださいまし。生前の私の愚かな行いが、貴方様を深く傷つけてしまったこと、そして気高い貴方様の魂を怨念にまで貶めてしまったこと……私はどう償えば良いのかずっと考えて参りました』


 真剣な眼差しの少女は、桔梗に反論の隙を与えずに言葉を紡いだ。


『確かに私には心から愛する人がいて、短い間でしたがその人と一緒に生きられたことを幸せだったと思っております。ですがその幸せは、貴方様の深い嘆きと悲しみの上に成り立っていた、儚く脆い幻想だったのです。私が死んで、あの人は桔梗様の手にかけられ、あっという間にその幻は砕け散りました。そうして残ったのは、貴方様の行き場のない憎しみだけ……あの時私が道を(あやま)たなければ、皆それぞれに幸福な人生を全うできたはず。桔梗様も、あの人も、もっと違う道を歩むことができたでしょう。それを全て狂わせてしまったのは紛れもなく私なのです』


「いいや、そなたのせいではない。そなたは何も悪くない。全ての元凶はあの男なのだ。そなたを唆し、私の元から奪い去ったあの男こそが――」


 彼女の言葉を受け入れられず、乱れた髪のまま首を横に振る桔梗。

 都合の良い幻想に縋る彼に、その人は芯の通った声で真実を告げた。


『いいえ、桔梗様。本当は分かっておいでなのでしょう? 誰に命令されたわけでもない、誰に騙されたわけでもない、私は自分の意志であの人に着いて行くと決めたのです。自分の意志で貴方様から離れたのです。ですから、真に貴方様に恨まれ憎まれるべきなのは、他の誰でもない――この私なのでございます』


「おお、何と……藤よ……」


 ついぞ妄執を断ち切られた桔梗は、愕然とその場に膝をついた。

 空気が抜けて萎んだ風船のように、桔梗の黒い背中は一回り小さく見えた。

 白無垢姿の少女の足元を見つめながら、桔梗は時間をかけてぽつり、ぽつりと言葉を零した。


「……分かってはいたのだ。そなたの心が、初めから私の元には無かったということを。ただ……私はそれを認めたくなかった……よりにもよって、そなたが愛したのが私より身分の低い男だったということが、余計に自分を惨めにした」


 怨念としての皮が剥がれたのか、そう告白する桔梗はただの気弱な青年にしか見えなかった。


「だが……私はどうしても忘れられなかったのだ。初めてそなたとまみえた時のことを。その美しい姿を見た時に湧きあがった感情を。そなたが私に微笑みかけてくれた時に感じた喜びを。どうしても――忘れられなかったのだ」


 ところどころ声を詰まらせながら懺悔する桔梗には、もはや人々の生命を脅かす災厄としての威勢はない。そう感じたのか、少女の口調は一転して穏やかなものに変わった。


『桔梗様――もしお許しいただけるのであれば、一つ、私の願いをきいてくださいませんか』


「そなたの、願い……?」


 力なく頭を上げる桔梗に、少女はなるべく目線を合わせるようにして屈む。


『はい、桔梗様。どうか、私に罪を償う機会をお与えください。私の未熟さが招いた苦しみと悲しみの連鎖をここで断ち切りたいのです。私たちの子孫に、未来ある人生を送らせてやりたいのです。ですからどうか――どうか、私とともに、安らかにお眠りください』


 少女はその白い手を、スッと桔梗の前に差し出した。


「――本当に良いのか……? そなたの心はまだ……」


 不安げな桔梗に対し、白無垢姿の少女は自信を持って肯定した。


『良いのです。私は桔梗様を孤独という闇からお救いするために、我が身を捧げると覚悟を決めたのですから』


「藤……」


『さあ、契りを交わしましょう――もう二度と、この手が離れることのないよう』


 桔梗は躊躇いながらも、その手を取って立ち上がった。

 その様子を見守っていた藤が、立ち並んだ二人の前に進み出た。

 藤は巫女が残していった赤い小さな盃を、桔梗の手に渡した。そしてその盃に、銚子から静かに神酒を注ぐ。


「さあ、これを」


 促され、桔梗は盃を口にした。それから三回に渡って、二人は交互に盃を交わした。

 最後の盃が桔梗の手元から消えた。役目を終えた銚子も、幻のように消滅する。契を交わした少女と青年は、顔を見合わせて少し気恥ずかしそうにはにかんだ。


 そこにあったのは、ただの若い新郎新婦の姿だった。




『――迷惑をかけて済まなかったな、藤。長い間世話になった』


 仄暗い拝殿の中に、朝日が一筋差す。その光に照らされて、二人の輪郭が淡く滲み出した。


「本当にこれで良いんだな」


 藤は念を押すように訊いた。だが、少女の意志は固かった。


『案ずるな。私の使命は災厄を阻止すること。お前たちの未来を守ることができるのならば――本望だ』


 清々しい表情の彼女に、藤はただ何も言わずに頷いた。


「――二人とも、どうか安らかに」


 祈りのような呟きだった。


 徐々に崩れた白と黒の姿が混ざり合い、一つに溶けていく。

 彼らを中心に広がった眩い光が、神社の境内全体を覆い、一瞬強く輝いて――消えた。


「あ……」


 思わず声が漏れる。

 桔梗が立っていた場所に、何かがカラン、カランと音を立てて落ちた。それが何なのか、僕のところからははっきりとは見えなかった。それもすぐに散り散りになって、風に乗って宙へ還っていく。

 もしかして、彼が器としていた人の骨――だったのだろうか。

 今となっては、それを知る術もない。


 後には何一つ、残らなかった。




◇ ◇




 まるで稲妻のように、辺り一面が瞬間的に強い閃光に包まれた。


「――何かしら? 今の光」


 首を傾げる桃花に、中里はきょとんとして尋ねる。


「え? 何のことです?」


「今、一瞬何か光ったと思ったんだけど。おかしいわね、気のせいかしら……」


 上空を見上げたが、隙間なく重なり合う枝葉で空模様は確認できない。雨の予兆だったら嫌だなと思っていると、隣でいきなり中里が「ああっ!」と大声を出した。


「ちょ、見てください! 桃花さん!」


「何よ、急に」


「この祠、何だかさっきより綺麗になってません……?」


「はあ? 冗談言わないでちょうだい」


 言いながら見下ろした石祠は、変わらず桃花たちが今しがた供えた呪具に囲まれて佇んでいる。だが、その屋根にこびりついていたはずの、年月を感じさせる苔が、どこにも見当たらない。それどころか、壊れた部分を繋ぎ合わせた境目が綺麗さっぱり消えている。


「嘘……」


「こ、これはまさか、本当に……」


「あたしたち……」


 二人は互いに顔を見合わせた。


「封印、できちゃった……?」




◇ ◇




 消失した結界の外、一面に広がっていたのは雲一つない秋晴れの空だった。


 あんなに怪しげで厳かな雰囲気だった拝殿は、今やすっかり錆びれた田舎の佇まいだ。鳥居まで続いた朱色の灯籠も、跡形もなく消え去っている。

 ここでつい今しがたまで「人ならざるもの」による儀式が行われていた形跡は一つも見当たらなかった。


 そんな何の変哲もない景色の中、朝の澄んだ空気を纏った一人の少女が石段を一歩、二歩、ゆっくりと降りてきた。

 爽やかな風が、見慣れた制服のスカートを揺らす。

 硬い靴底を鳴らしながら、彼女は真っ直ぐ石畳の上を歩く。

 そして、地面に力なく膝を付いている僕の正面で、彼女は立ち止まった。


 あれほど強く、もう一度会いたいと願った彼女が――目の前にいた。


「藤……」


 絞り出した声は、想像以上に掠れて頼りなかった。

 彼女はしなやかな動きで膝を折り、目線を僕に合わせる。日の光を反射した宝石のような瞳があまりにも綺麗で、その作り物めいた美しさに、一抹の不安が胸を過った。


「藤、だよね……?」


――お前は、誰だ?


 他人のような、人形のような顔でそう言ったあの姿が頭にこびりついて離れない。

 拭い去れない不安に、僕の指先は小刻みに震えた。

 もし再び彼女にそう言われたら、僕は二度と立ち直れないだろう。


「本当の、本当に……」


 彼女は黙って、砂埃と汗にまみれているであろう僕の薄汚い顔を見つめる。

 何も言わないで、ただジッと。

 鼓動が早まる。

 限度を超えた不安に押し流されるように口を開いた――その時だった。

 彼女の顔にみるみる感情が込み上げた。

 喜びとも悲しみともつかない、何とも複雑で曖昧で、入り乱れた感情だった。


「――ああ、そうだよ」


 その聞き慣れた声に少しの滲みを感じた途端、僕の中で耐えきれず何かが弾けた。


「本当に?」


「ああ」


「僕のこと、分かる……?」


「もちろん」


「僕の名前、ちゃんと……」


 溢れ出る涙が幾つも伝う僕の頬に、藤の手が触れた。

 温かい手だった。


「忘れるはずがない」


 藤の目元から、一筋の光が零れ落ちる。





「君の名前は――小宮(こみや) (かえで)だ」





 そう言って藤は、とびきり綺麗に微笑んだ。


 それが――僕が見た、さいごの光景だった。





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